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第八話:策謀

【嵐の前触れ】


 文化祭当日の早朝——。

 まだ夜の名残を帯びた薄紫色の空が、学園の屋根を静かに照らしていた。

 陽が昇るにはまだ少し早い時間帯。学園内は、文化祭の準備に向けて活気づく前の静寂に包まれていた。


 そんな静寂の中、一つの影が忍び込んでいた。

 男爵家の令息であるその男は、ひっそりと歌劇部の部室の扉を開け、中へと足を踏み入れた。

 部室の奥には、今日の舞台で使用される小道具や衣装が並んでいる。男は、ためらうことなくその中へと歩を進めると——部屋の中央に置かれたトルソーに目を向けた。


 そこには、昨日完成したばかりの、美しく仕立てられた姫の衣装が掛けられていた。ヴァルミールの伝統を取り入れつつ、舞台映えする華やかなドレス。まるで貴族の正式な式典にでも使われるかのような、気品あふれる装いだった。

 男は、一瞬、手を止める。しかし次の瞬間、彼は懐から短剣を取り出し——その刃を、ドレスの胸元に突き立てた。

 刃が生地を裂く音が、静まり返った部室に響く。男は、無感情に手を動かし、縦横無尽に切り裂いた。美しかったドレスは、瞬く間にズタズタにされていく。

 その手つきは、まるで本当に婦女を暴行するかのように、執拗で、醜悪だった。


 さらに、男は手元の小瓶を開けると、ドレスの上から黒ずんだ液体を振りかける。それは濃いワインのようなものだった。

 衣装係が夜通し仕立て上げた美しいドレスは、一瞬にして台無しになった。


 そして、男は短剣をしまい、何事もなかったかのように部室を後にする。表情には、罪悪感の色など一切浮かんでいなかった。


【影に潜む悪意】


 その日、ヴィクトール・ローレントは上機嫌だった。


 彼の机の上には、ある男爵令息が持ち込んだ”証拠”があった。それは、ズタズタに切り裂かれたドレスの切れ端。

 見事な刺繍が施されていたはずの布地は無惨な姿を晒し、かつての優雅さの片鱗すら残していなかった。

 そして、その端の裏地には「クレア・サヴィエール用」と、ご丁寧にも縫い付けられた小さなタグがあった。

 ヴィクトールは、指先でそのタグをなぞる。そのたびに、脳裏にはクレアの姿が浮かんだ。


 ——ボロボロのドレスに身を包み、気丈に振る舞おうとしながらも、観客の失笑を受けるクレア。

 ——ヴァルミール貴族たちの冷ややかな視線と侮蔑の囁きが、彼女の誇りを踏みにじる。

 ——その場の空気に耐えられず、それでもどうにか舞台をやり遂げようとする、惨めな姿。


 その想像は、ヴィクトールの心をどこまでも黒く塗りつぶしていく。その黒さこそが、彼にとっての快楽だった。

「……今日の演劇は、上手くいくはずがない」

 ヴィクトールは、低く笑った。

 少なくとも、クレアは、急ごしらえの衣装で舞台に立たざるを得ない。劇場の空気に敏感なヴァルミール貴族たちが、その違和感に気づかないはずがない。舞台の完成度は、衣装や演出、細部に至るまでの精緻さに左右されるものだ。

 そして、その一点のほころびが全体を崩し、見窄らしい「子どものお遊戯」として評価されるだろう。

 文化祭の目玉として期待されていた演劇が、想像を遥かに下回るものであったなら——歌劇部は当然、批判を浴びることになる。

 演出を務めたフィオーネ・ナディアも、その責任を問われるかもしれない。

 しかし何より、クレアが「失敗作の主演」として学内で嘲笑されることになる。


 ヴィクトールは、思案する。彼女が舞台上で戸惑い、惨めな姿を晒す瞬間を、この目で見届けるべきかどうか——。

 しばし逡巡したが、彼は首を振った。

「いや、やめておこう」

 下手に現場へ近づけば、余計な疑いを持たれる可能性がある。今回の一件と自分を結びつけられるような証拠を残すのは、愚策と判断した。


 ——自分は、ただの傍観者に徹する。何の関与もしていない、無関心な第三者として、何も知らない顔をして過ごせばいい。

 ——そうすれば、クレアが貶められたあと、後からゆっくりと拾い上げることができる。


 ヴィクトールは、再びドレスの切れ端に目を落とした。無惨なほどに引き裂かれた布——そこに書かれたクレアの名。

 彼は、それをポケットにしまうと、静かに微笑んだ。彼の瞳の奥には、底知れぬ闇が広がっていた。


【波一つない美しい湖】


 文化祭の賑わいの中、ヴィクトールは婚約者イザベラと共に、学園の敷地内を優雅に歩いていた。

 祭典の場に相応しく、ヴィクトールは完璧な身だしなみで身を包んでいた。深みのある青の刺繍が施された上着は、彼の洗練された雰囲気を際立たせている。

 イザベラもまた、華やかなドレスを纏い、まるで祭典の女神のように微笑んでいた。

 そんな二人の周囲には、次々と貴族の令息・令嬢たちが集まり、挨拶を交わしていく。

「ヴィクトール、君のおかげで鉱山投資で利益が上がっていると、父上も喜んでいたよ」

「君の助言がなければ、うちの家は未だに二流の商会と取引を続けていたはずだ。感謝している」

「次の君の投資先に注目しているんだ。何か情報はあるか?」

 ヴィクトールは、彼らの言葉に微笑を返しつつ、適度に会話を交わす。

 彼の投資手腕は、すでに貴族社会で広く知られるものとなっていた。

 若き貴族たちは、彼を尊敬の眼差しで見つめ、彼の一言一句を聞き漏らすまいと身を乗り出す。


 一方で、令嬢たちは、また別の視点で彼を眺めていた。

「ヴィクトール様、今日もなんて完璧なのでしょう」

「まるで絵に描いたような貴公子……ため息が出ますわ」

 彼女たちは、うっとりとした瞳でヴィクトールを見つめ、その言葉には心からの憧れが滲んでいた。

 彼の立ち居振る舞い、端正な顔立ち、冷静で知的な雰囲気——どれを取っても、貴族の理想を体現する存在だった。

 そんな彼を称える令嬢たちの声を聞きながら、隣を歩くイザベラは穏やかに微笑む。

 彼女の美しさは、この場の誰よりも際立っていた。

 清らかな笑顔をたたえながら、どこか余裕を持った雰囲気でヴィクトールの隣を歩いている。

 彼女の立ち居振る舞いは、一切の動揺や焦燥を見せることがなかった。


 ヴィクトールは、ふと彼女を横目で見やると、軽く口角を上げた。

「……嫉妬させてしまったかな?」

 そうからかうように問いかける。

 イザベラは、柔らかく微笑んだまま、すぐに答えた。

「ええ。でも、それ以上に、慕われている貴方を見ると、誇らしく感じますわ」

 その言葉は、まるで完璧な台本でもあるかのように、寸分の狂いもなく美しく響いた。


 ヴィクトールにとって、その反応は刺激のないものだった。

 よく言えば、安心。悪く言えば、退屈。

 彼女は決して動揺しない。嫉妬の素振りを見せることなく、感情を完璧にコントロールし、彼を立てながら、自らの品格を示す。

 それは貴族の婚約者として理想的な在り方だった。


 ——それでは、何も響かない。


 ヴィクトールは、イザベラの微笑みに応じながらも、心の奥底では何かが冷え切っているのを感じていた。

 彼の目の前には、美しくも、波一つない湖が広がっていた。


【文化祭の終焉】


 文化祭の熱気が冷めやらぬ中、学園の中央広場では、各展示や出し物の優秀賞を発表する表彰式が行われていた。

 観客席には、生徒だけでなく、貴族社会の名士たちも多く集まり、結果の発表を今か今かと待ち構えている。

 そして——


「今年度の文化祭、優秀賞を受賞したのは——歌劇部です!」


 その瞬間、大きな歓声が湧き上がった。

 歌劇部の部員たちは抱き合い、互いに喜びを分かち合う。感極まって涙ぐむ者もいた。


 壇上に呼ばれたのは、今回の演目の中心人物たち——


 総合演出兼脚本担当・フィオーネ・ナディア

 主演・テオドール・アヴェレート

 主演・クレア・サヴィエール


 三人は、拍手喝采の中、堂々と壇上へと進む。


 クレアが一歩前に進み、深々と礼をすると、その姿に観衆は再び息を呑んだ。

 彼女は色鮮やかで気品に満ちた美しいドレスを纏っていた。舞台の光を受けて輝く布地、繊細な刺繍が施された優雅な装い。

 まるで、おとぎ話の姫がそのまま現れたかのような姿だった。

「なんて美しい……」

「まるで本物の姫みたいだわ……」

「演劇だけじゃなく、この場でも主役ね……」

 会場のあちこちで、感嘆の声が上がる。それは、文化祭の締めくくりにふさわしい、完璧な光景だった。


 一方、その光景を見て、目を見開いた者がいた。ヴィクトール・ローレントである。

 彼の瞳には、壇上に立つクレアの姿がはっきりと映っていた。美しく、誇り高く、誰よりも輝く主役の姿が——。

 周囲の貴族たちは、歌劇部の成功を称え、笑顔で拍手を送る。しかし、その中でただ一人、ヴィクトールだけが歯を食いしばった。

 文化祭の幕が下りようとしていたが、ヴィクトールの心の中には、消えない苛立ちが渦巻いていた。

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