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第一話:新学期早々の求愛ゲーム

【伏線回収】


 二学期初日のアヴェレート王国史の授業は、クレアにとって新たな発見と、思わぬ動揺をもたらすものだった。

 この授業は唯一、クレアとテオドールが重ならない授業だった。この時間帯、テオドールは財政学を履修している。クレアはテオドールに、アヴェレート王国史を選択しなかった理由を尋ねたことがあるが、その返答は至って真っ当なものだった。

「ヴァルミールで自国の歴史がどう説明されているか、興味なくはないけど……教授がやりにくいでしょ」

 それを聞いて、クレアは「確かに」と納得した。


 テオドールが自身の隣に座らないこの授業は、ある意味クレアの心の安定を約束するものだった。

「さて、本日のテーマは、アヴェレート国教の歴史的変遷についてです」

 教授の穏やかな声が講義室に響き渡る。クレアはノートを取りながら、淡々と講義を聞いていた。


「アヴェレート国教は、かつてアヴェレート王国に強い政治的影響力を持っていました。しかし、11年前のフォルケン公爵家の断罪を境に、その力は大きく衰退しました。フォルケン家は国教に多額の寄進を行っていましたが、その失脚により、国教の権威も同時に失墜したのです」

 クレアは「フォルケン家」の名を耳にし、自然と背筋が伸びる。アヴェレート王国のフォルケン家といえば、かつては小国の王家すら凌ぐほどの権勢を誇った大貴族だった。その家が断罪された衝撃は国境を超え、ヴァルミールの貴族社会にも大きな動揺をもたらした。

 モンテヴェール侯爵家が、ローレント公爵家とサヴィエール辺境伯家の婚約に、後から横入りしてきた遠因もここにある。断罪後、アヴェレート王国内では旧フォルケン派の貴族たちが暗躍し、国内を二分しかねない危うい状況が続いた。

 当時のモンテヴェール侯爵は、こうしたアヴェレート王国の混乱がヴァルミール国内に波及することを懸念していた。そこで彼はある策を講じた。

 それが、孫娘イザベラをヴィクトールの第二婚約者として送り込むことだった。その目的は、王家と強いパイプを持つローレント公爵家と、国内貴族への強い影響力を持つモンテヴェール侯爵家が手を組むことで、国内貴族の団結を強化することだった。

 ただし、近年モンテヴェール侯爵家が代替わりしたことで、この婚約の意味は少しずつ変質しつつあった。序列を破り、サヴィエール辺境伯家よりも優位に立つことを良しとしていた。サヴィエール辺境伯家も、その兆候を敏感に感じ取っていた。


「しかし、国教は単なる権威ではありませんでした。その後、元々の教義である、薬学的知見に基づく民衆救済を軸とすることで、再び信頼を得ていきます。教会による薬草栽培は、ただの宗教的行為ではなく、実際に民衆の健康を支えるものとなりました」

 薬草栽培——クレアは、夏休みの市場で見た光景を思い出す。アヴェレート王国の東部地域で栽培された薬草が、香料や布の染色に活用されていた。テオドールからプレゼントされた香り袋は、クレアの寝室に置かれている。

「宗教的シンボルとして、アヴェレート国教が重んじる薬草には、アイリス、ラベンダー、そしてカモミールがあります。特に、ラベンダーとカモミールは、『夫婦草』と呼ばれ、共に植えることで強い結びつきを象徴するとされ、古くから婚姻の儀式などでも用いられてきました」


 ——ん?


 クレアのペンが、ノートの上で止まる。


 ——ラベンダーとカモミール?

 ——夫婦草……?


 その瞬間、夏休みの市場での出来事が脳裏に蘇る。

 テオドールがクレアにプレゼントしたラベンダーの香り袋。その後、テオドールが即座にカモミールの香り袋を購入した。そして、店主が意味深な笑みを浮かべていた。

「え、じゃあ……あれ……」

 クレアの顔が、一気に熱くなる。

 あの時は、テオドールの好みの香りなのだろうと、クレアは思っていた。しかし、それが『夫婦草』としての意味を持つと知れば、話はまるで違う。


 ——テオ様は、この意味を当然知っていたはず!


 問題は、テオドールがそれをどこまで意図していたのか、という点だった。ただ「何となく」カモミールを選んだのなら、深い意味はないのかもしれない。

 しかし、テオドールは迷いなくカモミールの香り袋を選んでいた。あの時、店主の含み笑いにも気づいていたと、クレアは確信する。


 ——つまり、わざと? からかうつもりで? それとも、別の意図が?


 クレアの思考は一気に混乱し、こめかみに手を当てた。いずれにせよ、今さら本人に確認する勇気はない。

 クレアはこっそりと頬を押さえながら、次第に増していく熱を必死で押さえ込もうとした。


 授業が終わった後、クレアは一人、廊下を歩いていた。

 額に手を当てながら、未だに熱の引かない頬をどうにかしようとするが、心臓の鼓動は落ち着く気配を見せない。

「……何でよりによって、授業中に気づくのよ……」

 独り言を呟きながら、何とか冷静さを取り戻そうとしていた、その時だった。

「やあ、クレア」

 その声が耳に届いた瞬間、全身がびくりと跳ねた。振り返ると、そこにいたのはテオドールだった。テオドールはいつもの飄々とした態度で、微笑みながら近づいてくる。

 クレアは、ふつふつと込み上げる動揺を抑えきれなくなり、思わず口を開いた。

「あなたって人は!!」

 その一言だけを放つと、クレアは顔を真っ赤にしたまま、テオドールの前から逃げるように去っていった。まるで脱兎のごとく。

 残されたテオドールは、ぽつんと立ち尽くしたまま、楽しげに笑った。

「……気付いたみたいだね」

 意味ありげに微笑む彼の様子は、クレアの唐突な反応も相まって、周囲の生徒たちの興味を引いた。


 こうして、二学期が始まるや否や、二人の求愛ゲームはさらなる盛り上がりを見せることになるのだった。


【女同士のランチタイム】


 その日の昼休み、クレアは、学園の庭にある静かなテラス席で、フィオーネとランチを取ることにした。

 秋の気配が漂い始めた涼やかな風が、庭園の木々を優しく揺らしている。色とりどりの花が咲き誇る中、クレアとフィオーネは優雅にティーセットを広げていた。

「クレア、聞いてちょうだい! 最近、とんでもない問題作の歌劇を見たの!」

 ランチが始まるや否や、フィオーネは顔を真っ赤にして、勢いよく語り始めた。

「タイトルは『光の君と影の恋』! 王国一の美貌と才を持つ貴公子ライトハルトが、次々と貴族の令嬢や姫君と恋をしていく物語なの! でもね!? 彼のせいで人生狂った女性が何人いると思う!? 数えきれないわよ!!」

 フィオーネは勢いのまま、手振りを交えながら熱く語り続ける。

「しかもよ!? このライトハルト、女性たちを本気で愛してるって言うんだけど、いつも結局『すれ違い』とか『運命のいたずら』とか言い訳して逃げるの! いやいやいや、待って!? それってただの無責任男じゃない!? 何でこんな男が宮廷中の女性たちからモテるのよ!!」

 クレアが若干引きながらも、「えっと……」と口を開こうとすると、フィオーネはさらに畳みかける。

「でね!? 一番ヤバいのが、ライトハルトが『理想の女性』を手に入れるためにやったことなの! 彼の初恋はラベンダー妃なの!! でも彼女はすでに父の後妻なの!! 当然だけど、ライトハルトは彼女を手に入れることができない!!」

 クレアは頷きながら、「なんか今日はラベンダーに縁があるわね……」と、内心で全く関係のないことを考えていた。

「なのに!! ライトハルトは諦めないの!! ラベンダー妃に似た少女を見つけた瞬間、『僕が育てる』って言い出すのよ!!!!」

 中庭が一瞬沈黙する。クレアは硬直し、周囲の空気が止まったように感じられる。

「えっ……育てる……?」

「そう!! しかも、ほぼ誘拐同然で!! 親元から引き離して!! 『君が大人になったら、僕の理想の女性になってくれるかな』とか言って!! 何それ!? 怖すぎるんだけど!? しかも、その子は純粋だから、彼を慕って成長しちゃうの!! で、その子に新たにつけた名前がバイオレットなの!! ねえ、もう名前からして露骨に”紫”じゃない!? いやいや、最初からこの子をラベンダー妃の代わりにしようって決めてたんでしょ!? 怖すぎるわよ!!」

 クレアは完全に絶句した。

「……なんか、その話、すごく倫理的に……」

「でしょ!? 私も観てて『これ恋愛じゃなくて洗脳では!?』って思ったわよ!!」

 フィオーネはさらに熱を込める。

「でね! 最後の最後に、ライトハルトはバイオレットに拒まれて、一人で影の中で呟くの! 『私の愛は、幻だったのだろうか……』って! は!? いやいやいや、あなたのせいで泣いた女たちの涙は現実ですけど!? 何をしれっと悲劇のヒーローぶってんの!? どう思う!? ねえクレア、どう思うの!?」


 ――興奮しすぎている。


 クレアは、フィオーネの熱量に気圧されながらも、微笑を浮かべた。

「とても……ドラマチックな展開ね」

「そうなの!! ぜんっぜん共感できないんだけども、それでも運命に翻弄されながらも、登場人物たちの選択に惹きつけられるの!! 結局、物語は“選択”なのよね。愛するか、愛さないか。運命に従うか、逆らうか。そういう葛藤があるからこそ、観客は心を動かされるのよ!!」

 語り終えたフィオーネは、うっとりと目を細めながら紅茶を一口飲んだ。

「……はぁ、もう一回観たいわ」

「え、問題作だって言ってたのに……?」

「問題作ほど胸ぐら掴まれるのよ!」


 ――これは本気ね。


 クレアは、フィオーネの熱意に感心しながら、彼女の本質を再認識する。

 フィオーネは、本質的に物語を愛する人間なのだ。彼女にとって、歌劇はただの娯楽ではなく、人の生き様を感じる場であった。その愛が昂じて、彼女は学園の歌劇部に所属しているし、彼女の選択科目は「文学」「歌劇学」「修辞学」、そして申し訳程度に「刺繍科」であった。


 そんな話をしている最中、不意に、二人の前を一人の男性が通り過ぎた。フィオーネの婚約者――男爵家の嫡男、ハロルド・ツェルナーである。

 ハロルドはちらりとフィオーネに視線を向けたが、それ以上は何も言わず、ただ静かに歩き去った。

 フィオーネもまた、わずかに彼を見つめたものの、声をかけることはなかった。二人の間には、何か目に見えない距離があるように感じられた。

 その様子を見ていたクレアは、思わず口を開く。

「……何か、あったの?」

 フィオーネは、少しの間だけ言葉を選ぶように沈黙した。そして、軽く微笑みながら答えた。

「……ちょっと、喧嘩中なの」

 その答えに、クレアは少しだけ心配そうな表情を浮かべた。

「大丈夫なの?」

「ええ、大丈夫よ。お互い、考える時間が必要なだけ」

 フィオーネは、さりげなくカップを持ち上げながら、特に気にしていない素振りを見せる。


 ――本当にそうなのだろうか。


 フィオーネは、物語のことを除けば、普段から感情を表に出すタイプではない。だからこそ、こうしてさらりと「喧嘩中」と言う彼女が、実際にどんな気持ちを抱えているのか、クレアには分からなかった。

 しかし、フィオーネはそれ以上、自分の話を続けようとはしなかった。代わりに、くるりと話題を変える。

「それより、クレア。あなたの方が気になるわ」

「え?」

 フィオーネは、悪戯っぽく微笑みながら、クレアをじっと見つめる。

「テオドール殿下と、夏休みの間、随分と仲が深まったそうじゃない?」

「なっ――!」

 クレアは、さっきまでのフィオーネとは逆に、顔を真っ赤にした。

「ち、違うわよ! ただの友達よ、友達!!」

「ふふっ、その反応、すごく面白いわね」

 フィオーネは、クスクスと笑いながら紅茶を口にした。

「でもね、クレア。私、さっきも言ったでしょう?」

「え?」

「物語は“選択”が大事だって」

 その言葉の意味を、クレアはすぐには理解できなかった。

 フィオーネは、それ以上何も言わずに微笑むだけだったが、どこか含みのある視線をクレアに向けていた。

 クレアは、それ以上追及することができなかった。

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