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第十一話:外交官としての目覚め

【意識の低い義姉と、意識の高い兄】


 テオドールが王都へ帰った後、サヴィエール辺境伯家にはまた別の客人が滞在していた。

 ミネルヴァ・グレイシア。クレアの兄サミュエルの婚約者であり、グレイシア伯爵家の令嬢。ミネルヴァは、今年の冬には十八歳となる。つまり、成人の年齢だ。

 婚約が結ばれてすでに数年。そろそろ婚姻の話が具体化してもいい頃合いだが——


「ほんと、いつになったら結婚するつもりなのよ、サミュエルったら!」

 ミネルヴァは果実水の杯を握りしめ、憤然とした様子で吐き捨てた。

 サヴィエール邸のテラス、シェードの下。晩夏の昼下がり、穏やかな風が流れる心地よい空間だったが、その一角だけ、ミネルヴァの不満でやや暑苦しい空気が漂っていた。

「『妻としての君の立場を盤石にしたい。その間、君には家業で引き続き活躍してほしい』なんて言って! こっちはその家業から早く足を洗いたいのに!」

 彼女は、杯を振りながら大きく息を吐いた。


 グレイシア伯爵家——貴族間の経済連携を取りまとめる、重要な仲介役を担う家系だ。

 ミネルヴァはその才覚を買われ、若くして家業に深く関わるようになっていた。

 彼女の調整力と交渉術は伯爵家の発展を支えていると評判だが、当の本人はまるでその評価に興味がない。

「もう、私がいなくても回るようになったんだから、そろそろ引退させてくれてもいいじゃない!」

 ミネルヴァは、ぷくっと頬を膨らませる。

「でも、お兄様はミネルヴァお姉様の活躍を聞くたびに、いつも震えながら喜んでおりますわ」

 クレアがそう言うと、ミネルヴァは不満げに腕を組んだものの、どこか悪い気はしないようだった。

「……まったく、サミュエルの女の趣味、おかしいでしょ。何で働く女が好きなのよ」

 クレアは、ミネルヴァのその呆れたような言葉に、内心で静かに思った。


 ——お姉様の才気と活躍にあてられて、そうなってしまったんだと思いますわ。


 一方、その頃。

 サミュエル・サヴィエールは書斎に籠り、何やら熱心に資料を広げていた。

 その前には、ヴァルミールからの商業報告書、アヴェレートとの貿易関係を記した覚書、そして新たに作成されたばかりの政策案の草稿。

 彼はそれらをじっくりと読み込みながら、ペンを走らせていた。

「……うむ、ミネルヴァなら、この商業連携の流れをすぐに理解できるだろう……」

 彼の表情は真剣そのものだ。

「彼女の調整力を生かせる場を、より盤石なものにする必要がある。だからこそ、今の段階で早まった婚姻は避けるべきだ……」

 そう。サミュエル・サヴィエールは、才気溢れるミネルヴァを心から愛していた。

 そして、そんな彼女が活躍できる場を整えることこそ、自分の使命であると信じて疑っていなかった。

「——今はまだ準備段階。万全な状態で迎えなければならない……!」

 彼は真剣な眼差しで資料を睨みつけ、未来を見据えていた。

 まるで国を背負う王族のように、堂々たる決意で——。


【自覚なき外交官】


 ミネルヴァとクレアの間で、何度か話題が変わった後、ふとミネルヴァがクレアに尋ねた。

「クレア、貴女の夏休みもそろそろ終わりね。今年の夏はどうだった?」

 ミネルヴァが果実水を揺らしながら、クレアを見やる。

「大変……有意義な夏休みでしたわ」

 クレアは少しだけ意味ありげな間を持たせつつ、微笑みながらゆっくりと杯を口に運んだ。

「まぁそうでしょうね。テオドール殿下とのことは、私も聞いているわ」

 ミネルヴァは、少し探るような表情でクレアを覗き込む。

「彼、すっかりヴァルミールの社交界でも注目の的ね。高位貴族たちも、彼を若き王子としてというより、一人前の政治家として扱っているそうよ。お隣さんの貴族って、早熟なのかしら……」


 その言葉に、クレアは一瞬考え込み、やがて静かに口を開いた。

「アヴェレート王国では学園制度がなく、各家庭の教育が中心なのだそうです。テオ様が既に政治家としての風格を備えているのは、アヴェレート王家の教育方針がよほど厳しいのかもしれませんね」

「あら、ずいぶんと詳しいのね。それは殿下から聞いたの?」

「ええ。そして、教育のあり方についても議論させてもらいました。今のヴァルミールの学園制度がもたらした功罪など」

「なんか随分と高尚な話をする仲なのね……」

 ミネルヴァは呆れたように言いながらも、興味を隠せない様子でクレアを見つめる。

「もしかして、領地視察でもそんな感じだったの?」

「そうですね……」

 クレアは、ゆっくりと思い返しながら言葉を紡いだ。

「一緒に市場のお店を見て回りつつ、アヴェレート王国からの輸入品がヴァルミール文化にどう影響しているかを話したり、アヴェレート国教が産業に与える影響について教えていただいたり……」

「……うん、普通のデートでする話じゃないわね、それ」

 ミネルヴァが眉をひそめる。

 しかしクレアは気にも留めず、淡々と続ける。

「テオドール殿下は言葉多く語りませんでしたが、きっと様々な考察や洞察をされていたことと思います」

「ええ……?」


 ミネルヴァは、じっとクレアを見つめた。そして、ふっとため息をつくと、少し真剣な表情で言った。

「クレア、それ、普通の貴族令嬢がやることじゃないわよ?」

「え?」

「それ、もう国政レベルの外交よ?」

 クレアの手が、思わず止まる。杯に指を添えたまま、静止する。

 ミネルヴァは、その反応にむしろ驚いたように目を丸くした。

「……え、自覚してなかったの? 貴女、今、他国の王族相手に、外交の最前線に立ってるのよ?」

 穏やかだったテラスの空気が、一瞬だけ静まり返る。

 果実水をひと口含んだミネルヴァは、杯をテーブルに置くと、真剣な表情でクレアを見つめた。

「例えば、貴族の間で土地の売買をするとき、必ず間に仲介役が入るの。理由は単純で、当事者同士じゃ感情がこじれるから。でも、貴族同士で関係をこじらせるわけにはいかないのよ」

 クレアは静かに耳を傾ける。彼女が語るのは、家業を手伝う経験に裏打ちされた貴族社会の現実だった。

「だからこそ、私の家のような『仲介役』が必要になるの」

「なるほど……」

 クレアはゆっくりと頷いた。

「でもね、王族が絡むと、もっと厄介になる。下手に仲介役を挟むと、それ自体が『王族がその仲介役の影響下にあるのではないか』という政治的な問題になるのよ。だから、テオドール殿下は貴族の仲介役を入れずに、直接話してる。『ヴァルミールの貴族令嬢クレア・サヴィエール』の知性を信頼して」


 クレアは言葉を失う。テオドールとの親交が、サヴィエール辺境伯家の利として以上の意味を持つことを、直視させられる。

「つまり貴女は、サヴィエール家としてじゃなく、ヴァルミールの代表として、外交にあたっているの」

 ミネルヴァの言葉は、真っ直ぐにクレアの胸に届いた。

「……私が……ヴァルミールの代表……?」

 呟いた自分の言葉が、あまりに現実感を帯びていて、クレアは困惑のまま視線をテーブルに落とす。

「本来、貴族の娘なんてね、親が決めた結婚を受け入れて、それなりの役割を果たせばいいのよ。私だって、伯爵家の仲介役なんて、さっさと降りたいし」

 ミネルヴァはさらりと言って、肩をすくめた。

「でも、貴女はどうするの? そんな重責、自覚のないまま引き受けて良いの?」

 クレアは黙り込んだまま、テーブルに落とした視線を戻さない。

 けれど、確かに考えていた。


 ——私は、自覚のないまま、この立場を引き受けていたのか?


 幼い頃から貴族としての役割を教え込まれ、辺境伯家の娘としての責任を背負うことを当然と思ってきた。

 しかし今、ミネルヴァの言葉によって改めて問われている。


 ——自分は、何のために動いてきたのか。

 ——何のために、テオドール・アヴェレートと向き合ってきたのか。


 そして、ゆっくりと顔を上げた。

 アイスブルーの瞳が、まっすぐにミネルヴァを捉える。その目には、確かな決意が宿っていた。

「元よりテオ様と友誼を結ぶことは、サヴィエール辺境伯家の利のためです。それがヴァルミールの益にも繋がるというなら——これほど誇らしいことはありません」

 クレアの声には、迷いがなかった。

 ミネルヴァは呆れたように目を見開いた後、溜息混じりに肩を落とす。

「覚悟ガン決まりじゃない……えぇっ……サヴィエール辺境伯家って、女の子にもこんなレベルの覚悟求めるの……?」


 その時、サロンの奥から足音が響いた。仕事を終えたサミュエルが、二人のもとへと歩み寄ってくる。

「やあ、何の話をしていたんだい?」

 彼の柔和な笑みに、ミネルヴァは待ってましたとばかりに詰め寄った。

「サミュエル、もしかして私が嫁入りしたら、クレアのように国政レベルの外交交渉しなきゃいけないなんてことないわよね!?」

 兄妹を見比べながら問い詰めるミネルヴァに、サミュエルは首を傾げる。

「国政レベルか。流石にそこまでは視野に入れてなかったけど……」

 ミネルヴァが安堵しかけたその瞬間。

「きっと君の才能がこれまで以上に輝くだろうね」

 サミュエルの瞳には、純粋な信頼と尊敬、そして——恋する男の情熱が宿っている。

 ミネルヴァは、その目を直視してしまい、思わず頭を抱えた。

「嘘でしょ、私まさか結婚しても働かせられるの!? いえ、それどころか、もっと大変なことになるの!?!」

 そんな二人のやり取りを目にしたクレアは、苦笑しながら果実水を口に運んだ。涼やかな甘みが、ほんの少し、覚悟の味を引き締めるようだった。

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