表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

20/78

第十二話:貴族たちを利用する一夜

【ヴィクトールとモンテヴェールの動向】


 夏季休暇中のある晩、ヴィクトール・ローレントはモンテヴェール侯爵家が主催する夜会に姿を見せていた。

 モンテヴェール侯爵家は、ヴィクトールの婚約者であるイザベラの家。格式高くも華やかなその広間には、ヴァルミール国内でも屈指の貴族たちが集い、ワイン片手に思惑を巡らせていた。

 ヴィクトールはそんな貴族たちの間を、優雅に渡り歩いていた。彼の周囲には、公爵家の当主や次期当主たちが集まり、慎重な言葉を交わしている。


「ヴィクトール殿の決断は、実に英断だったと思うよ」

 ある公爵家の当主が、グラスを揺らしながら語りかける。

「国王は、あまりにアヴェレート王家へ接近しすぎている。アヴェレート王国からの影響を削ぐために、その影響を最も受けやすいサヴィエール辺境伯家と距離を置くのは、国益に適う行為だ」

 ヴィクトールは穏やかな笑みを崩さず、軽く頷いた。

「にも関わらず、その空気を読まないクレア嬢は、政治というものをわかっていない。優秀とは聞いているが、所詮は女子ども。大局観を持ち合わせていないのだろう」

 他の貴族たちが、そろそろとワインを口に運びながら、言葉を継ぐ。

「そのクレア嬢が、テオドール殿下とともにサヴィエール辺境伯領を視察したという話だ。あの抜け目のない殿下にとっては、さぞかし『扱いやすい案内役』だったろうよ」


 国王エドバルド・フィーリスの、アヴェレート王家への過度な接近。

 これは、ヴァルミールの高位貴族たちの間に実しやかに蔓延するキーワードだった。

 本音を言えば「擦り寄り」や「従属」と呼びたいところを、上品に言い換えた表現だった。


 この引き金となったのは、アヴェレート王国の王弟ラグナル・アヴェレートだ。テオドールの叔父である。

 かつて、ラグナルの仲介によって、ヴァルミールは隣国エルゼーンとの戦争を回避できた。当時、ヴァルミールとエルゼーンは、貿易協定を巡って対立激化していた。そこで両国の宰相の交渉に、アヴェレートの外交官かつ調停役としてラグナルが参加し、双方の平和的合意へ導いた。その功績は、今でもヴァルミール国内で感謝と敬意をもって語られる。


 しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れるのが人間だ。

 現在のヴァルミールの高位貴族の中には、エドバルドがアヴェレート王家を重んじる態度に、不満を持つ者たちがいた。国王と懇意にしたいが、それが叶わない家々である。

 彼らはエドバルドと、アヴェレート王家への直接的な批判を避けつつ、その不満の矛先にクレア・サヴィエールを選んだ。


「ヴィクトール殿、私たちは君の行動を理解しているよ」

 そう言われ、ヴィクトールは涼やかに微笑む。

「ご理解、ありがとうございます」

 その声は優雅で、感情を微塵も滲ませない。

 しかし貴族社会は一枚岩ではない。

 彼らはヴィクトールの決断を「理解」してはいる。しかし、それを「支持」するとは、一言も言わない。


 彼らの態度は慎重だった。ヴィクトールがサヴィエール辺境伯家との関係を断ったことは、ヴァルミールの貴族社会のバランスを揺るがす可能性を秘めている。それに乗るかどうか、まだ決めかねている者も多かった。

 この夜会の広間では、言葉の一つ一つが慎重に選ばれ、微妙な駆け引きが繰り広げられていた。


【モンテヴェール侯爵の策略】


 モンテヴェール侯爵は、自らが主催する夜会の広間の片隅で、ゆったりとワインを傾けていた。彼の目は、優雅に談笑する貴族たちを冷静に見渡しながら、まるで盤上の駒を見極めるかのように鋭く動いていた。

 彼もまた、この場に集う貴族たちと同じく、腹に思惑を抱える一人だった。

 彼が目を留めたのは、夜会の中央で談笑するヴィクトール・ローレント。その表情には余裕があり、まるで全てを見通しているかのような微笑みを湛えていた。

 モンテヴェール侯爵は、自身の策略が順調に進んでいることを、密かに喜んだ。


 ヴィクトールの実父であるローレント公爵は、息子の「愚行」に対し、実に冷静な判断を下していた。

 婚約破棄騒動についても、「ヴィクトールが婚約者間のバランスを取ろうとし、証人のいる場で正そうとした。そこに、文脈を知らないテオドール殿下が、正義感に駆られて介入した」という、ギリギリのバランスの取れた公式見解を打ち出した。

 しかし、モンテヴェール侯爵は、より大胆に動いた。


 ――ヴィクトールの行動は政治的に正しかった。

 ――クレア嬢がテオドール殿下と懇意にするのは、アヴェレート王国への擦り寄りそのものであり、国益を損なう。


 高位貴族たちの間に燻る、王家への不満を巧みに利用しながら、この新たな「解釈」を実しやかに広めていったのは、他ならぬモンテヴェール侯爵だった。

 そのために彼は、娘であるイザベラを介して、ヴィクトールと密かに繋がり、このストーリーを広める密約を交わした。

 モンテヴェール侯爵家は、貴族社会の調停役を担う。その立場を利用し、日々、貴族たちとの協議を重ね、交渉を行い、権力のバランスを整える。そして、中立の顔を保ちながら、都合の良い噂を流すことなど、赤子の手首を捻るよりも簡単なことだった。

 情報は権力であり、言葉は武器だ。彼の策略は、確実に実を結びつつあった。


 モンテヴェール侯爵が、ふとワインを置き、夜会の片隅でヴィクトールを見つめる。彼の方へとゆっくり歩み寄ると、まるで慈愛に満ちた父親のような微笑を浮かべた。

「ヴィクトール君、この度はありがとう」

 ヴィクトールは、その言葉に優雅に微笑み返す。

「モンテヴェール侯爵、私こそ、感謝申し上げます」

 表向きは穏やかな義父と義息子の対話。しかし、その背後に隠されたものは、到底、誰にも読めはしない。

 侯爵は、ワインを片手にヴィクトールの肩を軽く叩きながら、静かに告げた。

「イザベラの伴侶として、そして将来の息子として――君には、期待しているよ」

 それは、まるで愛情ある家長の言葉のように響いた。

 しかし、その言葉の奥には、ただ一つの意図しかなかった。

 ヴィクトール・ローレントを、己の傀儡とすること。

 モンテヴェール侯爵は欲深い男だった。先代の意向で決まったこの婚約を、より自家に有利に変質させることが狙いだった。

 サヴィエール辺境伯令嬢を第二婚約者に格下げする画策は、彼にとって都合が良かった。それどころか、婚約破棄されたことは、更に都合が良かった。

 あとはヴィクトールを己の意のままにできれば、モンテヴェール侯爵の思惑は現実のものとなる。王家とのパイプ役であるローレント公爵家を手中に収めれば、王家すら間接的に操ることができる。


 侯爵の微笑は、そのまま崩れることなく、ワインの香りと共に夜の空気へと溶け込んでいった。


【完璧な婚約者のダンス】


 夜会の喧騒が続く中、ヴィクトールはモンテヴェール侯爵との会話を終え、ゆっくりと歩き出した。

 彼の目の前に待っていたのは、彼の婚約者――イザベラ・モンテヴェールだった。

 整った金髪を上品に結い上げ、深紅のドレスを纏った彼女は、まさしく「公爵夫人にふさわしい貴族令嬢」そのものだった。

 彼女は涼やかな微笑を浮かべながら、ヴィクトールへと優雅に手を差し出した。

「ヴィクトール様、少し踊っていただけますか?」

 彼女の声は、社交の場にふさわしく、張りすぎず、それでいてしっかりと響く。

 それを聞いたヴィクトールは、一瞬だけ微笑みを深めると、手を取り、彼女を舞踏の輪へと導いた。


 音楽がゆったりと変わる。

 ダンスが始まると、二人は一糸乱れぬステップで舞い始めた。ヴィクトールのリードは完璧で、イザベラの動きもまた、まるで最初から決められた振り付けのように滑らかだった。手の動き、足の運び、視線の交わし方――すべてが美しすぎた。

 貴族社会における「理想的な婚約者の舞踏」そのものだった。広間に集う貴族たちは、その完成された舞いに感嘆する。

「素晴らしい踊りですね、ヴィクトール様」

「君の動きが正確だからこそ、僕のリードも冴える」


 音楽がクライマックスを迎え、最後のターンが終わる。

 ヴィクトールがイザベラの手を取ったまま、軽く一礼する。イザベラも微笑みながら、完璧な礼を返した。

 ダンスが終わり、二人は踊りの輪を離れる。

 イザベラはヴィクトールの腕をそっと取りながら、落ち着いた声で言った。

「貴方の存在が、私の誇りです」

 その言葉は、まるで決まり文句のように流れるように発せられた。しかし、その響きには微塵の迷いもなかった。

 ヴィクトールはその言葉に、静かに微笑みを返す。

「君がそばにいてくれることが、僕の心の支えだよ」

 この二人の会話は、誰が聞いても、「婚約者として理想的な関係性」に思えただろう。

 しかし、ヴィクトールの心の奥には、別の思惑が湧く。


 ――彼女の言葉は僕に安寧をもたらす。ゆえに、退屈だ。


 ヴィクトールは表情を崩すことなく、イザベラの手をそっと離した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ