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第六話:舞台袖に忍び寄る影

【二人の舞い】


 練習開始から二週間が経った。

 最初は戸惑いばかりだったクレアも、今ではすっかり演技に馴染んできた。特に、テオドールとのダンスシーンは歌劇部の中でも特に注目の場面だった。

 テオドールの優雅で遊び心のあるアレンジに、クレアは見事に応じ、二人の舞は息を呑むほど美しかった。

「まるで夢の中のようだわ……」

 歌劇部員たちが軒並み、恍惚の嘆息をついていた。


 そして、演技のクライマックス——。

 舞踏会の場面で、テオドールがクレアの手を取り、深く一礼する。

「『姫、もう一曲、私とのダンスをしていただけませんか』」

 彼の台詞が、空気を震わせる。

 クレアは、上品な微笑みを浮かべながら、余裕たっぷりに答えた。

「『宵も更けてまいりました。この先の時間は、貴方にはまだお早いわ』」

 彼女はゆっくりと手をほどき、自ら髪留めを外す。

 繊細なクリスタルの髪飾りが揺れながら、クレアの手の中に収まった。

「『貴方が私を口説き落とせた日には——』」

 クレアは、髪留めをそっとテオドールの手のひらに乗せる。

 そして、彼の目をじっと見つめながら、口元に笑みを浮かべた。

「『髪留めではなく、私の伴侶となる権利を与えましょう』」

 彼女は、ほんの僅かに身を乗り出し、テオドールの顔に近づく。

 まるで真剣勝負のように、彼の視線を捉え、大胆不敵に微笑んだ。


 演技として、完璧だった。


 その場にいた歌劇部の面々は、息をするのも忘れていた。

「……素晴らしい……!」

 最初に声を上げたのは、脚本・演出を担当するフィオーネだった。

 彼女は感動のあまり、思わず立ち上がると、拍手をしながら震える声で叫んだ。

「さすがクレア……! 私はこれが見たかったの……!」

 まるで劇場の観客のように、フィオーネはスタンディングオベーションを送り、他の歌劇部の面々も、感極まった様子で拍手を送る。

 中には感動のあまり涙を浮かべている者までいた。

「うっ……最高すぎる……」

「王道でありながら、こんなに新鮮に感じるなんて……!」

「これはもう文化祭どころか、本物の舞台レベルでは……?」

 クレアは、彼らの熱狂ぶりに思わず肩をすくめる。

「感受性が高すぎじゃない? 皆さん……」

 そう呆れたように言いつつも、クレアの頬はどこか誇らしげに紅潮していた。

 演技を褒められるのは、思いのほか気分がいい。


 その中で、一人だけ反応が違う者がいた。

 テオドールは、拍手が響く中、なぜかじっとクレアを見つめていた。

「……?」

 クレアは、その視線に気づく。

「テオ様?」

 呼びかけると、テオドールはハッとしたように瞬きをし、意識を取り戻す。

「……何でもないよ」

 彼は、少しぎこちなく答えると、視線を逸らした。顔を背ける仕草は、どこか照れくさそうにも見えた。

 クレアは、彼の様子にわずかに違和感を抱く。


 ——テオ様が、こんな反応をするなんて珍しいわね。


 普段なら、冗談の一つでも返してきそうな場面だった。なのに、今の彼は妙に静かで、どこか落ち着かないように見えた。


 ——この演技に、何か思うところがあったのだろうか?


 そんな疑問を抱きながらも、クレアはそれ以上は何も言わなかった。拍手と歓声が響く中、彼女はただ静かに、テオドールの横顔を見つめていた。


【前評判】


 学園内では、文化祭に向けた各部活動の準備が着々と進んでいた。その中でも、特に話題になっているのが歌劇部の出し物だった。

 講義が終わった昼休み、生徒たちが集まる中庭では、男子貴族たちが興味深げに話していた。

「なあ、知ってるか? 歌劇部の出し物、すごいことになってるらしいぞ」

「ん? 何か特別な演目なのか?」

「特別どころの話じゃない。『いつか王子様が』の実話をベースにした舞台で、しかも——」

「……ん?」

「王子役が、テオドール殿下で——姫役が、クレア・サヴィエール嬢らしい」

「マジか!?」

 この情報に、周囲の男子貴族たちはざわめいた。

「えっ、あの、学内で『求愛ゲーム』繰り広げてる二人だろ?」

「そうなんだよ。そんな二人が王子役と姫役で共演するんだぜ? もう面白くないわけがない!」

「演劇という名の公開求愛になるんじゃないか?」

「いやいや、クレア嬢はあくまで演技でやるだろうけど、テオドール殿下はガチで口説きにいく気がするぞ」

「ははっ、確かにな。テオドール殿下のことだから、演技と本気の境界が曖昧になりそうだ」

「絶対に観に行かないとダメなやつじゃん」

 彼らの間では、すでに文化祭での歌劇部の公演は「見逃せないイベント」として盛り上がりつつあった。

 演目の内容そのものに加え、主役を務める二人の関係性が、大きな話題を呼んでいたのだ。


 しかし——。

 その噂話を、偶然耳にした者がいた。

 ヴィクトール・ローレント。

 彼は、廊下を歩いていた途中で、男子貴族たちの会話を耳にし、思わず足を止める。

「……何?」

 彼の声に、周囲の空気が張り詰めた。男子貴族たちは、ヴィクトールの存在に気づき、一瞬ぎくりとした表情を見せる。

 そして、彼の表情を見た瞬間——誰もが思った。


 ——え、何でこんなに不機嫌そうな顔してるんだ?


 ヴィクトールは、普段から冷静で感情をあまり表に出さない。しかし、今の彼は明らかに不機嫌だった。

 口元は硬く引き結ばれ、淡々とした表情の奥に、鋭い棘がある。

「……テオドール殿下とクレアが、王子役と姫役?」

 ヴィクトールは、その言葉を自分で反芻するように呟く。男子貴族たちは、無言で頷いた。

「そう……です。どうやら、クレア嬢は歌劇部の依頼を受けて出演を決めたらしく……」

「……テオドール殿下の方は?」

「それが……どうやら、殿下自ら出演を決められたそうです」

 ヴィクトールの眉間に、僅かに皺が寄る。

 テオドール・アヴェレート。

 アヴェレート王国の第二王子にして、クレアと「求愛ゲーム」を繰り広げている男。それが、よりによって「いつか王子様が」の王子役を演じるという。


 ——また、くだらないことを。


 ヴィクトールは内心で舌打ちしたくなる衝動を抑えながら、静かに息を吐いた。

 テオドールが自ら演劇に出ることを決めたということは、当然、それなりの意図があるはずだ。あの男の性格を考えれば、ただの遊びではない……と、ヴィクトールは察する。


 ——まさか、本気で口説くつもりか?


 その考えが脳裏をよぎった瞬間、ヴィクトールの奥歯が噛みしめられる。彼の視線が僅かに鋭くなると、男子貴族たちは本能的に一歩引いた。

 しかし、ヴィクトールはそれ以上何も言わず、ただその場を離れた。彼の後ろ姿には、どこか苛立ちが滲んでいた。


 その場に残された男子貴族たちは、ヴィクトールの遠くなった背中を確認して、ようやく口を開く。

「いや、何でヴィクトール様、あんなに怒ってるんだ? 自分で終わらせた関係だろ?」

「あの噂、案外本当かもな……「クレア嬢の気を引きたくて、脅しで婚約破棄をチラつかせたら、本当になってしまった」ってやつ」

「それ本当だとしたらさすがにダサすぎる……」

 貴族社会で流れる、様々な噂。その信憑性は、本人も無自覚な振る舞いの中で、高まっていく。



【すれ違いの影】


 翌日、クレアはフィオーネとランチをとるため、いつもの中庭へと向かっていた。

 授業と練習が続く毎日で、クレアがフィオーネとのんびり過ごせる時間は貴重だった。今日は少し早めに行こう——そう思いながら歩いていると、不意に視界の端に人影が映る。ヴィクトールだ。

 彼は、整った顔立ちに似合わぬ不機嫌さを滲ませながら、歩いてきた。クレアは、特に気に留めることなく通り過ぎようとする。

「……文化祭でのご活躍、楽しみにしているよ」

 すれ違いざまに、ヴィクトールの低い声が耳に届いた。クレアは足を止め、僅かに視線を向ける。

 ヴィクトールの表情は冷ややかだった。その瞳の奥には、怒りとも苛立ちともつかぬ感情が見え隠れしている。

 クレアは、あえて何も言わず、そのまま歩を進めた。


 気を取り直し、クレアは中庭の決まった場所へ向かう。そこでは、すでにフィオーネがベンチに腰掛けていた。しかしクレアは、異変に気づいた。フィオーネの様子が、いつもとは違う。

 彼女は青ざめた顔をして、視線を下げたまま、まるでそこに存在しないかのように佇んでいた。

 クレアは眉をひそめながら、ゆっくりと近づく。

「……フィオーネ?」

 声をかけると、フィオーネはビクリと肩を震わせた。クレアは、心配そうに彼女を覗き込む。

「どうしたの? 具合でも悪い?」

「……何でもないわ」

 フィオーネは、かすれた声でそう言った。

「本当に? 顔色が悪いわよ」

「大丈夫よ」

 フィオーネは、小さく微笑もうとする。

 しかし、その笑顔は明らかに作り物だった。

「フィオーネ……?」

 クレアは、さらに言葉をかけようとした。フィオーネはそれを拒むように、小さく首を振る。

「……本当に、何でもないの。気にしないで」

 それ以上、何を言っても、フィオーネは同じ答えを繰り返すだけだった。


 ——いつものフィオーネなら、もっと率直に話してくれるはずなのに。


 クレアは、彼女の態度の変化に、強い違和感を覚えた。

 しかしフィオーネが何も言わない以上、クレアが無理に問い詰めるわけにもいかない。貴族社会はしがらみが多く、繊細だ。下手な立ち入りが、却ってフィオーネやその家族の立場を悪くすることもある。今のクレアにできることは、フィオーネの隣に寄り添うことだけだった。


 風が吹き抜ける中庭。穏やかな陽の光とは裏腹に、クレアの心には、ひどく重たいものが残っていた——。

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