第十話:長い交渉
【冬の外交は暖炉の前で】
冬の朝、学園のサロンには柔らかな陽光が差し込んでいた。
ヴァルミール風の優美で華やかな調度品に囲まれた室内では、暖炉の炎がパチパチと音を立て、寒さを和らげている。
その空間の中心に、クレアが優雅に腰掛けていた。
クレアは端然とティーカップを持ち上げ、静かに紅茶に口をつける。その所作は淀みなく、貴族の令嬢としての完璧な礼儀作法を示していた。
そんな彼女のもとに、扉が静かに開かれる音が響く。
「あれ、早いね」
落ち着いた声がサロンに満ちた。
声の主は、アヴェレート王国の第二王子、テオドール・アヴェレート。
昨日のダンスパーティの余韻を感じさせない、いつも通りの涼やかな表情を浮かべている。
「先に場作りをしておこうかと思いまして」
クレアは微笑み、テオドールに向かって手を軽く動かし、隣の席を勧める。すでに、彼のための紅茶も準備されていた。
テオドールは肩をすくめながら、クレアの隣の席に腰を下ろす。
「これは僕も気を抜けないな」
そう言いながら、彼はそっとティーカップを手に取った。
静寂が、一瞬だけ二人を包んだ。
そして、テオドールが口を開く。
「単刀直入に言うよ——君の本心が知りたい」
それは、テオドールらしくないほど、率直な言葉だった。
その黒い瞳には、いつもの軽やかな余裕はない。そこにあるのは、真っ直ぐな誠実さだけ。まるで、駆け引きの一切を捨てたかのような、真摯な眼差しだ。
それが何を意味するのか、クレアにはわかっていた。
今、この瞬間だけは、テオドール・アヴェレートは「王子」ではなく、「一人の男」としてクレアの前にいる。
だからこそ、彼女もまた、正しく応えなくてはならないと直感した。
「二つの本心がございます」
クレアはゆっくりとカップを置き、彼の目を真っ直ぐに見据える。
「乙女心と矜持。どちらから聞きたいでしょう?」
テオドールは一瞬、考える素振りを見せる。そして、わずかに唇の端を上げながら答えた。
「じゃあ……乙女心から」
クレアは、くすりと微笑む。
「まあ。性急ですのね」
「まぁね。それが見えないせいで、昨晩もあまり寝られてないんだから」
その言葉に、クレアは小さく息を飲んだ。こんな風に、はっきりと「眠れなかった」と言われるとは思っていなかったのだ。
その不意打ちに、クレアの胸の奥がかすかに揺れる。
しかし、彼女は動揺を表に出さず、ゆっくりと微笑んだ。
「ふふ。昨日お伝えした通りですわ」
言葉を選びながら、彼女は静かに続ける。
「お慕いしております。それは単なる友人としての意味ではありません」
一拍、間を置いて——
「私の初恋ですの」
静寂。
テオドールの動きが、ピタリと止まった。まるで時間が凍りついたかのように、彼は一瞬、まったく反応を示さなかった。
クレアは、テオドールの表情の変化を見つめながら、ゆっくりと微笑む。そして、彼の顔に、じわじわと赤みが広がっていくのを目にした。
「……破壊力がありすぎる」
珍しく、彼が顔を背けた。滅多に見られないその反応に、クレアは小さく笑みを浮かべる。
「ふふ、意外と可愛らしい反応をなさるのね」
「はあ……」
テオドールは、深くため息をついた。
「恋って厄介だ」
暖炉の炎が静かに揺らめき、ぱちりと音を立てる。その音が、二人の間の沈黙を静かに満たしていった。
温かい紅茶の湯気が、空気をほのかに潤す。
しばし沈黙の後、テオドールがゆっくりと息を整えた。
先ほどの衝撃から気を取り直し、真剣な眼差しでクレアを見つめる。
「ではもう一つ、矜持は?」
彼の問いに、クレアは穏やかに微笑んだ。その笑みは、どこか確固たる意志を秘めたものだった。
「私、ヴァルミールを捨てて、ただ貴方についていく気は毛頭ございませんの」
はっきりと告げられた言葉に、テオドールは微かに目を細める。しかし、それ以上の反応は見せず、ただ静かに紅茶に口をつけた。
クレアは、テオドールの態度に満足げに頷く。彼の沈黙は、「続きを聞かせてほしい」というサインだ。
「この国には、かけがえのない家族や大好きな友達がいる。誇りある歴史や愛する文化がある。それを振り切って、黙って貴方についていくようなことはできません」
クレアの声は、はっきりとしていて、誤魔化しや躊躇はなかった。
アヴェレート王家の第二王子の妃となること——それはつまり、常識で考えれば、アヴェレート王国へ移住し、その国の人間となることを意味する。
しかしクレアにとって、それは受け入れ難い選択だった。
テオドールは、カップをそっとソーサーに戻す。
そして、クレアの瞳をまっすぐに見つめながら、静かに言った。
「なるほど。君の気持ちは理解したし……共感する。僕も同じだから」
クレアは微笑み、優雅にティーカップを手に取る。この返答を聞いて、彼女は確信した。
「お互いの共通認識ができましたね」
「ようやく交渉に入れるというわけだ」
テオドールは小さく笑い、肩をすくめる。
「君がここまで外交の手腕を上げたこと、外交学の教授も泣いて喜ぶと思うよ」
「ふふ、ではテオ様——」
クレアはゆっくりとティーカップを置き、彼の瞳を真っ直ぐに見据えた。
そして、微笑みを浮かべる。
「こちらの要求をお伝えいたしますわ」
テオドールが身を乗り出し、彼女の言葉を待つ。
「テオ様、サヴィエール辺境伯家に婿入りなさりませんか?」
静寂が、サロンを満たした。そしてテオドール、本日二度目の硬直。
しばらく重たい沈黙が続く。
クレアは涼やかに微笑みながら、テオドールの反応を楽しんでいた。
やがて、テオドールは大きく息を吐き、苦笑いを浮かべた。
「……まったく、帰国も直前だというのに——最後の最後で、大変な交渉になりそうだ」
そう言いながら、テオドールは再びティーカップを手に取る。その瞳には、すでに「勝負を楽しむ」色が宿っていた。
そして、クレアもまた、彼の微笑みに応えるように、優雅に紅茶を口に運んだ。
暖炉の炎が、またぱちりと音を立てた。
それは二人の長い交渉の始まりを告げる合図だった。
【テオドールの帰国】
クレアとテオドールの、長い交渉が明けた翌々日、いよいよテオドールの帰国の日となった。ヴァルミールの王都の門前に、アヴェレート王家の家紋が入った馬車が控えている。
学園中から慕われていたテオドールの帰国とあって、見送りの場には多くの生徒たちが集まった。
賢く、気品があり、常に余裕のある王子。誰もが一度は彼に憧れ、そして挑み、そして打ちのめされた。
「殿下には結局、一度もディベートで勝てなかった……」
「殿下の王子様ぶりが見られなくなるなんて辛い……」
生徒たちは、それぞれの思いを胸に抱きつつ別れを惜しんでいた。
そして、テオドールが馬車に乗り込む直前のことだった。
テオドールは、ふとクレアを呼び寄せた。それまで余裕の笑みを浮かべていた彼が、その瞬間だけは少しだけ違って見えた。
彼はクレアの手を取り、その甲へと軽く唇を寄せた。
「約束、必ず守るから」
その言葉に、クレアは静かに微笑んだ。
「ありがとうございます。私たちの未来が幸多いことを祈っていますわ」
そんな二人のやり取りを、少し離れた場所でじっと見ていた者がいた。フィオーネ・ナディアである。
彼女は目を輝かせながら、その場面を観察していた。
——これは、次回作のいい題材になるわね……!
彼女の創作意欲が、一気に刺激された瞬間だった。愛と誓い、そして国を超えたロマンス。この脚本が、ヴァルミールの歌劇場を再び席巻することになる。




