第六十話 神獣
休日から一夜明けた俺達は七十八階を順調に進んでいる。
相変わらず厄介な竜達ばかりだが、ムギは昨日の休みで心身をリフレッシュできたようで、隠れている竜達を暴いてくれる。
「ムギ。疲れたらすぐに教えてくれよ。確実に進んでいるんだからな」
「ピヨ!」
声をかけるがムギはまだまだ元気いっぱいだ。この分なら今日中に次の階に行けるかもしれないと思ってしまった。
しかし、俺達はすぐに違和感を感じるようになる。
「なあムギ。気配は感じられないのか?」
「…ピヨ」
先程までと違って力ない返事が返ってくる。だけど実際に襲われていないので、ムギの探知能力には何も問題が無いのだろう。
だからこそ不安なんだけどな。そして不安が的中するのには、そう時間がかからなかった。
突然物凄いプレッシャーを感じたのだ。反射的にムギを召還して入り口を開いて隠れ家へと戻ろうとした。だがそのどちらも出来なかった。
俺は膝をついて呼吸が荒くなる。ベルは立っているが体が震えている。ムギは倒れて涙を流していた。そんなムギを俺は何とか抱える。
「大丈夫だムギ。絶対守るから」
ただの強がりでしかないが、俺はムギを安心させるように声をかけた。
だがそれを打ち消すような声が周囲に響き渡る。
「儂の縄張りで何をしておるのだ?」
不意に聞こえた女性の声。声や言葉からは敵意は感じない。それでも汗や震えが止まらない。俺は力を振り絞って口を開いた。
「俺達は次の階に行きたいんだ。そこに探している奴がいるかもしれないんだ」
「なるほど。儂の後ろにある扉を通りたいのか。だがその程度の理由で儂の縄張りに足を踏み入れて眠りを妨げたのか」
ほんの少しだけ怒気が含まれた。それだけで遠くから竜達の怯える声が聞こえた。そして誰よりも狐に近い場所にいる俺達は呼吸すらままならない。
「聞いておるのか? 何か答えてみよ」
俺達の前に現れたのはとても大きな狐だ。金色の毛と九本の尻尾が特徴だ。そして狐の目は俺達に敵意を持っていた。俺とムギは腰が抜けてその場に座り込んでしまう。口を開くことも出来ない。ベルが励ましてくれているが動ける気がしない。
狐は何も答えない俺にしびれを切らしたかのように動き出す。
「何も答えんなら喰ってしまおうか」
「キュー!!」
狐が口を開くとベルは狐に立ち向かった。
何発も何発も闇魔法をぶつけ、周りの草も狐を襲いだす。
狐はその猛攻を受けても笑うだけだった。
「少しはやるようじゃな。くすぐったかったぞ」
まったく動じない狐の姿にベルも後ずさってしまう。
狐はそれを見て口を開いた。
「ふむ。良いことを思いついたぞ。お主達が五分生き延びたら扉を通してやろう。逃げる事は許さぬぞ」
狐の尻尾が一本とれたと思うと、急激に伸びて俺達の周囲を結界のように囲み出す。このリングの中で俺達は五分間生き延びなければいけないらしい。
だけど情けない事に俺は立ち上がれないでいる。狐の圧力に心から負けを認めてしまったようだった。何かしようにも体が動かない。お情けで今生きている事を許されている感じだ。それはムギも同じ様だった。
「キュ」
そんな俺達の方を向いてベルが任せろと胸を叩いてくる。そして狐へと飛びかかった。
「キュキュ!!」
ベルは周囲を森へと変える。草だけでなく木や花もベルの味方をする。木は枝を伸ばして狐を攻撃して動きを制限し、花は花弁を散らして飛びかかっていく。それを見た狐は愉快そうに笑っていた。
「愉快愉快。ここ数百年程、神々以外でこれほどの植物魔法は見ておらんの。うん? お主は……面白い存在じゃな。いずれは神獣となり神々の一柱になるかもしれんの」
この言葉だけで、この狐がどれだけの大物かが予想がつく。
そして褒めているがベルの全力の攻撃も狐には意味がなかった。俺から見れば強烈な一撃であっても狐に傷一つ付ける事は叶わない。そして狐は遂に動き出した。
「それでは儂も動かせてもらうぞ」
狐は尻尾を一本動かした。そう本当に動かしただけだ。攻撃という意思を感じない。だけど森は消え去り俺達は吹き飛ばされた。尻尾の結界がクッションの役割をしてくれたが、もし尻尾の結界が無ければどれだけ吹き飛んだのだろうか?
「まさか終わっておらんよな?」
何とか視線を狐に向けると既にベルは立ち上がって狐と対峙していた。力の差を理解しながらも諦めることなく攻撃し続ける。
本当にベルは凄い。
そう思っていたのだが、ベルが震えている事に気が付いた。
そりゃそうだ。こんな化け物を相手にして怖くないはずがないよな。それでも俺達を守るために前に立つのか。肝心な俺が腰を抜かしているというのにな。
ハハハ。ダメすぎだろ俺。
自分自身に苛立ってきた。シェリルには偉そうなことを言ったりもしたのに、俺自身が諦めていちゃ格好悪いにも程がある。
俺は気力を振り絞る。“勝てるわけがない”そんな言葉が頭を占めるがそれを打ち払うように俺は口を動かす。
「大丈夫だ。俺は勝てる」
その瞬間に狐の視線が俺に向けられた。
「ちっぽけなお主が勝つつもりなのか?」
言葉を向けられただけで気を失いそうになった。こんな奴を相手にして勝てる可能性など限りなくゼロなのだろう。つーかゼロだ。俺は立ち直りかけていた心を再び砕かれた。
「何か言わんのか? それなら黙っておるんじゃな。儂の遊びの邪魔をするでない」
そう言って俺から興味を無くして、ベルに目を向ける。
「そろそろ一分経つの。少しだけ攻撃してみようか」
ニヤッと笑う狐の口に炎が集まる。その炎はとても白い。まだ狐の口にあるというのに、体の水分を全て蒸発させてきそうな熱さだ。
「キュー!!」
放たれる炎を改めて作り出した森が飲み込んでいく。
「ほう。…しかし限界じゃな」
森は炎を飲み込んでいたが一気に燃え上がってしまった。白い炎はベルをも燃やし始める。
「キュ~!!」
「ベルっ」
ベルの悲痛な声が耳に入ると俺の体は勝手に動いていた。相変わらず恐怖が纏わりついてくるが、そんなことは言ってられない。
ムギの周りに水の壁を作ってからベルの側に駆け寄っていた。白い炎はベルに触れた俺にも燃え移ってくる。
「動けたのか。じゃが死ぬだけじゃな。お主の様な小僧ではその炎は消せん。せめて逃げ回ってくれれば遊べたんじゃがな。つまらんの。そこのヒヨコで遊ぶとするか」
狐の言う通り白い炎は全く消えてくれない。ベルの声がどんどん小さくなってくる。さらに狐は動けないムギに目を向けている。俺は狂嵐舞を手にした。
「む?」
狐が狂嵐舞を興味深く見つめている。だが今はそれを気にする余裕などない。とにかく水と風だ。この炎を消してやる。
「うおぉぉぉぉ!!」
結界内は強風と水で満たされていく。水の中でも消えない炎には怒りしか湧かないが絶対に消してやる。
どんどん嵐は強くなっていく。それに比例して狂嵐舞を持つ右手は赤く赤く血に染まっていく。とっくに限界は超えているだろうがこの手は絶対に離さない。そして嵐が極限まで強くなったと同時に俺の手は爆ぜた。
だが白い炎は消えた。ベルも気を失っているようだが呼吸はある。ムギを守るための水も強化されている。
月光水をベルに振りかけておく。これでとりあえずの心配は減った。
「お主。その水をどこで見つけた?」
狐の声から強烈なプレッシャーを感じる。ここまで来ると力の差がありすぎて笑えて来るな。俺は笑みを浮かべながら答えてやった。
「家の庭に月光樹があるんだよ。だからそこで汲んできた。なんなら不老長樹もあるぞ」
「ククク。戯言を申す出ないぞ」
狐は笑ったかと思うと、いきなり真剣な表情に変わる。
「本当の事しか言ってないんだけどな」
なんてぼやいてみるが、狐のプレッシャーは増すばかりだ。嵐まで吹き飛ばされてしまったよ。
それよりも後三分以上も時間があるのか。どうすれば逃げ切れるかな。いや、逃げても無駄だよな。それなら。
俺はベルとムギを水のベールで包んで、左手に暴風鴉を持つ。
「頼むぞ」
そして暴風鴉を投げつけた。暴風鴉は鳳へと姿を変えて狐に襲い掛かる。
しかし狐が息を吹くだけで鳳は吹き飛ばされて、俺の足元に戻ってきた。
「逃げずに向かって来たか。心意気だけは立派じゃな」
「それなら少しくらい堪えてくれるとありがたいんだけどな」
「何を言っておる。儂が褒めたのは心意気だけじゃ。その程度の攻撃が儂に通じるはずがないじゃろ」
「なあ、アンタは何者なんだよ。格上とは戦った事はあるけど、ここまで何も通じない相手は初めてなんだが」
「時間稼ぎがバレバレじゃな。答えは三分後じゃ。死んでも魂は閉じ込めてやるからの。たっぷり話をしてやろう。貴様にも聞きたいことはあるからな」
残念。バレてしまうか。ベルもまだ起きる様子が無いし。やれるだけやりますか。じゃないと、死んでからもヤバいからな。
「もう少しだけ頼むぞ」
俺は暴風鴉を拾い上げて、もう一度鳳を作り出す。そして俺はその上に乗る。
「生き残れば体がどうなっても再生できる。だからお前も力を貸してくれ」
そしてもう一度狂嵐舞を握りしめる。すると結界内再び嵐が巻き起こる。狐は尻尾や息を吹きかけて掻き消すが、俺が生きている限り何度でも嵐は蘇る。
鳳は嵐をものともせずに飛び回る。
「雨がカーテンのようになっているの。少しは考えたようじゃな」
狐が少しでも力を出せば意味は無いだろうが、コイツは楽しみたい節があるから少しは時間が稼げるだろう。そう思った瞬間、俺の少し横をボーリングサイズの魔力の球が通過した。
「外れたか。儂は当てるつもりで放つからキチンと避けるんじゃぞ」
俺は全力で鳳を動かして攻撃を避け続ける。雨で視界は悪いというのに正確に俺を狙ってきている。
「少し楽しいの♪」
そう言って笑う狐の攻撃の精度はどんどん上がってくる。いや意図的にギリギリを狙っているのかもしれない。一応こっちも攻撃を仕掛けているが、効果は無い上に強力な反撃がくる。
「残り二分じゃな。お主がこれ以上の引き出しが無ければそろそろ終わらせようかの」
狐の言葉に嘘は無いのだろう。終わらせようと思えばいつでも終わらせられる。俺は狐の気まぐれで生かされているようなものだ。
「うおおおおお!!」
俺は狐の頭上から大量の水を落とす。滝のような水は水飛沫を上げて狐を押し潰そうとする。
「中々気持ちが良いの♪ マッサージじゃな」
こっちは限界なのにマッサージ気分で泣きたくなる。それでも俺は狂嵐舞に魔力を込める。また手が爆発してしまいそうだが無理やりコントロールする。そして凝縮した嵐の球を狐に向かって放った。俺の手はその瞬間に無くなってしまったが仕方がない。
俺をバランスを崩して暴風鴉から落ちてしまう。そして左手を犠牲にした嵐の球は狐へとぶつかった。嵐の球はその瞬間に弾けて、強烈な威力に跳ね上がった。
「こそばゆいの♪」
絶望の二文字が頭に浮かぶ。俺の捨て身の一撃程度では狐はびくともしない。正直、今見ている狐は幻影で本物がどこかにいるのではと疑ったがそんな様子もない。
俺は力なく座り込んだ。
「終わりか?」
「一つだけアンタにも効きそうな物はあるけどな。それを使ったらアンタは激高して暴れそうだから使えないんだよ。絶対に五分間の約束も無くなるだろうしな」
「それは気になるの。ところで後一分じゃぞ。もう諦めたのか?」
「もう体が動かねえよ」
「それは残念じゃな」
狐は口の中に白い炎を溜めだした。
「抵抗しなければ一瞬じゃ。痛みも無いから安心せい。儂は優しいからの。お主の従魔とはすぐに再会できるぞ」
「そうか。それじゃあ足掻かないとな。死にたくないし」
すると急激に水が無くなり木が何本も生え始めた。
「キュー!」
木の上にはベルと分身達がいる。狐を囲み色んな方向から攻撃を仕掛ける。
その間にベルの分身が俺に近づいてきて、月の雫を使ってくれた。お陰で両手が使えるようになった。
「"月の雫"じゃと!? まあよい。あと四十秒ほどじゃな。…耐えてみよ」
狐が前足を振り上げて地面をたたく。それだけで結界内の地面は吹き飛んでクレーターができる。
分身達は消えてベルも体勢を崩されて宙に放り出される。そこを狙って再び前足で攻撃してくるが、俺はまだ消されていない暴風鴉をコントロールしてベルを助ける。
そして俺は狐を水の中に閉じ込める。勿論一瞬で水は消された。
機嫌良さそうに体を動かしている狐に対して、こちらは命懸けで対応し続けた。
だが、努力や頑張りが報われるとは限らない。俺もベルも地面に倒れこんで動けなくなった。
「残り二十五秒。これまでじゃな」
◆
(三人称視点)
「ふむ。良いことを思いついたぞ。お主達が五分生き延びたら扉を通してやろう。逃げる事は許さぬぞ」
この言葉にムギはただただ震えていた。自分達の特訓など何の意味も無いかのような遥か格上の存在に、抗う術など思い付かない。
「キュキュ!」
ベルが奮闘しているが狐は聴いた様子もなく笑っている。その事実が余計にムギを不安にさせた。そして炎に包まれるベル。ムギは助けたいと思っていたが、体が動いてくれず見ていることしか出来ないのが苦しかった。
「ベル!」
ジュンが動き出して、ベルを助け自分にも水の障壁を張ってくれた事に少し安心したが、狐の存在は全てを打ち砕いてくる。
一度目を向けられた時は死を覚悟してしまった。だがジュンが狐の興味を惹き付けてくれたことでムギは落ち着きを取り戻すことが出来た。
そしてジュンの戦いをムギは見ていた。ジュンも嵐を巻き起こして普通の敵が相手なら、倒せずともダメージは与える攻撃だったはずだ。だがその攻撃も通じず、捨て身の攻撃も意に介さなかった。ベルが回復してもその圧倒的な力で二人を打ちのめしている。
「残り二十五秒。これまでじゃな」
気が付いたら二人とも動かなくなっている。そして狐が前足を上げた。
ムギの脳裏に浮かぶのはジュンとベルが死ぬ姿だ。
「ピヨ」
“嫌だ”そんな言葉がムギの口からこぼれた。まだ生まれて長い時間が経ってはいないが、ムギは皆が大好きだ。誰が欠けても楽しくは無くなる。ジュンとベルだけがダンジョンを進んでいた時間も嫌だったのに、永遠のお別れなんて考えたくもない。
それに二人が亡くなったらシェリル達が泣いてしまうのは目に見えている。それを考えるだけで心がすごく痛くなる。
この時ムギの中で、狐の恐怖よりも家族がバラバラになってしまう悲しさが上回った。
「ピヨー!!」
狐が強制的に始めた五分間のゲーム。ムギは初めて体を動かすことが出来た。奥の手は無い、考えも無い。それでも何かせずにはいられなかった。
「ピヨー! ピヨピヨ! ピヨー!!」
“二人から離れろ”とムギは強く叫んだ。すると狐は一瞬だけ体が止まり、ムギの方を見たのだ。
……ムギは特殊な存在だ。種族は普通なのだが、生まれが他に類を見ないのだ。ムギの誕生のために力と愛情を注いだのは、上位の魔物を圧倒する能力を秘めている人間なのか分からない存在であるジュン、呪われているとはいえ若くしてAランクまでの上り詰めたシェリル、狐からも実力を認められたベル、聖魔法を使える魔物であるコタロウ、人形に温和な魂が宿ったリッカ。
そんな者達の力の集合体がムギなのだ。そのため修練場でも確認することが出来なかった、可能性を秘めていた。この時のムギは自身の可能性を広げていたのだ。
“魅了の声”この能力は相手の思考力を奪い、自身の命令に従わせる能力だ。とても強力な能力だが勿論狐に通用するはずがない。だがムギはその潜在能力の高さと音魔法でその能力を底上げしていた。そして知らず知らずの内に狐に使用していたのだ。
奇跡の様な偶然のお陰で、ムギは狐に本の僅かだが命令に従わせたのだ。そしてそれだけではなかった。
「ピヨ!!」
ムギは力の限り“ダメ”と狐に向かって叫んだ。何も考えずに叫んだ声は音魔法で増幅されて狐の耳だけに響いた。
狐は音魔法による攻撃だったら効かなかっただろう。だが今回のムギの声は言ってしまえばデカいだけだ。音魔法が使用されているが攻撃や威圧の意図などない。子供が駄々をこねているだけのようなものだ。
それ故に狐は顔をしかめた。そしてムギをジッと見降ろした。
ムギは精一杯翼を広げて、泣きながらもジュンとベルの前に立った。時間はあと二十秒はある。どうやってもゲームオーバーだろう。だが狐は一切動かなかった。
たったの二十秒が永遠のようにも感じる。そんな地獄の様な感覚がムギを襲ったが、時間は淡々と過ぎてゆく。
そして狐が口を開いた。
「五分経ったようじゃな。好きに通るが良いぞ。扉はここを真っすぐに進めば見えてくる」
ムギはその言葉を聞いて急いでジュンとベルに月光水を使った。そして起きた二人に抱き着いてしばらくの間離れようとはしなかった。




