第一話:婚約破棄と求愛ゲーム
【婚約破棄に介入する者】
恋と踊りの空間に、断頭台が据えられた。
演奏家は音楽を止め、嬌声も鳴り止んだ。シャンデリアの光だけが、祝宴の死骸として残っていた。
中央の大理石の床、その真ん中に一人の青年が立つ。法廷の審判を務めるような厳めしさで、言い放った。
「私は、クレア・サヴィエール嬢との婚約を、正式に破棄することを宣言する」
冷たく響いたその声は、公爵家の令息のものだった。
その隣に立つのは、完璧な笑みを貼りつけた侯爵令嬢。場を飾るには申し分ない、従順で美しいトロフィーのような女。
その真正面に対峙するのは、辺境伯令嬢クレア・サヴィエール。
白金の髪が揺れ、アイスブルーの瞳が鋭く光る。彼女の美しさは凛として、今この瞬間すら装いの一部にしていた。
周囲の生徒たちは、劇の観客であるかのように輪になり、固唾をのんで成り行きを見守っていた。
クレアは、一呼吸置いてから問いかけた。その声は、冬の水面のように静かなのに、腹の底からの怒りが滾っていた。
「……どういうつもりよ、ヴィクトール」
クレアの指先から熱が引いていく。それを許さないかのように、クレアは拳を握りしめる。そしてヴィクトールを睨みつけた。
「こんな公の場で婚約を破棄? あなた、私の名誉を何だと思っているのですか?」
ヴィクトールは一瞬だけ顔を歪めたが、すぐに冷静な仮面を被り直し、言い放った。
「君が名誉を語るなら、こちらも言わせてもらう。君は将来の第一夫人としての務めを果たしていない。イザベラに心を開くこともなく、むしろ排除の姿勢すら見受けられる。君には寛容さと責任感が足りていない」
肩をすくめ、芝居がかった口調で続けた。
「第一婚約者としての資質なし。そう判断せざるを得ない」
もはや公開処刑場の様相の中、クレアは負けじと問う。
「何の根拠があるのです? あなた一人の判断で、家と家の取り決めを覆すのですか? それがどれほどの責任を伴うか、理解していますか?」
クレアの矢継ぎ早の問いに、ヴィクトールは苛立ったように遮った。
「君には、もはや選択肢も、弁明の余地もない。これは公爵家の決定だ」
会場に、断罪の刃が振り下ろされた。足元から世界が崩れ落ちるような錯覚に、クレアは襲われる。それでもクレアの背筋は折れない。
彼女は口を開きかけた――が、舞台の幕を引き裂くように、別の声が会場に響いた。
「それなら僕がクレア・サヴィエール嬢に愛を乞おう」
軽やかで、透き通った声だった。一斉にその方向へ視線が集まる。
その場にいたのは、一人の少年――黒髪、黒い瞳。異国の風を纏ったその少年こそ、隣国の第二王子、テオドール・アヴェレートであった。
【いつか王子様が】
時は一ヶ月前ほど前に遡る。
ここはヴァルミール王立学園。国内の貴族子女たちが一堂に集い、国王への忠誠のもと、知識と礼節を学ぶ場だ。
その中庭を貫く回廊を、クレアは足早に歩いていた。白金の髪がなびく。スケジュール帳のような日々を着実にこなす彼女にとって、移動時間さえも無駄にできない。
しかしその時、不意に背後から声がかかる。
「すみません。教員室の場所を、お尋ねしても?」
振り返ると、そこに立っていたのは――黒髪に黒い瞳の少年。
この国、ヴァルミールでは稀な容貌だ。色素の薄い髪と瞳が一般的なこの地で、彼の存在は異邦そのものだった。
――アヴェレート王国の人ね。
クレアと同程度の上背。端正な顔立ち。仕立ての良い服に、身のこなしの優雅さ。恐らく隣国の高位貴族で、留学生だとクレアは察した。そして少年の不安げな様子に、つい口が動いていた。
「教員室は東棟の二階です……ご案内しましょうか?」
クレアは自分の忙しさを後回しにした。理屈より先に、親切心が前に出た。
「ありがとうございます! 本当に、助かりました!」
ぱっと咲いたような笑顔に、クレアは思わず言葉を失った。軽やかで、真っ直ぐで――まるで太陽のような。
ほんの短い道案内だった。しかしその別れ際、彼が礼を述べて去っていくと、クレアの胸の奥に不思議な余韻が残った。
そして数日後。
「アヴェレート王国より、テオドール・アヴェレート殿下が、我が学園に留学されます」
学園ホールでの発表に、生徒たちはざわめいた。
――まさか彼が、アヴェレート王国の第二王子だったなんて。
しかしクレアは驚きよりも、どこか妙な納得をしていた。あの軽やかさ、あの人懐こさ。それでいて、品位を崩さない振る舞い。王子という肩書きが、彼に妙に似合っている気がした。
一方その頃、女子生徒たちは完全に熱狂モードだった。
「まさに『いつか王子様が』って感じよね!」
「わかる〜! 本当に王子が来るなんて……」
女子たちの憧れ、『いつか王子様が』。ヴァルミールで語り継がれてきた、伝説的な恋のエピソードだ。
五十年前。ヴァルミールの姫が、アヴェレート王国の王子に見初められ、彼の迎えにより婚約、そのまま国へ連れ帰られ婚姻へ至ったという、美しい神話のような物語。
以来この国では、「アヴェレート王国の王子」は恋の象徴だ。
「最近もあっちの国では、王弟殿下と女公爵閣下のロマンスの噂が盛り上がってるらしいわ!」
「アヴェレートって、恋の国って感じよねぇ……!」
きゃっきゃと盛り上がる女子たち。その横を、クレアは冷えた眼差しで通り過ぎた。
――夢を見すぎなのよ。婚約者がいる身のくせして。
クレアには、「王子様」幻想を抱く余地などなかった。
サヴィエール家はアヴェレート王国との国境を護る家柄だ。今でこそヴァルミールとアヴェレート王国は蜜月の関係だが、大昔には戦争をしていたこともある。蜜月とはいえ別の国だ。潜在的な敵性を忘れるなと、父からは口酸っぱく言われていた。
クレアにとっては婚約もまた、現実の延長だ。貴族の娘としての義務、家同士の利害の帳尻合わせに過ぎない。
その冷めた現実認識ゆえに、王子様への憧れなど大昔に封印済みだった。
夏の陽射しが、学園の回廊に白く降り注ぐ。
クレアは、その光の中を一直線に歩いた。スカートの裾が軽く揺れ、靴音がリズムを刻む。
そんなとき、視線の先に二人の人影が現れる――ヴィクトールと、イザベラ。
日差しのなかで彼らは理想図のように並び、笑い合っていた。
イザベラがヴィクトールに寄り添い、ヴィクトールは柔らかくその肩に手を置いている。距離の近さも、視線の交わし方も、夫婦ごっこの完成形だった。
クレアは立ち止まり、無意識のうちにその光景を見つめた。
視線が合った。ヴィクトールがクレアを一瞥する。しかしそのまま、彼は何もなかったかのように視線を逸らした。
クレアの胃が、キュッと凍りつくように縮んだ。怒りとも、悲しみとも違う。ただ、目の前の現実があまりにも理不尽だった。
──これが、私の立場。
イザベラは、ヴィクトールの将来の第二夫人、つまり側室として婚約している。クレアは第一婚約者だった。
しかしその肩書きは、ただの飾りでしかなかった。ヴィクトールも、周囲の空気も、社交界の視線も、“本命”として見るのは常にイザベラだった。
高位貴族には側室が許されているが、未成年のうちに決めるのは異例中の異例。
ローレント公爵家とモンテヴェール侯爵家――政略の都合が、形式を超えた親密さを生んだ。
頑固なヴィクトールと、従順なイザベラは、相性が良すぎたのだ。
クレアも、最初から諦めていたわけではない。しかし彼女の利発さは、ヴィクトールの癇に障った。話し合うたびに、距離はむしろ遠のいた。
――壁に話すより虚しかった。
冷静さが取り柄のクレアでさえ、その努力の空回りに、何度も心が軋んだ。
しかし感情を剥き出しにしたところで意味はない。彼女は、辺境伯家の代表として、与えられた役割を果たし続ける他なかった。
ふと、イザベラがヴィクトールの腕に指先を絡めた。笑顔は完璧で、非の打ち所のない「貴族の令嬢」そのものだ。
クレアはゆっくりと踵を返し、歩き出した。心の中で何かが沈んでいく感覚を抱えながら。
数分後、教室にたどり着いたクレアは、席に腰を下ろし、自習課題に取り掛かった。早々に書類を広げ、集中するようにペンを走らせる。
しかし耳に入る声は止められなかった。
「またガリ勉してる……」
「ほんと、面白みがないよね。あれで辺境伯家とか、地味にも程があるわ」
クレアの手は止まらない。けれども、指先に不必要な力がこもる。
――こんなことで揺れている暇はない。
クレアは小さく息を吐き、再び視線を課題へ戻した。
その様子を、教室の端から静かに見つめる視線があった。黒い瞳の少年――テオドール・アヴェレート。
彼は机に肘をつきながら、無遠慮に観察を続けた。
【ゲームチェンジャー】
今夜は、夏季休暇に入る直前の、恒例のパーティ。ヴィクトールがクレアに婚約破棄を告げたのは、そんな晴れ舞台の日だった。
このパーティは生徒会主催であり教員不在、干渉はない。それを見越してヴィクトールは、同じ学園のめぼしい生徒たちに、「手出し無用」と根回し済みであった――国内貴族に限定して。
テオドール・アヴェレート。黒髪の隣国王子が、輪の外から歩み出て、クレアの隣へ立つ。重々しい沈黙のなか、テオドールだけが、別の劇場から来たかのように軽やかだった。
「自由の身になったクレア嬢に愛を乞うことは、何の問題もないよね?」
自信に溢れた笑みに、茶番のような口調。しかし、その黒い瞳は笑っていない。
ヴィクトールは苦虫を潰したような顔で、反論する。
「……これはヴァルミール国内の問題です。アヴェレート王国の第二王子が、介入すべき話ではありません」
ヴィクトールはあくまで礼を崩さず、しかし剣のように尖った言葉を投げてくる。
テオドールは、それを受け流すように肩をすくめ、口角を上げる。
「内政干渉って言いたいわけだ?」
そこで声の調子が変わる。軽妙さを捨てた、一人の男の声だった。
「君が国家の論理を持ち出すなら、僕は紳士の論理を持ち出すよ。衆目のもとで令嬢を辱めようとする者に、論理も道理も説く資格はないってね」
その瞬間。会場が、目を覚ました。
誰も声を出さない。誰も動かない。表情も声も変わらないまま、それでも空気が、テオドールが示す正義を肯定していた。
ヴィクトールの唇が引きつった。
テオドールは、クレアへと向き直る。誰もが見惚れるほど、流麗な動作だった。その瞳は、真剣な色に染まっていた。
「クレア嬢。どうか、僕の手を取っていただけますか?」
その手は、舞踏会の誘いのように優雅で、しかし確かな誠意と情熱が感じられた。
クレアの胸に、微かな衝撃が走る。
――彼が、私を助けようとしている。
クレアの胸に生じたのは驚きと、戸惑いと、心強さだった。この残酷な会場で、どれだけ彼女を安堵させたことか。
しかしクレアはすぐに感情を押し込み、そのアイスブルーの瞳を強く輝かせた。
「私にだって矜持があります。こんな形で差し出された施しを、サヴィエール辺境伯家の名にかけて、受け入れるわけにはいきませんわ!」
その言葉が響いたとき、空気が震えた。生徒たちもついに動揺を見せ始めた。
しかしテオドールだけは違った。彼は眉を上げ、そして心底楽しそうに笑った。
「気に入った!」
その笑顔は、宝物を見つけた子供のような、けれど王族らしい狩人の笑みだった。
「じゃあ、こうしよう。僕の留学の間に、君を口説き落とす。君は受けてもいいし、断ってもいい。僕の愛が勝つか、君の矜持が勝つか――ゲームしよう」
テオドールの提案に、会場の空気がまたしても一変した。不自然なまでの静寂の中で、生徒たちは互いに目配せ合う。その視線が赤裸々に物語る――生徒たちは先の婚約破棄騒動を頭から追いやり、「隣国王子と辺境伯令嬢の求愛ゲーム開幕」として受け止めたのだ。
その騒々しい静寂の中で、テオドールの笑みだけが、やけに生き生きとしていた。
「覚悟してね、クレア嬢」
宣戦布告のような囁きに、クレアは顔を真っ赤にさせた。しかしその場から逃げ出すことはなかった。
よろしくお願いします。
この作品は「拗らせ女公爵と策略王弟の愛と希望の日々 〜政略と社交の狭間で愛し合ってみせます〜」のスピンオフ作品です。
https://ncode.syosetu.com/n3251jx/




