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第八話:知識と現実の結合

【経済の最前線】


 シグムントが立ち去り、クレアとテオドール、そして数人の護衛が後に続いて市場の視察を続けていた。周囲の賑やかな雰囲気に包まれながら、二人の足取りは自然と重なり、会話が弾んでいく。

 クレアが眉をひそめて少しだけ息をつくと、ふと口を開いた。

「まったく、お父様ったら……突然私に押し付けるなんて」

 その言葉に、テオドールはにっこりと微笑みながら返した。

「そんなに嫌?」

 クレアは少し困ったように首を傾げる。

「別に嫌というわけでは……ただ、私がご案内するなんて畏れ多いですわ」

 テオドールは歩きながら軽く肩をすくめ、声を和らげるように言った。

「僕としては、シグムント殿よりも、君に案内してもらえる方がありがたいけどね」

「え?」

 その言葉にクレアは思わず足を止めた。彼の言葉には、ただの礼儀ではない、少し違う響きが含まれているように感じた。

 テオドールはにこやかに、けれど真剣な眼差しをクレアに向けて続けた。

「市場を見るのはもちろん楽しい。でも、君の目にはこの市場がどう映っているのか、それも知りたくてね」

 クレアは少し驚きながらも、悪い気はしなかった。テオドールが自身の視野に関心を持っていることに、幾ばくかの誇らしさを感じていた。クレアは、口元を引き締めて軽く頷いた。


「では、少し歩きながらご案内しますわね。あのあたりには香辛料の商人が集まっています」

 テオドールは興味深そうにその方向を見た。

「香辛料か……ヴァルミールの料理にどれほど影響を与えているのか、興味があるな」

 クレアは歩きながら、少し考えを巡らせた。

「貴国とは味の傾向が違うかもしれませんね。でも最近は、アヴェレート王国風の料理を好む貴族の方々も増えてきていますわ」

 テオドールはその言葉を受けて、嬉しそうに微笑んだ。

「おや、それは嬉しいね。文化が交わるのは、いいことだ」

 クレアも微笑みを返しながら続ける。

「私たち貴族の食卓には、交易の成果が最も分かりやすく反映されますもの」

 その言葉にテオドールはまた、少し余裕を持った微笑みを浮かべた。


「君は、こういう経済の話が好き?」

 クレアは少し驚いたように彼を見上げた。

「ええ。人と物の流れを知るのは面白いですし、それが社会全体をどう動かすのかを考えるのは、楽しいですわ」

 テオドールは深く頷き、静かにその言葉を受け止めた。

「……なるほど」

 クレアは少し歩を速め、視線を前に向けたが、何かを考え込むように口を開いた。

「何か?」

 テオドールは軽く笑みを浮かべ、目を細めて言った。

「いや、ただ、君がどんな未来を選ぶのか、ますます興味が湧いてきた」

 クレアは少し戸惑い、顔を赤くしたが、すぐにまた冷静さを取り戻して答える。

「またそんなことを……」

 テオドールの軽やかな言葉に、クレアの心の中にわずかな動揺が走る。しかし、彼の問いかけには何かを考えさせられるものがあった。クレアは続けた。


「テオ様も、こういう場所に来るのもお好きなのですか?」

 テオドールはふと視線を前に向け、少し考え込むように言った。

「もちろん。市場は経済の最前線だからね」

 その言葉にクレアは軽く頷く。彼が何を見ているのか、興味深く感じながら、さらに質問を重ねた。

「……では、今日の視察で、何かお気づきになったことは?」

 テオドールは微笑みを浮かべながら、少し黙った後に答えた。

「答えを言ってしまうとつまらないだろう?」

 クレアはその意地悪な笑みに、思わず口元を引き結んだ。

「そういうところ、意地が悪いですわ」

 テオドールは楽しそうに声を漏らす。

「知的好奇心を刺激するのは、悪いことじゃないよ」


 二人はその後も市場を歩き続け、様々な商人たちと立ち話をしながら進んだ。クレアはあまりにもスムーズに話が進みすぎることに、少し驚きつつも、その場の雰囲気を楽しんでいた。彼の考えに引き込まれ、何気ない会話から彼の視点を垣間見ることに、クレアは何度も新鮮さと楽しさを感じていた。


【夫婦草】


 クレアとテオドールが次々と露店を眺めていく中で、ふと香料や香り袋が並べられた一角に、テオドールが足を止めた。その鮮やかな色と、芳しい香りが漂う空間が、テオドールの興味を引きつけた。

 クレアはその視線に気づき、軽く微笑んだ。

「こちらもアヴェレート王国からの輸入品ですね」

 テオドールはその言葉に頷きながら、並べられた香り袋をじっくりと見つめた。

「そのようだね。王国の東部地域の産業の一つだ。東部地域が擁する国教の総本山では、民衆救済のために薬草栽培に力を入れていて、それが様々な産業に影響を与えているんだ」


 ヴァルミールとアヴェレート王国の宗教は元を辿れば同じ神を信仰しているが、その信仰方法に違いがあった。ヴァルミールでは、倫理観や生活様式に、宗教の教えが根付いている。一方でアヴェレート王国では、薬学による実践的な民衆救済を重視している。これはクレアも学園の選択科目『アヴェレート王国史』で習っていた。それが目の前の経済活動として表れていることに、知識と現実が結びつく感覚を覚える。

「貴国の東部地域とサヴィエール辺境伯領は隣接していますから、交易品も東部地域のものが多くなりがちですね。教会で栽培された薬草が、こうした形で市場に並んでいると思うと、何だかありがたみが増しますね」

 テオドールは微笑み、ゆっくりと続けた。

「宗教の教義が民間の産業にも影響を及ぼしている。薬草はただの治療法にとどまらず、生活に欠かせないものとなっているんだ」


 二人は香り袋が並ぶ露店を眺めていると、クレアが何気なく手を伸ばして、ラベンダーの香り袋を手に取った。その手のひらに乗せられた小さな袋からは、フローラルな優しい香りが漂い、クレアは思わず目を細める。

 テオドールがその様子を興味深そうに眺める。

「ラベンダー好きなの?」

 クレアは軽く頷きながら、にっこりと微笑んだ。

「ええ。このお花畑みたいに優しい香り、とてもリラックスできるんです」

 その言葉を聞いたテオドールは、すぐに店主に向かってラベンダーの香り袋を一つ頼んだ。あまりにも迷いなく手続きを始めたため、クレアは戸惑いを隠せない。

「えっ、テオ様……?」

 その時、テオドールはにっこりと笑いながら言った。

「今日の視察に付き合ってくれたお礼だよ」

 そう言って、テオドールはクレアに買ったばかりの香り袋をプレゼントした。

 その言葉にクレアは、一瞬言葉を失う。こういう気遣いを素直に受け取って良いのだろうか、という迷いが頭をよぎったが、それを上回って心が温かくなるのを感じた。テオドールの厚意が、クレアにも伝わった。

「ありがとうございます、大切にしますわ」

 クレアは心から感謝の気持ちを込めて言った。すると、テオドールも嬉しそうに笑みを浮かべた。


 その後、テオドールは再び店主にカモミールの香り袋を一つ頼んだ。すると、店主は「おやまぁ」と言いながら、意味深な笑顔を浮かべていた。その様子に、クレアは首を傾げた。

「テオ様はカモミールがお好きなのですか?」

 クレアが尋ねると、テオドールは少しの間を置きつつ、悪戯っぽい笑顔を浮かべながら答えた。

「ん? そうだね、香りが心地よいからね」

 テオドールの曖昧な感想に、クレアは何となく引っかかるものを覚えた。しかしその小さな違和感は、その後のテオドールとの雑談の中に飲み込まれ、忘れられていった。

 やがて、父シグムントとの約束の時間となり、クレアたちは市場を後にした。


 その時、クレアはまだ知らなかった。アヴェレート王国では、ラベンダーとカモミールの組み合わせが「夫婦草」として親しまれていることを。それを知るのは、もう少し後のことであった。

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