第七話:中央市場
【視察の裏で動く思考】
テオドールがサヴィエール辺境伯領を訪れて2日目。この日の予定は、サヴィエール辺境伯家の領地の中央市場の視察であった。広大な土地に広がる中央市場は、アヴェレート王国との貿易の最前線となる場所であり、見学者を迎えるにはふさわしい重要なスポットだった。テオドールは、案内役としてサヴィエール辺境伯シグムント、そして娘クレアと共に市場を回ることとなっていた。
市場は、まさに人々の熱気と活気に満ちていた。アヴェレート王国からの商人たちが主に占めるエリアでは、茶髪や黒髪の民が賑やかに商談を交わしている。反対側では、ヴァルミールの民が多く集まっており、ブロンドの髪をした商人たちが、自国の製品を誇らしげに並べていた。まるで人種の坩堝のように、異なる背景を持つ人々がひとつの場所で共存しているその様子は、平和的で多様性のある経済活動を象徴しているようだった。
シグムントがテオドールの側に寄り、静かに語りかける。
「こちらの中央市場は、私たちサヴィエール辺境伯家にとっても、非常に大切な場所です。アヴェレート王国との交易の最前線として、常に活気にあふれております」
「確かに、この規模を見る限り、その重要性がよく分かりますね」
テオドールは目の前に広がる賑やかな市場を見渡しながら、深く頷いた。
テオドールたちは、いくつかの露店を見ながら歩いていた。商人たちがさまざまな製品を売り込む声が響き、香辛料や織物、そしてたくさんの馬具が並べられている。高品質に見えるそれらの馬具は、すべてが精巧に作られていた。その品質にテオドールは着目する。
「ヴァルミール産の馬具がよく目につきますね。人気商品なのでしょうか?」
テオドールが尋ねると、シグムントは少し誇らしげに答えた。
「はい、こちらの市場では特に需要があります。貿易の要であるこの都市では、輸送に関わる製品が商人たちにとって命のようなものですから。馬具は重要な産業のひとつで、工房も数多くあります。品質も申し分なく、人気のある製品です」
シグムントは続けて言う。
「ヴァルミール産の馬具は、アヴェレート王国の商人たちにとっても必需品です。特に、長距離の輸送を担当する商人たちは、馬具にかなりの投資をしますから、こうした市場では欠かせないアイテムとなっています」
テオドールは馬具をじっくりと見つめ、その作りに改めて感心した。
「確かに、作りもしっかりしていますね。良い品質だ。これならば、長い間使えるのでしょう」
「その通りです。品質が高いため、リピーターも多い。とても安定した市場を持っています」
テオドールは、中央市場の見学を続ける中で、目を引く商品を次々と確認していった。シグムントが彼の隣で案内役を務める中、テオドールは次に織物の店に足を止めた。
そこには、色とりどりの布が並べられ、鮮やかな発色の美しい織物が目を引いた。テオドールは、それらをじっくりと見つめながら、自然と口を開く。
「これは我が国の東部地域で生産される織物ですね。こちらも、こんなに人気があるとは」
テオドールは、色とりどりの布を手に取る商人の様子を見つめ、納得したように言った。
シグムントは微笑みながら、その質問に答える。
「貴国の織物は色とりどりで発色も良く、評判が良いのですよ。こちらでも高い需要があります」
テオドールは思案するように、その織物をじっくりと観察しながら語り続けた。
「アヴェレート王国の東部地域では、様々な薬草が生産されています。それらを使った染色技術も発達していまして。自然な染料を使った織物は、色合いが深みを増して、見た目だけでなく、持ち味の良さが出ます」
シグムントは頷きながら、微笑んだ。
「なるほど。おかげで、我が国の歌劇を美しく彩ってくれていますよ。舞台衣装として、これらの織物が使われているのでね」
テオドールはその言葉に一瞬、目を細めてから、さらに確認するように言った。
「歌劇での需要ですか、道理で華美な色彩の布が多いと思いました。舞台で映える色合いと、素材の豊かさが、舞台での服飾に特別な魅力を与えているんですね」
シグムントは静かに頷き、誇らしげに話を続けた。
「その通り。アヴェレート王国との貿易でも、歌劇に使用される衣装や舞台装飾品がよく取引されています。特に舞台衣装は、色鮮やかな布が求められるため、この市場での需要は非常に高い」
テオドールはしばらくの間、織物の色と質感を指で確かめながら、黙って考え込んでいた。
クレアは、ここまでのシグムントとテオドールの会話に耳を澄ませていた。彼らとともに歩く中、クレアの関心ごとは、テオドールの思考だった。
――何気ない会話だけど、テオ様の頭の中では、きっと国政に還元するための仮説や推論がもうできているのだろうなぁ。
クレアは、静かに目の前のテオドールの横顔をじっと見つめた。市場を真剣に視察している彼の姿が、どこか頼もしく感じられた。彼がどのような判断を下すのか、その先に待つであろう未来について、クレアは興味深く思っていた。
――彼のように、視座を高く持って世界を見ることができれば、もっと多くのことを理解できるのだろうか。
クレアは、昨晩のテオドールとの会話を思い出す。彼はわずかな留学中の経験から、ヴァルミールの貴族社会の構造と病理を言い当てた。その観察眼と洞察力に、クレアは無関心でいられない。クレアは少しだけ、彼に対する尊敬の気持ちが芽生えるのを感じていた。
すると、テオドールの目がクレアの方へと向けられる。クレアは慌てて目を逸らした。
「おや、僕の顔に何か?」
その言葉に、クレアは一瞬、戸惑ったように顔を上げた。
「何でもありませんわ」
その口調には、少し焦りが滲んでいた。
テオドールは微笑を浮かべ、冗談めいた口調で言う。
「見惚れてくれてたなら光栄なんだけどね」
クレアはさらに顔を赤らめ、慌てて返答した。
「そ、そんなのではありません」
思わず声が高くなり、クレアは再び目を逸らしてしまう。
――私は見惚れていたのだろうか? いや違う、これは彼が今どんなことを考えているのかが気になって、それで……。
クレアは自分に言い訳をしながら、いまいち冷静になれずにいた。
一方、テオドールはクレアの反応を、楽しそうに見つめていた。その二人のやり取りは、年相応で、微笑ましいものだった。
この様子を見ていたシグムントが、しばらく逡巡した後に、静かなため息をついた。そしてクレアに向き直る。
「私はこのまま市場管理者と協議をしてくる。クレア、突然で悪いが、テオドール殿下のご案内をお願いできるだろうか?」
「え!?」
予想外の提案に、クレアは一瞬言葉を失った。
しかし、その時、テオドールが満面の笑みを浮かべて、クレアに向かって言った。
「クレアが案内してくれるんだ、ありがたいな」
その笑顔は、この機を逃すまいとしているようだった。
シグムントは微笑みながら、二人を見守るように続けた。
「学友同士でしか話せないこともあるだろう。帰宅時刻になったら市場の入り口で待ち合わせよう」
クレアは、シグムントが言った「学友」の一言に逆らえず、何も言えずにいた。
――これもお友達作戦の一環だわ。引き受けるしかない。
自分の動揺を押し殺すように、クレアは少しだけ深く息を吸い、そして頷いた。
「わかりました。では、テオ様、しばらくご一緒いたしますわ」
クレアの声には、微かな戸惑いが残っていたが、それでも彼女は精一杯の笑顔を浮かべて、案内役としての役目を引き受けた。
これから二人きりの時間が始まる。クレアの胸は、どこか不安と期待でいっぱいになっていた。




