第一話:文化の交差点
【文化の交差点、或いは貴族社会の優雅なる混乱】
王国歴百六十一年七月四日。朝の涼しさがまだ残る時間、ソレアン・アルモンド侯爵令息は、書斎の机に届いた手紙を見つめていた。白地に淡い金の縁取りが施された封筒。裏面には、品の良い流麗な筆記体で「フィオーネ・ナディア」と書かれている。
「手紙だと、随分とちゃんとしたご令嬢なんだな……」
封を切る前から、ソレアンの脳裏には先日の建国記念日の夜のことが浮かんでいた。華やかな祝宴の中、いきなり「迎えに行っても良いですか!?」と大声で宣言したフィオーネの姿。あの瞬間、彼女の青い瞳があまりに真剣だったため、彼はただ驚き、反射的に「そ、それではお友達からでどうでしょう?」と返すしかなかったのだ。
あの夜から数日が経ち、彼はフィオーネとの一件を「なんとも珍しい経験」と受け止めていた。しかし、こうして改めて手紙を受け取ると、不思議な気持ちになる。彼女がどんな気持ちで筆を取ったのか、気になった。
手紙を開くと、そこには丁寧な筆致で書かれた文面があった。
拝啓 ソレアン・アルモンド侯爵令息様
建国記念日の折には、貴方とお話しする機会に恵まれ、大変光栄でした。貴方の深い洞察と、私の作品への温かな評価には心を打たれました。お話しするうちに、私は貴方ともっと文化について語り合いたいと感じております。
つきましては、書簡のやり取りをお願いできればと思います。貴方のご多忙は承知しておりますが、貴族社会における文化支援と芸術の在り方について、ご意見を伺えれば幸いです。
敬具 フィオーネ・ナディア
——ちゃんとしている。
ソレアンは心の中で呟いた。あの勢いのままの手紙が届いたらどうしようかと思っていたが、実に理知的で礼儀正しい内容だった。
「これはこれで興味深いな」
ソレアンは、ペンを取り、手紙の返信を始めた。
拝啓 フィオーネ・ナディア様
手紙を頂き、ありがとうございます。先日の夜のことは、私にとっても大変印象深いものでした。貴方の作品に込められた想いは、私がこれまで見てきたどの舞台とも異なり、まさしく新しい時代の息吹を感じさせるものでした。
文化支援の立場から、貴族社会における芸術の役割を考えるのは確かに意義深いことです。貴方がどうお考えなのか、ぜひお聞かせください。
今後のやり取りを楽しみにしております。
敬具 ソレアン・アルモンド
筆を置き、ソレアンは少し肩の力を抜いた。理知的な話ができる相手なら、手紙のやり取りも悪くないと、ソレアンは思う。
そして、この時のソレアンは、まだ知らなかった。彼女の次の手紙が、自分の平穏を脅かすものになるとは……。
七月二十九日。ソレアンの手元には、再びフィオーネ・ナディアからの手紙が届いていた。今度はヴァルミールから送られた、国際郵便だった。
ソレアンは早速封を切り、その内容に目を丸くした。
拝啓 ソレアン・アルモンド侯爵令息様
学園が夏季休暇になったら、アヴェレート王国に行きます。お友達として、一緒に遊んでください。
到着予定は八月一日です。滞在先は貴国の迎賓館です。
お会いできることを楽しみにしていますね!
敬具 フィオーネ・ナディア
「……えっ?」
ソレアンは、二度、三度と文面を見返した。何かの間違いではないかと思った。しかし、どう読んでも間違いではない。
彼女は、夏季休暇を利用して、アヴェレート王国にやって来ると言っている。そして、その理由は——「一緒に遊んでください」。
「……遊ぶ!?」
この手紙のどこをどう読んでも、外交的な目的や文化交流の意図はない。ただ純粋に、気になる人を訪ねる友人のそれだった。
「いやいやいや、これは……いや、待て待て……」
ソレアンは、額に手を当てて思考を巡らせた。
——突然の来訪宣言。しかも、到着予定日はたった三日後。受け入れるか断るか以前に、返信の猶予もない。なぜこんな急なことに? 国際郵便だし、予想以上に到着に時間がかかったのか? そして何より……。
「こちらもちゃんとお迎えしなければ、外交問題になるのでは……!?」
ヴァルミールを代表する劇作家。それは普通の芸術家とは一線を画す。文化大国として知られるヴァルミールにおいても、歌劇文化は最上のものとして位置付けられている。その歌劇における、新進気鋭の天才作家こそが、フィオーネ・ナディアである。
その上、フィオーネはヴァルミールの王女エリオノーラからも高い評価を受けている作家だ。
つまりフィオーネを無碍にすることは、ヴァルミールを文化的にも政治的にも足蹴にする行為である。
「今すぐマルガリータ王女に連絡をせねば……!」
ソレアンは勢いよく立ち上がり、行動に移った。
天才に振り回されがちな常識人ソレアン・アルモンド。彼の新たな受難が待ち受けていた。
【迎賓館ラウンジにて】
八月一日。その日、ソレアンは王都の迎賓館のラウンジにて、静かに紅茶を飲みながらフィオーネの到着を待っていた。
手元のカップには、まだ湯気が立っている。窓から差し込む朝の光が、落ち着いた室内に優雅な雰囲気を添えていた。
フィオーネ・ナディアの突然の訪問予告。
手紙を受け取ったあの日、ソレアンはすぐにマルガリータ王女へ相談に向かった。「これは外交問題に発展しかねません!」と懸命に説明したのだが、王女は特に驚くこともなく、穏やかに微笑んでこう言った。
「これは、あくまでプライベートでの訪問なのでしょう? ならば、むしろ友人として静かに迎え入れてあげるべきよ。彼女の行動を、そのまま尊重するのが一番だわ」
加えて、「機会があれば、お茶会くらいはしたいわね」とも言われた。
——友人ねぇ……。
ソレアンは、ゆっくりとカップを置き、思案するように視線を漂わせた。
確かにフィオーネに「お友達から」と言ったのはソレアン自身だった。しかし建国記念日のパーティといい、今回といい、これだけ情熱的に迫られれば、恋愛に鈍感なソレアンでも彼女の心を察することができる。
十八歳にして初恋すら未経験のソレアンにとって、フィオーネとどう向き合えばいいのか、簡単に答えを出せない未知の問題だった。
ただしソレアンは、この状況への戸惑いはあれど、不快感は抱いていない。そしてソレアン自身が、まだそれに気づいていなかった。
やがて、ラウンジの扉が開いた。
鮮やかな青のドレスを纏い、ふわりとした金髪を軽く結い上げた少女が姿を現した。彼女は、柔らかな笑みを浮かべながら、まっすぐにソレアンの元へ歩み寄る。
「遊びに来ちゃいました」
明るく軽やかな声に、ソレアンは一瞬呆気に取られた。しかしすぐに微笑み、席を立つ。
「ビックリしましたが……歓迎します、ナディア女史」
フィオーネは可憐に笑った。その仕草は、まるで満開の花のように柔らかく、心を和ませるものだった。
ソレアンは、フィオーネの落ち着いた佇まいを見ながら、改めて思う。
——行動力がすごいだけで、こうして対面するとまともな子だな。
ソレアンはフィオーネの礼儀正しい振る舞いに、心の中で静かに感心した。
ソレアンとフィオーネは、迎賓館のラウンジでしばらく談笑を続けた。
フィオーネの語り口は優雅で、知的な言葉選びをする。彼女が舞台を愛し、物語を大切にしていることが、会話の端々から伝わってきた。
ソレアンもまた、彼女の話を興味深く聞きながら、穏やかな空気に包まれていた。
——思っていたより、ずっと話しやすいな。
しばらくして、ソレアンがフィオーネの滞在中の予定について尋ねると、彼女は楽しそうに微笑んだ。
「まずは、貴国の歌劇を見たいですわ。こちらで愛される物語や、役者たちの演技をぜひ直に感じてみたいの」
彼女の瞳が期待に輝く。
「ヴァルミールの歌劇との違いを比較して、どんな文化的背景の影響を受けているのか、それからそれから——」
彼女の語り口が、明らかに熱を帯び始めた。
どんどん早口になり、身振り手振りを交えながら、舞台芸術の可能性や演出の細部に至るまで、情熱的に語り続ける。
「歌劇は総合芸術ですの!! 歌劇にはその国の文化が凝縮されているのですわ!!」
——あ、この子、歌劇のことになると暴走するタイプだ……。
ラウンジにいた他の貴族たちも、徐々に彼女の熱量に気づき始めていた。ちらちらとこちらに視線が集まる。
このままでは、彼女の情熱がラウンジ全体を巻き込みかねない。ソレアンは、さりげなく咳払いをしながら、穏やかに彼女の言葉を受け止める。
「では、明日、一緒に劇場へ行きましょうか」
フィオーネの興奮がピタリと止まる。
「……本当?」
「もちろん。僕も興味がありますし、君一人では観劇の席も取りづらいでしょう」
フィオーネは、ぱっと顔を輝かせた。
「嬉しい! ありがとうございます、ソレアン様!」
——まあ、これはもう、面倒を見るしかないな。
フィオーネが王都で何か問題を起こさないよう、しっかりと見守るべきだと、ソレアンは心に決めた。
【ゼファリスの勘】
その日、ソレアンが帰宅すると、工房でゼファリス・デュヴァンがふてくされていた。ゼファリスはソレアンがパトロンを務める画家——ペンネームは†漆黒の画狂神†——だ。金髪緑眼で誰もが振り返るような端正な容姿を持ちながら、その表情はいつも気難しそうであり、人を寄せ付けない。
「おい、ソレアン!」
ゼファリスが眉をひそめ、腕を組んでいる。
「どうした?」
「どうしたじゃない! 今日はどこに行ってたんだ!」
どうやら、ゼファリスはソレアンを探しに行ったものの、見つけられなかったらしい。
「今日は予定があるって伝えていただろう」
「知らん! で、どこ行ってたんだ!」
ゼファリスは、まるで子どもが拗ねるような態度で詰め寄る。ソレアンは肩をすくめ、軽くため息をついた。
「隣国の劇作家がアヴェレート王国を訪ねてきたから、そのお迎えだよ」
ゼファリスの目が、ふと鋭く光る。
「……おいソレアン。もしかしてそいつのパトロンやったりしないよな!?」
「ないない。僕が支援するまでもなく、既に引っ張りだこだよ」
ゼファリスは少し納得したように頷くが、どこか腑に落ちない様子で、「ふーん……?」と呟く。
「なら良いが……」
そう言いながらも、彼の目には、何かを予感する色が宿っていた。
こうして、文化の交差点で、新たな交流が始まろうとしていた。




