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第一話:婚約破棄と求愛ゲーム

【婚約破棄に介入する者】


「私は、クレア・サヴィエール嬢との婚約を、正式に破棄することを宣言する」

 ダンスホールの真ん中、煌びやかなシャンデリアの下で、一人の令息が言い放った。

 公爵令息ヴィクトール・ローレント。彼は、公明正大な裁判官のような顔をして、この場を取り仕切る。隣には、侯爵令嬢イザベラ・モンテヴェールが寄り添う。

 真正面から対峙するのは、辺境伯令嬢クレア・サヴィエール。

 白金色の髪、アイスブルーの瞳。その凛々しい美しさは、この状況下でも揺るがない。クレアの瞳は、冬の湖のように澄んでいた。

 周囲の若き貴族たちは、当事者三名を輪になって囲み、固唾を飲んで見守っていた。


「ヴィクトール……どういうつもりですか?」

 クレアの声は冷静で、しかしその奥には深い怒りがこもっていた。指先から熱が失われていく中、クレアは必死に感情を抑え込んだ。

「こんな場で、こんな方法で、婚約破棄だなんて。あなたは一体、何を考えているのですか? 私の名誉をどうするつもりですか?」

 ヴィクトールは一瞬、眉を顰めたものの、すぐに冷徹な表情を取り戻し、周囲を見渡して言った。

「君が名誉を語るなら、私も言わせてもらう。貴女は将来の第一夫人としての責務を果たしていない。第二婚約者であるイザベラに対して、良好な関係を築こうとせず、あまつさえ排斥しようと画策していた」

 彼は軽く肩をすくめ、そして声高らかに告げた。

「将来の家の調和を預かる、第一婚約者の資格なし。これが最終的な決断だ」


 クレアはその場でヴィクトールの言葉を呑み込むことができず、再び声を上げた。

「それは、一体何の証拠があってのご発言ですか? 貴方の一方的な主張だけで、家同士の取り決めを、私の人生を決めないでください」

 クレアの目は鋭く、ヴィクトールを突き刺すように睨んだ。しかしその言葉に、ヴィクトールは表情を変えることなく、冷たく続ける。

「貴女には弁明の余地も、選択肢もない。これは公爵家全体の決定だ」

 その言葉がクレアを貫く。まるで足元からすべてが崩れ落ちるかのような感覚が襲う。それでも決して引き下がってはならないと、クレアは口を開きかけたが、うまく言葉にならなかった。

 しかしその瞬間、会場の静寂を破るように、突如として別の声が響いた。


「それなら僕がクレア・サヴィエール嬢に愛を乞おう」


 会場の空気が一変する。全員がその声に驚き、視線をその方へ向ける。そこには隣国の第二王子、テオドール・アヴェレートが立っていた。


【いつか王子様が】


 時は約一ヶ月前に遡る。

 この国の若き貴族たちへ集団教育を行う、ヴァルミール王立学園。クレアはこの学園の生徒である。

 その日、クレアは教室移動のため、学園の中庭を跨る回廊を歩いていた。夏本番を予感させる、カラッとした日差しだった。

「すみません。教員室の場所をお尋ねしても?」

 ふと背中に声をかけられ、クレアは振り返る。黒髪黒目の、クレアと同じくらいの身長の少年が立っていた。この国、ヴァルミールの民の特徴――色素の薄い髪と目――に当てはまらない風貌だ。隣国、アヴェレート王国の人物だと、クレアは察する。

 貴族らしい装い、容姿端麗の少年が、戸惑いながらも一歩踏み出してきた。

「もちろん。東棟の場所はおわかりになりますか?」

 クレアはすぐに答えた。礼儀正しく、丁寧に。それでも彼の不安を汲み取ったクレアは、道案内をすることにした。

「ありがとうございます! お優しいですね」

 少年は人好きする笑みで、真っ直ぐな感謝をクレアに向ける。クレアはその瞬間、自分が誰かの役に立てたという小さな満足感を覚えた。


 少年と別れた後、クレアは自分の目的地へ向かう回廊へと戻る。しかし、その道中でも、不思議とその時の穏やかな会話の内容や、少年の表情が頭の中に浮かんだ。彼の名前も知らず、隣国の人だろうとしか思わなかったが、なぜか彼とのやりとりが妙に心に残った。


 そして数日後、学園内で再びその少年の姿を見かけた。生徒たちが集められたホールの中で、彼が留学生としてヴァルミール王立学園にやってきたことが発表された。ヴァルミールの姫エリオノーラ・フィーリスとの交換留学だという。少年の名は、「テオドール・アヴェレート」――アヴェレート王国の第二王子だ。


 その後の学園内では、女子生徒たちがテオドールの噂で盛り上がっていた。回廊の端に集まる女子たちが、興奮を抑えきれない様子ではしゃぐ。

「本当に、『いつか王子様が』って、伝説のようなことが現実になるかもしれないわ……!」

 ヴァルミールの貴族女子たちの、憧れの恋愛ドリーム『いつか王子様が』。これは五十年ほど前、当時のヴァルミールの姫が、アヴェレート王国の王太子の迎えにより婚約し、そのままアヴェレート王国へと連れ帰られたエピソードによるものだ。それ以来、ヴァルミールの歌劇や詩における、定番のモチーフになっている。

「アヴェレート王国って、恋愛の国のイメージあるわよね。最近も吟遊詩人が、あの国の恋愛事情を歌ってたじゃない?」

「知ってるわ! 王弟殿下と女公爵閣下の秘めた愛の詩よね。大人同士の自立した恋愛って感じで、憧れちゃう!」

「そんな国の王子様だもの。もしかしたらテオドール殿下も、この国の女子を連れ去ってしまうかもしれないわ」

 女子生徒たちは笑いながら言った。目をキラキラさせて、おしゃべりが止まらない。クレアはその様子を冷ややかな目で見て、通り過ぎた。

『いつか王子様が』など、クレアにはそんな甘い夢を抱く余裕はなかった。アヴェレート王国との国境を守る家の者として、彼女はいつも現実に目を向けて生きてきた。今でこそヴァルミールとアヴェレート王国は蜜月の関係だが、大昔には戦争をしていたこともある。蜜月とはいえ別の国である以上、潜在的な敵性を忘れてはならないと、父から口酸っぱく言われながら、クレアは育った。

 そんな家の事情で婚約を結んだ相手との関係も、甘いものではなかった。それを取り巻く事情に頭を悩ませる日々が続いていた。そんな彼女にとって、「王子様」という言葉が持つ意味は、ただの夢物語にすぎなかった。


 ――そんなことを言っている暇があれば、もっと現実を見なさいよ。


 クレアは、内心でため息をつきながらも、女子生徒たちのキャッキャとした声を背に、ただ冷え切った気持ちを押し込めていった。クレアの目には、「王子様」などという存在に対する幻想を持つことは、愚かで無駄だと映っていた。


 そうしてクレアが回廊を進んでいると、その先で、ヴィクトールとイザベラを見かけた。二人はクレアよりも学年が一つ上であるため、いつもなら行動範囲が重なることはない。ただし稀に、教室移動時に鉢合わせることがあった。

 一瞬、ヴィクトールとクレアの目が合うが、彼はすぐにその視線を外した。

 ヴィクトールは笑顔で、イザベラの肩を軽く抱き寄せた。まるでふたりだけの世界にいるかのように楽しそうに話している。その光景は、他の生徒たちの目にも触れている。


 クレアはその二人を見つめたまま、足が自然と止まった。

 ヴィクトールとイザベラ。二人の関係は今や公然になっている。イザベラはヴィクトールの将来の第二夫人として婚約しており、クレアは将来の第一夫人として婚約している。

 高位貴族の間では、血を絶やさないために側室を持つことが認められている。しかし未成年の時点で側室を決めることなど、異例の事態であった。ローレント公爵家とモンテヴェール侯爵家の利害が一致したからだ。高位貴族同士の取り決めは、時に道理を追いやって無理を通すものだ。

 先に婚約していたサヴィエール辺境伯家としては顔に泥を塗られた格好だったが、「爵位が上の侯爵家の娘が第二婚約者に位置付けられている」ということで、手打ちにさせられた。

 しかし現実は、イザベラがほとんど第一婚約者のような扱われ方で、クレアはその陰に隠れるような位置にいた。


 ――あれが私の現実なんだ。


 クレアの心の中で、冷ややかな笑いがこぼれる。その現実は、彼女の望んだものではなかった。家同士の取り決めにより結ばれた、理と利のための婚約。しかし、何もかもが裏目に出ているように感じた。

 クレアとヴィクトールの関係は、決して良好ではなかった。そもそも、二人は性格が合わない。クレアの利発さが、ヴィクトールの心に触れるたび、彼の顔に不快感が浮かぶ。ヴィクトールは自分の考えに固執し、クレアが意見や提案をする度に、どこか反発するような表情を浮かべ、時には冷たく話を打ち切った。その姿を見るたびに、クレアは引っかかる場所のない壁を前にしたような気持ちになった。

 それでもクレアは何度も頭の中で考え、悩み、試行錯誤を重ねてきた。しかし、結局何も変わらない。ヴィクトールの態度は相変わらずで、二人の関係はますますギクシャクしていく一方だった。


 ――もう、こんなことで頭を悩ませるべきじゃない。


 彼女はそう思い、深く息をついた。

「切り替えなくては」

 クレアは自分に言い聞かせるように、気持ちを振り払い、歩みを進めた。

 教室に到着し、席に着くと、クレアはすぐに講義の課題に取り掛かり始めた。その姿を見ていた周りの生徒たちが、小声で話し始めるのが聞こえた。

「またガリ勉してるわ」

「ほんとに、堅物っていうか、面白みがないよね」

 その言葉は、クレアの耳には届いていたが、彼女はそのまま無視して集中し続けた。自分にできることをすれば、何かを言われる筋合いはない――そう判断し、目の前の課題を、一つひとつクリアしていく。


 クレアは気づいていなかった。教室の端に座っているテオドールが、クレアの勉学に打ち込む姿勢も、それを嘲る周囲の者たちの様子も、その空間ごと観察していたことを。


【ゲームチェンジャー】


 ヴィクトールがクレアに婚約破棄を告げたのは、学園が夏季休暇に入る直前の、毎年恒例のパーティでのことだった。ヴィクトールはこの婚約破棄騒動のために、入念な準備をしていた。このパーティは生徒会が主催するものであり、教員からの介入はない。それを見越してヴィクトールは、同じ学園のめぼしい生徒たちには「手出し無用」と根回し済みであった――国内貴族に限定して。


「自由の身になったクレア嬢に愛を乞うことは、何の問題もないよね」

 テオドール・アヴェレートは、ヴィクトールたちを取り巻いていた輪から中央へと抜け出て、クレアの真横に立つ。クレアは驚きの眼差しをテオドールに向けた。

 空気が一変した。先程まで流れていた上品な音楽が、まるで遠くの出来事のようだ。取り囲む生徒たちがどよめき、言葉にならない驚きと興奮が広がる。

 アヴェレート王国の第二王子が、公衆の面前でヴァルミール貴族の婚約破棄騒動に介入する。

 これが「ただの個人的な感情の表明」なのか、それとも「外交的な圧力」なのか——傍観していた者たちの間にも、困惑と緊張が走る。


 ヴィクトールは苦虫を噛み潰したような顔で告げた。

「これはヴァルミール国内の問題です。アヴェレート王国の第二王子が介入するべき問題ではございません」

 ヴィクトールは、視線をテオドールに向け、冷ややかな眼差しを向けている。彼の言葉には、アヴェレート王家に対する強い警戒と、一歩引かせようとする意志が込められていた。しかし、その主張がどこか空虚に響く。傍観者たちも思わず無言で目配せし合っていた。

 その沈黙を破るように、テオドールは軽やかに反論する。

「内政干渉って言いたいわけだ。君が国家の論理を持ち出すなら、僕は紳士の論理を持ち出すよ。衆目のもとにご令嬢を辱めようとする者に、論理も道理も説く資格はないってね」

 テオドールの言葉に、生徒たちが息を飲んだ。彼の一言一言は、まるで広場で鳴り響く鐘のように、今ここに集ったすべての者の心を揺さぶっていた。

 それは、気高き者として当然の矜持を示したまでのこと。その場にいる全ての者たちは、不自然なまでに沈黙を貫いた。しかし彼らは内心で、テオドールの正しさを承認した。それを表情で伝えていた。


「っ……」

 ヴィクトールは、テオドールの反論と状況の悪さを前にして、ただ黙り込んだ。

 テオドールはクレアに向き直る。誰もがその様子に注目して言葉を飲んだ。その静けさが、テオドールの次の一言をさらに際立たせる。

「クレア嬢。どうか、僕の手を取っていただけますか?」

 テオドールがクレアに向けて手を差し出す。

 テオドールの言葉は、まるで舞踏会での一声のように優雅だったが、その黒い瞳は真剣そのもので、クレアに向けて情熱的な輝きを放っていた。クレアの胸が瞬間的に高鳴り、揺らいだ。


 ――彼が、助けようとしてくれている。


 突然の優しさと誠実さ、情熱に、クレアは泣きたくなるような気持ちを覚えた。

 それでも彼女は、アイスブルーの瞳に力を込めて、迷うことなく答えを放った。


「私にだって矜持があります。こんな形で差し出された施しを、サヴィエール辺境伯家の名にかけて、受け入れるわけにはいきませんわ!」


 クレアの答えに、会場は信じられないものを目にしたように、無言のまま動揺した。しかしその静けさを破ったのは、テオドールの予想外の反応だった。彼はクレアの言葉に驚くことなく、むしろ嬉しそうに笑いながら、声を上げた。

「気に入った! じゃあ、こうしよう。僕の留学の間に、君を口説き落とす。君は受けても良いし断っても良い。僕の愛が勝つか、君の矜持が勝つか、ゲームしよう」

 テオドールの提案に、会場の空気がまたしても一変した。クレアの言葉に対する反応としては予想外に軽やかで、挑戦的だった。それが逆に興味深く、また刺激的でもあった。生徒たちはその瞬間に、婚約破棄騒動を上書きして、「隣国王子と辺境伯令嬢の求愛ゲームの開幕」として認知した。

「覚悟してね、クレア嬢」

 テオドールの宣戦布告に、すべての視線が再びクレアに集まる。クレアは顔を真っ赤にしながら、それでもその場から逃げ出すことなく、テオドールに対峙していた。

よろしくお願いします。

この作品は「拗らせ女公爵と策略王弟の愛と希望の日々 〜政略と社交の狭間で愛し合ってみせます〜」のスピンオフ作品です。

https://ncode.syosetu.com/n3251jx/

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