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第五話:婚約破棄後の身の振り方

【邂逅】


 学園の廊下を歩きながら、クレアは手にした成績表をそっと確認した。

 クレアの予想通りの成績だった。特に苦手な科目もなく、得意科目は申し分のない結果だ。

 機嫌良く歩を進め、角を曲がると、目の前にいた人物と目が合った。

 ヴィクトール・ローレント公爵令息――かつての婚約者。

 一瞬にして空気が凍った。

 お互いに無言のまま、視線だけが交錯する。

 ヴィクトールは、冷たい灰色の目をクレアに向ける。対するクレアは、わずかに動揺を見せたものの、すぐに表情を整えた。


 ――もう、私には関係のない人。


 この婚約は事実上、破棄された。書面手続きも追って行われる。更に二人の関係性は最悪だ。クレアには、ヴィクトールと言葉を交わす理由がなかった。

 クレアは何事もなかったかのように歩みを再開した。

「王子様の庇護を得たからと、その態度」

 ヴィクトールの声がクレアの背中にぶつかる。クレアは足を止めた。

「予想以上の切り替えの速さに驚かされるね」

 その言葉に込められた意味は明白だ――『節操のない女だ』。

 クレアは眉根を寄せる。もはや他人とはいえ、まるで自分が軽薄な女であるかのように断じられるのは、到底納得できるものではなかった。

 しかしクレアにはわからない。ヴィクトールはなぜ、自分が手放した相手に、わざわざ声をかけ、非難してくるのか。

 婚約関係にあった頃から、ヴィクトールの言動には矛盾が多々あった。クレアを突き放すように見せながら、執着する。クレアを見下しながら、引き留める。

 何を求め、何を守りたいのか――その心性を、クレアが理解することはついになかった。

 クレアは表情を整えてから、ゆっくりと振り返る。

「これは失礼いたしました。てっきり、私の挨拶などご不要かと思いまして」

 優雅な微笑を浮かべながら、クレアはそう言った。さらに続ける。


「まだお気にかけていただけたのなら、光栄です」

 ――未練がましいわね。


 ヴィクトールの整った顔が、一瞬だけ険しくなる。クレアの皮肉はヴィクトールに正しく伝わっていた。

 廊下に居合わせた生徒たちは、妙な空気を察したのか、誰一人として足を止めることなく通り過ぎていく。

 この場に巻き込まれたくないと、誰もがそう思っている。それほど空気が張り詰めていた。

 ヴィクトールは、眉をひそめながら、冷ややかに口を開いた。

「他国の王族に媚びる姿は見てられないと思って、警告しているまでだ」

 ヴィクトールの嘲るような言葉に、クレアは表情を変えず、冷ややかに彼を見返した。


 ――思い通りに行かず、よほど腹に据えかねたのね。


 ヴィクトールは、婚約破棄によってクレアの名声を貶め、行き場を失わせるつもりだった。本来なら、クレアは社交界の嘲笑の的となり、孤立するはずだった。そのヴィクトールの画策を、クレアは察していた。

 しかし、現実はそうならなかった。

 テオドール・アヴェレートの介入によって、クレアは「隣国王子に愛を乞われるご令嬢」として、注目される立場となった。もちろんクレアの名声が無傷とは言えないものの、少なくともヴィクトールが想定していたような事態にはなっていない。

 クレアは肩をすくめて言う。

「困ったら誰かに媚びるほど、私は落ちぶれてはいませんよ」

 少しだけ含みを持たせた口調で、クレアは微笑む。

「それに、王子様の望み通りになるとは限りませんし」

 テオドールに先ほど「絶対に求愛を受けない」と、クレアも宣告したばかりだ。だからこそ、ここで「媚びる」などと言われるのは心外だった。

 ヴィクトールはほんのわずかに表情を曇らせた。クレアの余裕ある態度に、何か引っかかるものを感じたようだった。そして唇を歪めて言い放つ。

「君は自分で選択したつもりかもしれないが、結局飼い主を変えただけ。強大な権力に庇護される存在に過ぎない」

 そう言うと、ヴィクトールは踵を返し、クレアから離れていった。クレアは、その背中を一瞥した。彼の肩が強張っているように見えた。


 ――以前の私なら、その言葉に思い悩んだかもしれないけど。


 ヴィクトールに負の感情を向けられても、今のクレアが頭を悩ませることはない。もうクレアの中で、ヴィクトールは「問題」にすらならなかった。

 クレアは清々しい気持ちで、再び足を踏み出す。振り返ることなく、前を向いて。


【家族会議】


 学園が夏季休暇に入り、クレアはサヴィエール辺境伯領の屋敷へと帰省した。

 久しぶりの故郷の空気を味わう間もなく、クレアは家族会議へと呼ばれた。

 クレアが執務室の扉を開けると、父であるシグムント・サヴィエール辺境伯がテーブルに書類を広げ、母のベアトリスが優雅にソファへ腰掛けていた。ベアトリスは楽しげに紅茶を口に運んでいたが、シグムントの表情は至って真剣だ。

「クレア、座りなさい」

 シグムントの低く落ち着いた声に従い、クレアはベアトリスの隣に腰を下ろした。


「まず初めに伝えておく」

 シグムントはテーブルの上の書類を一枚、指し示した。そこには、ローレント公爵家との婚約破棄を正式に取り決めた書面が記されていた。

「これで、お前とヴィクトールとの婚約は、正式に解消された」

 クレアはその言葉を噛み締めるように、書類を見つめる。分かっていたことではある。しかし正式な書面を前にすると、感慨深いものがあった。

 ふと、シグムントが静かに言葉を続けた。

「今までローレント公爵家との調和を重んじていたが……愛想が尽きた」

 クレアは驚いてシグムントを見た。シグムントは娘の視線を受け止めながら、穏やかな表情で続ける。

「お前にも、随分と負担を強いてしまったな。すまなかった」

 その言葉に、クレアの胸が僅かに熱くなる。

 シグムントは厳格な人間だった。家の存続や国境の安定を最優先に考え、個人の感情を重んじるような言葉をかけることは滅多にない。

 だからこそ、その「すまなかった」という言葉は、クレアにとって驚きだった。そして、同時に嬉しくもあった。

「お父様……」

 クレアが何かを言いかけたところで、シグムントはふと視線を書類から上げ、冷静な表情で言葉を続けた。


「さて、次はアヴェレート王家の第二王子、テオドール・アヴェレートについてだ」

 シグムントの低く落ち着いた声が響く。クレアは身構えた。


 ――やはり、お父様も把握しているわね。


 クレアは、婚約破棄直後に実家へ報告の手紙を送っていた。ローレント公爵家との婚約が事実上破棄される運びとなったこと。社交界での影響を最小限に抑えるため、慎重な対応が求められること。そして、思いがけずアヴェレート王家の第二王子が介入し、愛を宣言したこと――。

 簡潔ながらも、必要な情報はすべて記したつもりだったが、シグムントはさらに詳細な情報を得ているようだった。


 ――どうしてそこまで知っているのかしら。


 シグムントは、クレアの考えを見透かしたように、静かに微笑む。

「お前の手紙だけが情報源ではない。学園内の人脈からの情報提供、それから王都に派遣している者たちの観測もある」

「……そこまで?」

 クレアが驚きを滲ませると、シグムントは淡々と頷いた。

「当然だ。王都の動向を知ることもまた、当主の務めの一つだからな」

 シグムントは王都の情勢には目を光らせていた。辺境の領主であろうと、中央貴族の変化は無関係ではない。ローレント公爵家との婚約が破棄された時点で、サヴィエール辺境伯家にどのような影響があるかを慎重に見極めるため、王都の情報収集に力を入れるのは当然のことだった。

「これほどの一件だ、私が把握していないはずがないだろう」

 クレアは、シグムントがどこまで知っているのか測りかねながら、静かに息を整えた。


「殿下の行動は、個人的な恋愛感情だけに基づくものではない。政治家として見れば、彼の意図は明白だ」

 シグムントは、ゆっくりと説明を始める。

「ヴァルミールのサヴィエール辺境伯爵家――つまり我々との繋がりは、アヴェレート王家にとって国防上、極めて重要だ。隣国として、国境の安定を図る上で、我が家との協力関係の構築は大変効果的だ」

 クレアは無言で頷いた。それは理解していたことだった。

「さらに、ヴァルミールのフィーリス王家とアヴェレート王家は緊密な関係にある。国王陛下も、この婚姻に異を唱えることはないだろう」

 シグムントは、指で軽く机を叩きながら言葉を区切る。まるで、ひとつひとつ論理を確かめるかのようだった。

「サヴィエール辺境伯家としても、正直言ってこれ以上の婚姻は他にない。国境防衛の意味でも、王家との直結による政治的安定の観点からも有益だ」

 クレアは、引っかかりを覚えた。

 アヴェレート王家との婚姻が、国境防衛に資することは理解していた。しかし、それがヴァルミールでの政治的安定に繋がることは、これまで考えたことがなかった。

「もともとローレント公爵家との婚約を進めたのは、かの家が持つフィーリス王家との繋がりを強めるためだった。しかし、ローレント公爵家派閥の思惑に振り回されるリスクもあった」

 シグムントは淡々とした口調のまま、手元のティーカップに口をつけ、ソーサーに戻す。

「その点、アヴェレート王家との縁組なら、ヴァルミール国内の権力争いに巻き込まれずに済む。それでいて、国王陛下もアヴェレート王家との友好関係を重視している以上、むしろ我が家の立場は盤石になるだろう」

 シグムントの言葉は、事実を的確に指摘していた。

「以上を踏まえれば、アヴェレート王家との婚姻は、悪い選択ではない。しかし――」

 そこで、シグムントは言葉を切り、クレアをじっと見つめた。

「お前が一度矜持を見せた以上、簡単に判断を翻すようでは、家の沽券に関わる」

 クレアは、シグムントの言葉の意味を噛み締める。


 ――そうだ。私はテオ様に対して、確かに「絶対に求愛を受けない」と宣言したのだから。


 納得しながらも、クレアが思考を巡らせていると――

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!!」

 母のベアトリスが、勢いよくテーブルを叩いた。

 クレアとシグムントは、驚いてベアトリスを見る。

「これはチャンスよ、逆にテオくんを本気にさせてしまいなさい! 政略じゃなくて純愛だと証明するのよ!!」

 ベアトリスは、すっかり頬を上気させ、まるで夢見がちな少女のように目を輝かせていた。

「テオくんは王子様なのよ!? しかも、王子様自らが愛を乞うてくるなんて、そんなロマンチックな話ある!? これはもう運命としか思えないわ!!」

 クレアは、ベアトリスの熱量に圧倒され、思わず引き気味になった。

「お母様、落ち着いてください……」

「落ち着いていられるわけないじゃない! こんなチャンス、普通はあり得ないのよ!?」

 ベアトリスは身を乗り出し、熱く語り始める。

「『いつか王子様が迎えに来る』――こんなことが娘の身に起こるなんて!!」

「いや、だから……」

「テオくんを絶対に旦那にしてちょうだい!!!!」

 ベアトリスの圧に、クレアは完全に飲み込まれていた。

 対して、シグムントは深々とため息をつく。

「……もう少し政治的な視点を、だな」

「ロマンの方が大事よ!」

 ベアトリスはぷんすかと頬を膨らませた。


 クレアはそんな父親と母親を見つめ、つくづく自分はこの家に生まれたのだな、と改めて実感するのだった。

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