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第五話:貴族社会の自浄作用

【切り捨てられたヴィクトール】


 イザベラがヴィクトールを冷徹に切り捨てたのと、ほぼ同じ頃。もう一つの決定的な「切り捨て」が行われていた。


 モンテヴェール侯爵家。

 ヴァルミール国内で、貴族間の調停役を担うその家は、かねてよりローレント公爵家との縁を深めるべく、娘イザベラと嫡男ヴィクトールの婚約を推し進めていた。しかし、ヴィクトールの評価が地に落ちた今、モンテヴェール侯爵は「この縁談はもはや価値がない」と冷酷に判断した。

「ローレント公爵閣下、このたびの件について、正式に申し入れます」

 ローレント公爵邸の応接室に響くのは、事務的な口調。モンテヴェール侯爵は、手元の書簡を軽く持ち上げながら、婚約解消の意向を告げた。

「我が娘イザベラと、ヴィクトール殿との婚約を、白紙に戻したい」

 申し入れは、ローレント公爵にとっても予想通りだった。

 しかし、ローレント公爵はすぐには返答せず、しばしの沈黙を挟んだ。そして、静かに口を開いた。

「……あえて申し上げますが、モンテヴェール侯爵閣下。夏頃から、貴家が、ヴィクトールに肩入れするような噂を広めていたのは承知しております」

 モンテヴェール侯爵は顔色一つ変えず、沈黙によって言葉の続きを促す。

「『サヴィエール辺境伯家はアヴェレート王国の影響を受けすぎている。ヴィクトールはそれを見越して婚約破棄した。それに危機感を覚えたクレア嬢がテオドール殿下に擦り寄った』……今のヴァルミールの高位貴族たちの不満に乗った、上手いカバーストーリーだ」

 ローレント公爵はそこで言葉を区切り、モンテヴェール侯爵の様子を窺う。侯爵もそれに気づいているのか、微動だにしない。

 ローレント公爵は、声を一段低くした。

「しかしその噂は、当家の公式見解ではなかったのです。まさかとは思いますが、ローレント公爵家を持ち上げる噂を流せば、ローレント公爵家もそれを公式に認めると、お考えだったわけではありますまい? 一体、誰の頼みでそんなことをなされたのか」

 ローレント公爵の声は冷ややかだった。

 ローレント公爵は、ヴィクトールの婚約破棄を愚行と評価していた。しかし自身の唯一の息子であるヴィクトールを、公爵としても親心としても失うわけにはいかなかった。故に、相当な苦労をして、痛み分けとなるように公式見解を調整した。

 にも関わらず、そこに横入りしてきたのが、モンテヴェール侯爵家。国内の調停役というポジションを隠れ蓑に、噂の出所を曖昧にすることで、意図的に操作していた。ローレント公爵の権力と人脈をもってしても、その出所の確証を得るのに時間がかかった。

 大方、今のうちからヴィクトールに恩を売っておき、将来的に傀儡とすることを狙ってのことだろう、とローレント公爵も推察していた。

 ローレント公爵は、サヴィエール辺境伯やアヴェレート王家を警戒し、その影響力を弱めたいと思っていたが、敵対したいわけではなかった。しかしモンテヴェール侯爵が流した噂は、その亀裂を誘おうとするものだった。

 ローレント公爵の不快表明は当然だった。

「婚約破棄そのものは、合意としましょう。ただし、その後の処理については慎重に話し合う必要があります」

 この落とし所は容易には決まらないだろう。両家の間には、しばらく不穏な駆け引きが続くことになりそうだ。


【新たな獲物】


 モンテヴェール侯爵家は、すでに新たな婚約へと動き出していた。

 この家は、貴族社会において調停役を担う立場にある。ゆえに、貴族間の婚姻に口を出すことなど、朝飯前だった。

 実際、かつてフィオーネ・ナディアと、ハロルド・ツェルナーの婚約破棄が決まった際も、モンテヴェール侯爵家の「口添え」があった。


 それは、今回の件でも同じだった。ヴィクトールを見限った今、彼らが狙ったのはオーベル侯爵家の嫡男だった。

 既にオーベル侯爵家の嫡男には伯爵家の令嬢が婚約者として内定していた。しかし、モンテヴェール侯爵家の影響力を用いれば、そんなものは容易に覆せる。

「伯爵家の方には、別の家を当てがえばいい」

 貴族間の調整を担う彼らにとって、「婚姻とは、戦略的なパズルの一部」でしかない。適当な相手を差し出し、組み替えれば済む話だった。


 そのモンテヴェール侯爵の令嬢、イザベラもまた、行動を起こしていた。

 彼女の動きは、決して偶然ではなかった。モンテヴェール侯爵家が誇る交渉力と影響力を背に、イザベラは自身の新たな未来を切り開こうとしていた。

 その日、学園の大廊下で起こった出来事は、瞬く間に噂となった。


 昼下がり、イザベラは何気なく歩いていたように見えた。しかし次の瞬間、彼女の身体がふらりと傾ぐ。

 そして気を失うように、まっすぐ前へと倒れたのだった。

 たまたまそこを通りかかったのは、カミーユ・オーベル——オーベル侯爵家の嫡男。咄嗟に反応したカミーユは、倒れかけたイザベラを素早く支えた。

 彼の腕の中にすっぽりと収まるように、イザベラの華奢な体が寄りかかる。

「イザベラ嬢、大丈夫ですか?」

 カミーユの優しく、それでいて落ち着いた声が響いた。周囲にいた生徒たちは息をのむ。

 イザベラは、ゆっくりと目を開け、戸惑ったようにカミーユを見つめた。そして彼の耳元へそっと唇を寄せ、甘く囁く。

「……頼もしくて、素敵です」

 その瞬間、周囲の生徒たちが小さくどよめいた。助けたカミーユの耳元で、か細い声で囁かれたこの一言。

 それは、彼の勇敢さを讃えるものなのか、それとも——。

「まさか、これは新しいロマンスの始まり……?」

「イザベラ嬢、もともと婚約破棄されたばかりよね?」

「カミーユ様は確か……いや、でも貴族社会の婚約は変動するものだし……」

 貴族子女たちの間で、新たな話題が生まれた瞬間だった。


 しかし、数日後。事態は思わぬ方向へと展開する。

 冬の訪れを告げるように、冷たい風が学園の庭に吹き抜けたその日。カミーユ・オーベルは、学園の中庭に立っていた。彼の傍らには、一人の令嬢がいた。

 カミーユの婚約者である、伯爵家の令嬢。

 そして、その周囲には、昼休みの散策を楽しんでいた生徒たちがいた。

 自然と視線が彼らに集まる中、カミーユは、静かに、しかしはっきりとした口調で言葉を紡ぐ。


「僕が心を捧げるのは貴女だけ。貴女を前にして、他の女性に揺らぐなどあり得ない」


 堂々とした宣言だった。それは、まるで「噂」そのものを打ち消すかのように。

 周囲にいた生徒たちは、互いに顔を見合わせる。

 カミーユは、あの廊下でイザベラを助けた。その一件が、新たなロマンスの始まりかと思われていた。

 しかし、彼はそれを否定し、明確に「婚約者への誓い」を示したのだ。

「……これって、噂を完全に否定する意思表示よね」

「ええ、それにしても、こんな公衆の面前で……」

 ざわつく生徒たちの中、カミーユの婚約者は、彼をじっと見つめた後、ふわりと微笑んだ。

 そして、そっとカミーユの手を取る。

「ありがとうございます、カミーユ様。そのお心、確かに受け止めました」

 凛とした声が響く。

 その瞬間、彼女の勝利が確定した。

 愛する女性の心を守るための、紳士の矜持。カミーユ・オーベルの心は、既に彼女のものである——そう、誰もが認める形となった。


【貴族社会の鼻つまみ者】


 カミーユ・オーベルの誓いは、単なる噂の払拭にとどまらなかった。それは、モンテヴェール侯爵家の暗躍を白日の下に晒すきっかけとなったのだ。

 カミーユの宣言は、実家と連携を取った上でのことだった。オーベル侯爵家は、モンテヴェール侯爵家からの『打診』を告発した。

 貴族間の調停役であったはずのモンテヴェール侯爵家が、実際には自家の都合で婚姻関係を操作していたこと。

 オーベル侯爵家の嫡男を意図的に狙い、既存の婚約を覆そうとしていたこと。

 それらの事実が、瞬く間に貴族社会に広まり、モンテヴェール侯爵家の信用は失墜していった。


 そして、その矛先はイザベラにも向かう。

「イザベラ様って、もしかして婚約者がいる男が好きなの?」

「元々おかしかったわよね。だってクレア様の方が先にヴィクトール様と婚約していたのに、後から第二婚約者になったんでしょ?」

 囁かれる言葉は冷たく、鋭い。

 女の敵と見做された者に、慈悲をかける女などいない。


 貴族の令嬢たちは、かつて彼女が築いていた社交界の立場を、一瞬にして奪い去った。

 イザベラ・モンテヴェールの居場所は、容赦なく、音を立てて崩れ去っていった。

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