第三話:テオドールの夏休み③
【夜会と政治の駆け引き】
サヴィエール辺境伯領への視察まで、残り四日。
テオドール・アヴェレートは、明日には王宮を出発し、ヴァルミール西部のサヴィエール辺境伯領へ向かう予定だった。その前日でさえ、彼に休息の時間はなかった。やはりアヴェレート王家の王子に休息などないのだ。
この日、フィーリス王家主催の夜会が開かれていた。
表向きは、アヴェレート王国からの留学生であるテオドールを歓待するための華やかな宴。しかし、その実態はヴァルミール貴族たちの思惑が交錯する、政治の戦場だった。
夜会の冒頭、エドバルド国王自らが、テオドールを貴族たちに紹介する。
「皆の者、紹介しよう。アヴェレート王国王子、テオドール・アヴェレート殿下だ。わが国の盟邦より訪れた才気ある若者よ」
国王の口調には、隠しきれないほどの好意が滲んでいた。
それを受けて、テオドールは苦笑しつつも、夜会に集った貴族たちの反応を冷静に観察した。
表面的には皆、穏やかに耳を傾けていた。しかし、細かく見れば、反応は三つに分かれていた。
一つは、温かく頷く貴族たち——エドバルドの方針に賛同し、アヴェレートとの関係を重視する者たち。
二つ目は、互いに目配せし合う貴族たち——彼らはまだ態度を決めかねているか、あるいは水面下で異なる動きをしている者たちだ。
三つ目は、堂々と不満を顔に出す貴族——エドバルドの「アヴェレート王家贔屓」に明確に反発する者たち。
顰めっ面を浮かべる彼らの表情さえも、政治的な駆け引きの一環である。「国王がアヴェレート王家に肩入れしすぎていることに不満を抱いていますよ」と、無言で訴えているのだ。
政治とは、表情一つ、態度一つにさえ、明確なメッセージが込められる世界だ。
テオドールは即座に戦略を決めた。
まずは、友好的な一派に接触すること。その一派とは、ヴァルミール西部の領主たちだった。
彼らの領地はアヴェレート王国と直接隣接してはいないが、地理的には近く、今後の友好関係を築くべき相手である。
ちなみに、サヴィエール辺境伯家の人々は今夜の夜会には出席していない。数日後に自領でテオドールを迎えるため、王宮での夜会への参加は免除されていた。
よって、テオドールにとっては、今日がヴァルミール貴族社会における本格的な「前哨戦」となる。
「最近のアヴェレート王国の動向について、少し興味深い話がありましてね」
テオドールは何気なく話を切り出した。貴族たちの視線が集まる。
「北部地域のカレスト公爵が、他の領地と薬草スフィリナの栽培契約を結び、生産拡大を進めているのです」
一瞬で、場の空気が変わった。
貴族たちは、ただの社交辞令ではなく、実利のある話に即座に反応する。特に、カレスト公爵家が新たな産業戦略を仕掛けているという情報は、彼らにとっても重要な意味を持つ。
——興味を持ったな。
テオドールは、貴族たちの微細な反応を見逃さなかった。彼らは一様に思案顔になり、視線を交わす。つまり、カレスト公爵家が主導する新たな産業戦略に、早めに投資すべきかどうかを考え始めている。
カレスト公爵家が産業の中心に立つなら、その影響下にある領地もまた利益を得る可能性がある。もし、カレスト公爵が味方に引き入れた領地が成長するのであれば、今のうちに関係を築いておくのは合理的な判断だ。
そしてその思案とともに、貴族たちはテオドールに対して「肩書きだけでなく実利をもたらすことのできる王子」として、評価を格上げした。
そうしている間に、いつの間にかテオドールの周りの輪が広がっていた。彼の話を聞こうと、多くの貴族が集まりつつあった。
社交界で影響力を発揮するなど、テオドールにとっては造作もないことだ。
しかし、影響力が増すと同時に、敵意を抱く者も引き寄せられてくる。その一人が、先ほどの夜会冒頭で顰めっ面を見せていた貴族だった。名を、エーベルハルト侯爵という。
彼はテオドールの輪の中に堂々と入り込み、意地の悪い笑みを浮かべた。
「殿下は、アヴェレート王家の未来を担うお方とか。さぞかし高尚な理想をお持ちなのだろう」
皮肉めいた声音だった。その場に微妙な緊張が走る。
テオドールが返答しようとした、その瞬間。
「侯爵、相手は未来ある若者です。手加減をお忘れなく」
そう穏やかに割って入ったのは——ローレント公爵。クレアの元婚約者、ヴィクトールの父親である。
テオドールはすぐに、その意図を察した。
エーベルハルト侯爵の意地悪な素振りを、ローレント公爵が宥める。これにより、「アヴェレート王国の王子をローレント公爵が助けた」という構図が生まれる。この場の貴族たちにとって、そのメッセージは明確だった。
——「婚約破棄の件はあったが、ローレント公爵家はアヴェレート王家に敵意はない」
——「ローレント公爵にとって、アヴェレート王家の王子など『子ども扱い』」
つまり、彼は国王のアヴェレート贔屓に貴族たちの不満に乗じつつ、アヴェレート王家とのバランスを取ろうとしている。
——なるほど……策士だな。
前者のメッセージは受け入れても良いが、後者は見逃せない。テオドールは即座に、機転を利かせた返答を準備した。
「ローレント公爵、お気遣いありがとうございます」
お礼を述べつつ、エーベルハルト侯爵に向き直り、テオドールは肩をすくめた。
「担うのが未来だけで良ければ、良かったのですがね。であれば、僕は王立学園に通って、同世代の生徒たちと学び合うだけで良かったはずですので」
——今こうして老獪な政治家たちと渡り合ってる時点で、自身もまた今を生きる政治家であることの証明だ。
テオドールの切り返しは見事だった。
そのやり取りを見ていた貴族たちの多くが、「これは一本取られたな」「学生とは思えない返しだ」と笑う。中立派の者たちも「面白い」と、思わず感心を示していた。
エーベルハルト侯爵は、「ほう、なるほど」と低い声で返した。不満は滲むものの、これ以上仕掛けてくる気配はなかった。
そしてローレント公爵は変わらぬ穏やかな表情のままだったが、その目には一瞬の光が宿る。この夜会の駆け引きで、テオドールは彼に「侮れぬ若者」という印象を植え付けることに成功していた。
【難攻不落の王子様】
夜会が無事に終わった。その日、テオドールは政治家としての評判を固めた一方、女性たちからはこんな評価を受けていた。
「テオドール殿下は難攻不落」
その名誉があるのか無いのかよくわからない評価の裏側で、こんなことが起きていた。
夜会のダンスの時間となり、にわかにテオドールの周りに同世代の女性たちが増えていた。クレアとの求愛ゲームは彼女たちも知るところだったが、その当事者クレア・サヴィエールが不在である。今晩テオドールが踊った相手と、『うっかり真実の愛に目覚めても』、仕方のないことだ。
——税収が! 減る!
目の前の光景に、テオドールの脳内で警鐘が鳴る。もしもここで浮気を噂されようものなら、罷り間違ってアヴェレート王国の財政が傾くかもしれない。
そこでテオドールは一計を案じた。
「僕と一曲踊り続けられる方がいれば良いのですが」
テオドールの言葉に、女性たちは我先にと挑戦した。貴族で、ダンス一曲踊れない女性などいない。そしてある令嬢が、一曲目の相手を勝ち取った。
そしてそのダンスで、テオドールの言葉の意味を、女性たちは理解する。
テオドールのリードが自由すぎるのだ。
通常、貴族の社交ダンスでは、男性が女性を優雅にリードし、あらかじめ決まったステップを踏むのが常識である。しかし、テオドールはあえてその「常識」に従わなかった。
一見、伝統的なステップに見せかけながら、わずかにタイミングをずらした回転を入れたり、予測不能なリズムの変化を加えたりと、相手の動きに瞬時の対応を要求する。さらには、ほんの一瞬、女性をリードする手の力を緩め、相手に「自分で踏み出す」選択を迫る。まるで、意図的に相手の判断力を試しているかのようだった。
最初に踊り始めた令嬢は、ほんの数小節で動揺し、焦りの表情を見せた。
「え、あっ……?」
次の瞬間、彼女は足をもつれさせそうになり、テオドールがさりげなく支える。
しかし、これでは「一曲踊り続けられた」とは言えない。
ダンスホールを取り巻く女性たちは、一瞬にして事態を察した。
これは「ただ一曲踊るだけ」ではない。
テオドールの「自由すぎるリード」についていける者でなければ、最後まで踊りきることはできない。
しかも、途中でリズムを崩せば、他の貴族たちの前で「未熟なダンサー」として見られてしまう。
挑戦者の数は、みるみるうちに減っていった。結局、この夜、新たにテオドールとの噂の的になるような令嬢は現れなかった。
【待ち遠しく想う相手】
今日も気の抜けない一日が終わり、テオドールは自室で就寝する前のひと時を過ごしていた。窓から夏の夜風と月明かりが差し込む。
そして考えるのは、クレア・サヴィエールのことだった。
テオドールがかつて告げた「初恋」とは、嘘ではなかった。テオドールは、クレアを好ましく思っていた。ただの理と利を満たす相手としてだけでなく、個人として興味を持った瞬間は、やはりあの時であった。
——「私にだって矜持があります。こんな形で差し出された施しを、サヴィエール辺境伯家の名にかけて、受け入れるわけにはいきませんわ!」
その矜持が、テオドールの黒い目に鮮やかな印象を残した。白金髪にアイスブルーの目という、アヴェレート王国の民から見れば妖精のような色合い。そんな彼女が、あの理不尽な状況を前にしても、貴族の誇りを崩さなかった。その姿が、テオドールの心に焼き付いていた。
——彼女の可能性を試したくなる。
あの誇り高いクレアに、どうアプローチしたらその心を引き出せるのか。それを前にしたとき、自分がどんな感情を抱くのか。テオドールの悪戯めいた知的好奇心がくすぐられる。
まずは、「クレア」と呼んでみよう——そう心に決め、テオドールはふっと微笑んだ。




