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第三話:ソリューションかコンセンサスか

【弁論学の授業】


 学園の大講義室には、知的な熱気が満ちていた。

 この日行われる弁論学の授業では、実践演習が予定されていた。

「今日は、ディベートを行う」

 教師が黒板にチョークを走らせ、今日のテーマを書き示す。


「物事を決めるときに重視すべきは、ソリューション(問題解決)かコンセンサス(合意形成)か」


 生徒たちはざわめいた。

 実践形式の授業は珍しくはないが、こうした抽象的なテーマでのディベートは、単なる学問的議論にとどまらず、貴族としての価値観や政治観を試される機会となる。

「討論者が二人欲しい。希望者には加点する。自ら立候補する者は?」

 教師の言葉に、一瞬の沈黙が訪れた。

 ディベートに名乗りを上げるということは、自らの知性と弁論能力を教室中に晒すことを意味する。それに、何より相手次第では大きな負担を伴う。

 そんな中、ためらいなく手を挙げた者がいた。

 クレア・サヴィエールだった。

 教室がざわめく。クレアは席から立ち上がると、すっと背筋を伸ばし、教師に向かって宣言する。

「討論相手として、テオドール殿下を指名します」

 一瞬の沈黙。そして、教室が爆発したように騒然となった。

「えっ!?」

「クレア様がテオドール様を指名!?」

「これは見ものだ!」

 生徒たちは興奮を抑えきれない様子で、口々に囁き合った。

 指定された本人、テオドール・アヴェレートは、隣で立ち上がるクレアに興味深げに目を細めると、ゆっくりと微笑む。

「へぇ……君からのご指名なんて、こんなに光栄なことはないね」

 彼もゆったりと立ち上がり、講義室の中央に向かった。


 クレアは動じることなく、テオドールの対面に立った。

 二人が向かい合うと、教室の熱気はさらに高まる。

 すでに学園内では「求愛ゲーム」として、二人のやりとりが注目の的になっていた。その上、クレアは成績優秀者として認知されており、テオドールは婚約破棄の場面で相手の主張を一撃で封じ、場の空気を支配したことが評判になっていた。

 そんな二人が正面から討論するとなれば、誰もが聞き逃すまいと身を乗り出すのは当然だった。

 教師は満足そうに頷き、話を続ける。

「クレア・サヴィエールはコンセンサス側、テオドール・アヴェレート殿下はソリューション側を主張すること。討論の勝敗は、聴衆である生徒たちが判断する。いいな?」

 クレアとテオドールは、互いに視線を交わした。

 挑むようなクレアの瞳と、それを面白がるテオドールの笑み。


「では、始めてもらおう」


【ディベート開始】


 最初に口火を切ったのは、ソリューション側のテオドールだった。

「物事を決定する際に最も重要なのは、問題を解決することだ」

 彼の声は、どこまでも滑らかだった。

「結論が導かれなければ、どれほど多くの人が納得しようとも、結局は無駄な時間を費やしたに過ぎない。議論はあくまで手段であり、目的ではない。最も適切な解決策を導き出し、それを実行することこそが、組織を動かす上で最優先されるべき原則だ」

 流れるような語り口で、彼は教室全体を巻き込んでいく。

「例えば、戦場ではどうだろう? 敵が迫っているのに、味方全員の合意を取るまで動けない軍など、あっという間に壊滅する。リーダーには迅速な判断と、最適解を見抜く力が必要だ。これに異論はないだろう?」

 教室のあちこちで頷く生徒がいた。テオドールの論は、極めて明快だった。


 しかし、クレアは微動だにせず、口を開く。

「なるほど。確かに戦場では迅速な決断が求められるでしょう。しかし、戦場の論理をすべての意思決定に適用するのは、誤った一般化ではありませんか?」

 彼女は一歩踏み出し、観客たちへと目を向ける。

「では、貴族の統治はどうでしょう? 法律の制定、貿易の交渉、社会制度の構築……。これらは一方的な解決策で進められるべきものではないはずです」

 クレアは、鋭い視線でテオドールを見据える。

「ソリューションを重視しすぎると、リーダーの独断が正当化される危険があります。解決策の『正しさ』は、時代や社会によって変化します。だからこそ、合意形成を通じて、より多くの視点を取り入れる必要があるのです」

 今度は、コンセンサス派の生徒たちが頷く番だった。


 テオドールは、顎に指を当て、思案するような仕草を見せた。

「確かに、君の言うことも一理あるね。しかし……」

 彼は不敵な笑みを浮かべる。

「合意形成には時間がかかりすぎるのが問題だ」

 彼は、ゆっくりと指を立てる。

「例えば、新たな貿易政策を決定する際、各貴族の意見をすべて聞いていたらどうなる? 議論が堂々巡りになり、結論が出る頃には、貿易機会を逸してしまうだろう。君の言う『多様な視点の確保』は重要だが、遅れた決断は、無策と同じだ」

 観客たちは息を呑む。

 テオドールは、ソリューションの利点を鮮やかに強調してみせた。


 しかし、クレアは揺るがない。彼女は静かに微笑み、反論を始めた。

「決断の遅れは確かに問題ですが、独断による決定が必ずしも最適解とは限りません」

 彼女は、手元のノートを軽く指で叩く。

「例えば、国王が独断で税制を改革した場合、それが民衆の不満を招き、長期的には国家の安定を揺るがすかもしれません。一時的な『最適解』が、将来的な『最悪の選択』になることもあるのです」


 言葉が鋭く響いた。教室は水を打ったように静まり返る。

 テオドールは、クレアを見つめたまま、わずかに口角を上げた。

「なるほどね……これは面白い」


 討論は白熱し、生徒たちは思わず生唾を呑む。

 そして、最終的な判断を下す時が来た——。


【勝敗なき勝負】


 白熱した討論は、最終的に引き分けという形で幕を閉じた。

 教室に張り詰めていた緊張が解け、生徒たちの間にどよめきが広がる。討論の行方を見守っていた者たちの中には、まだ興奮冷めやらぬ様子の者もいれば、意外な結末に驚きの表情を浮かべる者もいた。

「まさか討論で僕が勝てないなんて」

 テオドールは、半ば呆れたような笑みを浮かべながら呟いた。一方クレアは、討論の熱がまだ冷めきらないまま、毅然と彼を見返す。

「勝つことしか頭にないなんて、視野が狭いですわね」

 涼しげな表情で皮肉を返す彼女の姿には、まだ余裕があった。しかし、テオドールはその言葉を受けて、ふっと微笑んだ。

「君を前にすると、君しか見えなくなるみたいだ」


 瞬間、教室が静まり返る。


「なっ……!」

 クレアは言葉に詰まり、思わず顔を赤らめた。

 いつものクレアなら、このような隙だらけの反応はしない。しかし、ついさっきまで、クレアは彼と堂々と渡り合い、討論の場で対等に戦っていた。そのクレアの自負が、心の油断となった。


 ――討論には負けなかった。なのに、なぜか負けた気分になるのは、どうしてなのか。


 そんな二人のやり取りに、クラスメイトたちは様々な反応を見せた。

「クレア嬢、あそこまでやるとは思わなかった」

「テオドール殿下が王子様すぎて辛い」

「いや、これもう公式でしょ……」

 教師はそんな熱狂する生徒たちを横目に、咳払いをして討論を締めくくる。

「お前たちの討論は見事だった。意見の鋭さ、論理の組み立て、そして言葉の使い方――どれを取っても優れていた。加点対象に値する内容だったと認めよう」

 二人の知的な戦いは、学園における一つの伝説となりそうだった。


【授業後】


 授業が終わり、クレアは教室を出ようとしていた。

 まだクレアの頭の中には、テオドールとの議論が残っている。討論では確かに互角の勝負だったのに、最後の一言でまるで負けたかのような気持ちになるのが癪だった。


 そんな彼女の前に、一人の少年が歩み寄る。

「クレア・サヴィエール嬢」

 名を呼ばれ、クレアは彼を振り返った。侯爵令息、カミーユ・オーベルだった。

 カミーユは、どこか誇らしげな表情を浮かべながら、静かに言った。

「さっきの討論、すごかった。そして、ありがとう」

「……ありがとう?」

 思わぬ言葉に、クレアは驚き、彼を見上げる。カミーユは苦笑しながら、肩をすくめた。

「夏季休暇前のあの日、ヴァルミールの矜持を守ってくれたのは君だったから」

 その言葉に、クレアは一瞬、息を呑んだ。

「……あの日?」

 カミーユは、懐かしむような表情を見せる。

「ヴァルミールの社交場で、君が毅然とした態度を貫いたこと。僕たちは、あのとき何もできなかった。でも、君だけがヴァルミールの誇りを守ってくれた」

 クレアは、彼の言葉の意味をゆっくりと噛みしめた。


 夏季休暇前の、あの日――ヴィクトールとの婚約破棄、そしてテオドールの介入を巡る一連の騒動の中で、クレアは一歩も引かず、貴族としての気高さを示していた。

 しかし、それが国内の貴族の目にも、そう映っていたとは知らなかった。

 カミーユは、軽くため息をつく。

「後で事の顛末を知った父上に、僕は怒られたよ。社交場を他国の王族に乗っ取られるとは何事か、ってね」

 彼は自嘲気味に笑う。

「もし、あの場で君が毅然としていなかったら、ヴァルミールの貴族社会は、アヴェレート王国に屈した形になってしまった。そうなれば、僕たちは他国から笑いものにされていたはずだ」

 クレアは、静かにカミーユを見つめた。彼の言葉には、明確な敬意があった。

「君が堂々としてくれたおかげで、ヴァルミールの貴族たちは、自国の誇りを保つことができたんだ」

 彼の言葉を受け、クレアの心の中に、じんわりとした温かさが広がった。

 これまで、彼女は自分の行動がどこまで正しかったのか、時折自問することがあった。

 しかし、こうして感謝の言葉を向けられた今、クレアは改めて思う。自分の信じる道を進んでよかったのだ、と。

 クレアは、真っ直ぐにカミーユを見据え、微笑んだ。

「……ありがとう。そう言ってもらえて、嬉しいわ」

 カミーユもまた、微笑んで頷いた。


 クレアは、この学園にも、自分を理解してくれる人々がいるのだと感じた。それは、彼女にとって何よりも頼もしいことだった。

 そして、彼女は静かに心の中で誓う。


 ――どれほど逆風が吹いたとしても、私は私の矜持を貫く。

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