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第九話:開幕準備

【囮と策】


 文化祭当日の朝、歌劇部の部室内には、予想通りの光景が広がっていた。

「うわぁー……マジでこういうことあるんだ……」

「テオドール殿下の予想、当たってるじゃん……」

 部室の奥、トルソーに掛けられていたドレスは、無惨にもズタズタに引き裂かれていた。生地のあちこちに深い切れ込みが入り、濃いワインのような液体が染み込んでいる。その姿は、まるで意図的に汚されたかのようだった。

「まぁ、これは予想通りってことで」

「フィオーネさんマジでナイス判断すぎる」

「テオドール殿下の話を聞いて、速攻で手を打ったもんな」


 歌劇部員たちは、驚きはしたものの、どこか冷静だった。実は、このズタボロのドレスは”囮”だったのだ。

 昨日、テオドールが何気なく語った「後宮の基本戦術」の話を聞いたフィオーネは、「念には念を」と考え、急遽、部室に”ターゲット”を用意することを決めた。

 本物のドレスではなく、以前の試作段階で失敗したドレスを、それっぽく仕立て直してトルソーに掛けておいたのだ。

「いやぁ、まさか本当にやられるとはね……」

「逆に、やってくれてありがとうって感じだわ」

「フィオーネさん、天才じゃない?」

 裏方担当の部員たちは、策が見事に的中したことに半ば呆れつつも、笑い合っていた。


 ドレスを破った犯人の狙いは明らかだった。

 主演のクレアが、舞台本番でズタボロの衣装を着る羽目になり、観客の前で恥をかかされる——そんな計画だったのだろう。

 しかし、歌劇部の面々は、その策を見事にかわしてみせた。

「本物」のドレスは、部室の奥の鍵付きの収納に厳重に保管され、無傷のまま安全を確保されていた。

「とはいえ、怖いよね。一体誰がこんなことを」

「最優秀賞狙いの別の団体の仕業かな?」

「でもまぁ、問題にはならなかったし」

 歌劇部のメンバーにとって、この出来事は「怖い話」ではあったものの、「問題」にはならなかった。

 全ての対策は完璧に講じられており、今さら騒ぐようなことでもない。


 そして、いつものように舞台の準備が始まった。照明の調整、舞台装置の確認、衣装の最終チェック……。

 次第に、歌劇部の面々はこの「事件」のことを忘れ、本番に向けた準備に没頭していった。


【衣装に宿る魔法】


 舞台本番を控え、歌劇部の準備は最終段階に入っていた。そして、いよいよ主役二人の衣装合わせの時間がやってきた。

 楽屋で衣装を纏ったクレアが姿を現した瞬間、部屋の空気が一変した。

「……っ!」

 誰もが息を呑んだ。


 色鮮やかに輝くドレスが、クレアの白金色の髪と見事に調和し、まるで舞台の光そのものを纏っているかのようだった。

 彼女の姿は、単なる姫ではない——神話の中から抜け出した女神のような神々しさを湛えていた。

「すごい……」

「おとぎ話の姫って、本当に実在するのね……」

「いや、これは姫というより……もはや女神では……?」

 女子生徒たちが感嘆の声を上げる中、クレアはドレスの裾を軽く持ち上げながら、ゆっくりと鏡の前に立つ。

 完璧な仕立ての衣装。繊細な刺繍。光を受けるたびに変化する美しい布地。

 これこそ、歌劇部が文化祭の目玉として準備を進めてきた最高傑作だった。


 一方で、テオドールもまた、ヴァルミールの伝統的な装飾を取り入れた異国風の王子の衣装に身を包んでいた。

 彼がゆったりと歩いてきた瞬間、部屋の温度が数度上がったように感じた。

「うっわ……」

「ちょっと待って、ヤバい……」

「このテオドール様を見たら、もう『いつか王子様が』を演じる全ての役者が霞むわ……!」

 女子生徒たちは、胸を押さえながら心の底からの歓声を上げた。

 テオドールが立っているだけで絵になる。いや、立っているだけで”物語”が生まれる。

 まさに「王子様」としか言いようのない存在感だった。


 クレアも思わず彼を見つめてしまう。驚くほど、彼は”理想の王子様”だった。

 まるで自分が子どもの頃に読んだ童話の挿絵から、そのまま抜け出してきたような——そんな完璧な姿。

 しかし、目の前にいるのはただの幻想ではない。実在する人物だ。

 テオドールは、ふとクレアの視線を感じ、軽く微笑んだ。

「どうしたの?」

「……私が子どもの頃に思い描いていた、王子様そのままで、ビックリしてました」

 クレアは素直に答えた。すると、テオドールは楽しげに目を細める。

「クレアも王子様に憧れる女の子だったんだね」

「ヴァルミールの女子で、憧れたことがない者などおりませんわ」

 ヴァルミールの少女たちは皆、幼い頃に物語を読み、夢を見た。いつか、自分のもとにも王子様が現れて、運命のダンスを踊る日が来る——と。

 ただ、クレアは、その憧れに興じ続けられるほど、現実が甘くなかっただけで。

 テオドールは、そんな彼女の沈黙を受け止めるように、ふっと柔らかく笑った。


「今後の君にとっての王子様が、その理想のイメージじゃなくて、僕になるなら光栄だ」


 ——言葉が、耳から入った瞬間、心を撃ち抜かれた。


 そのやり取りを見ていた歌劇部の女子たちも、今の一言に息を呑む。

「……今、私のイメージがすり替えられた……!」

「やばい、もう『王子様』=『テオドール殿下』になった……」

「これが恋……?」

 女子たちが次々に撃沈していく中、クレアもまた、心臓が跳ねるのを感じた。しかし、彼女は咄嗟に反撃に出る。

「……この先の時間は、貴方にはまだお早いわ」

 それは、劇中の名シーンの台詞。クレアは、舞台上の姫のように、余裕の笑みを浮かべながらそう告げた。

 テオドールは、一瞬、面食らったように瞬きをしたが——すぐに、苦笑しながら小さく首を振った。

「本当に君は、美しくて手強いお姫様だ」

 テオドールもまた、劇中のセリフを引用する。笑顔の裏に、どこか本気で悔しがっているような色を滲ませながら。

 そうして、衣装合わせの時間は、心のざわめきを残しつつ、過ぎ去っていく。


【幕が上がる瞬間】


 劇の開始直前。

 舞台袖には、緊張感と興奮が入り混じる独特の空気が漂っていた。

 観客席からは、期待に満ちたざわめきが聞こえてくる。

 舞台装置の奥では、裏方たちが最後のチェックを行い、役者たちは各々の持ち場へと向かう。

 その中で、クレアは舞台袖に立ち、深く息を吸い込んだ。


 ——練習は十分に積んできた。台詞も動きも完璧なはずだ。


 それでもやはり、本番前の緊張は拭えない。

 そんな彼女の隣に、ふと柔らかな声が響いた。

「緊張してる?」

 振り向けば、テオドールがいた。彼もまた舞台衣装に身を包み、王子そのものの佇まいで立っていた。

 クレアは小さく微笑み、素直に答える。

「ええ、少し」

「クレアなら大丈夫だよ」

 テオドールは、確信を持った声で言った。ただの励ましではなく、本当にそう信じている——そんな確かな響きがあった。

 クレアは、その言葉に安心感を覚え、少しだけ肩の力を抜いた。

「ふふ、ありがとうございます」

 そう言った直後だった。テオドールが、ふと目を細める。

「この劇で君は会場中を虜にできると思うよ。僕をそうしたように」

「え?」

 クレアの心臓が、一瞬、跳ねた。

 言葉の意味を問いただそうとしたが——その瞬間、舞台監督の合図が響く。

「間もなく開演します!」

 テオドールは、意味深な笑みを浮かべながら、一歩前へと進む。

「……さぁ、お姫様。幕が上がるよ」

 クレアは、彼を見つめながら、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。

 その間にも、舞台の幕は上がる。


 ——今の言葉、どういう意味?


 緊張していたはずの胸の高鳴りは、いつの間にか別の感情へとすり替わっていた。戸惑い、困惑——そして、それを上回る甘酸っぱい期待。

 舞台の中央にスポットライトが灯る。

 クレアは、ゆっくりと深呼吸をし、頭を切り替え、舞台の中央に向かって歩み出す。

 しかし、彼女の心の片隅には、舞台の光よりも鮮烈に、テオドールの言葉が焼き付いていた——。

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