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第九話:たまたま最上の選択である貴方

【その矜持をここにいる全ての人間に示せ】


 年末のダンスパーティが、華やかに幕を開けた。

 会場の中央では、貴族たちが優雅に踊りの輪を作り、壮麗な音楽が流れている。煌びやかなシャンデリアの光が、舞う者たちの影をゆるやかに揺らしていた。

 テオドールは、いつものようにクレアの前に立ち、自然な所作で手を差し出す。彼が微笑めば、クレアはいつも通りに手を取る。

 それが当たり前のことのように、今まで何度も繰り返されてきた。

「クレア、お手を」

「ええ、テオ様」

 そして、ダンスが始まる。テオがリードし、クレアがそれに完璧に応える。それは、二人の間で続いてきた流れだった。

 しかし今夜、クレアの心の中では、ある異なる覚悟を秘めていた。


 ——このダンスが、最後のチャンス。


 このパーティが終われば、テオドールは帰国する。そしてそれまでに、クレアは求愛ゲームの結論を告げなくてはならない。

 クレアの結論は決まっていた。しかし、その結論を素直に伝えることは、クレアの矜持が許さない。


 ——ここにいる全ての人間に示せ。クレア・サヴィエールの矜持を。これは私が自ら選んだ道だということを。


 クレアは、ダンスのリズムに乗りながら、一つの小さな変化を起こした。テオドールのリードを待たず、ほんのわずかに先に動いた。

 テオドールの表情に、一瞬の驚きが浮かぶ。今まで、彼が即興でリードし、クレアが完璧に対応する——その関係性は不変だった。しかし、クレアはあえてその流れを変えた。


 いつもは、クレアがリードされる側だった。けれど今回は、クレアが先手を取る。

 華麗なステップで流れを変え、それに合わせて軽やかにターンする。ほんの一瞬、テオの動きが止まる。

 リードを委ねられることが当然だったはずの彼が、クレアの突然の先手に驚きを隠せない。しかし、彼はすぐにその意図を理解し、遅れを取らぬよう瞬時に動きを合わせてくる。

 テオドールがこの程度で崩れる男でないことはクレアも分かっている。だからこそ、クレアは一世一代の賭けに出た。

 クレアの目が、まっすぐにテオドールを見つめた。


「お慕いしております、テオ様」


 テオドールの動きが、ほんの一瞬だけ止まる。ダンスのリードが、かすかに乱れる。


 ——やった! ついにテオ様を驚かせられた!


 テオドールの瞳がわずかに揺れる。思考が追いつかない、というように。クレアは、ほんの少しだけ、勝ち誇ったように微笑んだ。


【揺らぐ王子】


「お慕いしております、テオ様」


 ほんの少し頬を染めたクレアの、その一言が、まるで緩やかに弦を弾く音のように響いた。テオドールは息を飲む。 

 ダンスの最中に耳打ちするような声だった。けれどテオドールの心を大きく揺さぶった。


 ——これは……想定外だ。


 それまでクレアを翻弄する側だったはずのテオドールが、今、彼女の言葉に完全に遅れをとっていた。

 しかし、テオドールはすぐに表情を整えようとする。ただし完璧ではなかった。

「……それは、どんな意味で?」

 単なる親愛か、敬意か、それとも。いくつもの意味を含む言葉の中から、真意を掬うように、テオドールは慎重に尋ねた。その声には、微かに混乱の色が滲んでいた。

 一方のクレアは、テオドールの反応に微笑みを浮かべながら、囁くような声で告げた。

「テオ様のお好きなようにお捉えくださいませ」

 普段のクレアからは想像もつかないような、艶やかな気配だった。

 テオドールは言葉を失った。まるで、戦場で敵に先手を取られた騎士のように。


 楽曲のしまいとともに、二人のダンスも終わる。テオドールが焦燥を抱えたまま、クレアに声を掛けようとする。しかし。

「テオ様、もう一曲踊りませんこと?」

 クレアがテオドールに手を差し出した。その誘いは、テオドールが彼女の心を問う機会を完全に奪った。

 二曲続けてのダンス。それは、恋仲、もしくは正式な婚約者であることを示すもの。

 クレアがその手と同時に差し伸べたのは、「求愛ゲームの結論は伝えど心は見せない」という高度な駆け引きだった。彼女は、自らの意志でテオドールを選んだのだと示しながらも、その心の内を言葉にすることはなかった。


 ——やられた。


 クレアに求愛しているテオドールが、今この場で、彼女の手を取らない選択肢はあり得ない。しかしその手を取れば、テオドールはクレアの選択を受け入れたことになる——彼女の本心を得られぬまま。

 政略結婚であれば、それは些事。にも関わらずテオドールは、彼女の心を覆うベールを許せなかった。 

 テオドールは、ここまで余裕を持ち続けてきた。理と利の下にクレアと親交を深め、安寧を伴う愛しさを育んできた。それを愛だと、テオドールは疑わなかった。

 しかし今、クレアの心を確信できないもどかしさが、テオドールの冷静さを奪う。


 ——クレアを今すぐ捕らえたい。問い詰めたい。その心を暴きたい。

 ——本当に僕のことを好きなのか。それだけを知りたい。


 テオドールは、その衝動的で理不尽な欲求が、自分の内から生じていることに、呆然とした。

 そのテオドールの内心を知ってか知らずか、クレアはただ微笑んでいた。アイスブルーの瞳が柔らかな光を宿す。テオドールはその煌めきに、甘い眩暈を覚えた。


【全ての人間が証人となるワンシーン】


『私の最上の選択が、たまたま貴方を旦那にすることだったのよ』——いつかの歌劇での、クレアのセリフが、テオドールの耳に蘇る。


 テオドールは、今まで無意識のうちに、自分が与えた選択肢をクレアはいずれ受け入れるものと思っていた。しかし今、テオドールは気づかされた。

 クレアは、与えられた選択肢ではなく、自らの意志でこの道を選ぼうとしているのだと。

 ならば、テオドールはクレアの決意を、全力で守らねばならない。そうでなければ、クレアはこの関係を継続するかどうか選び直してしまう。

 それができる女性なのだと、そんな女性を愛してしまったのだと、テオドールは心の底から認めた。


「……クレア」

 もう一度、テオドールがクレアの手を取る。次のダンスが始まる。それは二人の新たな関係の中での、初めてのダンスになる。

 テオドールはもう、その手を緩めるつもりはなかった。


「ご令嬢から二曲目の誘いを……?」

「殿下が断らないことを見越してのことか……?」

 周囲の生徒たちから、すぐさまどよめきが広がる。

 一般的には、女性から二局目のダンスを望むことはない。はしたない——そう評される行動だ。

 しかし、今この場においてのみ、周囲の受け止め方は違った。

「すごく……情熱的な意思表明だわ」

 それまで、学園内では「テオドール殿下がクレア嬢に求愛している」という認識が強かった。しかし今、ダンスの主導権を握り、彼女の方から二曲目を望んだ——その事実が、生徒たちの印象を塗り替える。

「与えられた愛を享受するだけの存在ではない、ということか」

「彼女は自らの意志で王子を選んだのね」

 そのささやきが会場を駆け巡ったとき、クレア・サヴィエールの姿は、生徒たちの目の中でさらに輝きを増した。


 フィオーネはその様子を見て、微笑を浮かべながら杯を揺らす。

「クレア、あなたの選択は、いつだって最高の物語ね」


 クレアは生徒たちの反応など気にする素振りもなく、目の前のテオドールだけを見つめていた。そして、テオドールもまた誰の視線も気にせず、ただクレアの手を取り、次の旋律へと誘った。


 ——対等な関係を。理屈抜きに焦がれる愛を。


 そんな予感を、テオドールも、クレアも、そして生徒たちも確かに感じていた。

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