第六話:辺境伯令嬢クレア・サヴィエールが選ぶ道
【女の生き方】
ヴィクトール・ローレントの失脚。モンテヴェール侯爵家の信用崩壊。そしてイザベラ・モンテヴェールの社交界からの追放。
この一連の出来事を、クレア・サヴィエールはただ静かに眺めていた。
彼女自身が何かを仕掛けたわけではない。あくまで、貴族社会の力学が作用し、勝者と敗者が決定づけられただけのこと。
それは、貴族として生きる以上、決して珍しい話ではなかった。
しかし、その中でただ一つ、クレアの心に引っかかるものがあった。それは、イザベラ・モンテヴェールという女の末路。
イザベラは、婚約者であるヴィクトールが失墜すると同時に、次の拠り所を探した。
それがうまくいかなければ、貴族女性の社交界における居場所すら失い、周囲から切り捨てられた。
——イザベラ様があんな節操のない行動に出たのは、将来の夫という拠り所が欲しかったから。
——彼女の人生の先には、高位貴族の妻という道以外、見えていなかったのだわ。
それは、貴族女性にとって当たり前の未来。適切な家と婚姻を結び、夫を支え、家の一部として生きていく。それが貴族の娘として生まれた者の「普通の道」だった。
しかし、クレアには、それがあまりにも危険な生き方に思えた。
——自分の人生の選択権を、夫とその家に委ねる生き方。果たして、それは本当に、自分自身のための人生なのだろうか?
「女の生き方って、本当にそれだけなの?」
その疑問は、自然にクレアの口をついた。そして、すぐに答えが出た。
「いいえ、違う」
クレアの親友、フィオーネ・ナディア。
彼女は、自らの才覚を社会に示し、確固たる評価を築いている。学生の身でありながら、すでに名を成し、様々な歌劇団から提携契約の誘いが舞い込んでいた。
ヴァルミール王立学園もまた、フィオーネの劇作家としての才覚を高く評価し、「学園発足以来の才媛」として、全面的に後押ししていた。
フィオーネは、結婚を拠り所にしていない。彼女自身の力で、社会に居場所を作り、貴族としての矜持を示している。
「私も、私の道を選ぶわ」
あの舞台の上で、放ったセリフ。それは今や、クレア自身の覚悟となっていた。
【地政学の授業】
ヴァルミール学園の選択科目の一つ、地政学。
この授業は、単なる地理の学習ではなく、地形がどのように国の運命を左右するかを学ぶ実践的な学問だった。
講義が行われる教室には、高位貴族の子息や外交に興味を持つ学生が集まり、真剣な面持ちで授業の開始を待っていた。
そして、この授業にはアヴェレート王国の王子テオドールも出席していた。本来なら、隣国の王族がいる場で自国の外交戦略を議論するのは躊躇われるところだが、ヴァルミール学園はそうした遠慮を持たない。学問の場では国籍や立場を超え、事実と論理をもって語るべし。それが、この学園の伝統だった。
「では、始めよう」
教壇に立つのは、地政学の専門家であり、かつて王国の戦略顧問を務めた経験を持つ老教授だった。
彼の目は鋭く、言葉には確かな重みがある。
「まず、確認しておこう。地政学とは、単に地形の話ではなく、その地形をいかに国益に結びつけるかを考える学問だ」
彼はそう述べると、黒板に王国の地図を広げた。
「今日のテーマは、ヴァルミールの地政的な特徴と、その隣国との関係についてだ。我々は二つの隣国、アヴェレート王国とエルゼーンを例に挙げ、それぞれのメリットとデメリットを考察していく」
【ヴァルミール王国の地政的な特徴】
黒板の地図には、ヴァルミール王国を中心に、東西に広がる隣国が描かれていた。
「まず、ヴァルミールの基本的な地政的特徴からだ」
教授は指し棒でヴァルミール王国の領土をなぞる。
「ヴァルミールは内陸国家だ。しかし、幸運なことに交易ルートが豊富にある。東西に商業の中心地を持ち、周辺諸国と活発な貿易を行っている。軍事的な観点で見れば、防衛しやすい地形だ。自然の要害が多く、周囲の国々に比べて容易には侵略されない」
「だが、逆に言えば、拡張は困難という欠点がある。周囲を他国に囲まれているため、ヴァルミールが領土を広げる余地はほぼない」
この説明を聞きながら、クレアは改めて自国の特性を理解した。守りに適した国。しかし、その安定は周囲の国との関係に強く依存する。
ならば、外交がどれほど重要な意味を持つかは明白だった。
【対アヴェレート王国(西方の隣国)】
教授は黒板の左側、ヴァルミールと接するアヴェレート王国の領域を示した。
「ヴァルミールとアヴェレート王国は、長年の交易関係にある。そのため、経済的に非常に強い結びつきを持っている。特に注目すべきは、アヴェレート王国の西部地域が海に面しているという点だ。ヴァルミールが海に出る手段を持たない以上、アヴェレート王国との交易が海洋貿易の要となる」
この点にクレアは興味を持った。
ヴァルミールは内陸国家でありながら、海に面するアヴェレート王国と交易することで、間接的に海洋貿易の恩恵を受けている。
それはつまり、アヴェレート王国が重要な「窓口」となっていることを意味した。
「逆に、交易依存度が高すぎると、アヴェレート王国に主導権を握られやすい」
教授の言葉に、教室が少しざわつく。
「アヴェレート王国が別の国と直接交易を始めれば、ヴァルミールの経済は厳しくなる。つまり、ヴァルミールにとってアヴェレート王国は最良の貿易相手でありながら、最大のリスクにもなり得るのだ」
クレアは、先日の投資問題を思い出した。ヴァルミールの貴族たちがアヴェレート王国への投資を巡り揺れ動いたのも、こうした地政的背景があったからだろう。
【対エルゼーン(東方の隣国)】
教授は黒板の右側、ヴァルミールの東に位置するエルゼーン王国を指し示した。教授は黒板に国境線を示しながら続けた。
「ヴァルミールとエルゼーンは、地理的にも文化的にも共通点が多い。しかし、だからこそ、しばしば摩擦も生じる。実際、五年前の貿易協定をめぐる対立では、両国とも軍備を動かし、一触即発の状態になった」
生徒たちの間にざわめきが広がる。今でこそヴァルミールとエルゼーンは一定の交流を続けているが、五年前の出来事が外交関係に与えた影響は小さくない。
「当時、事態を収めるために奔走したのが、アヴェレート王国の王弟、ラグナル殿下であった」
その名が出た瞬間、教室の空気がわずかに引き締まる。何人かの生徒が、テオドールに向けて顔を振り向かせた。
「彼の仲裁がなければ、両国は戦火を交えていたかもしれない。ラグナル殿下はヴァルミールとエルゼーン双方の交渉の席に立ち、長時間にわたる説得と外交調整を行い、最終的に和平を成立させた。その功績により、彼は今でもヴァルミール国内で高く評価されている」
教授の言葉に、生徒たちはそれぞれ思いを巡らせる。
ヴァルミールにとって、アヴェレート王国は経済的に強大な隣国だ。しかし、同時に外交面でも重要な役割を果たす存在であり、決して単なる競争相手ではない。
【地政学が示す未来】
教授は、黒板の地図を指しながら、授業を締めくくる。
「結論として、ヴァルミール王国は、東西の隣国と慎重に付き合う必要がある。アヴェレート王国との交易に依存しすぎれば、国の経済が危うくなる。エルゼーンとの関係を軽視すれば、軍事的なリスクが高まる。どちらの国とも適切な距離感を保ち、国益を最大化すること。それがヴァルミールの地政戦略における鍵となる」
教授が授業のまとめに入ると、クレアはノートを閉じ、一息ついた。今日の講義は、単なる学問ではなく、実際の外交や国の運命に直結する知識だった。
——ヴァルミールの地政的な利点は多様だわ。でも、それを活かせるかどうかは、実際に交渉をする人間の手にかかっている。
彼女はそう考えながら、最近の貴族社会の動きを思い返す。
ヴィクトール・ローレントとモンテヴェール侯爵家の失脚。彼らは結局、国の未来を考えるどころか、私利私欲で動き、自滅していった。
貴族である以上、自己の利益を追求することは当然だ。しかし、それがあまりにも短絡的で、周囲の状況を考慮しないのであれば、結果的に国全体の利益を損なうことになる。
ヴァルミールがこれからも繁栄を続けるには、地政的な強みを理解し、適切に活用できる者が必要だ。少なくとも、ヴィクトールやモンテヴェール侯爵家のような者には任せられないと、クレアは内心で断じる。
すると、クレアの中で、それなら誰に任せるべきか? という問いが浮かぶ。
「私が、それを担うことは、できないかしら……」
思わず、小さな声が漏れた。その瞬間、隣に座るテオドールの視線を、クレアは感じた。
クレアはハッとして横を見る。彼は特に驚いた様子もなく、ただ静かに彼女を見つめていた。そして、口元にかすかな微笑を浮かべると、何も言わずに視線をノートへ戻した。
クレアの心臓が、一瞬だけ跳ねた。まるで、「君ならできる」とでも言いたげなその沈黙に。




