第二話:クレアの学園生活
【心安らぐ友人】
パーティは生徒会の指示により、早々に解散となった。華やかだった会場は、あっという間に静けさを取り戻し、生徒たちは思い思いの表情を浮かべながら退出していく。クレアもその一人だった。
――ヴィクトールからの婚約破棄、そしてテオドール殿下の介入。
それらの出来事が脳裏に焼き付き、振り払おうとしても離れない。クレアはゆっくりとした足取りで女子寮にむかって進みながら、目の前に広がる静寂を、少しだけありがたく思った。
「クレア!」
急に名前を呼ばれ、クレアは足を止めた。振り向くと、そこにはフィオーネ・ナディアがいた。ふわりとした柔らかな金髪を肩にかかる程度にまとめ、青の瞳がクレアを心配そうに見つめている。
「フィオーネ……」
クレアは、力のない笑みを浮かべた。フィオーネは小走りでクレアに駆け寄ると、息を整えながら静かに言った。
「大丈夫? すごくショックだったんじゃない?」
フィオーネの言葉に、クレアは少しだけ目を伏せた。確かにフィオーネはショックを受けていた。ヴィクトールへの怒り、自分の立場への焦燥、そして何より、テオドールからの求愛への戸惑い。しかし、クレアはそれらを今ここで口にするような性格ではなかった。
「私は平気よ。心配しないで」
クレアはできるだけ穏やかな声を作る。
フィオーネはじっとクレアの顔を見つめた後、小さくため息をついた。
「そう言うと思った。でも……無理はしないでね。私はいつでも話を聞くから」
その優しい声に、クレアの胸がほんの少しだけ温かくなった。普段のフィオーネは控えめで、柔らかい雰囲気を纏い、誰よりも気遣いのできる人だった。クレアにいつもそっと寄り添い、支えてくれる。
「ありがとう、フィオーネ。それだけで十分よ」
クレアは心から感謝の気持ちを込めて微笑んだ。フィオーネも、安心したように微笑みを返す。
しかし、すぐに少しだけ口ごもりながら、慎重に言葉を選ぶような声で言った。
「それにしても……テオドール殿下のことは……驚きだったわね」
フィオーネの様子に、クレアは苦笑した。言葉の淀み方から、フィオーネの気遣いが滲み出ている。
クレアの脳裏に、先ほどの場面が蘇る。テオドール・アヴェレート。突然現れて、まるで物語の主人公のようにクレアへ手を差し出した、隣国の王子。その場にいた全ての者たちにとって、あまりにも想定外の展開だった。
「そうね……私もまだ、混乱してるわ」
そう言いながら、クレアはゆっくりと肩をすくめる。あの場では気を張っていたが、今になって、ようやく現実味が帯びてきた気がした。自分は今、隣国の王子に「口説き落とす」と宣言されてしまったのだ、と。
クレアが頑なに、幻想だと遠ざけていた、『いつか王子様が』の恋愛ドリーム。それが今、現実となってクレアの前に差し出されている。
フィオーネはそんなクレアを見て、少しだけためらいながらも、そっと言葉を続けた。
「でも、きっと善意だったと思うわ。私は、正直……嬉しかった。クレアの味方をする人がいるんだって」
フィオーネの言葉は、まっすぐだった。しかし、その最後に少しだけ沈んだ色が混じった。
「私にはできないことだったから」
クレアはその言葉に、思わずフィオーネを見つめた。フィオーネの唇は、わずかに噛みしめられていた。
それは当然のことだった。フィオーネ・ナディアは男爵令嬢だ。高位貴族が幅をきかせる社交界で、男爵家の令嬢の発言力は無いに等しい。ましてや、今回のように公爵家と侯爵家、そして辺境伯家が絡む複雑な状況では、彼女が何かを言うこと自体、許されなかった。
クレアはそんなフィオーネの気持ちを汲み取りながら、静かに微笑んだ。
「あんなことをしでかす人は、一人いれば十分よ」
そう言いながら、クレアは少しだけ冗談めかした口調で続けた。
「それよりも、こうやって心に寄り添おうとしてくれる貴女が、何よりもありがたいの」
フィオーネの青い瞳が、驚いたように瞬いた。そして、少ししてから、ふっと微笑んだ。
「……クレアらしいわね」
「当然よ。私は私だから」
二人の間には、少しの間、和やかな沈黙が流れた。フィオーネの存在が、クレアの心に静かな安らぎを与えていた。フィオーネの存在によってクレアの心が癒され、前を向く力を得られた。
「これから、どうするの?」
フィオーネがそっと尋ねる。
「……まずは、頭を整理しないとね」
クレアはそう言って、夜の静寂に目を向けた。婚約破棄、テオドール・アヴェレート、そしてこれからの自分の立場――考えなければならないことは、山ほどあった。
「うん。クレアがどんな選択をしても、私はあなたの味方だから」
フィオーネのその言葉に、クレアは少しだけ心が軽くなった気がした。
【ヴァルミール王立学園】
クレアとフィオーネが友人関係を結ぶ契機になったのは、今年の春のことだ。ヴァルミール王立学園の入学式の日に、クレアはフィオーネと隣の席になった。
「フィオーネ・ナディアです、よろしくお願いします」
その穏やかで優しい声色に、クレアの微かな緊張と警戒があっさりと解けた。
その挨拶を皮切りに、二人はすぐに打ち解けた。話が弾めば、辺境伯令嬢と男爵令嬢という身分の差など、障害にならなかった。
ヴァルミール王立学園は、ヴァルミールの14〜16歳の貴族令息・令嬢を対象とした、全寮制の義務教育機関だ。貴族たちの国家および王家への忠誠心を高めることを目的としている。
カリキュラムは必須科目と選択科目に分かれている。必須科目は歴史三科目と呼ばれる、政治史・文化史・経済史。そして倫理・道徳、法学、地理と続く。それ以外は、各家で必要とされる知識に応じて選択できる。例えばクレアの場合は、アヴェレート王国との国境防衛を司る家ということもあり、外交学、アヴェレート王国史、弁論学、地政学を選択していた。
ちなみにここまで実用的な学問をフル選択する女子は、まず、いない。通常は、卒業後の嫁入りを視野に入れ、家庭内でのスキルを得るための科目を中心に取る。クレアの両親も「刺繍科の一つでも取れば良いのに」と苦言を呈している。それに対してクレアは、「刺繍は自分でトレーニングすればいいだけだけど、学問は学ぶべき人から学ばなければ真髄を得られない」と反論した。
このような科目選択をしたため、クレアは他の女子生徒と交流する機会が少なく、学内で同性の友人をあまり得られていない。その中でフィオーネは、クレアにとっても非常に貴重で、大切な友人だった。
ちなみに異性の友人を作るという発想はなかった。婚約者がいる淑女の振る舞いとしていかがなものか、と思うところがあったからだ。それに、男子顔負けの意見を述べたり、成績を取得したりするものだから、男子生徒からは「可愛げがない女」として見られており、表立ってトラブル等はないものの、どこかお互いによそよそしく、打ち解けなかった。
パーティの翌日。この日は夏季休暇直前の、最後の出席日だった。クレアは外交学の授業に出席した。
「やぁ、クレア嬢」
そう軽やかに声をかけてきたのは、テオドール・アヴェレート。そのとき、クレアは三つの事実を認識する。
一つ、昨夜のことはその場限りの口約束ではなかったこと。
二つ、自分の選択科目の多くが、テオドールのそれと重なっていること。
三つ、テオドールの笑顔が妙に眩しく見えたこと。
クレアは、この求愛ゲームにおける戦況が、だいぶ自分に不利であることを自覚した。