第六話:半年ぶりのあなた
【アヴェレート王国へ】
雨上がりの夏の日。
クレア・サヴィエールはついに、アヴェレート王国の地を踏んだ。
ヴァルミールから続く街道を進み、国境の標を越える。馬車がゆるやかに停止し、クレアは自らの足で大地を踏みしめた。
目の前に広がるのは、彼女を迎え入れるために整えられた壮麗な式典。国境を守る駐屯地には、アヴェレート王国の貴族や高官たちがずらりと並び、その先頭には、彼女の婚約者となる王子の姿があった。
一年前のテオドールは、クレアと同じほどの身長だった。しかしあれから背が伸び、大人の男性の気配を纏っていた。クレアは思わず目を奪われる。
「待ってたよ、僕のクレア」
テオドール・アヴェレートは、優雅な笑みを湛えながら手を差し出した。
以前よりも一段低くなったテオドールの声が、クレアの鼓膜を揺さぶる。その声で率直な求愛を囁かれるのは、クレアでも胸の高鳴りを自覚してしまう。
しかしいつまでもそれに翻弄されているクレアではなかった。
「お行儀良くされていたなら、何よりですわ」
微笑を浮かべ、さらりと返す。テオドールはクレアの言葉に目を細め、楽しげに微笑んだ。
「ずっと我慢を強いられてたという方が正しいかな」
その軽妙なやり取りに、アヴェレート王国の貴族たちは注目する。
テオドールはいつも余裕があり、掴みどころのない青年である。その彼が、これほど自然に、心から楽しそうに会話をしている。
「なるほど、彼女が殿下の心をつかんで離さぬ女性か」
「まさか本当に一人で国境を越えてくるとは」
「才気溢れる女性と噂だが、まずはお手並み拝見といこうか」
一筋縄でいかないアヴェレート王国の貴族たちが、クレアに試すような視線を投げかける。その視線を、クレアは正しく感じ取っていた。
【両家の顔合わせ】
アヴェレート王国とヴァルミール王国の間で交わされる、一つの約束。その礎となる場が、王城の広間に設けられた。
この場は単なる婚姻に伴う親交の場ではない。両国が理と利を確認し、未来を語る、政治的な場である。
アヴェレート王国の王城は、ヴァルミールの優美な建築様式とは全く異なり、重厚感と荘厳さを感じさせる。広間の中央には、美しく磨かれた長テーブルが置かれる。その両側に、二つの王家と、その当事者たちが向かい合うように着席していた。
アヴェレート王国側には、国王アーサー・アヴェレート、王妃メレディス・アヴェレート、そしてこの縁談の中心人物であるテオドール・アヴェレート王子が並ぶ。
ヴァルミール王国側には、シグムント・サヴィエール辺境伯、婚約者であるクレア・サヴィエール。そして、この会談の立会人として、ヴァルミールの国王エドバルド・フィーリスが出席していた。
場に満ちるのは、緊張感ではなく、しかし決して和やかとは言えない、厳かな空気。
まずは、両国の王同士による挨拶から始まった。
国王アーサーは、まさに王たる威厳を備えた人物だった。黒髪に青い瞳を持つ、武人のような風格を感じさせる男。その姿に、クレアは自然と「今のアヴェレート王国の権勢を作るに相応しい人物だ」と思う。
対するヴァルミールの国王エドバルドは、壮年の風格を漂わせる重厚な男だった。政治家として、そして王としての勘と経験を備えた人物。その鋭い目には、ただの婚姻としてではなく、この顔合わせの意義を正しく理解していることが感じ取れた。
形式的な挨拶が交わされる中、クレアは静かに視線を巡らせる。
アーサー王の隣に座るのは、王妃メレディス。優雅な茶髪に黒い瞳を持つ女性。彼女が纏う微笑みは、まさに国母の慈愛を感じさせる。品のあるティアラが、その高貴さを際立たせていた。
クレアは、その穏やかな姿勢に、王妃という存在の在り方を考える。権勢を誇るアーサー王を支える王妃として、彼女は間違いなく、重要な役割を果たしていると考えられた。
クレアがさらに視線を巡らせる。黒い髪、黒い瞳。アヴェレート王家の血を、父と母それぞれから色濃く受け継いだ第二王子テオドール。
そのとき、クレアとテオドールの視線が交わされた。
テオドールは、ほんの一瞬、ウィンクをしてみせた。
……さすがね。
クレアは、内心で呆れながらも、その場の空気を壊さないように微笑む。
このような場でも、彼は余裕を失わない。あるいは、それこそが彼の流儀なのだろうと、クレアは受け止めた。
顔合わせの場は進み、話の主導権が国王アーサーから、テオドールへと移った。
テオドールが静かに口を開く。
「両国の国境の治安維持・強化のため、この婚姻関係を通じて、サヴィエール辺境伯との連携を申し出たく思います」
そうしてテオドールは、その骨子を語り始める。
合同国境警備隊の設立。国境交易の管理強化。軍の役割の再編。
これらはいずれも、サヴィエール辺境伯領と、隣接するアヴェレート王国側のザルムート公爵領の共同治安維持の計画である。その構想をまとめ、既にザルムート公爵と合意したのが、テオドールだった。
シグムントも、その理と利について思案し、深く頷いた。エドバルドもまた、「なんと抜かりのないことだ」と、賛辞を述べる。
クレアは、テオドールの言葉を聞きながら息を呑んだ。
政略結婚の本質とは、単なる家同士の結びつきではなく、そこにどれだけの利をもたらすかである。そして、この婚約において、その盤石な基盤を作り上げたのが、テオドールだ。通常、政略結婚であっても、婚約前にここまで理と利の盤面を整えることはない。それを成し遂げたことは、テオドールがどれだけこの婚約を重視しているかを表すものだった。
その事実に、クレアは愛しさと敬意を覚えた。
この提案を受け、シグムントが言葉を返した。
「大変、興味深いご提案です。基本方針について合意させていただきましょう。詳細計画については、殿下と、ザルムート公爵閣下、そして——」
一拍置いて、シグムントは言葉を続けた。
「——我が娘クレアも交えて、後日会合させていただきたい」
その言葉に、クレアは悟る。今この瞬間こそが、外交官クレア・サヴィエールとしてその名を刻む、最初の時であると。
クレアは、深く息を吸い、まっすぐに王たちを見据えた。
「我がサヴィエール家は、長きに渡り国境の安定を担ってまいりました。しかし、時代の移ろいとともに、国境間で剣を構えるのではなく、手を取り合うべきであると、現状を認識しております」
彼女は、一呼吸置き、静かに続ける。
「つい半年ほど前にも、違法薬物の密輸が行われ、我が国の者がその罪を犯したと聞き及んでおります。このようなことを二度と起こさせないためにも、両国間の連携強化が図られるよう、協議させていただきたく存じます」
クレアの言葉が告げられた瞬間、テオドールの目が、一瞬だけ見開かれた。
半年ほど前、ヴィクトールが関与していた違法薬物の密輸。その件は、テオドールが内々に処理し、表沙汰にはしなかった。
にも関わらず、クレアはそれを把握していた。そしてこの場で大胆にも話題にした。まるで自身の能力と胆力を証明するかのように。
テオドールは、自身の驚愕を気取られないように笑みを浮かべる。
「さすがクレア。ずいぶん現場に詳しいね」
クレアもまた、微かに微笑む。
「サヴィエール辺境伯家の者として、当然ですわ」
そう言って、テオドールにウィンクを返した。
その様子を見ていた王妃メレディスが、微笑を浮かべる。
「あらあら。随分としっかりとしたお嬢様を迎えられそうですね、あなた」
アーサーは苦笑しながら、呟く。
「テオドールの手綱を握ることができる、唯一のご令嬢かもしれんな」
その言葉にシグムントは満足げに微笑み、エドバルドもまた、「我が国から流出させるのが惜しいくらいだ」と笑った。
こうして、両家の顔合わせは、実りをもたらしつつ、穏やかに終えたのだった。
【あとはお若いお二人で】
王宮の庭園に、お茶会のためのテーブルがセットされた。木漏れ日の下で、夏の花々が周囲を彩っている。
クレアとテオドールが、そのテーブルを囲む。夏の気候に合わせ、冷まされた薬草茶が注がれる。
「久しぶりに会えて嬉しいよ、クレア」
以前よりも低くなったテオドールの声に、心からの甘さが滲む。
「私も同じ気持ちですわ、テオ様。ずいぶん背が高くなられましたね」
一年前の夏の日差しの中で、クレアとテオドールの身長に差はなかった。半年前の別れの時はどうだっただろうか。
今、こうして椅子に座っている間でさえも、テオドールが少年から青年らしくなりつつあることを、クレアも感じ取っていた。
「見惚れた?」
「ええ。自慢の旦那様になりそうで嬉しいですわ」
クレアは恥ずかしがる素振りもなく、言う。その様子に、テオドールは呆気に取られた。
「昔のクレアなら、もっとわかりやすかったのに」
「あら、ご不満ですか?」
「いや、色っぽくなったなって、そそられる」
その身も蓋もない感想に、クレアの笑顔が固まる。周囲に控える侍従も、心なしか気まずそうな空気を漂わせていた。
しかしテオドールの悪巧みするような笑顔を前にして、クレアは絶対に表情を崩さないように踏ん張る。
「お行儀の悪いこと。そういう言葉は、二人きりの時におっしゃってくださいませ」
「……二人きりなら良いと?」
テオドールの黒い瞳に、冗談とも本気ともつかない揺らぎが生じる。その揺らぎを前にして、クレアはたじろぎつつも、本能的な優越を感じていた。
「さぁ。嘘か真か、二人きりのときにお答えいたします」
クレアは本日二度目のウィンクをした。
テオドールはしばらく呆けて、そして降参したように両手を上げる。
「参りました。この求愛ゲーム、時が経つにつれて僕の方が不利になる」
そのテオドールの姿に、クレアは面白そうに笑った。
その後、いくつか話題を変えた後、クレアが切り出した。
「先程のご提案の件。構想も、その段取りの良さも、さすがでしたわ」
「両国のためだからね。いっぱい褒めてくれて構わないよ」
テオドールの茶化しを無視して、クレアは続けた。
「本当にそれだけかしら。確かに両国にとっても、両家にとっても、素晴らしい提案だったわ。まるで、この婚約の理と利をわかりやすく最大化させたかのように」
そのクレアの指摘に、テオドールは微笑みながらティーカップに口をつけた。クレアの言葉を促す態度だ。
クレアは意を決して尋ねた。
「貴方は、私がアヴェレート王国に必要な存在であると証明したかったんじゃなくて?」
政略結婚の本質とは、単なる家同士の結びつきではなく、そこにどれだけの利をもたらすかである、が——クレアには、テオドールがそれを逆手に取ったように見えていた。
まるでアヴェレート王国全体に、クレアとの婚姻を承服させるかのように。
「『元外交官の嫁など、スパイかもしれない』という曖昧な不安を、『国境の安定』というわかりやすい実利が追いやることを見越してのことだったのではないかしら」
テオドールの帰国直前に交わした約束——クレアの外交官キャリア後の嫁入りについて、アヴェレート王国内の理解を得られるよう根回しをするということ。しかし彼は、根回しを遥かに上回る策で、その約束を果たした。
「さぁ、それはどうかな?」
テオドールはあくまで涼しげに微笑む。
クレアは、テオドールの底知れない真意に、ただため息をついた。
「では、その前提だったとして……約束を守る以上の、大きな愛を嬉しく思います。だけど、私は貴方の愛を与えられるだけの女ではないと、お伝えしておきますわ」
理と利を盾に、愛を貫くテオドールの策。しかしそれではクレアがただ寵愛を受けるだけのようにも見える。
「君のそういうところに、僕は惚れてるんだよね」
テオドールはクレアの手を取り、指を絡めた。クレアもまたその細い指で、テオドールの手を握り返す。
「私もですよ、テオ様」
クレアは、少しだけ顔を赤らめながら告げた。




