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第二話:彼のいない日常

【クレアの手紙】


 硝子窓の外には、ヴァルミールの冬の名残がわずかに漂っていた。けれど、春の足音は確かに近づいている。学園の庭に咲き始めた花々が、それを静かに告げていた。

 クレア・サヴィエールは、学習机に向かい、一本の羽根ペンを手に取った。白い便箋に整った筆跡で、彼の名を記す。



親愛なるテオドール・アヴェレート殿下へ


殿下、ご機嫌麗しゅうございますか。

ヴァルミールの学園では、学年末試験が迫っております。日々、課題や試験の準備に追われる日々ですが、おかげで一層、学ぶ楽しさを実感しております。特に弁論学の授業では、思考を巡らせることの面白さを再認識しました。貴方がいたら、どれほど熱い議論が交わせたことでしょう。


ところで、アヴェレート王国の市場が近頃、活発になっていると聞き及びました。商人たちが好況に沸き、街が賑わっていると。貴方がここにいた頃に語っていた理想が、形になりつつあるのだとしたら、これほど喜ばしいことはありません。


夏の婚約式では、貴方と再び言葉を交わせることを心より楽しみにしております。どうか、その時までお元気で。


クレア・サヴィエール



 封をし、手紙を丁寧に封蝋で閉じる。指先で蝋の感触を確かめながら、クレアはそっと呟いた。

「……早く、会いたいわね」

 けれど、それは手紙の中に綴ることのない言葉だった。


【昨今の学園風景】


 ヴァルミール王立学園の廊下。窓から差し込む春の陽光が、生徒たちの往来を照らす。クレアは次の授業のため、足を急がせていた。廊下ですれ違う生徒たちは、口々に噂をしている。

「エリオノーラ王女のサロンに行ってきましたの。素晴らしく活気にあふれて、私も刺激を受けました」

「ローレント公爵家の元嫡男、いつの間にか貴族籍を抜けて退学したとか。今頃どこで何をしているやら」

「アヴェレート王国の新薬が、最近、我が国でも流通するようになりましたね」

 その全てを聞き流し、クレアは目的地の教室の扉を開けた。選択科目である弁論学。見慣れた男子生徒たちが席を埋めている。彼らがクレアに気づくと、「ごきげんよう、クレア嬢」「今日の弁論、楽しみにしているよ」と、礼儀正しく声をかけてきた。クレアもまた、礼儀正しく、それでいて学友らしく応対した。

 この日の弁論学の授業は、即興討論。テーマは「市場の自由と王権の介入、どちらが国家の安定に寄与するか」。

 クレア・サヴィエールは、まっすぐに前を見据え、討論相手である男子生徒と対峙していた。

 クレアが口火を切る。

「市場は自らの論理で均衡を保つものですわ。確かに、短期的な混乱を避けるために王権が介入する場面もあるでしょう。でも、市場の力を抑えつけすぎれば、経済の活力そのものを損ないます」

「しかし、完全な自由市場は混乱を招くのでは? 例えば、通貨の変動が過度になれば——」

「だからこそ、交易の制限ではなく、適切な指標の策定が重要です。過度な介入ではなく、誘導が必要なのです」


 鋭い指摘を交わし合いながら、討論は白熱していく。やがて、教授が手を上げて制止した。

「ここまで。……今回の勝者は、サヴィエール嬢だな」


 場内に小さなどよめきが走る。男子生徒は悔しげに眉根を寄せたが、すぐに納得したように頷いた。

「さすがだな」

「やっぱりクレア嬢には敵わないよ」

 周囲の男子生徒たちが口々に感嘆の声を上げる。その中の誰かが、ふと呟いた。

「クレア嬢と渡り合えるのなんて、テオドール殿下くらいじゃないか?」

 その言葉に、クレアは一瞬、動きを止めた。

 テオドール・アヴェレート。いつもクレアの隣の席に座っていた彼は、もういない。

 

 ——彼なら、どんな議論を展開しただろうか。どんな言葉を交わしただろうか。


 不意に、胸がギュッと締め付けられるような感覚がした。

「……そんなことはないわ」

 努めて平静を装いながら、クレアは短く返した。しかし、その声がどこか揺らいでいることに、自分でも気付いていた。


 授業の終わりを告げる鐘の音が、彼のいない空席を静かに照らしていた。


【二人を隔てる星の川】


 その日の昼休み、クレアはいつも通り、親友フィオーネ・ナディアとともに、ティーテーブルを囲んでいた。

「クレア、聞いてちょうだい!」

 フィオーネはすでに紅茶を片手に身を乗り出していた。

「昨日、とんでもなく胸を締め付けられる歌劇を観たの! その名も『星の川の誓い』!」

 クレアは、パンにナイフを入れながら、フィオーネの目の輝きを見て、すでに察していた。

 また、彼女の熱烈な講釈が始まるのだ、と。

「えっと、どんな物語だったの?」

 クレアは若干の戸惑いを見せつつ、彼女の話を促した。


「この物語の主人公は、二人の恋人——星々の布を織る天の姫『ステラ姫』と、天馬を駆る若き騎士『アルタイル』なの!」

「天の姫と騎士……」

 クレアは、すでにただのラブストーリーでは終わらないことを予感しつつ、続きを促す。

「ステラ姫は、神々の住まう天空の宮で、夜空を織る役目を持つ姫なの! 彼女の織る星の布が、夜の世界を包み、世界に安らぎをもたらすの!」

「星を織る姫、なんて幻想的な設定ね」

「そうでしょう!? 彼女は幼い頃からその役目を果たし続け、誰よりも美しく夜空を紡ぐ才能を持っていたのよ!」

 クレアは、フィオーネの熱量に負けじと、紅茶を一口飲み、話を促した。

「では、その騎士アルタイルは?」

「彼は、地上に降り立つ神々のために、天馬を操る騎士団の一員だったの!」

「なるほど、神々の世界に仕える立場なのね」

「ええ! 彼は力強く勇敢で、天馬とともに空を翔ける騎士! でも、そんな彼は、ある日ステラ姫と出会い、一目で恋に落ちてしまうの!」

「それはまた……王道ね」

 クレアはくすりと笑う。

「そう! でもここからが大事なのよ!」

 フィオーネは声を大にして身を乗り出した。

「二人の恋は、神々によって許されていなかったの!」

「……やっぱり、そういう運命なのね」

 クレアは少し眉根を寄せた。

「そうなのよ! 神々の世界では、織姫は夜空を織り続けなくてはいけない。もし彼女が恋に現を抜かせれば、星々は瞬くことをやめ、夜が闇に包まれてしまう……!」

「そんな厳しい決まりが……」

「でもね!? 二人は抗ったのよ!!」

 フィオーネは興奮のあまり、ティーカップをテーブルに置き、勢いよく語り出した。

「ステラ姫とアルタイルは、夜ごと逢瀬を重ねたの! 彼女は星を織る合間を縫って、彼のもとへ降り立ち、二人は月光の下で誓いを交わすのよ! 『どんな運命が待っていようとも、あなたと共にいたい』って!!」

「まぁ……!」

 クレアは目を見開いた。

「でも!! 神々は彼女たちを許さなかった!!」

 フィオーネはテーブルをバンッと叩いた。ティーカップが小さくジャンプする。

「神々は怒り、二人を引き裂いたの!! 星の川という大河を創り出し、その両岸に二人を分け隔てたの!!」

「なんて無情……!」

 クレアは、思わず胸を押さえる。

「ここからがさらに切ないの!!」

 フィオーネの声が一段と熱を帯びる。

「ステラ姫は、織姫としての務めを果たさなければならず、アルタイルは、騎士としての使命を果たさなければならなくなった……」

「……現実を受け入れたのね」

「でも、二人は諦めなかったのよ!」

 フィオーネは拳を握りしめる。

「毎年、一度だけ! 星々の裁定が下り、星の川に架かる橋が現れる日が訪れるの!! その日だけ、二人は再び巡り合えるの!!」

「たった一日だけ……!」

「そうよ! 一年に一度、それ以外の日はどれだけお互いを想っても触れることは許されないの!!」

 フィオーネは感極まって、涙ぐむ勢いだった。

「でもね、クレア……それでも、二人はその日を待ち続けるのよ!」

 クレアは、その内容に自分の状況を重ねて、そっと目を伏せた。

「アルタイルは、天馬に乗って橋が現れる日を待ち続ける。ステラ姫は、彼のために美しい夜空を織り続ける。そして、その年に一度の夜——二人は、互いを確かめ合い、また離れていく……」

「でも、それが、彼らの愛の証なのね」

 クレアは静かに呟いた。

「そう! 距離があっても、運命が隔てても、二人は想い続けるの!! これはまさに、『恋人同士が想いを募らせながら、逢える日まで愛を証明する物語』なの!!!!」


 フィオーネが講釈を終えると、ふぅ、と一息ついた。そして先ほどの勢いはどこへやら、彼女は真剣な面持ちで、クレアを見据える。

「ねぇ、クレア。国境を越えて、貴女たちもまた想い合っている。その時間が、貴女たちの絆を育てているのだと思うわ」

 フィオーネの言葉には、クレアに対するエールが込められていた。そのフィオーネの心意気をクレアは受け取り、ふっと微笑んだ。

「ありがとう、フィオーネ」


 ——離れていても、想いは変わらない。その想いがある限り、自分たちは絆で繋がっている。


 星を織る姫のように、自分のすべきことを果たしながら、再会の日を待とう——クレアは決意を新たにし、空を仰いだ。


 後日、テオドールからクレアへ手紙の返事が来た。その中身の一節が、クレアの目を止めた。

『元を辿れば、カレスト公爵の嫉妬が発端となって減税、更に冬にその枠組みを拡大して今の好景気に至ります。これまで感情を抑えることが王族の勤めだと思っていましたが、本物の実力者は自分の感情すら国益に繋げるのだと、呆れとともに学ぶ日々です』

 クレアはこの話がどこまで本当なのか冗談なのかが判断できず、戸惑うばかりだった。

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