第十一話:乙女心は不可逆性
【幕が閉じた後の舞台上】
クレアは呆然としていた。
舞台の幕が静かに閉じ、客席の視線が遮られたその瞬間——まず最初に、フィオーネが勢いよく抱きついてきた。
「クレア……! 最高だったわ!!」
しかし、その温もりにも、彼女の熱のこもった言葉にも、クレアはまともに反応できなかった。
「本当に素晴らしかった!! もう、今までで一番の公演でした!!」
歌劇部の部員たちが、歓喜に涙を滲ませながら駆け寄ってくる。
その熱気に包まれながらも、クレアの意識はまだ現実に追いついていなかった。
——だって、最後の、あの……。
幕の外では、拍手と歓声がまだ鳴り止まない。それなのに、クレアは心ここにあらずの状態で、ただ立ち尽くしていた。
「ね、言った通りでしょ?」
ふと、背後から聞こえた声に、クレアは我に返った。
黒髪の王子様、テオドールが立っていた。その顔には、満足そうな笑みが浮かんでいる。
「君は会場中を虜にするって」
クレアの脳内に、舞台上での出来事が蘇る。
そして、ほんの数分前の——あの最後のアドリブが、頭の中で鮮明に再生された。
「貴方って人はぁっ〜〜!!!!」
次の瞬間、クレアは顔を真っ赤にしながら叫んだ。
その怒声は、幕の向こう側にまで轟き、会場の観客たちを驚かせることになった。
「最後のあれ、やっぱりテオドール殿下のアドリブだったんだ……」
「そりゃあ、あんなの、脚本に書けるはずがない……」
観客の間に納得の空気が広がっていた。
そして幕の内側の舞台上で、テオドールは何事もなかったかのように、クレアの反応を楽しそうに見守っていた。
しかし、クレアにとっては、それどころではなかった。自分の心臓の鼓動が、うるさいくらいに高鳴っている。
——とてもじゃないけど、今はテオ様の顔を見られない!
そう判断したクレアは、舞台袖へと走り去った。その行動に周囲の者たちが驚く。しかし、唯一テオドールだけは、クレアの逃げるように駆ける背中を、満足げに見送った。
「照れちゃって可愛いなぁ」
テオドールのその一言に、歌劇部の女子たちは、「幕が降りても王子様……!」と胸を抑え膝から崩れ落ちた。
【家族もバッチリ目撃】
文化祭の終盤。
クレアは、中庭の東屋で家族たちと落ち合った。日が傾き始めた王都の空は、橙色に染まり、文化祭の余韻がまだ残る校内では、後片付けに追われる生徒たちの賑わいが続いていた。
「クレア! とても素晴らしかったわ!!」
母ベアトリスが勢いよく駆け寄ってきた。その目はキラキラと輝いており、熱量がまるで観客席にいたときのままのようだった。
「歌劇ももちろんだけど、これでテオ君と名実ともに恋人よ!!」
「名も実も恋人じゃありません!!」
クレアは即座に否定した。
しかし、次に続いたのは、兄サミュエルの冷静すぎる声だった。
「クレア、あれはどう見ても公式だ。認めていないのは君だけだ」
「だから推し活目線で妹の人間関係を捉えないでください!!」
クレアの叫びにも、サミュエルは揺るがなかった。
「事実として、あの劇のラストシーンを見た者たちは、ほぼ全員「あの二人は確定だ」と認識したはずだ。テオドール殿下も堂々としていたし、クレアの動揺ぶりも、むしろ「そういうこと」だと証明してしまったようなものだ」
「なっ……!!」
クレアは顔を真っ赤にしながら、兄を睨みつけた。
しかしその兄の隣で、サミュエルの婚約者であるミネルヴァ・グレイシアは、呆れたようにため息をつきながら肩をすくめていた。
「……サヴィエール辺境伯家って、こんなに情緒の落ち着かない家だったのね……」
その言葉に、クレアは「仰る通りですわ……」と、思わず心の中で共感してしまった。
こうして、文化祭の余韻は、彼女の家族によって、より一層濃いものになっていくのであった。
【常識人ミネルヴァ】
ミネルヴァが改めて、クレアに言葉をかけた。
「まずは、文化祭の最優秀賞おめでとう」
ミネルヴァはいつものように淡々とした口調だったが、その声には確かな祝福の色が滲んでいる。
「すごいわね。私も学生時代に狙っていたことがあったけれど、一度も獲れなかったのよ」
「ミネルヴァお姉様……ありがとうございます」
クレアは、ようやく常識的な会話が成立する相手を見つけたことで、心底安堵した。
「正直、まだ現実感がなくて……」
今日一日で色々なことが起こりすぎて、クレアの感情の処理がまったく追いついていなかった。
そう呟くクレアの様子を見て、家族たちはふと目を合わせ、三人揃って「……あー」と納得したような声を漏らした。
「これは、テオ君の情熱にすっかりあてられてるわね!」
母ベアトリスが楽しげに微笑む。
「テオ君に、あとひと押しだと伝えるべきだろうか」
兄サミュエルは腕を組みながら、まるで戦略会議でもしているかのように呟いた。
「お二人とも、もう少しクレアへ配慮というものをですね……?」
ミネルヴァは呆れたようにため息をつき、肩をすくめる。ミネルヴァだけが、唯一クレアを慮ってくれている。
——あれ、この人、もしかして女神様……?
ミネルヴァの態度が、どれだけクレアの心に安らぎをもたらしたであろうか。
そんなクレアの心境を知る由もなく、ミネルヴァは少しだけ真剣な表情になり、改めて声をかけた。
「クレア。不本意かもしれないけど……外堀はもう埋まってるわ。家族も、貴族社会も」
「やっぱりそうなんですの……?」
クレアは、現実を突きつけられた気がして、肩を落とした。
ミネルヴァはさらに続ける。
「だって考えてもご覧なさい。あんな舞台の上で、手の甲とはいえロマンチックなキスよ? それなのに『はしたない』なんて言葉が、どこからも上がってないのよ?」
「——っ!!」
クレアは、その場面を思い出してしまい、顔が一気に真っ赤になった。
まるで煮えた鍋の中にでも放り込まれたかのように、耳の先まで熱を帯びていくのがわかる。
そんなクレアの様子を見た母と兄は、実に楽しげだった。
「良い反応だわね」
「うんうん、実に初々しい」
——どうしてこの人たちは、家族の恋愛事情をそんな愉快そうに語れるのか。
「……だからこそ、貴女が選択できる状況にあるのよ」
「え?」
クレアは、熱を持った顔を上げてミネルヴァを見る。
「貴女の本音だけで選んで良い盤面が、既に整えられているということよ」
ミネルヴァの言葉に、クレアの思考が一瞬止まる。
貴族の女性にとって、結婚とは家のための義務であることが常である。しかし、クレアの場合は違った。家族も貴族社会も手放しで賛同しているにも関わらず、求愛ゲームという形で、クレアに選択権が与えられている。
「貴族の女子で、こんなに恵まれた状況、早々ないわよ。それだけあの殿下が、貴女に対して誠実で……本気とも言えるわね」
それは、クレア自身も理解していることだった。テオドールの誠意を疑う理由は、もはやどこにもなかった。
「せいぜい、自分の気持ちに正直になって、ワガママ言いなさいな」
「ワガママ……?」
「貴女ってば昔から、役割意識が強すぎるのよ。旦那くらい、自分の本意で選んだら良いわ」
ミネルヴァの、どこか捻くれていながらも優しさに満ちた言葉が、クレアの心に染み込んでいく。
クレアは、何も言えずに目を伏せ——感極まりかけた、その時。
「だけど、テオ君よりも良い旦那候補なんて、他にいないわよ!」
母ベアトリスの明るい声が響いた。
「!?」
感動が台無しになった。
さらに、横ではサミュエルが、すっかり呆けた顔でミネルヴァを見つめている。
「……なんて理知的に愛を説くんだ……好き……」
「えっ……!? ちょ、ちょっと、貴方、どういう顔でそれ言ってるの!?」
今度はミネルヴァが顔を真っ赤にして狼狽えていた。
【乙女心は宵闇の中で熟していく】
文化祭の幕が完全に下りた夜。クレアは、自室のベッドの上で、ずっと天井を見つめていた。
テオドールの瞳。言葉。そして舞台の上での口付け。
その全てがクレアを捕らえて離さない。クレアが思い出せば思い出すほど、胸の奥が甘く締め付けられる。
——あれは演技ではなく、間違いなく本物だった。
「……はぁ……」
ため息をつきながら、クレアは布団の中へと潜り込む。
——もう、これ以上、誤魔化せない。私の心は、もう引き返せない。
そう悟った時、胸の奥で何かが静かに弾けるのを感じた。




