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第二話:新ミッション

【噂と策略】


 学園の女子寮の入り口にあるサロンは、貴族の娘たちにとって憩いの場であり、噂話が飛び交う場所でもあった。昼下がりの穏やかな日差しが窓から差し込む中、クレアは革張りのソファに腰掛け、静かに本を読んでいた。

 周囲には、紅茶を片手に談笑する貴族令嬢たちの姿があったが、クレアは特に気にすることなく、手元のページをめくる。

 しかし、その平穏は、すぐに破られた。


「イザベラ様、ごきげんよう」

 女子生徒の誰かの挨拶の声が聞こえた。クレアは思わず、チラリとその声の方角に目を向けた。イザベラ・モンテヴェール侯爵令嬢が入ってきていた。

「ええ、ごきげんよう」

 イザベラが美しい所作で挨拶を返した。

 そしてふと、イザベラはクレアに目を向ける。イザベラはすぐに目線を外し、俯きながら穏やかにサロンを通り抜け、寮へと向かっていった。


 その様子を見ていた女子生徒たちが、噂を始めた。

「イザベラ様、彼女のせいで相当辛い思いをさせられたらしいわ」

 クレアの耳に、はっきりと届く声。

「イザベラ様が第二婚約者になったことが相当許せなかったのかしらね。家同士の取り決めなのに、イザベラ様個人を攻撃するなんて、浅ましいわ」

 それは、ヴィクトールが婚約破棄を宣言した際に表明した理屈だった。しかしクレアには身に覚えがなかった。イザベラが第二婚約者として内定したのは八年前。その間も、クレアとイザベラが個人的に顔を合わす機会は年に数回程度であり、お互いに社交辞令を言うだけだった。

 確かに打ち解けられてはいなかったが、それを「排斥」だの「攻撃」だのと言うには、客観的に見ても無理があるはずだ、とクレアは心の中で抗議する。


「イザベラ様は気高い方だから多くは語らないけれど、そもそも辺境伯風情が侯爵令嬢を差し置いて第一婚約者だったことがおかしいのよ」

「ヴィクトール様も、それを正そうとしていただけなのよね」

「なのに、テオドール様に色目使ってお姫様気取り。ローレント公爵家がダメだったから、今度はアヴェレート王家への擦り寄りかしら?」

 クレアは本を閉じ、静かに視線を向けた。

 噂話をしていたのは、王都に住む高位貴族の娘たちだった。彼女たちは、明らかにクレアに聞こえるように話している。それは、言葉のナイフを突きつけるようなものだった。

 クレアは眉をひそめながら、慎重に観察する。

 夏季休暇中に、ヴィクトール側も社交に勤しんでいただろうことを、クレアは推測する。そして社交を通じて、貴族たちからの支持を得るためには、話を「都合よく加工」する必要がある。そのための最も簡単な手段は、「共通の敵」を作ることだった。


 ——つまり、私がその役目を担わされたわけね。


 彼女たちの言葉を一言一句、冷静に分析しながら、クレアはゆっくりと立ち上がった。

 クレアから何か言い返すつもりはなかった。このような場で感情的に反応するのは、相手の思う壺だからだ。

 クレアは堂々とした足取りで、サロンを後にした。

 軽口を叩いた令嬢たちは、クレアが自分たちを睨みつけるでもなく、何も言わずに去っていったことで、逆に動揺したようだった。

「無視、ですって……?」

「まあ、少しは反応してくれてもいいのに」

 クレアは自分の怒りを抑え込みながら、サロンから遠ざかる。

 侮辱されても、怒りに任せて動いてはいけない。冷静に、着実に、状況を整えるのが大事だと、クレアは処世術として理解していた。


【家族はチーム】


 部屋に戻ると、クレアはすぐに書き物机に向かった。自分が聞いた噂話と、その背後にある意図を整理し、手紙にまとめる。宛先は父、シグムント・サヴィエール。

 学園の噂話に対して、一人で対応するのは得策ではない。貴族社会において、個人ではなく家として、チームワークでの対応が重要だ。何かあったときは、家族に情報を共有し、適切な対応を取ることが基本である。


 ——私は、一人で戦うつもりはない。


 クレアは万年筆を置き、手紙を封じた。そしてそれを送るべく、部屋を出た。


 女子寮のサロンで噂話を耳にしてから数日が経った。

 クレアはあの日のことを思い出しながらも、日常の学業に専念していた。学園内の空気は相変わらず穏やかだったが、一部の貴族令嬢たちの視線が、以前よりも厳しくなった気がする。

 しかし、クレアは表情ひとつ変えず、毅然とした態度を崩さなかった。噂に流されることなく、気にしない。それが、サヴィエール辺境伯家の令嬢としての矜持だった。


 そして迎えた週末、父からの返書が届いた。クレアは部屋に戻ると、封を切り、整然とした筆跡を目で追った。



クレアへ


まず、お前が学園で冷静に対処したことを評価する。

些末な噂に動揺することなく、事態を正しく判断し、我が家へ報告したことは、貴族の娘として正しい対応だ。


私の方でも探りを入れた。

ヴィクトールの周囲から流れている話は、ローレント公爵家の公式見解とは異なるようだ。

公爵家の意向というより、別の何者かがこの噂を拡散し、貴族社会の一部を取り込もうとしている可能性が高い。


特に、国王陛下のアヴェレート王家への接近に不満を持つ家々が、今回の動きに乗っているようだ。

ヴィクトール個人の策ではなく、彼の後ろにある勢力がこれを利用していると見ていいだろう。


だが、我が家としては、このような動きに軽率に反応するべきではない。

貴族社会において、軽率な反論は敵を作るだけだ。


お前が引き続き毅然としていれば、それで問題はない。

サヴィエール辺境伯家の立場は揺るがない。


むしろ、お前がすべきことは別にある。

アヴェレート王家への擦り寄りではなく、対等な関係であることを証明してみせよ。


これはサヴィエール家の立場を示すだけでなく、お前自身のためでもある。

覚えておくがいい、クレア。

どれほど噂が飛び交おうとも、真に貴族社会で生き抜く者は、実力で自分の立場を作るものだ。


誇りを持て。お前は、我が娘なのだから。


父・シグムント・サヴィエール



 クレアは手紙を読み終えた後、便箋を折り畳みながら、考えを巡らせた。

 シグムント・サヴィエールは、娘を単なる庇護対象ではなく、一人の貴族として見ていた。

 噂に動揺することなく、毅然とした態度を貫くことこそが、サヴィエール辺境伯家の立場を示す道だと、明確に伝えている。

 その言葉を受け取ったクレアの表情には、安堵と誇らしさが混ざっていた。しかし。


『アヴェレート王家への擦り寄りではなく、対等な関係であることを証明せよ』


 ——娘に求める課題にしては、あまりにも無茶振りではありませんか?


 クレアは苦笑した。父は、時折、娘に求めるハードルが高すぎると、クレアは心の中で抗議する。

 しかし、だからこそ、クレアは微かに口元を引き締めた。クレアは父の信頼に応えたい、と思った。

 父の期待が重圧ではなく、励みになる。それは、クレアにとって、何よりも大きな支えだった。

 クレアは静かに深呼吸し、手紙をしまった。

 そして「対等な関係」を示すために、自分がどうあるべきかを考える。サヴィエール辺境伯家の令嬢として、クレアはその決意を新たにするのだった。


【意外な援軍】


 時同じ頃、王都のとある屋敷。

 陽の光が柔らかく差し込む優雅なサロンでは、華やかな装いの少女たちが集まり、小さなお茶会が開かれていた。

 その中心には、ローレント公爵家の令嬢、スカーレット・ローレントの姿があった。

 彼女はまだ十二歳という年齢ながら、その佇まいにはすでに公爵家の令嬢としての品格が漂っていた。

 そんな中、ふと一人の少女が、スカーレットに向かって話しかける。

「ねえ、スカーレット様。お兄様のこと、大変だったみたいね」

 慎重に選ばれた言葉だったが、その声には、どこか好奇心が滲んでいた。

 スカーレットは、紅茶を一口含み、何でもないことのように微笑んだ。

「ええ、確かに少し騒ぎになりましたわね」

 そこへ、別の少女が遠慮がちに問いかける。

「でも……その、クレア様が酷いことをしたって、本当なの?」

 スカーレットは、わずかに目を見開いた後、くすくすと上品に笑った。

「まあ、そんなことはありませんわ」

 少女たちが不思議そうに顔を見合わせる中、スカーレットは優雅にカップを置き、言葉を続けた。

「むしろ、あれはお兄様が悪いのです。クレア様のことが本当は大好きなのに、意地悪するから、あんなことになったのですわ」


 その場の空気が、一瞬にして変わる。

 年若い少女たちの間では、「えっ、そうなの?」と、驚き混じりの囁きが交わされる。

 しかし、それ以上に注目すべきは、周囲に控えていた貴婦人たちの反応だった。彼女たちは、思わず目を見合わせ、静かにささやき合った。

「そういうことなの……?」

「まさか、ヴィクトール様は……」

 疑惑の種が、新たに芽吹く瞬間だった。

 スカーレットは、その様子を横目でちらりと観察し、小さく口角を上げた。無邪気な笑みを浮かべながら、紅茶のカップをそっと持ち上げる。


 ――あの男の思い通りになどさせはしない。


 スカーレットの灰色の瞳には、決意の光が宿っていた。

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