第三話:実践の学舎
【外交の洗礼】
外交学の授業が早々に終わり、教室からゾロゾロと生徒たちが抜け出ていく。
一学期最後の授業は、試験返却と、簡単な講評で終わった。
「外交を成功たらしめる三要素は、パワーバランスの見極め、共通認識の形成、そして交渉戦略の策定です」
総まとめとして語られたこの言葉が、なぜか彼女の心に、妙に引っかかっていた。
「……外交の成功、ね」
小さく呟いたクレアは、横目でちらりと隣を見た。
そこには、当たり前のような顔をして、テオドール・アヴェレートが座っている。
昨夜の騒動の張本人。あの場で堂々と「僕がクレア嬢に愛を乞おう」と宣言した男。そして今、何食わぬ顔で試験の答案を眺めている。
――どういうつもりなのか、ちゃんと確かめなければ。
クレアはひとつ息をつくと、意を決してテオドールに声をかけた。
「テオドール殿下」
その呼びかけに、テオドールは顔を上げた。黒曜石のような瞳がクレアを捉える。テオドールは相変わらず、どこか飄々とした笑みを浮かべていた。
「おや、どうしたの、クレア嬢?」
「次の授業まで少し時間がありますわね。お茶でもご一緒しませんか?」
クレアの提案に、テオドールは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに口角を上げた。
「もちろん。君から誘ってくれるなんて光栄だな」
その余裕たっぷりの態度に、クレアは少しだけ眉根を寄せる。しかし、今は流しておくべきだろう、と判断する。テオドールの真意を確かめることを、クレアは優先した。
こうして二人は、学園の中庭へと向かった。
ヴァルミール王立学園の中庭には、いくつかの東屋が設けられている。貴族の子息たちが優雅に談話を楽しむための空間だ。学園内のメイドたちは、生徒たちを貴族の主人として扱い、学園生活をより快適なものにする役割を担っている。
クレアとテオドールが東屋に入ると、すぐにメイドが駆け寄り、手際よく紅茶の準備を整えた。銀のティーポットから注がれる赤みがかった琥珀色の液体が、繊細な磁器のカップを満たしていく。
「さすがヴァルミールの学園だね」
テオドールがカップを手に取りながら、感嘆するように呟いた。
「アヴェレート王国の教育制度とは違いますか?」
クレアが尋ねると、テオドールは軽く肩をすくめた。
「うん。うちの国には学園制度はないから、こうして同世代の貴族が集まって学ぶっていうのが新鮮だよ。アヴェレート王国では、貴族は家庭教師をつけて、それぞれの家で教育を受けるのが普通だからね」
「そう聞いておりますわ。王族ともなれば、きっとより厳しい教育を受けてこられたのでしょうね」
そのクレアの言葉に、テオドールは苦笑する。
「まあね。でも、こうして同じ授業を受けて、皆で学ぶのも悪くないなって思うよ。その上、メイドが紅茶を淹れてくれるなんて、さすが貴族文化の本場のヴァルミールって感じだ」
「ふふ、そうでしょうね」
クレアは小さく笑みを浮かべながら、紅茶を一口含んだ。そして、改めて切り出した。
「テオドール殿下、率直にお聞きしたいことが……」
しかし、クレアが本題に入ろうとしたその瞬間、テオドールがさらりと言葉を被せた。
「テオでいいよ」
テオドールは、その人好きする笑みを向けた。
「……は?」
「だから、テオって呼んでよ。せっかく親しくなるんだから、堅苦しいのはなしでね」
あまりにも自然に、当然のことのように言われ、クレアは困惑した。
クレアは察する――テオドールはいきなり、会話の主導権を握ろうとしている。いや、握られかけている。ナチュラルにこの場を制そうとしている、と。
――これが王族……!
その振る舞いは、一朝一夕で身につくものではない。生まれた瞬間から王族として敬われてきた者のみ、備えられるものだ。高位貴族との交流に慣れたクレアであっても、面食らう。その驚愕を自覚して、クレアはこの先に待ち受ける受難を思って目を遠くした。
――こんな相手に駆け引きで挑むの? 私……?
しかし、ここで流されるわけにはいかない。クレアは一度小さく咳払いし、表情を引き締めると、言い直した。
「では……テオ様」
「うん、それならいいよ」
満足げに微笑むテオドールに、クレアは内心ため息をつく。
――少しでも主導権を譲る気がないということね。
立場としても、社交術としても、両者の間に存在するあまりにも大きなパワーの差。クレアは早速外交の洗礼を受けていた。
【理と利と、そして愛】
クレアはカップを置き、改めて口を開いた。
「昨晩のこと、私にはまだ多くの疑問点があります。それを詳らかにしたいのです」
「うん、そうだろうね。何でも聞いてくれていいよ」
そう言って、テオドールは気軽に頷いた。
全く真意の読めない人だ、と思いながらも、クレアは決して揺るがぬ声で、核心に切り込んだ。
「ではお言葉に甘えて。なぜ、昨晩、あの場面で介入されたのですか? まさか本気で私に愛を乞うことが目的だったわけではないでしょう?」
次の瞬間、テオドールは微笑みながら、迷いなく言った。
「君が欲しかったから」
そのあまりにもまっすぐな答えが、その場に響いた。
――は?
クレアの思考が一瞬、止まった。そして次に動揺が走った。
クレアの眉がピクリと動く。動揺を悟られまいと表情を整えるが、それでもその答えの真意を測りかねて、眉をひそめる。
「……だから、それはなぜ?」
平静を保とうとしながらも、クレアは問い返した。
そして、テオドールは静かに、しかし確信に満ちた声で語り始めた。
「一つ目。僕の祖国であるアヴェレート王国と、サヴィエール辺境伯家の領地は接している。そのご令嬢との繋がりは、祖国の平和と安定の上で計り知れない価値を持つこと」
テオドールは、当然のことのようにさらりと言った。クレアは瞬間的に思考を止めた。
――開口一番が政略的価値。
クレアも多少の予想はしていたが、ここまで率直に言われるとは思っていなかった。政略的価値を持つことは、貴族にとっては誇るべきことだ。しかし、それを「君が欲しかった理由」として挙げられると、クレアは妙に現実を突きつけられた気がした。
クレアが表情をなくしたまま沈黙していると、テオドールは気にする様子もなく、続けた。
「二つ目は、君が実用的な学問に打ち込める、合理性と勤勉さを備えていること」
――次は、人材的有用性。
クレアは思わず遠い目をする。
政略結婚において、人材的な有用性は当然考慮される要素だ。しかし、ここまで淡々と述べられると、クレアはどこか割り切られたような感覚を覚えた。
無意識のうちに、クレアはティーカップを手に取り、一口含む。アールグレイ特有のほのかな柑橘の香りが広がった。その味わいをゆっくり楽しむ余裕はなかった。
「そして最後」
テオドールは、少しだけ柔らかな表情を浮かべた。
「僕の登校初日に、君が丁寧に道案内してくれたこと。その誠実な人柄なら、平穏な家庭を築けそうだ」
クレアは、その言葉を受け止めるまでに数秒を要した。
「……なるほど、よく理解しました」
カップをそっと置き、クレアは静かに息を吐く。
「要は、政略的価値、人材的有用性、問題ない人柄と……テオ様の動機は、理と利によるものだったんですね」
そう言葉にしてみて、クレアはようやく自分の内心に気がついた。
衝撃を受けている。
ロマンチックな言葉を期待していたわけではない――そう思っていた。しかし、あれだけ情熱的に介入してきたのだから、少しくらいは感情の要素があるのではないかと、クレアはどこかで期待していたのだ。
――ヴィクトールやローレント公爵家と何が違う? 結局、貴族の結婚なんて、理と利じゃないか。
そう思うのに、心のどこかがチクリと痛む理由が、クレアにはわからなかった。
「え、当然じゃん」
テオドールは、あっけらかんとした口調で言い放った。クレアは、わずかに顔を顰める。テオドールは、クレアの表情など意に介さず、言葉を続けた。
「僕は祖国のことも、家族のことも、民のことも大好きだからさ。彼らを裏切るような相手を愛せないんだよ」
クレアは、再び言葉を失った。
「その点、これだけの理と利のある君なら、安心して愛せるから」
今度こそ、クレアは完全に思考が停止した。
――理と利があるから、愛せる?
クレアは、これまで理と利を冷酷なものと捉え、愛とは無縁の存在だと考えていた。だからこそ、彼女は婚約という制度をどこか割り切り、貴族の娘として生きてきた。しかし、テオドールの言い分は違う。
理と利がなければ、愛するに値しない。
その言葉は、クレアにとって全く新しい価値観だった。
「……そんな考え方、あるのですね」
思わず口をついて出た言葉に、自分で驚く。
テオドールは軽く首を傾げた。
「え? 普通じゃない?」
「……私にとっては、初めて触れる考え方です」
クレアは正直に答えた。
――この人の愛の定義は、私の知るものとはまるで違う。
テオドールの「愛せる」という言葉から、クレアは一切の迷いを感じなかった。まるでそれが当然であるかのように語られるその様子に、クレアは消化しきれない思いを抱えながらも、彼の誠実さを認めざるを得なかった。