最終挿話:盤面戦略第二フェーズ
【毎年何かが起きる平和な建国記念日のパーティ】
建国記念日の祝賀パーティが無事に幕を閉じ、アヴェレート王城はようやく静寂を取り戻していた。
夜も更けた執務室に、一堂に会する三人の姿があった。
アヴェレート王国国王アーサー・アヴェレート、その隣に穏やかに微笑む王妃メレディス・アヴェレート、そして向かいのソファでやや気怠げにワインを傾ける王弟ラグナル・アヴェレート。
三人は、ようやく訪れた安息の時間を楽しむように、静かに語り合っていた。
「今年の建国記念日のパーティも、無事に終えられましたね」
メレディスが、紅茶を口にしながら微笑む。
「……無事にな」
アーサーは眉間に皺を寄せながら、ため息をついた。
「少なくとも、去年ほどの厄介なことにはなりませんでしたね」
ラグナルが杯を回しながら、どこか遠い目をする。
それに呼応するようにアーサーが続けた。
「テオドールがエドバルド国王に向かって『クレアをアヴェレート王国へ留学させるのはいかがでしょう』なんて交渉を始めた時は、さすがに冷や汗が出た」
「しかも、クレア嬢の留学の交換条件として、私のヴァルミール赴任の話も出ましたからね」
ラグナルは肩をすくめ、溜息混じりに言った。
「まさかクレア嬢と共闘して、あの話を止めることになるとは思いませんでした」
「その話に、カレスト公爵が口を挟んだことで、場が一気に凍りついたな……」
アーサーが眉を顰め、忌々しげに呟く。ラグナルも杯を傾けながら、頷いた。
「あれは、間違いなく今日一番の修羅場でしたね」
三人は、その場面を鮮明に思い出していた。
件のパーティでのこと。テオドールとエドバルドが、冗談を装った声音で、しかしどこか本気を滲ませながら、人材交流について語り合っていた。そのそばでクレアとラグナルが、やんわりと、それでいて真剣に計画回避のため共闘していた。
その時、彼らの背後から、清らかな声音が響いた。
「クレア嬢を留学させ、ラグナル様を貴国に赴任させたいと。皆様がそこまで人材交流にご熱心だったとは、感服いたしましたわ」
アデル・カレスト公爵だった。
冷ややかに微笑む彼女の表情と、扇子をゆるりと開く仕草が、季節外れの氷雪のようにその場を凍らせる。
複数名の王族たちが揃っているにも関わらず、この瞬間、その場を掌握していたのは間違いなくアデルだった。
「ただ、ラグナル様は私と間もなく婚姻を予定している身。未来の妻としては手放し難いものですわ。そこで、一つ折衷案がございますの」
アデルの切り出し方に、周囲の者たちは思わず耳を傾ける。いや、傾けさせられる。
「私、国外赴任は承服しかねますが、国内なら理解もいたします」
アデルは淑女の微笑みを浮かべた。この微笑みは、彼女がこれまで幾度となく、交渉の場で見せてきたもので——彼女の勝利を確約する笑みでもあった。
「もし、両国の間に国境がなければ。それは国外赴任ではなくなりますわね」
その場にいた全ての者たちの間に、恐怖と緊張が迸った。
エドバルドは青ざめ、そばに控えていたサヴィエール辺境伯も狼狽していた。その様子を遠巻きに見ていたヴァルミール側の使節団たちも、戒厳令が発されたかのごとく動揺と警戒を露わにしていた。
その場のただならぬ空気に、様子見しにきたアーサーは、思わずラグナルを横目で見た。
「……彼女、今、国境を動かす話をしてないか?」
「ええ、してますね」
ラグナルは表情を変えず、ただワインを一口飲んだ。
ちなみに、この修羅場の元凶となった張本人、テオドールはクレアを連れて、さっさと逃げ出していた。
この日、貴族たちは思い出した。国が違えば八十年の平和すら一瞬で崩壊するリスクを。国際平和とは、自分たちの多大なる努力により築かれている現実を——。
——そんなパーティでの一幕を各々振り返ったところで、メレディスがため息をついた。
「殿方は、女心そっちのけで勝手に話を進めるのがいけませんわ。アデルが怒るのも無理なくてよ」
「義姉さんの口添えに助けられました。それがなければ、今年も危ないところでした」
ラグナルは目を遠くする。去年の建国記念日。ラグナルは、不可抗力的にアデルを嫉妬させてしまい、結果として、彼女の政略的な仕返しにより「税制を変えさせられた」のだった。
今年の建国記念日では、下手をすれば「国境が変わる」ところだったのである。
女公爵アデル・カレスト。
アヴェレート王国を代表する才媛であり、貴き者の高潔さの体現者であり、王家の政治的パートナー。
そして、己の意に沿わない企みを幾度となく潰えさせてきた女狐。
そんな彼女を見て、「それほどまでに愛されて僕は光栄だ」と言い切る、狂気の王弟ラグナル。今日もまた、政略と社交の狭間で、彼らはいつも通り愛し合っていた。
【戦略は成長する】
アーサーがゆっくりと咳払いし、話題を切り替えた。
「さて、テオドールの婚約も無事に結ばれた。ラグナルが考案した盤面戦略は、ほぼ達成していると言って良いだろう」
アーサーの言葉に、ラグナルは軽く頷いた。彼が築いた盤面——アヴェレート王国の安定と発展を見据えた布石は、着実に形になりつつある。
もともと北部と南部の公爵家は、王家とそれぞれ婚約関係にあった。それに加え、テオドールがサヴィエール辺境伯家の令嬢クレアと婚約したことで、東部地域のザルムート公爵家との関係強化がなされた。そして、西部のウィンドラス公爵家も、令息のモーリスと王女マルガリータの婚約が内定している。
「しかし盤面は整えられただけでは意味がありません。ここからは駒を動かすフェーズですね」
ラグナルは淡々と述べると、整理した情報を机の上に広げた。
① 現国王アーサーの治世における課題解決
•行政機能の再編
- 地域ごとに分散し非効率となっている行政機能を統合し、効率化を図る。
- 王国議会の賛成多数を取り付けることが必須条件。
- 現在の盤面により、王家にとって有利な議会運営が可能な状況になっている。
•国土開発
- 王都と北部間の交易幹路は既に着工済み。
- これを基盤とし、東西南北を繋ぐ国内統一通商路構想を推進。
- ウィンドラス公爵家の協力を得て、西部の港から直結する貿易ルートを開拓。
•経済発展
- 東西南北間の関税を段階的に撤廃。
- 試験的な減税政策を実施中。
- すでに経済は活況である。
② 次代国王レオンの治世に向けた布石
•医療の普及
- 西部のウィンドラス公爵と連携し、他国の医学書を重点的に輸入。
- 北部のカレスト公爵家の製薬産業を後押しし、医療水準の向上を図る。
•教育の仕組み化
- テオドールの学園構想の実現に向けた、水面化での動き出し。
- 東部のザルムート公爵と連携し、国教の学問的資産を利用。
- 南部のルーシェ公爵家の活版印刷技術を活用し、教育の普及を進める。
•福祉の充実
- 王都唯一の花街「万灯町」の健全化を推進。
- 万灯町における貧困・犯罪の再生産を防ぐため、国内様々な貴族からの不透明な資金流入を各公爵家と協力して取り締まる。
- ただし、急激な変化は住民の反発を招くため、慎重に進める必要がある。
「現在の国政における課題解決はもちろんのこと、次代の国政に向けた布石を打つ。これが盤面戦略の第二フェーズと言えるでしょう」
ラグナルは冷静に語る。
アーサーは頷きつつも、深く考え込むような表情を見せた。
「合理的だな。一番厄介なのは……やはり万灯町か」
「ええ。ここには歪な秩序が出来上がってしまっている。健全化にも時間を要するでしょうね」
「いずれにせよ、未来に向けた議論と布石を打てる状況というのは、その盤面が盤石であればこそ。この盤面戦略の第一フェーズが完成したことは、快挙と言える」
アーサーの声には確かな手応えがあった。
しかしメレディスが、ため息混じりに口を挟んだ。
「ほらもう。殿方は、女心そっちのけで話を進めるのがいけないと、先ほども言った通りではございませんか?」
アーサーとラグナルが同時に顔を上げる。
「……何か問題が?」
「問題大有りですわ。良いですこと? 結婚はゴールではありません。プロポーズは男から、離婚宣告は女から、というのが世の常ですわ」
「……!!」
アーサー、ラグナル——硬直。
「女の幸せは、戦略だけでは成り立ちません。政治と同じくらい、女性たちの心を大切にしてくださいませ?」
にこやかな笑顔のまま、メレディスは淡々と告げた。
アーサーは、咳払いしながら視線を逸らす。ラグナルもまた、冷や汗を浮かべながら頷いた。
「では、具体的にはどうすれば……?」
「そうですわね……」
メレディスは、ゆっくりと考える素振りを見せると、ふと微笑を深めた。
「まずは……マルガリータ、アデル、セレーネ嬢、クレア嬢を誘って、お茶会でも開きましょうかしらね」
「……!?」
アーサーとラグナルの顔色が変わった。
「それは……」
「東西南北の家庭がちゃんと平穏に築かれそうか、確認してまいりますわ」
メレディスが微笑む。
それぞれが政略の中で重要な立場を担う、女性たちが一堂に会するお茶会。そこでは、男性陣の見えぬところで、何かが繰り広げられる予感を、アーサーもラグナルも抱いていた。
「……承知した」
「ええ、私も賛同しますとも」
アーサーとラグナルは、顔を見合わせ、そして同時に両手を挙げた。
こうして、盤面戦略の新たな一手は、思わぬ方向へと動き始めたのであった。
最終挿話ですが物語はまだ続きます(哲学)
明日から番外編を毎日更新します。
フィオーネとソレアン・アルモンドのお話です。全25話。




