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第七話:魂の演技

【歌劇部の異変】


 その日の歌劇部の練習は、いつもと変わらず進んでいた。

 クレアとテオドールは、息の合った演技を披露し、他の歌劇部員たちも、それぞれの役を懸命にこなしている。


 脚本の進行も順調。文化祭まであとわずか。仕上がりは上々で、あとは細かい調整を残すのみ——しかし。

 フィオーネの様子が明らかにおかしかった。

 彼女は、普段のように舞台の端で台本を手にしているが、その手元はどこか頼りなく、視線も虚ろだ。

 台詞の確認をする声は小さく、演技指導の言葉にも力がない。まるで、魂をどこかに置き忘れてしまったようだった。

 クレアは、舞台の隅にいるフィオーネを何度かちらりと見やった。昨日のランチの時も、彼女は「何でもない」と言い張っていた。

 しかし、今の彼女は明らかに「何か」があるのは一目瞭然だった。


 演技の合間に、クレアはそっとフィオーネの隣に歩み寄った。

「フィオーネ、大丈夫? 顔色が悪いわよ」

 彼女の小さな肩がびくりと震えた。

「……ええ。何でもないわ」

 フィオーネはかすれた声でそう答え、微笑もうとする。その笑顔はあまりにもぎこちなく、クレアの不安をかき立てた。


 ——これは、よほどの問題を抱えているのではないか。


 クレアは何か言おうとしたが、フィオーネはそれを遮るように、小さく首を振った。

「心配しないで、クレア」

 そう言って、彼女は無理に台本に目を落とす。それ以上は何を聞いても、フィオーネが答える気配はなかった。

 クレアは、何も言えないまま、彼女の横顔をじっと見つめた。


 一方、舞台の中央で、演技の順番を待っていたテオドールもまた、フィオーネの異変に気づいていた。

 彼は特に何も言わず、ただ静かに彼女の様子を観察していた。

 普段のテオドールなら、軽口のひとつでも叩いて場を和ませるところだ。しかし彼は黙ったまま、表情を変えず、じっと何かを考え込んでいるようだった。


 ——テオ様も気にしているのね。


 クレアは、彼の視線の先を追いながら、改めてフィオーネの姿を見つめた。彼女の小さな体に何が起きているのか——その答えはまだ見えないままだった。

 しかし確実に何かが起きている。それだけは、誰の目にも明らかだった。


 クレアは、奥歯を噛み締めながら、舞台の中央へと戻っていった。そして、練習が再開される。


【演技に宿る魂】


 舞台の上に、クレアの声が響いた。


「私は王子様を待つだけの女ではない。私の道は、私が選ぶのですわ!」


 その瞬間、部室の空気が変わった。

 力強く、確固たる意志を持った声。それは、ただの演技ではなかった。

 クレアの心の奥底から湧き上がる感情が、その言葉に宿っていた。

 それは、脚本のオクタヴィア姫の台詞でありながら、もはやクレア自身の言葉と化していた。


 ——誰かに選ばれるだけの人生ではない。私は、自分の足で、自分の意志で進むのだ。


 クレアがこれまで貴族社会の中で抱いてきた葛藤や、誇り高くありたいという気持ち。それが、この台詞に重なり、クレアの演技をより強く、鮮やかにしていた。

 舞台袖で見ていた歌劇部員たちは、息を呑むように彼女を見つめる。


 ——彼女は今、役を演じているのではない。

 ——彼女は、この物語そのものになっている。


 テオドールもまた、クレアの演技に目を奪われていた。

 彼は、王子役として舞台上にいたが、一瞬、言葉を失いそうになる。クレアが作り出す世界観に、テオドールは引き込まれていたことを自覚する。

 思わず、彼は微笑んだ。心の底から楽しそうに舞うクレアを見ながら。


【涙の理由】


 その時だった。

「……っ……!」

 小さな嗚咽が聞こえた。

 クレアが振り返ると、舞台袖のフィオーネが、両手で顔を覆って泣いていた。

「フィオーネ!? どうしたの?」

 クレアはすぐに駆け寄る。歌劇部の皆も驚き、彼女の周囲に集まり始めた。

 フィオーネは、震える肩を押さえながら、ゆっくりと顔を上げる。その瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。

「……ごめんなさい……」

「謝ることなんてないわ。何かあったの?」

 クレアは、彼女の手を優しく握る。しかしフィオーネは何も言わず、ただゆっくりと息を整えた。

 そして、目に涙を浮かべたまま、決意のこもった声で言った。

「私、決めたわ。この劇を絶対にやり遂げる。何があっても」

 その言葉に、クレアは一瞬、息を呑んだ。先程までの彼女とは違う。

 フィオーネは、今まではこの劇を「成功させたい」と思っていた。しかし今の彼女は、まるで「戦う覚悟」を決めたかのような表情をしている。


 ——何があっても。


 その言葉が、やけに重く響いた。

 クレアは、一瞬の迷いを振り払い、フィオーネの手を強く握り返した。クレアに事情は分からない。しかし親友が「決めた」のなら、クレアもそれを受け止める。

「……ええ、やり遂げましょう」

 フィオーネは、その言葉に小さく頷き、涙を拭った。


 そんな二人のやりとりを、テオドールはじっと見つめながら、微動だにせず、何かを思案していた。

 その表情は、歌劇部の誰にも見せたことがないほど静かで、無表情だった。

 フィオーネが泣き止んだ頃、テオドールは、表情を再び穏やかなものへと戻し、舞台上に視線を向けた。


【おとぎ話の姫】


 劇本番が近づく中、歌劇部の活動もさらに慌ただしくなっていた。

 そして、この日ついに——主役たちの衣装が完成した。


「クレア嬢、こちらが貴女の衣装です」

 歌劇部の衣装係が、丁寧にドレスを広げて見せる。それは、舞台用に仕立てられた鮮やかで美しいドレスだった。

 ヴァルミールの伝統的な優美な意匠を取り入れつつ、演劇映えする華やかさを備えている。

 まるで、実際に王家の姫君が身に纏うような優雅な衣装だった。


 クレアは、袖を通し、鏡の前に立つ。その瞬間、部屋の空気が変わった。まるで、おとぎ話の姫そのものだった。

 彼女の豊かな白金色の髪と、鮮やかなドレスのコントラストが絶妙に映え、まさに舞台の主人公にふさわしい佇まいだった。

 部屋の片隅で、その姿を目にしたテオドールが、言葉を失っていた。

 いつもは皮肉げな笑みを浮かべている彼が、この時ばかりは沈黙していた。ただ、じっとクレアを見つめている。

「……テオ様?」

 クレアが不思議そうに彼を見返すと、テオドールは一瞬、はっとしたように瞬きをする。

「……ああ、ごめん。ただ……君があまりに様になっていたから、ちょっと驚いただけ」

 彼は、ようやくそう呟くと、軽く微笑んだ。その笑顔には、いつもの余裕が少しだけ欠けていた。


 ——何を驚くことがあるのかしら。


 クレアは、内心で少し戸惑いながらも、軽く肩をすくめる。


【後宮の戦術】


 本番が近づくにつれ、部室内の雰囲気は活気に満ちていた。

 歌劇部の部員たちは、舞台装置の最終調整や小道具の確認に余念がなく、賑やかな声が飛び交っている。

 そんな中、テオドールがふと呟いた。

「そういえば、後宮とかだと、こういう式典の前にライバルのドレスを台無しにするのが基本戦術なんだよね」

 部屋の空気が一瞬、凍りついた。

「……え?」

 最初に声を上げたのはクレアだった。

「基本戦術……って、何ですの?」

「そのままの意味だよ」

 テオドールは、さらりと言うと、祖母——オクタヴィア前王妃のエピソードを語り始めた。

「昔、僕の祖母が王太子妃として披露宴を迎える直前、側室にワインを引っ掛けられたらしいんだ」

「……何ですって!?」

「でも、祖母は慌てずに、ドレスのデザインを即興で変えて、開演に間に合わせたそうだよ。結果的に、その機転が評価されて、さらに周囲からの支持を得たんだってさ」

 その話を聞いた歌劇部の面々は、一様に顔を青ざめさせた。

「……それ、王家の正式な披露宴の場で……?」

「後宮、怖すぎる……」

「というか、そんなことがまかり通るものなの?」

 テオドールは、微笑を浮かべながら、軽く肩をすくめた。

「まぁ、後宮ではよくあることなんじゃない?」

「いやいや、ここ後宮じゃなくて学園ですから!!」

 クレアは思わず声を上げた。

「誰も私のドレスにワインなんてかけませんわよ!?」

「うん、たぶんね」

「『たぶん』って何!? 普通はありえないことなんですからね!?」

 クレアの必死のツッコミに、歌劇部員たちは緊張を解くように笑い合った。やれやれ、といった雰囲気が部屋に戻る。


 しかし、その場の中で——たった一人だけ、違う反応を示していた者がいた。

 フィオーネ・ナディア。

 彼女は、テオドールの話を聞いて、僅かに表情を引き締めていた。その瞳には、決意の色が浮かんでいる。

 テオドールは、その彼女の様子を見逃さなかった。フィオーネだけが、この話を「他人事」として聞いていなかった。

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