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第六話:コンセンサシズムの倫理と婚約破棄の精神

【夜の語らい】


 晩餐会が終わり、サヴィエール家の家族たちはそれぞれの部屋へと引き上げた。

 喧騒が静まった後、クレアは応接室に通されたテオドールと向かい合っていた。

 部屋には暖炉こそ灯されていなかったが、蝋燭の柔らかな光が空間を包んでいる。調度品は品のある曲線美を描き、窓際のカーテンがかすかに揺れた。

 テオドールはヴァルミール様式の優美な椅子に腰掛け、ハーブティーを手にしている。クレアもまた、自身のカップに手を添えながら、落ち着いた口調で言葉を紡いだ。

「今夜の晩餐、とても楽しかったですわ」

「それはよかった」

 テオドールはカップを軽く持ち上げ、微笑んだ。

「それに、テオ様のお考えが聞けて興味深かったです」

 その言葉に、テオドールは「ほう?」と目を細める。

「そう? こんな話で良ければ、いつでもするよ」

 静かな応酬だったが、その余裕たっぷりな言葉に、クレアはわずかに唇の端を上げた。ならば、と試すように、クレアはテオドールに問いを投げかける。


「では、テオ様から見て、今のヴァルミールとはどのような国でしょうか?」

 テオドールはハーブティーを一口飲むと、静かにカップを置き、考えるように目を細めた。

「成熟した貴族社会――それが僕の見立てだよ」

 クレアはその言葉に興味を引かれたようにわずかに身を乗り出す。

「その理由をお聞かせ願えますか?」

 するとテオドールは、淡々とした口調で答えた。

「ヴァルミールがここまで安定した貴族社会を築けたのは、学園制度の存在が大きい。貴族の子弟たちが、同じ環境で教育を受けることで、貴族階層の価値観が統一される。このシステムが機能することで、八十年前の王朝交代も、もはや障害ではなくなった」

 クレアはその指摘に静かに耳を傾けた。

 ヴァルミールの現王家はフィーリス家である。しかし元々、この国を勃興したのはヴァルミール家であった。八十年前、フィーリス家がヴァルミール家の悪政から『解放した』。しかもその王朝交代は、アヴェレート王国との戦争の最中に行われたというのだから、驚愕の歴史である。この王朝交代をきっかけに、国内貴族の忠誠心の獲得のために導入されたのが、学園制度だった。

 ヴァルミールでは、貴族の子弟たちは14歳になると学園へ入学する。この国の歴史、経済、文化、倫理など――それらを学ぶことで、統治者としての基礎力とヴァルミールへの忠誠心が育まれ、貴族社会の安定が維持されている。


「では、その現状についてはどうお考えですか?」

「成熟しすぎている、というべきかな」

 テオドールは冷静に続けた。

「ヴァルミールの貴族社会は、高度に標準化された教育を基盤としている。だから社会の安定は保たれているけど、その一方で、貴族たちは固定観念に囚われやすい。前提条件が変わったというのに、それを知覚することができず、変化することに対して極端に慎重だ」

 クレアはゆっくりとカップを置いた。

「しかし、貴族社会が保守的であるのは、どこの国でも似たようなものではありませんか?」

「もちろん、それはどの国でも共通する問題だよ。だけど、ヴァルミールは特に『根回し』を重視しすぎているね」

 テオドールはそこで言葉を区切り、苦笑いした。

「でなければ、あの婚約破棄の場面で、他の生徒が口出ししなかった説明がつかない。他国の王族に社交場を良いようにされるって、自国の貴族社会の脆弱性を証明するようなものだ。なのに全員大人しく見守るだけだったのは、公爵令息から「手出し無用」と言われていたのを愚直に守ったからじゃない?」

 クレアの脳裏にまざまざと思い浮かぶ。あの日のダンスホールは、不自然なまでに静寂に包まれていた。そして皆が一様にその場を見守っていた、まるで立会人のように。

「目の前で唐突な危機が発生しているのに、臨機応変の判断ができない。教員の板書が正解だと信じて、素直にノートに書き写し続ける生徒のように。これがもし、災害現場だったらどんなことが起きると思う?」

 テオドールの指摘に、クレアはハッとして、肝が冷えた心地がした。そのクレアの様子に、テオドールはふっと表情を緩めて微笑む。

「ただ、だからといって、ヴァルミールがこのまま硬直し続けるとは思わないよ」

「……どういうことです?」

「蓄積があるということは、一度新風が吹き込めば、その分、社会が大きく飛躍する可能性がある。もちろん、改革の痛みは伴うだろうけど……ね」

 クレアは考え込むように視線を落とした。

 テオドールの言葉は、単なる表面的な分析ではない。過去を見つめ、現在を理解し、そして未来を予測している。


 ――「留学生」なんて枠は、とっくに超えているわ。


 クレアの目の前に座る彼は、1人の立派な政治家だ。ただ、年齢が自分と同じなだけだ、と、クレアは認識を改める。テオドールの語りから伝わる、高い視座と圧倒的な知性に、クレアは自分の脳が喜ぶのを感じていた。


【建設的で知的な議論】


 テオドールはカップを置き、ゆっくりとクレアを見つめた。その黒い瞳には、淡い灯火が映り込んでいる。

「君はどう思うの?」

 穏やかに問いかけられたその言葉に、クレアは一瞬だけ考える素振りを見せた後、自然と口を開いた。

「その新風は、アヴェレート王国から吹いてくるのだろうと思います」

 テオドールは微かに眉を上げたが、すぐにクレアの言葉の続きを待つ。

「ヴァルミール王は、貴国との緊密な関係を重視されています。交易も、外交も、文化も……あらゆる面で、アヴェレート王国の影響を色濃く受けるようになっています。それに――」

 クレアはふっと微笑み、茶杯を手に取った。

「新作の歌劇も、貴方の国での出来事を題材にすることが多いですわね。それは、ヴァルミールの民が、アヴェレート王国に未来を見ているからかもしれません」

 それを聞いたテオドールは、思わず苦笑いを漏らした。

「……あれには、複雑な心境になることが多いよ」

 クレアの唇の端が、わずかに上がる。

「確かに、身内の物語を勝手に美化されるのは気持ちの良いものではないかもしれませんね。でも、ヴァルミールにとって、アヴェレート王国はそれほど影響力のある国になっているということです」


 クレアの言葉は、分析的でありながら、どこか誇り高い響きを持っていた。

 その真意を測るように、テオドールは静かに目を細める。

「ヴァルミールの精神の本質は、しなやかな優美さにあります」

 クレアはハーブティーを一口飲み、一呼吸置いてから続けた。

「今は保守的な貴族も多いかもしれません。でも、本当に変化を受け入れるべき時が来れば、この国はきっと適応する。だからこそ、王朝が変わってもなお、この国はヴァルミールとしてのアイデンティティを失わなかったのではなくて?」

 その言葉に、テオドールの目が楽しげに輝いた。彼はゆっくりと体を前のめりにし、クレアに視線を投げかける。

「……新風が吹いて、その風に乗ってどこまでも高みに行ける人は、君みたいな人じゃないかな」

 クレアは、不意に告げられた言葉に驚き、僅かに目を瞬かせた。

「……私が?」

「うん」

 テオドールは微笑を深めながら、カップを持ち上げる。

「君は、流されるのではなく、風を読んで自ら進む道を選べる人だと思う。そんな君がどんな未来を選ぶのか――それが、僕にはとても楽しみなんだ」

 静かな言葉だったが、そこに込められた意味は重い。

 クレアは、テオドールの言葉を噛み締めるようにゆっくりと呼吸を整えた。


 ――これまで、こういう話題の中で、こんなにも建設的で楽しい会話をしたことがあっただろうか?


 学園でクレアと共に学ぶ生徒たちの中には、ここまで高い視座を持ち、未来を語ることができる者はいなかった。

 尚、元婚約者のヴィクトールは言わずもがなである。そもそもクレアとヴィクトールは、「建設的」の対局にあった。

 しかし、テオドールは違った。話しながら、クレア自身も引き上げられていく感覚。共に思考を巡らせ、新しい可能性に思い至る高揚感。その刺激は、クレアの脳に煌めく一瞬一瞬を焼き付けた。

 クレアは、そっと目を伏せ、微かに微笑んだ。


 ――テオ様との会話は、思っていたよりずっと……


「……楽しいですわ」

 その言葉が、ぽつりとこぼれた。

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