第四話:アヴェレート王国の至宝・カレスト公爵家
【冬の訪れと、北部からの知らせ】
時は11月中旬。ヴァルミールの街並みは、日を追うごとに冷たさを増し、冬の訪れを感じさせるようになっていた。学園の庭に植えられた木々も、最後の紅葉を名残惜しげに散らせ、冷たい風が吹くたびに黄金色の葉が舞い落ちる。
そんな折、アヴェレート王国の北部地域、カレスト公爵家から、一つの大きな発表がなされた。
「薬草スフィリナから精製された新薬の開発」——それは、今まさに冬の到来とともに体調を崩す者が増えるこの季節に、国中を揺るがすほどのニュースだった。
この解熱鎮咳複合薬は、元々「スフィリナの奇跡」と呼ばれた医療事例で使われた薬の改良版である。
アヴェレート王国の東部地域の寒村で、医療の行き届かない子どもたちが流行病に倒れた際、薬草スフィリナを調合した薬が決定的な効果を発揮し、多くの命を救った。これが「スフィリナの奇跡」と呼ばれた由来である。
その薬を、さらに効能を高め、より効率的に抽出・精製したのが、今回発表された新薬だった。
さらに、この薬の最大の強みは「安価」であることだった。
庶民でも手が届く価格で流通させることを前提に、カレスト公爵家はこの薬の販売網を整えた。貴族だけでなく、農民、商人、さらには労働者階級に至るまで、誰もが手にすることができる価格設定——それが、瞬く間に市場を席巻する決め手となった。
この新薬の発表により、アヴェレート王国全土の市場は熱狂に包まれた。
特に、冬の必需品としての需要が高まることは確実であり、今後この薬は、アヴェレート王国の人々の生活に欠かせないものとなるだろう。
このニュースこそが、ヴィクトール・ローレントが仕掛けた「カレスト公爵家発のデフレーションによる不景気説」を、一瞬にして吹き飛ばす決定打となった。
【戦略的資源スフィリナ】
学園内の小さなサロンで、テオドールが用意した資料を手に取りながら、クレアは尋ねた。
「つまり、この新薬の原材料が?」
「そう、この前振る舞った薬草茶と同じ、スフィリナさ」
テオドールは、優雅に紅茶を口に運びながら頷く。クレアの脳裏に、あの日のお茶会の記憶がよみがえった。
テオドールが振る舞った、アヴェレート王国北部地域で生産される、スフィリナの薬草茶。清涼感のある独特の風味で、貴族の嗜好品として人気だったが、最近その価格が低下しているという話だった。
「薬草茶の価格は下がっていましたわよね?」
「それは、カレスト公爵家が意図的に供給量を増やしたからさ」
「意図的に?」
クレアは思わず聞き返した。
「そう、薬草茶はもともと貴族向けのブランド商品だった。でも、カレスト公爵はそこに限界を感じたんだろうね」
「……限界?」
テオドールは、書類の一枚をめくり、クレアに見せる。
「貴族向けの市場には天井がある。でも、庶民向けに展開すれば、需要は爆発的に伸びる。それを見越して、彼女は薬草茶の供給量を増やし、市場価格を見ながら一般化戦略に切り替えたんだ」
「つまり……貴族向けのブランド商品から、庶民も手にできる嗜好品へと転換したのですね」
クレアは、その手腕に思わず舌を巻いた。
「そして、彼女はその代わりに、スフィリナの新たな価値を作り出した」
テオドールは、楽しげに続きを話し始める。
「まずは、スフィリナを使った香水の開発。これは、貴族向けのブランド市場を維持するための戦略だった」
香水、という言葉にクレアはピンと来る。先日の歌劇の中で、カレスト公爵が王弟ラグナルに贈った香水のエピソードだ。
「あの香水は、カレスト公爵が王弟殿下のために開発した、って歌劇で説明されてたけど……」
「そう説明した方が民衆受けするからだよ。因果は逆で、元々貴族向けに開発した香水を、カレスト公爵が叔父に贈ったと噂にすることで、更にそのブランド力を高めたんだと思う」
テオドールは苦笑する。
一方のクレアは驚愕を隠せない。貴族なら、愛を上回って冷徹な判断をしなくてはならない場面がある。しかし自身の愛を積極的に戦略に活用しようなど、クレアは考えたこともなかった。
「つまり薬草スフィリナを使って、薬草茶だけでなく、貴族向けの香水、生活必需の新薬と、新たな付加価値を持った製品を生み出したということ?」
「まさに」
カレスト公爵の戦略の抜かりなさに、クレアは唸った。そこに、テオドールが説明を付け加える。
「薬草茶を一般化することで市場を拡大。香水で貴族向けのブランド価値を維持。そして、安価な新薬で王国全体への貢献を示す。これで、『高貴な薬草スフィリナ』の地位は確立した。まさに完璧な事業戦略だよ」
「……恐ろしいほどの計算高さですわね」
クレアは思わず呟いた。
【貴族とはかくあるべし】
「ヴィクトールが流した『アヴェレート王国の投資は危険』という噂は、完全に覆った、ということですのね」
クレアの言及に、テオドールは微笑を深めた。
「そう。ヴィクトールは、薬草茶の価格が下がったことで、アヴェレート王国の経済が不安定になったと吹聴したけど、その逆さ」
「薬草茶の価値が下がったのではなく、市場の幅が広がっただけ、ということですものね」
クレアの要約に、テオドールは満足げに相槌を打つ。
「それに加えて、貴族市場を維持する香水と、民を救う新薬が出たことで、むしろアヴェレート王国の経済を活性化させている」
「つまり……ヴィクトールの噂に乗って投資を引き上げた貴族たちは、利益を得る機会を自ら手放したと」
「特に北部地域では、カレスト公爵家とスフィリナの栽培契約を結んで、農地改革を進めている領地が多かった。そこに投資していたヴァルミールの貴族たちは、利益にあずかれるだろう。引き上げてしまった貴族たちは、何を思うだろうね?」
人間は、得られたはずの利益を得られなかったときに、大きな心の痛みと、その原因を外に求める生き物だ。クレアは投資家たちの反応とヴィクトールの行く末を具体的に想像してしまい、他人事ながら肝を冷やした。
テオドールはふと、真剣な表情を見せた。
「この新薬の成功によって、カレスト公爵家は“高貴な矜持を体現した貴族”として、さらなる名声を手に入れた。僕がカレスト公爵を信用し尊敬する点は、まさにここにある」
テオドールの黒い瞳に、政治家としての鋭い信念が宿る。
「貴族とは経済的利益だけを求める存在ではない。民の上に立つ者として、その期待と責務にどう答えるべきか。それを体現するカレスト公爵家は、まさにアヴェレート王国における至宝だ」
テオドールの声色は低く、厳かに響き、やがて裁定を下した。
「カレスト公爵家の動向を過小評価するなんて、投資家どころか貴族としても資質がないよ」
ばっさりと切り捨てるテオドールの言葉に、クレアは思わず口元を押さえた。
そしてクレアは、テオドールの一連の説明を咀嚼し、静かに目を伏せた。
その冷徹な計算と、貴族としての信念を兼ね備えたカレスト公爵。そして、それを最初から信じていたテオドール。
彼の明快な論理、揺るぎない信念、そして何より、相手の実力を見抜く確かな眼。
クレアは、心の奥底から、カレスト公爵にも、そしてテオドールにも、同じ感情を抱いた——戦慄と、畏敬。
「……私は、まだまだですわね」
小さく呟いたその言葉に、テオドールは何も言わず、優しく微笑んだ。
【貴族社会の反応】
テオドールの指摘どおり、カレスト公爵家の発表に、ヴァルミールの投資家たちも敏感な反応を示していた。アヴェレート王国の経済に対して慎重な姿勢をとっていた貴族たちは、この発表を受けて一気に態度を変えた。
「デフレーションによる不景気説」は、あっという間に過去の話となり、むしろ「カレスト公爵家の薬学産業が今後の成長産業である」という確信に変わったのである。
特にアヴェレート王国内の北部地域では、カレスト公爵家とスフィリナ栽培を契約し、農地改革を進めている領地も多かった。そのため、カレスト公爵家と提携していた領主たちは、この新薬発表と同時に大きな利益を手にすることになった。そして、その領地に投資していたヴァルミールの貴族たちも、軒並み利益を出していた。
この事実が明るみに出たことで、ヴィクトールが流した噂によって投資を引き上げた者たちは、一転して大きな機会損失を被ったことを自覚した。中には損切りしていた者もいた。ヴィクトールの言葉を間に受けた者は、その心の痛みが大きいほど、厳しく追及する。
「そもそも、なぜヴィクトールはあんな投資予測を言い出したのか?」
「クレア嬢に未練がある、という噂が流れていた。まさか、そのお相手のテオドール殿下の失墜を狙ってのことか?」
「だとしたらアヴェレート王家に対する宣戦布告に等しいじゃないか!」
「ローレント公爵家はこの件に関与していないという。完全に私情じゃないか」
こうしてヴィクトールは、「元婚約者に縋るみっともない令息」「私情で外交問題になりかねない事態を引き起こす危険人物」として、ヴァルミールの貴族たちから制裁を受けたのだ。
【退屈な関係の終わり方】
ヴィクトールは、イザベラの私室を訪れた。彼女は鏡台の前に座り、淡々と髪を梳いている。その姿に、ヴィクトールは縋るような眼差しを向けた。
「イザベラ……僕には君しかいない。今こそ、君の助けが必要だ」
イザベラは手を止め、静かに振り返った。そして、その端正な顔に浮かんだのは、冷ややかな微笑だった。
「……今の貴方に、惹かれるところなんて何一つないわ」
ヴィクトールの表情が凍りつく。
「イザベラ……?」
彼女はゆっくりと立ち上がり、ため息混じりに言い放つ。
「私は、力のある男が好きなの。貴族社会で輝く、誰もが羨む婚約者——それが私に相応しい相手よ。でも、貴方はどう?」
ヴィクトールは息を呑む。イザベラの瞳には、微塵の情もなかった。
「今の貴方は、負け続けている男。そんな人を隣に置くなんて、私の価値を下げることになるわ」
淡々とした声だった。しかし、その言葉の鋭さは、剣よりも鋭くヴィクトールの胸を貫いた。
「じゃあ、僕たちの関係は……」
「最初から、幻想よ」
イザベラは微笑み、再び鏡台に向き直った。ヴィクトールは、何かを言いかけたが、その声は喉の奥で掻き消えた。




