第十二話:貴族たちを利用する一夜
【ヴィクトールとモンテヴェールの動向】
夏季休暇中のある晩、ヴィクトール・ローレントはモンテヴェール侯爵家が主催する夜会に姿を見せていた。
モンテヴェール侯爵家は、ヴィクトールの婚約者であるイザベラの家。格式高くも華やかなその広間には、ヴァルミール国内でも屈指の貴族たちが集い、ワイン片手に思惑を巡らせていた。
ヴィクトールはそんな貴族たちの間を、優雅に渡り歩いていた。彼の周囲には、公爵家の当主や次期当主たちが集まり、慎重な言葉を交わしている。
「ヴィクトール殿の決断は、実に英断だったと思うよ」
ある公爵家の当主が、グラスを揺らしながら語りかける。
「国王は、あまりにアヴェレート王家へ接近しすぎている。アヴェレート王国からの影響を削ぐために、その影響を最も受けやすいサヴィエール辺境伯家と距離を置くのは、国益に適う行為だ」
ヴィクトールは穏やかな笑みを崩さず、軽く頷いた。
「にも関わらず、その空気を読まないクレア嬢は、政治というものをわかっていない。優秀とは聞いているが、所詮は女子ども。大局観を持ち合わせていないのだろう」
他の貴族たちが、そろそろとワインを口に運びながら、言葉を継ぐ。
「そのクレア嬢が、テオドール殿下とともにサヴィエール辺境伯領を視察したという話だ。あの抜け目のない殿下にとっては、さぞかし『扱いやすい案内役』だったろうよ」
国王エドバルド・フィーリスの、アヴェレート王家への過度な接近。
これは、ヴァルミールの高位貴族たちの間に実しやかに蔓延するキーワードだった。
本音を言えば「擦り寄り」や「従属」と呼びたいところを、上品に言い換えた表現だった。
この引き金となったのは、アヴェレート王国の王弟ラグナル・アヴェレートだ。テオドールの叔父である。
かつて、ラグナルの仲介によって、ヴァルミールは隣国エルゼーンとの戦争を回避できた。当時、ヴァルミールとエルゼーンは、貿易協定を巡って対立激化していた。そこで両国の宰相の交渉に、アヴェレートの外交官かつ調停役としてラグナルが参加し、双方の平和的合意へ導いた。その功績は、今でもヴァルミール国内で感謝と敬意をもって語られる。
しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れるのが人間だ。
現在のヴァルミールの高位貴族の中には、エドバルドがアヴェレート王家を重んじる態度に、不満を持つ者たちがいた。国王と懇意にしたいが、それが叶わない家々である。
彼らはエドバルドと、アヴェレート王家への直接的な批判を避けつつ、その不満の矛先にクレア・サヴィエールを選んだ。
「ヴィクトール殿、私たちは君の行動を理解しているよ」
そう言われ、ヴィクトールは涼やかに微笑む。
「ご理解、ありがとうございます」
その声は優雅で、感情を微塵も滲ませない。
しかし貴族社会は一枚岩ではない。
彼らはヴィクトールの決断を「理解」してはいる。しかし、それを「支持」するとは、一言も言わない。
彼らの態度は慎重だった。ヴィクトールがサヴィエール辺境伯家との関係を断ったことは、ヴァルミールの貴族社会のバランスを揺るがす可能性を秘めている。それに乗るかどうか、まだ決めかねている者も多かった。
この夜会の広間では、言葉の一つ一つが慎重に選ばれ、微妙な駆け引きが繰り広げられていた。
【モンテヴェール侯爵の策略】
モンテヴェール侯爵は、自らが主催する夜会の広間の片隅で、ゆったりとワインを傾けていた。彼の目は、優雅に談笑する貴族たちを冷静に見渡しながら、まるで盤上の駒を見極めるかのように鋭く動いていた。
彼もまた、この場に集う貴族たちと同じく、腹に思惑を抱える一人だった。
彼が目を留めたのは、夜会の中央で談笑するヴィクトール・ローレント。その表情には余裕があり、まるで全てを見通しているかのような微笑みを湛えていた。
モンテヴェール侯爵は、自身の策略が順調に進んでいることを、密かに喜んだ。
ヴィクトールの実父であるローレント公爵は、息子の「愚行」に対し、実に冷静な判断を下していた。
婚約破棄騒動についても、「ヴィクトールが婚約者間のバランスを取ろうとし、証人のいる場で正そうとした。そこに、文脈を知らないテオドール殿下が、正義感に駆られて介入した」という、ギリギリのバランスの取れた公式見解を打ち出した。
しかし、モンテヴェール侯爵は、より大胆に動いた。
――ヴィクトールの行動は政治的に正しかった。
――クレア嬢がテオドール殿下と懇意にするのは、アヴェレート王国への擦り寄りそのものであり、国益を損なう。
高位貴族たちの間に燻る、王家への不満を巧みに利用しながら、この新たな「解釈」を実しやかに広めていったのは、他ならぬモンテヴェール侯爵だった。
そのために彼は、娘であるイザベラを介して、ヴィクトールと密かに繋がり、このストーリーを広める密約を交わした。
モンテヴェール侯爵家は、貴族社会の調停役を担う。その立場を利用し、日々、貴族たちとの協議を重ね、交渉を行い、権力のバランスを整える。そして、中立の顔を保ちながら、都合の良い噂を流すことなど、赤子の手首を捻るよりも簡単なことだった。
情報は権力であり、言葉は武器だ。彼の策略は、確実に実を結びつつあった。
モンテヴェール侯爵が、ふとワインを置き、夜会の片隅でヴィクトールを見つめる。彼の方へとゆっくり歩み寄ると、まるで慈愛に満ちた父親のような微笑を浮かべた。
「ヴィクトール君、この度はありがとう」
ヴィクトールは、その言葉に優雅に微笑み返す。
「モンテヴェール侯爵、私こそ、感謝申し上げます」
表向きは穏やかな義父と義息子の対話。しかし、その背後に隠されたものは、到底、誰にも読めはしない。
侯爵は、ワインを片手にヴィクトールの肩を軽く叩きながら、静かに告げた。
「イザベラの伴侶として、そして将来の息子として――君には、期待しているよ」
それは、まるで愛情ある家長の言葉のように響いた。
しかし、その言葉の奥には、ただ一つの意図しかなかった。
ヴィクトール・ローレントを、己の傀儡とすること。
モンテヴェール侯爵は欲深い男だった。先代の意向で決まったこの婚約を、より自家に有利に変質させることが狙いだった。
サヴィエール辺境伯令嬢を第二婚約者に格下げする画策は、彼にとって都合が良かった。それどころか、婚約破棄されたことは、更に都合が良かった。
あとはヴィクトールを己の意のままにできれば、モンテヴェール侯爵の思惑は現実のものとなる。王家とのパイプ役であるローレント公爵家を手中に収めれば、王家すら間接的に操ることができる。
侯爵の微笑は、そのまま崩れることなく、ワインの香りと共に夜の空気へと溶け込んでいった。
【完璧な婚約者のダンス】
夜会の喧騒が続く中、ヴィクトールはモンテヴェール侯爵との会話を終え、ゆっくりと歩き出した。
彼の目の前に待っていたのは、彼の婚約者――イザベラ・モンテヴェールだった。
整った金髪を上品に結い上げ、深紅のドレスを纏った彼女は、まさしく「公爵夫人にふさわしい貴族令嬢」そのものだった。
彼女は涼やかな微笑を浮かべながら、ヴィクトールへと優雅に手を差し出した。
「ヴィクトール様、少し踊っていただけますか?」
彼女の声は、社交の場にふさわしく、張りすぎず、それでいてしっかりと響く。
それを聞いたヴィクトールは、一瞬だけ微笑みを深めると、手を取り、彼女を舞踏の輪へと導いた。
音楽がゆったりと変わる。
ダンスが始まると、二人は一糸乱れぬステップで舞い始めた。ヴィクトールのリードは完璧で、イザベラの動きもまた、まるで最初から決められた振り付けのように滑らかだった。手の動き、足の運び、視線の交わし方――すべてが美しすぎた。
貴族社会における「理想的な婚約者の舞踏」そのものだった。広間に集う貴族たちは、その完成された舞いに感嘆する。
「素晴らしい踊りですね、ヴィクトール様」
「君の動きが正確だからこそ、僕のリードも冴える」
音楽がクライマックスを迎え、最後のターンが終わる。
ヴィクトールがイザベラの手を取ったまま、軽く一礼する。イザベラも微笑みながら、完璧な礼を返した。
ダンスが終わり、二人は踊りの輪を離れる。
イザベラはヴィクトールの腕をそっと取りながら、落ち着いた声で言った。
「貴方の存在が、私の誇りです」
その言葉は、まるで決まり文句のように流れるように発せられた。しかし、その響きには微塵の迷いもなかった。
ヴィクトールはその言葉に、静かに微笑みを返す。
「君がそばにいてくれることが、僕の心の支えだよ」
この二人の会話は、誰が聞いても、「婚約者として理想的な関係性」に思えただろう。
しかし、ヴィクトールの心の奥には、別の思惑が湧く。
――彼女の言葉は僕に安寧をもたらす。ゆえに、退屈だ。
ヴィクトールは表情を崩すことなく、イザベラの手をそっと離した。




