挿話②:恋が報われるとき
【長年の恋心】
アヴェレート王国の、夏の社交シーズンも終わりかけていた。貴族たちがそれぞれの領地へ戻る準備を進める頃、公爵令息モーリス・ウィンドラスは一通の招待状を受け取った。
ロシャール男爵家のカイル・ロシャールが主催するパーティ。
ヴァルミール王国との親交を深めるための会合であり、エリオノーラ姫、そして王女マルガリータも参加すると記されていた。
「……参加させていただきます」
モーリスは即決した。
ロシャール男爵家の広間は、同世代の貴族令息・令嬢が集まり、カジュアルでありながらも華やかな雰囲気に包まれていた。格式ばった王宮の舞踏会とは違い、親しみやすい空気が漂うこの場は、若い貴族たちにとって肩の力を抜いて交流を深める貴重な機会であった。
モーリスはまず、カイル・ロシャールに軽く挨拶を交わす。
「良い場を設けてくれたね、カイル。君の企画力にはいつも驚かされるよ」
「まぁね。王女殿下もいらっしゃるとなれば、ただの親睦会とはいえ気を抜けないからな」
カイルは肩をすくめながら、手際よく招待客をもてなしていた。彼は男爵家の令息でありながら、その広い人脈と機知で、貴族社会において確かな存在感を示していた。
続いて、モーリスは今日の主役であるエリオノーラ姫にも挨拶をする。
「姫君、ご機嫌麗しゅう」
「ウィンドラス公爵令息、ご丁寧にありがとう」
エリオノーラ姫は、姫らしく微笑みながら挨拶を返した。その表情には気品と優雅さが漂っている。しかし、モーリスにはわかっていた。彼女の心の奥底に、まだ拭いきれない痛みがあることを。
王弟ラグナルへの叶わぬ恋。彼が公の場でアデル・カレスト公爵へ告白したため、その想いが報われることはなかった。
しかし、エリオノーラ姫は、まるで何事もなかったかのように振る舞っていた。その姿に、モーリスは自らの心境を重ねる。
彼の視線が、ふと離れた場所にいる一人の女性を捉えた。
王女マルガリータ・アヴェレート。
貴族令嬢たちに囲まれ、華やかに談笑する彼女。黒みを帯びた茶色の髪と、青みがかった黒目。国王と王妃の色合いを少しずつ受け継いだ、その凛とした姿。
モーリスは、彼女に恋をしていた。
初めて彼女と出会ったのは幼少期。父と母に連れられ、王城のパーティに参加したときだった。
「はじめまして、ウィンドラス公爵家のモーリスと申します」
まだ幼いながらも、彼は礼を尽くした。
「まあ! はじめまして、モーリス!」
満面の笑みで挨拶を返してくれた、幼き日のマルガリータ。たったそれだけで、モーリスの心は奪われて久しい。
しかし、この恋が叶わぬものであると悟ったのは、彼女がデビュタントを迎えた頃だ。
真っ白なドレスに身を包み、舞踏会の中心で華やかに微笑む王女。その姿は、まるで天上の娘のようで、手を伸ばしたところで決して届くことはないのだと、彼は理解した。
彼女は王女である。その立場に相応しい相手と結ばれ、国外に嫁ぐことが一般的だ。そして、モーリスの家は王家と一定の距離を置くことを良しとしている。
——この恋は、決して叶うことはない。それでも、彼女が誰かと婚約を決めるまでは、この想いを胸に抱いていたい。
そんな中での、このパーティだった。
カジュアルな親睦会。普段の社交界では決して近づくことのできない王女と、自然に会話を交わす機会。
父の目を気にせず、ただ同世代の貴族として、彼女に話しかけることができるかもしれない。モーリスは、そっと息を整えた。
マルガリータが貴族令嬢たちの輪の中で談笑していた。その美しい笑顔に見惚れそうになりながらも、彼は自分に言い聞かせる。
——話しかけるなら、今しかない。
意を決したその時、マルガリータが、令嬢たちの輪からすっと抜け出し、まっすぐにモーリスの方へと歩いてきた。
モーリスは、足をすくませた。
——え? いや、待ってくれ。話しかける覚悟はしていたが、彼女の方から来るとは……!
戸惑うモーリスの前で、マルガリータは涼やかに微笑んだ。
「ご機嫌よう、モーリス・ウィンドラス公爵令息」
王家の気高さを纏いながらも、どこか親しげな響きを含んだ声。
「ご、ご機嫌よう、王女殿下……」
紳士らしく返したつもりだったが、声が少し上擦ってしまった。
ああ、恥ずかしい——そう思った矢先、マルガリータはふっと笑い、優しく囁いた。
「何度もお会いしているのに、こうしてゆっくりお話できるのは初めてですものね。私も少し緊張していますわ」
——そんなわけ、ないだろう。
彼女のような才気溢れる王女が、自分と話すことに緊張するはずがないと、モーリスは思い直す。しかし、その気遣いにモーリスは心を射抜かれる。
もはや、何度目かわからないほど、モーリスはまたしても彼女に恋をした。
【叶わぬ想いを抱えた者同士】
マルガリータ・アヴェレートは、このパーティに参加すると決めた時点で、ひとつの目的を定めていた。
モーリス・ウィンドラスと接触すること。それは彼女に課せられた、王家の密命だ。
西部地域の盟主、ウィンドラス公爵家。その影響力は広く、王国内で唯一の主要港を擁し、海洋交易によって独自の経済圏を築いている。そのため、ウィンドラス公爵家は代々、「王家の統治には賛同するが、西部のことは西部で決める」という姿勢を貫いてきた。
アヴェレート王家が『千年の団結』を掲げる以上、中央と地方の連携は避けては通れない。しかし、西部地域との関係はまだ不十分だった。
その課題の解決を、父アーサーはマルガリータに託したのだ。
「北にはラグナル、南にはレオン、東にはテオドール。そして西部はお前に任せたい」
そう言われたとき、マルガリータは思わず呆れた。
——どんな形でもいいから、信頼関係を獲得してこいって……簡単に言ってくれるわ。
マルガリータは知っている。王女はやがて、国外の王家との政略結婚を求められることになる。彼女に残された時間は、決して長くはない。
——もし本当に西部を私に任せたいのなら、いっそ国内で結婚させてくれればいいのに。
そんなことを思ってしまう自分が、少しおかしかった。
マルガリータは、アヴェレート王国を愛していた。
生まれ育ったこの国で、多くの人々と出会い、友情を築いてきた。身分の違いに囚われず、心から信頼し合える者たちもいる。そんな彼らが、穏やかに、幸せに生きていける国であり続けることをマルガリータは願っている。
——なのに、私が大人になる頃には、この国にいられない。
それはまるで、叶わぬ恋のような気持ちだった。あと何年この国に留まれるのだろうか、とマルガリータは指折り数えては、ため息をつく。
だからこそ、彼女は決意していた。少しでも、この国の未来に自分の足跡を残そうと。王家の名を持つ者として、与えられた役割を果たすのだと。
そして、今。マルガリータは、自らモーリス・ウィンドラスの元へ歩み寄った。
「ご機嫌よう、モーリス・ウィンドラス公爵令息」
モーリスの目が一瞬、見開かれる。
普段、貴族の集まる社交場では、彼女に近づくことなどほとんどない彼が、少しだけ戸惑ったように口を開いた。
「ご、ご機嫌よう、王女殿下……」
どこか緊張したような声音。けれど、彼は誠実に言葉を紡いだ。
マルガリータは、その様子を微笑ましく思いながら、少し肩の力を抜いて言った。
「何度もお会いしているのに、こうしてゆっくりお話できるのは初めてですものね。私も少し緊張していますわ」
モーリスの瞳が驚きに揺れる。
彼が緊張していることは、マルガリータも最初からわかっていた。その壁を少しでも取り払うため、マルガリータは努めて穏やかに接した。
「……緊張、ですか?」
「ええ。こうしてお話しできること、とても嬉しく思いますわ」
マルガリータは微笑んだ。
すると、モーリスは微かに息を呑み、ほんの少しだけ、視線を逸らした。
その仕草に、マルガリータは気づく。彼の心の内に、微かに潜む感情を。
彼女は王女として、数多の貴族たちから求愛を受けてきた。政治的な駆け引きの一環として、あるいは表面上の礼儀として、そうした言葉を交わすことには慣れている。
しかし、モーリスのそれは、明らかに違っていた。彼の視線には、淡く、しかし確かに切ない想いが宿っていた。
「……マルガリータ様が身につけているジュエリー、とてもお似合いですね」
モーリスが、ふとそんな言葉を口にした。
マルガリータは、自分のネックレスに目を落とした。
「あら、ありがとうございます。これはエテルニタのものですのよ」
そう答えた瞬間、モーリスの表情がわずかに変わる。
「ロシャール男爵家が国外から輸入し、鑑定した宝石、ということですね」
「ええ」
モーリスは静かに微笑んだ。
「ウィンドラス公爵家の港を通じて、それが貴女のもとに届いたのかと思うと、誇らしい気持ちになります」
それは、誇りであると同時に——どこか、切なげな響きを帯びた言葉だった。
マルガリータは、その言葉の裏にある想いに気づかないほど鈍感ではない。
彼の心には、明確な恋心があった。
マルガリータは気づかぬふりをしようとしたが、無理だった。彼の目の奥にある感情は、あまりにも純粋で、ひたむきだった。
それが、政略のためではない、本当の恋心であることが、マルガリータにはわかってしまった。王家と距離を置く家に生まれた彼が、その想いをどれほど秘めてきたのかも。
——彼の気持ちが、どうしようもなく理解できてしまう。
モーリスが王女という「手の届かぬ存在」に恋をしたように。
自分もまた、アヴェレート王国という「手放さねばならない存在」に、恋をしている。
だからこそ、モーリスの誠実な想いが、マルガリータは嬉しかった。彼もまた、同じ気持ちを抱えているのだと、知ることができたから。
「……マルガリータ様?」
モーリスが、不思議そうに彼女を見つめる。
マルガリータは、そっと微笑んだ。
「ありがとう。そう言っていただけて、とても嬉しいですわ」
——彼の恋心には応えられないかもしれない。けれど、この国に生きる王女として、彼の誠実さを否定したくない。
モーリスの想いも、マルガリータの想いも、いつか海の泡沫のように、現実が飲み込んでしまう。それでも、この一瞬の交錯だけは、紛れもなく本物だった。
マルガリータは、ふっと悪戯っぽく笑った。
「ねえ、もし今ここで私と貴方がダンスしたら、ちょっとした騒ぎになるかしら?」
軽やかな口調で放たれた言葉に、モーリスは一瞬驚いたように瞬きをした。
アヴェレート王国の王女、マルガリータ・アヴェレート。そして、西部地域の盟主であるウィンドラス公爵家の令息、モーリス・ウィンドラス。
王家と距離を置き、独立独歩を貫いてきた名門の令息が、いつか国外の王族と政略結婚することが既定路線と思われている王女と舞踏を交わす——それは確かに、貴族社会にとって話題の的になるだろう。
それが何を意味するのか。モーリスは理解しているはずだった。
「……構いません」
彼は迷いなく手を差し出した。
「今宵の貴女のダンスパートナーを務める名誉を、どうか私に」
マルガリータの瞳が、ひときわ鮮やかに輝いた。
「もちろんよ」
彼女はすぐに手を伸ばし、その指先がモーリスの手に触れた瞬間、音楽が変わる。
広間の中央、今夜のためにカイルが用意した楽団が、新たな旋律を奏で始める。二人は自然と舞踏の輪へと足を運んだ。
公爵令息と王女のダンス。それは決して派手ではなく、華やかすぎることもなかった。けれど、二人の舞は、静かな調和と、どこか繊細な切なさを帯びていた。
マルガリータは、モーリスの切ない熱を帯びた視線を受け止めながら、軽やかにリードに身を任せる。マルガリータの視線の端に、若い貴族たちの驚きの表情と囁き合う様子が入ってくる。
社交シーズンを締め括る新たな噂になりそうだ、と、マルガリータは苦笑する。
そう思いながらも、この瞬間、彼女は何もかもを忘れたかった。ただ、今ここにある感情だけを、大切に抱きしめるように。
音楽が静かに終わりを告げ、二人はゆっくりと足を止めた。
その場にいた貴族たちが、どよめきを隠せずにいる。
モーリスがエスコートするように手を添え、マルガリータが優雅に一礼する。それだけで、広間は一瞬、魔法にかけられたような静寂に包まれた。
その日の夜。
王城の一室で、マルガリータは両親と向き合っていた。パーティから帰ったばかりの彼女は、ドレスの襟元を軽く整えながら、少しばかり挑戦的な視線を父に向けた。
「ねえ、お父様」
国王アーサー・アヴェレートは、娘の様子を静かに見守っていた。
マルガリータは、意を決したように言葉を続ける。
「西部地域とどのような形でもいいから信頼関係を築いてこい、とのことでしたわね?」
「ああ、確かにそう言ったな」
「それなら……私がモーリス・ウィンドラスと婚姻しても構わないですわよね?」
その言葉が執務室に響く。しんと静まり返る空気。
それは、マルガリータにとって、一世一代の賭けだった。
王女として、これまでに幾度となく訪れた政略の話。それを「自らの意志」で選択することで、彼女は自分の未来を掴み取ろうとしていた。
マルガリータが静かに父を見据えると——
「それがお前にとって、この国にとっての幸せであると確信するなら、異論はない」
アーサーは、迷いなくそう答えた。
「では、ウィンドラス公爵夫人とお茶会しなくては」
王妃メレディスが、何気ない調子でそう言い放った。……本当に、何気なく。
マルガリータの唇が、思わず引きつる。
「……ええと、お母様?」
「あら? だって、これから仲良くするのなら、ご夫人と関係を築いておいた方がいいでしょう?」
「……あの、それは……」
「本当に楽しみですわね」
メレディスは満面の笑みを浮かべ、すでに未来を見据えている。
そしてマルガリータは、アーサーの表情を見た。そこには、静かな満足の色が浮かんでいた。
——最初からこれが狙いだったの?
「レオン、マルガリータ、テオドール。お前たちには王族として、相応しい選択と覚悟ができるよう、育ててきた。そのお前が選んだ相手なら、何の不足もないだろう」
アーサーがニヤリと笑う。
「モーリスくんの一途さなら、安心して娘を嫁がせられるわ。マルガリータ、見る目があるわね」
メレディスがニコリと笑う。
マルガリータは脱力しながらため息をつく。そしてもう一度顔を上げた。
「国王陛下と王妃殿下と、同じ判断ができたことを、誇りに思うようにしますわ」
マルガリータは、微笑ましいような、呆れたような表情で、軽く肩をすくめた。
王家のロマンスは、いつだって時代を動かすものだ。そして自分もまたその大きなうねりの中にいることを、マルガリータは自覚しつつ、この国とともに歩めることを喜ばしく思うのだった。
【外堀を埋める盤面戦略】
息子モーリスが告げる。
「父上。僕はマルガリータ王女との婚姻を望みます」
妻ミランダが推す。
「貴方! これはラグナル殿下とアデル嬢に連なる、ロイヤルロマンスよ!! 絶対に娶らせないとダメよ!!」
長年の執事が嘆息する。
「いやぁ、モーリス様が王女殿下と並ばれる姿、まさにお似合いですね……」
港湾の商人がはしゃぐ。
「ウィンドラス家が王家と繋がれば、交易がさらに拡大できますな!」
貴族社会が噂する。
「ついに西部も王家と手を結ぶのですね……!」
側近が説得する。
「これはもう止められませんよ、公爵」
「いやいやいや、ちょっと待て!!!」
西部地域の盟主、ウィンドラス公爵が屋敷で叫んだ。
「王家と距離を取るのが我が家のスタンスでは!? うちはそういう家じゃないだろ!? お前ら、いつから王家とべったりする方針になった!? 家訓!? え、家訓は!? どこ行った家訓!? せめて俺が許可出してから話進めろよ!?!?」
悲しくも、ウィンドラス公爵の嘆きは誰にも届かない。
そんなある日、王弟ラグナルがウィンドラス公爵に語った。
「今王家が勧めている、国内を繋ぐ交易幹路計画。あれを西部地域の港湾と直結させれば、きっと莫大な利益が上がるでしょうね。ただ、そのためには王家との長期的な関係構築が必須ですが……誇り高い貴家には無用のお話でしたね」
ウィンドラス公爵はその優しい悪魔のささやきに膝を折った。
かくして王家の盤面戦略は、テオドールが担う東部地域を残すのみとなる。
ラグナルとウィンドラス公爵は同世代という裏設定があります。多分若い頃からこんな関係。
これにて第二部は終了です。来週土日から第三部を開始します。




