第三話:今ここにいない貴女に誓う夜
【アヴェレート王国の国境防衛】
テオドールがアヴェレート王国へ帰国した後、王家の一員として、政治家として奔走していた。教育改革の水面下での準備的始動、新税制による経済効果の調査分析の指揮、そしてヴァルミールとの隣接領地であるザルムート公爵との連携。今日はそのザルムート公爵との会談の日であった。
留学から帰国して以降、休む間もなくこの調子だ。やはりアヴェレート王家の王子に休みなどないのである。
アヴェレート王国東部、ザルムート公爵領の城館。重厚な木製の扉が静かに開かれると、広々とした会議室に春の光が差し込んだ。長い会議用テーブルの中央には、アヴェレート王国・ヴァルミール国境地域の最新の地図が広げられている。その周囲には、公爵家の重臣たちと、アヴェレート側の王国軍関係者が控えていた。
室内の奥の席に座るザルムート公爵が、深い青の軍服を纏いながら、目を細めてテオドールを迎えた。
五十歳にして精悍な容貌を持つこの男は、アヴェレート王国東部の盟主にして、かねてより王家とも協調的な、有能な政治家だった。
ザルムート公爵は微笑し、穏やかな声で口を開く。
「殿下とこのような場を設けることができ、大変光栄に存じます。東部地域の貴族たちも、殿下の婚約の報を聞き、安堵しておりますよ」
その言葉に、テオドールは軽く微笑んだ。
「私としても、ザルムート公と直接お話しできる機会を持てたことを嬉しく思います。王国の東部を支える貴方のご尽力には、常々感謝しております」
互いに形式的な挨拶を交わしたあと、会議の本題に入る。テオドールは地図の一角を指し示しながら、淡々と説明を始めた。
「さて、今回の議題は、国境防衛の方針についてです。現状、我々の国境部隊は軍事防衛よりも治安維持の役割を強めつつあります。密輸や不法入国の取り締まりが中心となる以上、軍の運用をより機動的なものへと転換する必要がある」
ザルムート公爵領はアヴェレート王国の東方の国境を預かる辺境領地であり、隣接するのはヴァルミールのサヴィエール辺境伯領だった。
元々、ヴァルミールとは軍事同盟を結び、八十年ほど戦争もなく、安定した関係を築いてきた。そこに、ヴァルミールの国王エドバルドの友好的な態度に加え、テオドールとサヴィエール辺境伯令嬢の婚約である。両国は歴史上でも類を見ないほど、政治的にも国民感情的にも友好ムードであった。
尚、ヴァルミール国内の高位貴族の間で漂っていた「エドバルド国王のアヴェレート王国に対する過度な接近」の不満だが、その筆頭と目されていたローレント公爵家およびヴィクトールの一連の失態によって、霧散している。
ザルムート公爵は頷き、地図の一点に視線を落とした。
「確かに、この数年で軍事衝突の可能性はほぼ消えました。しかし、国境地帯の秩序維持には未だ課題が多い。特に、不法な貿易経路の増加は見過ごせません」
「サヴィエール辺境伯家も同様の問題に直面しています。彼らは自領の治安維持において、すでに独自の警備体制を敷いていますが、より効率的な管理を行うためには、アヴェレート王国側との情報共有が不可欠です」
「つまり、殿下は国境警備の『共同運用』を本格的に進めるおつもりなのですな」
「その通りです。ザルムート公のご協力をいただければ、国内の合意形成を完了させ、ヴァルミール側との調整へ進めることができます」
ザルムート公爵は、しばし沈黙した後、低く笑った。
「殿下は、もはや立派な政治家ですな。若年ながら、ここまで具体的な計画を持ち、交渉に臨まれるとは」
テオドールは微かに眉を上げたが、その表情は変わらなかった。
「王家の一員である以上、当然のことです。東部の軍事・治安政策もまた、私の責任の一環です」
「なるほど。では、殿下のお考えをもう少し詳しく聞かせていただきましょう」
テオドールは静かに頷き、用意していた提案の詳細を説明し始めた。
「今回の提案は三つの施策からなります。合同国境警備隊の設立、国境交易の管理強化、そして軍の役割の再編です」
テオドールはその施策の中身を一つひとつ詳らかにしていく。
①合同国境警備隊の設立
アヴェレート王国とヴァルミール間で情報を共有し、合同で警備隊を組織する。
国境における特定の事案には、共同作戦を実施できる体制を構築する。
②国境交易の管理強化
不正取引や密輸の監視を強化するため、ザルムート公爵領とサヴィエール辺境伯領に『共通通関機構』を設置し、交易を円滑にしつつ、違法行為を防ぐ。
③軍の役割の再編
従来の防衛部隊を削減し、代わりに機動的な国境警備隊を新設。
サヴィエール辺境伯家とも協力し、国境線を守るための定期的な合同演習を実施。
「サヴィエール辺境伯家との関係を背景に、国境の治安維持に特化しつつ、軍事・経済の面で相互依存的になることで両国の蜜月関係の長期化をも狙っています」
「なるほど……興味深いな」
ザルムート公爵は地図を眺めながら、テオドールの提案を吟味した。
やがて、ザルムート公爵はゆっくりと腕を組み、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「理に適ったご提案です。しかし、これらの施策は、テオドール殿下とサヴィエール辺境伯家との関係が良好であることが要。どうか円満なご家庭を築いていただきたい」
そこで、テオドールはわずかに口角を上げた。
「では人生の先輩として、家庭円満の秘訣をザルムート公爵閣下にご教示願いましょう」
「ほう、随分と手厳しい」
ザルムート公爵は肩をすくめ、笑う。
「殿下の提案、受け入れるとしましょう。我が家も東部の秩序維持には全力を尽くします」
こうして、テオドールとザルムート公爵の協議は、大筋での合意に達した。
【満点の星空の下で】
アヴェレート王国の王城の一室。夜の帳が静かに降り、窓の外にはアヴェレートの街が微かに灯を揺らめかせている。
テオドールの書斎の机の上に、一通の手紙と小荷物が置かれていた。
それは、ヴァルミールのサヴィエール辺境伯領から届いたもの——クレアからの便りだった。
部屋に入るなり、テオドール・アヴェレートは真っ先にその封を切る。
親愛なるテオドール・アヴェレート殿下へ
殿下、ご機嫌麗しゅうございますか。
ヴァルミールでは新年度を迎え、私も無事に学年が進みました。二年生になったことで、より専門的な学問を学ぶことができるようになり、引き続き外交学、地政学、弁論学、そしてアヴェレート王国史を選択しております。特にアヴェレート王国史の講義は、貴国の視点から歴史を学ぶことができるため、大変興味深いです。
さて、本日はもう一つ、大切なことをお伝えしなくてはなりません。
テオ様、お誕生日おめでとうございます。
心ばかりですが、貴方への贈り物を用意いたしました。きっと喜んでいただけるものを選んだつもりです。ひとつは、貴方が興味を持ちそうな本。そしてもうひとつは、ぜひ貴方に読んでもらいたい本です。
遠く離れていても、私はいつも貴方の健勝をお祈りしています。
どうか、よき一年をお過ごしください。
クレア・サヴィエール
テオドールは手紙を読み終えた後、手の中の便箋をそっと伏せ、微かに笑った。
クレアらしい、簡潔で要点を押さえた手紙だった。しかし、その文章の端々には、どこか柔らかな温もりが感じられる。
次に、彼は小荷物の包みを解く。中には二冊の本が収められていた。
一冊目は『国貨論』。ヴァルミール王立学園の財政学の権威が最近発表した新著で、経済政策と貨幣の流動性について詳しく論じた専門書だった。
もう一冊は——
「……『星の川の誓い』?」
テオドールは思わず眉を上げた。
それは、ヴァルミールで最近歌劇化されたばかりの恋愛小説だった。
「クレアが恋愛小説を送ってくるなんて、どういう風の吹き回しだろう?」
疑問に思いながらも、彼の手は自然と『星の川の誓い』の表紙をめくった。
星の川の誓い
物語の主人公は、星々の布を織る天の姫『ステラ姫』と、天馬を駆る若き騎士『アルタイル』。
二人は互いに愛し合いながらも、神々の裁きによって引き裂かれ、「星の川」を隔てて生きることを余儀なくされる。
しかし、たとえ一年に一度しか会えなくとも、彼らの想いは決して褪せることはない。
再会の夜、二人は互いの手を取って誓いを立てる。
「どれほどの時が流れても、あなたを想い続ける」
テオドールは、頁をめくる指を止め、ふっと笑った。
「なるほどね。可愛いところがあるじゃないか」
テオドールが帰国して以来、何かにつけて「クレアならどんな論理を主張しただろう」「こんな時、クレアならどんな反応をしただろう」と、まるで彼女が隣にいるかのように考える日々だった。
なのに、そこに彼女の姿はない。その事実に、テオドールは自分の心に隙間風が吹いたような気持ちになる。
クレアもまた同じような気持ちを抱いていたのだろうか、と、テオドールの心に愛しさが込み上げる。
ふと、テオドールは夜の静寂に包まれた部屋の窓を開く。春の空には、無数の星々が瞬いていた。
テオドールは、遠くヴァルミールの空を思いながら、夜空を仰ぐ。まだ星の川がはっきりと見える季節ではない。
——今この瞬間、クレアもまた同じ星空を見上げているのだろうか。
彼女の手紙を思い出し、心の中でそっと問いかける。
「君に会える日まで、君と、祖国のために、成すべきことを成すと誓うよ」
夜風がそっと、黒い髪を揺らす。その表情は、覚悟と確信に満ちていた。




