第三話:意図的情報操作と戦略的無策
【ヴィクトールの暗躍】
文化祭が終わり、貴族社会においてクレア・サヴィエールとテオドール・アヴェレートの評価が高まりつつある中、一人だけ、その流れを快く思っていない者がいた。
ヴィクトール・ローレント——ローレント公爵家の嫡男であり、かつてクレアの婚約者であった男。彼は、文化祭後の情勢を見て、何とも言えない苛立ちを募らせていた。今の状況は、ヴィクトールにとってすべてが不本意だ。
クレアの婚約破棄は、貴族社会において一定のダメージを与えたはずだった。にも関わらず、今や彼女はまるで失地回復どころか、かつて以上の評価を得ている。しかもその評価を押し上げたのは、クレア一人の力ではなく、アヴェレート王国の王子、テオドールの影響も大きい。
「……まったく、面白くない」
ヴィクトールは、優雅に紅茶のカップを傾けながら、貴族たちの動向を見極めていた。クレアを直接貶めるのは得策ではない。むしろ彼女の評判が高まるほど、彼の周囲の人間もそれに乗じて動いている。
そこで彼は、次なる手を考えた。標的をクレアからテオドールへと切り替え、アヴェレート王国自体の評価を揺るがせるのだ。
「アヴェレート王国への投資は危険だ」という噂を流せばどうなるか——。
ヴィクトールは、これまでの投資経験から、情報がもたらす影響力を知っていた。彼は、一部の貴族たちの間で「投資指南者」として影響力を持っていた。
貴族たちは、彼の言葉を信じる。
ヴィクトールは慎重に、しかし確実に「アヴェレート王国への投資は危険」という噂を広めていった。
「最近、アヴェレート王国の経済が不安定になっていると聞く」
「アヴェレート王国の経済の最先鋒である、カレスト公爵家。その名産品の薬草茶が、最近価格低下を起こしている。デフレーションの予兆ではないか」
「そもそも、アヴェレート王国への投資に依存するのは、ヴァルミールにとって危険なのでは?」
こうした囁きは、貴族たちの間で静かに広がり始めた。そしてその恐怖は、いとも容易く市況に現れる。
実際に、アヴェレート王国へ投資していた貴族たちが、資金の引き上げを始めたのだ。ヴィクトールは、計画通りに物事が進んでいることを確信し、ほくそ笑んだ。
「これで少しは、あの王子も焦るだろう」
クレアの今の脚光は、相手の権威があってこそ。価値とは相対的なものである。投資家ヴィクトールの判断は、価値の本質を理解した上での、教科書のように理論的な一手であった。
【テオドールの余裕】
しかし、テオドール・アヴェレートは、何も動じなかった。
アヴェレート王国への投資が引き上げられ始めたことを知っても、彼は焦る素振りすら見せない。それどころか、まるで何事もなかったかのように、普段通りの生活を送っていた。
本当に、何もしない。
——いくらなんでも、無策すぎる。
「テオ様、少しは何か対策を考えないのですか?」
クレアは、ある日、思い切ってテオドールに尋ねた。
アヴェレート王国への投資が減少しているのは事実だ。ヴィクトールが何らかの策略を巡らせていることも明白。それなのに、テオドールは、まるでこの事態を「どうでもいい」とでも思っているかのように、穏やかな表情を崩さない。
「うーん……」
テオドールは、困ったように笑いながら、彼女の方を見た。
「じゃあ、対策のためにお付き合いいただこうかな」
「え?」
まさかの巻き込まれ方だった。クレアが少し身構える。
「天気もいいし、午後の授業はないし。この後、デートしようよ」
「……デート?」
身構えたはずのクレアの身から力が抜けた。
「ええと、つまり……投資の問題はどうするのです?」
「うん、君とデートすることで、最適な一手になるんだよ」
「……は?」
クレアは呆れ返りそうになった。しかし、テオドールは冗談ではなく、本気でそう言っているようだった。
結局、彼女は訳も分からぬまま、テオドールと街へと繰り出すことになった。
【デートという名の対策】
ヴァルミール王立歌劇場の壮麗なファサードが、秋の日差しを受けて輝いていた。白大理石の柱と精緻な装飾が施されたエントランスには、上品な装いの貴族たちが次々と集まっている。
「フィオーネが演出協力をした舞台ですし、ヴァルミールの歌劇文化を知るには最適かと」
そう言って、クレアが提案したデート内容は、歌劇鑑賞。
二人は数名の護衛を伴い、上等な席へと案内される。豪華なシャンデリアが照らす場内に足を踏み入れると、すでに開演を待つ貴族たちのざわめきが満ちていた。
席に着くと、プログラムの表紙が目に入る。そこには金の刺繍で、美しく書かれた演目のタイトルがあった。
『大広間の中心で愛を囁いた貴族』
テオドールの表情が、硬直した。
「……あのさ、クレア」
「なんですの?」
「この演目、知らなかった?」
「タイトルだけ聞いたときは、ロマンチックな社交界の物語かと思いましたわ」
クレアはすっと目を細める。
「まさか、何か問題が?」
テオドールは、じっとプログラムの中身を見つめ、ひとつ息を吐いた。
「……僕の叔父のラブストーリーみたいだ」
「まあ」
クレアはプログラムを開いた。そこには、アヴェレート王国の王弟ラグナルと、そのパートナーであるアデル・カレスト公爵の名前が記されている。物語は、二人がいかにして結ばれたかを描いたラブストーリーだった。
「なるほど……これは、期待できますわね」
クレアが微笑んだのを見て、テオドールは笑みを引き攣らせていた。
「いや、期待するのは君の自由だけど、僕としては複雑なんだけどな……」
かつて見たことのないテオドールの反応に、クレアは既に楽しくなっていた。
そして幕が上がった。
【見たことのある名場面】
王弟ラグナル(役者)は、舞踏会の広間の中心に立っていた。そして、すべての視線を一身に集めながら、彼は凛とした声音で宣言する。
「お慕いしております、アデル嬢」
その瞬間、劇場内にため息が漏れた。
それだけではない。ラグナル役の俳優は、アデル役の女優の手を取り、ゆっくりとその手の甲に口づけた。
瞬間、劇場がざわつく。
「おお……これは……!」
「いや、しかし……衆目の中で手の甲に口づけるなど、事実とは異なるのでは?」
「でも、これは劇だから。演出の一環よ!」
「確かに、王弟殿下の恋を描くには、このくらい情熱的な方が……!」
感嘆と動揺が入り混じった声があちこちから上がる。
舞台上のラグナル役の俳優は、堂々とした佇まいで、観客の反応を受け止めていた。さも「これが王族の愛の告白である」と言わんばかりに。
一方で、クレアは舞台の様子を見ながら、ゆっくりとテオドールの方を向いた。
「ねえ、テオ様」
「……なに?」
「私、どこかで見たような気がするのですけれど」
そう言いながら、クレアは意味深に微笑む。
「……衆目の中で、王族が大胆に愛を囁き、手の甲にキスをする——どこかで聞いた話ですわね?」
テオドールの眉がぴくりと動いた。
そして、一拍置いた後、ぎこちない笑顔を浮かべる。
「……気のせいじゃない?」
クレアは、すっと目を細めた。
「文化祭の舞台で、貴方が私にアドリブでしたことと、そっくりではなくて?」
テオドールは、無言で前を向いた。クレアは、そんな彼の横顔を見ながら、小さく笑う。
——自分の行動を客観的に見せられるのは、テオ様でも恥ずかしいのね。
【観劇後の会話】
劇場を後にしながら、二人は並んで歩く。
「……身内のラブストーリーを見るのって、拷問だよね」
テオドールが深いため息をつく。
「ですが、素晴らしい物語でしたわね。ヴァルミールでこれほどの話題になるのも納得ですわ」
「そりゃあ……叔父とカレスト公爵の関係は、ドラマティックだからね……あの大胆公開告白が行われたのが、僕の留学中で本当に良かった」
テオドールは、若干げんなりしながら言った。ちなみにそのほぼ同時期に、テオドールがクレアへ求愛ゲームを挑んでいたのだから、血は争えない。
「アヴェレート王家の皆様は、衆目の中で愛を告げることが文化になっているのですの?」
クレアが、やや呆れたように尋ねる。
「……まあ、7割の戦略的意図、3割の情熱ってところかな。叔父の場合は逆転してるかもしれないけど」
「文化祭での貴方の行動も、その比率に当てはまるのでしょうか?」
クレアが意地悪く尋ねると、テオドールは苦笑しながら首を傾げた。
「さあ、それはどうだろうね?」
そう言いながら、彼はクレアの手を軽く取る。そして、今日の俳優たちと同じように、そっと手の甲へと唇を落とした。
「——!?」
クレアの頬が、わずかに紅潮する。
テオドールは、そんな彼女の反応を見て、悪戯っぽく微笑んだ。
「ほら、今はデートなんだから、ロマンチックな雰囲気も大切でしょ?」
「……っ!」
クレアは、思わず手を引き戻す。そして、何とか平静を装いながら、ツンとした表情を作った。
「……本当に、人をからかうのがお好きですね」
「からかってるつもりはないんだけどなぁ」
夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばす。
テオドールと過ごす時間に、クレアは心地よく身を任せていた。投資問題がどうとか、アヴェレート王国への風評がどうとか、そんなことは考えたくなくなるくらいに。
しかし、デートの終わり際、クレアは、どうしても気になっていたことを尋ねた。
「……それで、今日のデートにはどんな意味があったのです?」
テオドールは、にこやかに言った。
「僕がこの件に関して何もしないという証明になったよ」
「……はい?」
クレアは、思わず絶句した。
「つまり、どういうことですの?」
「そのままの意味だよ」
テオドールは、肩をすくめた。クレアは、一瞬、呆れかけた。しかし、ふと考えを巡らせる。
——何もしないことが、アヴェレート王国のためになる?
ヴィクトールが仕掛けた「アヴェレート王国の投資は危険」という噂。それに対して、テオドールが下手に動けば、「噂が真実だったのでは?」という疑念を生んでしまう。
しかし、本当に問題がないのなら、王子自らが慌てる必要はない。むしろ、堂々としていた方が、「何も問題がない」というメッセージを周囲に与えることができる。
「……つまり、私が心配するほど、実は問題ではないということ?」
「まぁ、そういうことだね」
テオドールは、茶目っ気たっぷりに微笑んだ。クレアは、長いため息をつく。
——本当にこの人は、そういうところがずるいのだ。
「……それにしても」
「うん?」
「対策を口実にデートするなんてことは、もうやめてくださいませ!」
「えー、それはどうかな?」
テオドールは、悪戯っぽく笑うのだった。




