第七話 泉颪吹く故郷(都古のガイド) 前編
【主な人物紹介(観光部部員)】
〔早坂 睦月高校2年生〕
明るく元気な普通の女子高校生。行動力は人一倍あるが向こう見ずな性格のため失敗も多い。幼馴染の美嶺とは昔からの親友。
〔鷲尾 美嶺高校2年生〕
穏やかで少しだけ物静かな普通の女子高生。色白の美人で男子からの人気も高いが、ネガティブで自信が無いため気づいていない。幼馴染の睦月とは昔からの親友。
〔北大路 都古高校2年生〕
京都からやって来た美人転校生。観光への思いは人一倍強いらしく少々意地っ張り。けれど努力家で観光に関する本を練る間も惜しまず読み漁っている。
〔その他)
〔梶谷 五郎理科(生物)教師・睦月らのクラス担任・観光部副顧問〕
〔吾妻 みかげ(あずま みかげ)国語教師・観光部顧問〕
〔早坂 弥生睦月の姉・生徒会長〕
〔嶋 あずさ(しま あずさ)弥生の親友・生徒会副会長〕
〔ゲスト人物〕
〔河野 恭平ツアーの応募者〕
〔河野 圭恭平の長男〕
〔河野 充恭平の次男〕
第七話 泉颪吹く故郷(都古のガイド)
すっかりと季節は移り変わり、新緑は健やかに成長した四月下旬のこと。
「家族ツアー……ですか?」
吾妻先生に呼ばれたのはとある日の放課後のことだった。
「ええそうですよ~。私の知り合い、とはいっても親戚の友人の母親の従兄の息子さんの親友の家族なんですけどね~泉市を見て回りたいんですって~」
あまりにも遠すぎるそれは知り合いと言える範囲なのだろうかと思いつつ、私はそのまま話を聞くことにした。
「まぁ~早坂さんや鷲尾さんでも良かったのだけれど、そこは私の気まぐれでね~。ほら、北大路さんはガイドも上手だし是非やってもらいたいな~って」
ほんわかとした吾妻先生の目は、開いているかどうかも分からないほどの細目なのにも関わらず、その瞳孔は虎視眈々と私の瞳をじ~っと見つめていた。
宮城県に引っ越ししてから何度目か、私は「はぁ」とため息を吐いて
「分かりました、やります」
と渋々受け入れることにした。というよりも受け入れなければ帰れないような気がしたので…………。
「お~ありがとうございます。さすが京都美人ね~」
「それは関係あるんですか……」
この先生といると、まるでどこかのアイツと一緒にいるような感覚に襲われる。この二人だけは私自身のペースに持っていけないというか、何というか……。とにかくこの先生は不思議な魅力の持ち主である。
「————それよりも先生」
「はい、どうしましたか~?」
「失礼を覚悟のうえで申しますが、以前先生が私にアドバイスを下さった時、私のガイドは子供向けではないとおっしゃっていましたよね。それなのにどうして私に家族ツアーを依頼するのですか?」
私は真剣な眼差しで伺ったつもりだったが、答えは案外あっさりとしたものだった。
「ですから~、そこは私の気まぐれですよ~。特に深い理由はありません」
吾妻先生の表情は変わらず笑顔のままだった。
先生は何を企んでいるのだろうか。いつかその偽りの仮面を暴いてしまいたい。
そのようなことを考えながら私は部室へと向かっていた。
「お、みゃーこ今日は遅いね。何してたの?」
どこで拾ってきたかもわからないハンモックに、アホ毛を一本ぴょんと立てながら早坂睦月は寝転がっていた。鷲尾さんの方はまだ来ていないようで部室は二人きりである。
「吾妻先生に呼ばれたのよ。ツアーの申し込みが先生を通して入ったらしいから」
「お、やったね!でもそうなると依頼が来てないのは私だけになるのかぁ~」
「あなたも直に依頼は来るわよ。少しはガイドのこと勉強して待ってなさい」
「え~そんなぁ~。————で、ちなみにどんな人が申し込んだの?」
私は吾妻先生に渡された依頼書を鞄から取り出した。
「えっと、応募した方は仙台市に暮らしている河野恭平さんという人で、大人が一人と子ども二人、計家族三人で来る予定ね」
「へ~家族で旅行か~。私も最近してないなぁ。あれ、でもどうして大人は一人なんだろう。お母さんかお父さんは留守番でもしてるのかな?」
「はぁ、お客様の詮索なんて野暮なことはよしなさい。ただ母親が仕事で来れない場合だってあるし、人には言えないような可能性も無いとは言い切れないのだから」
「ま、それもそうだね」
彼女も彼女なりに節操というものはあるようで、それ以上のことを知ろうとはしなかった。ただまたハンモックに寝転がりながらだらけている。
ガチャン その時ちょうどドアの開く音がした。
「お、美嶺!今日は遅かったね」
「ごめんね。ちょっと調べものしてて」
鷲尾さんは数日後に初のガイドを控えているようで忙しそうにしている。手にはいくつかの泉市に関する資料を持っていた。
「ねぇー聞いてよ美嶺~。みゃーこもガイドの仕事入ったんだって。残ってるの私だけだよ~」
「睦月ちゃんも直に来ると思うよ。それより北大路さんもツアーガイドの仕事入ったんですか?」
「ええ、家族のツアーがね」
「へぇ~そうなんですね。面白そうだなぁ~」
「…………まぁそうなのかしらね」
言葉が痞えたように言った私には一つだけ不安があった。それはツアーに参加する子どもへの振舞い方。これまで子どもに関わった経験がほとんどない私は子どもに対してどのように振舞うのがベターなのか、いまいちよく分かっていなかった。
「いやーでもみゃーこが子どもにガイドしてるところ想像すると笑っちゃうな~。鬼みたいな顔して怖がられそう」
こういう時の早坂睦月は嫌なところを突いてくる。まるで私の弱点が見えているかのように。
「そ、そんな私だって優しい顔くらいできるわよ。普段はしてないだけ」
震える声に紅潮した様子の私を彼女は見逃しはしなかった。
「本当かなぁ~? 声震えてるし顔赤いよ~? 普段してる顔を変えるのって意外と難しいもんなんだよ~?」
もし今すぐそこにサンドバックがあれば殴りたい。というよりコイツを……。
「いだだだだだだ!ギブ!ギブだって!」
「この、アンタって奴は」
何をしたのかは想像にお任せすることにしよう。彼女も相当痛がっていたので。ただ、コイツはここまでしなければまったく懲りない奴である。
賑やかな部室には夜まで明かりがついて、その日はいつの間にか終わっていた。
それから私はツアープランを組み立てていった。依頼書の情報によると河野さん一家は泉ヶ岳周辺の観光を希望しているようで、それ以外は特に記載はされてはいなかった。だからまず私は候補となる観光地を一筆書きでなぞることにした。
「とりあえずはこれで良いかしらね」
そしてその後、一筆書きで描いた道をツアールートとして整えていく。ここで重要なのは『安全な道であるか』『近い道であるか』『迷いづらい道であるか』『道中何があるか』の四点である。特に『安全な道であるか』という点は最も重要で、交通量や道幅、それから舗装の有無など、『道の安全度』を構成する要素を慎重に調査しなければならない。そしてこれらを知るためにはには、やはり『実際に足を運んでみる』というのが最も効率的かつ効果的な手段であると言えるだろう。
「問題は予算と交通手段か……」
気付けば深夜二時を回っていることさえあった。カーテンを開ければ光る明かりは街灯と数軒の家だけ。真っ暗な世界に星空が広がっていた。
ひとつブラックコーヒーを口に含んでから、また私は机に向かってツアーの計画書を立てていた。
そして数日の日が流れて————————
泉中央駅西口にて————
「ようこそおいでくださいました。本日は仙台北高校ガイドツアーにご参加いただき誠にありがとうございます。この度ガイドを務めさせていただきますのは同校観光部所属の北大路都古でございます。どうぞよろしくお願いいたします」
「自分は河野恭平と申します。息子二人は五歳と十一歳で少し騒がしいかもしれませんが、今日は何卒宜しくお願い致します」
応募した河野恭平さんは黒縁眼鏡をかけた三四十代ほどの紳士な男性だった。一方でその恭平さんの息子さんはというと…………
「俺の名前は圭。おねーさんよろしく」
「僕のなまえはね、充っていうんだ! しょうらいの夢はひこうきのパイロット!」
あり余るほどの元気を持った静けさの欠片のない子ども二人だった。特に兄の方は見た目から滲み出る『やんちゃなガキ』といった印象で要注意人物であると悟った。
「いやー自分実は東京出身でして仙台もここ辺りの土地柄もあまり詳しくないんです。けれどどうしても息子たちが旅行したいというもので……。友人に尋ねてみたら偶然あなたたち観光部のことを教えてもらったんです」
「そうでしたか。それは嬉しい限りです」
「それと今日は自分はなるべく静かにしておりますので、息子二人を中心にガイドをしてもらえないでしょうか?」
「ええ、承知しました。————さて、それでは今日一日の大まかな日程を説明してもよろしいでしょうか」
私は一度間を置いてから一日の説明に移った。西からはふんわりと風が流れる。
「まずはこれから泉ボタニカルガーデン行きの県営バスへと乗車致します。泉ヶ岳まではおよそ四十分掛かりますので、先にお手洗いは済ませた方が良いかもしれません。到着いたしましたらレンタルサイクルを用意しております。今日はそのレンタルサイクルをメインに利用して泉市の自然を案内していく予定となります————」
そして一通りの説明を終えてから私は言った。次は北から風が吹く。
「————そうして最後は光明の滝へと訪れまして日程は終了となります。以上が今日の予定となります。何かご不明な点はございましたか?」
「いえ、特にありません」
恭平さんはにこやかな笑顔を見せて答えたが、子どもたちは
「おねーさん話ながい」
「僕ももういきたーい」
と不平不満を垂れ流していた。子どもというのはこうも馬鹿正直な生き物なのか……?私としては噛み砕いて簡潔に話したつもりだったのだが……。これは先が思いやられる。
「圭に充、二人ともそういうことは言うんじゃない。すみません、ったく本当にこいつらは……。北大路さんの説明丁寧で分かりやすかったですよ」
「いえいえ、お気遣いなく。子供の率直な感想は勉強になりますので」
私は笑顔で対応したつもりだったが、その笑顔は傍から見ればおそらく無理をした苦笑いに見えたことだろう。こうして直接子どもからの感想を聞くと、吾妻先生から言われたことを思い出す。
あれは先生にシミュレーションガイドを披露した日のことだった————
『いや~やっぱり北大路さんは上手でしたね~。京都出身なんですって?』
『ええ、まぁ、はい』
『やっぱり本場のガイドを見ているからかしらね~?』
『いえ、そういうわけでは無いと思いますが』
この言葉の裏には謙遜や不文律というものは無かった。ただの真実だ。
吾妻先生はまどろんだ声で話す。
『そうね~そんな北大路さんに私からひとつアドバイスを上げるとするなら、もう少し柔らかく話しましょうといったところね~』
『柔らかく……とはどういうことでしょうか?』
『えーっと例えばですね~「こちらの施設への入場は任意となっております」って感じに話すとちょっぴり堅苦しい言い方に聞こえますよね~。特に「任意」という部分が。だから少し表現を変えてあげて「こちらの施設への入場は希望される方のみとなります」って感じに話すと少しは言葉に柔らかさが出たと思いませんか?』
『たしかに、そうですね……』
『北大路さんの言葉はいつも律儀で丁寧だからそれはそれで素敵だと思うわ~。けれど観光客の中にはもちろん子どもや外国人のような人もいる。彼らにそのような難しい言葉は通じるかしら~?』
『…………』
『あくまでガイドのお仕事は観光客の皆さまに喜んでもらうこと。大学教授やニュースキャスターのような話し方とはまた少し違うというわけですね~』
————とは言われたものの、具体的にどのように変えればいいものか。普段の私の話し方は吾妻先生の言うような堅苦しい話し方であって、人に温かく接するような話し方ではない。それは分かっているのだが、かと言って早坂睦月のようながらんどうの頭で話すというのは私の自尊心が許さない。
気付けばバスに乗っていた。横に置かれたバスの座席に私と恭平さんが二人を挟み込む形で座っていて沈黙が続いている。このまま白を切って何も話さないというのはガイドにとってタブーであり避けなければならない失態であるので、悩みに悩んだ挙句、私は無理やり口角を上げて話始めた。
「河野家の皆さま、あらためておはようございます!」
笑顔で話すのはかなり辛かった。普段は使わないような筋肉ばかり使うので頬が痛い。
「このバスに乗っている間も泉市について学びながら目的地へ向かっていきたいと思います!」
声を張り上げて気持ちを高ぶらせるのも楽ではない。頬は意識しなければ自然と下がってしまうし、声も意識しなければこの裏声を維持できない。
————そのままガイドを続けていると、河野家子ども二人の顔が目に映った。その表情は固まったまま動かないでいた。特に弟の充くんは俯いて青ざめた様子だった。
「…………」
「…………」
ひょっとするとバスに慣れていなくて具合が悪くなったのかもしれない。そう心配した私は笑顔を保ちながらすぐさま尋ねた。
「充くんどうされましたか?具合でも悪いですか?」
しかし弟の充くんは反応を示さなかった。代わりに答えたのは兄の圭くんの方だった。
「…………おねーさんの顔が怖いって」
声が小さくてよく聞こえなかった。というより、聞こえた言葉に耳を疑った。私はもう一度「え?」と聞き直した。
「その笑顔ちょっと怖いよ……」
どうやら聞こえた言葉は嘘ではなかったようだ…………。
あの元気いっぱいの子ども二人が蒼白な顔をして言うのだからそれが真実なのだろう。ふとバスの窓に映った私の顔に私は愕然とした。まるで狡猾な化け狐が悪だくみをしているような顔をした女がそこに座っていたのだから…………。
「ご、ごめんなさいね。ではお姉さんはどのような顔をしてればいいのかしら?」
「普通だね!」
「うん、ふつう!」
『普通』という言葉ほど抽象的な言葉は存在しないだろう。そう言われてしまっては私も変えようにも変えられないではないか……。少なくともあの禍々しい笑顔のままではいけないので、ひとまず私はまた不機嫌そうな顔をしたままガイドを続けることにした。
「これから向かいますのは泉市を代表する観光スポット————」
私がその名前を言おうとすると、口を挟むように兄の圭くんは言った。
「泉ボタニカルガーデンでしょ。さっきおねーさん言ってたじゃん!」
「そうですね。これから行くところは泉ボタニカルガーデンという場所で、泉ヶ岳の麓、七北田ダムのすぐ側にあります……」
「え、ダム見れるの!たのしみ!」
弟の充くんは『ダム』というだけでどうして大喜びしているのか皆目見当がつかないが、それでも反応があるだけまだ良い方だ。ガイドをしている意義というものがあった。
「ちなみに七北田ダムの堤高は74メートル、総貯水容量は920万立方メートル、最大放流量は40立方メートル毎秒を誇る泉市唯一にして最大のダムであり、県内三番目の中央コア型ロックフィルダムとして…………」
隣に座る二人の兄弟を見れば、退屈そうにぽかんと口を開けた顔をしていた。どうやら私の解説がつまらないと言いたいらしい。
「…………」
「…………」
しかし言われてみればそうだ。吾妻先生のおっしゃる通り私は自己満足のガイドしかしていない。彼らは楽しい観光をしにきているのに、私はいつまでたっても堅苦しい話だけ。結局自分が博識にモノを語れば皆が勝手に称賛してくれるのだと今も傲りに浸っているのだ。本当に情けない限りだ……。
だが、今ここで気が付くことができたのは、ある意味幸運なことであったのかもしれない。今ならこのぺダンティックの塊のようなガイドを修正することができるのだから。一度咳払いをしてから私は息を整えた。
「は、はいでは二人にクイズを出題します」
「え、クイズ⁈いいよやってあげるよ!」
「僕もしたい!パパもやろうよ!」
「ん?父さんはいいよ。二人で楽しみなさい」
やはり食いついてきた。子どもという生き物は極めて単純で素直な生き物のため、自分自身に『解答権(話す機会)』があることを大いに喜ぶ。ちなみに早坂睦月という女もそうであった。
「では、七北田ダムはどのくらいの水を溜めることができるでしょうか?答えは三択にします。いち、学校のプールおよそ22個分。に、学校のプール2200個分。さん、学校のプール22000個分。どれでしょうか?」
「はいはい、僕いちばん!」
先に答えたのは弟の充くんの方だった。兄の圭くんは彼を嘲笑うように言った。
「充はもっと考えるべきだぞ。そもそも一番はダムにしては少なすぎる。こういうのは大き過ぎず小さ過ぎない真ん中の番号が正解なんだ。だから二番だ!」
得意顔な様子で答える圭くんには余程の自信があるように見えた。
私は人差し指をバスの天井に向けて言った。
「二人とも不正解です。答えは三番です」
「え、そんなに入るのか……」
「お兄ちゃんまちがってるじゃん」
「実はそうなんです。これから見る七北田ダムには干ばつや洪水に備えてそれだけ大量の水を溜め込む力があるんです。また昨日は雨が降っていたので今日は放水が見られるかもしれませんね」
「へぇ~きょう見れるといいなぁ~」
「そ、そうなのか……」
兄の圭くんこそ自信満々のクイズが不正解で終わりしょぼくれていたが、一方で弟の充くんは楽しそうな面持ちでこちらを見ていた。
しばらくバスに揺られてから、私と河野一家はコンクリートの道へと降り立った。
「お待たせしました。こちらが泉ボタニカルガーデンです」
「すご~い!お花いっぱいだ。それにダムまで見える!」
「おい充あっちにもなんかスゴそうなのあるぞ!」
彼らは弾けるような笑顔ではしゃいでいた。その姿はまるで花畑で舞い踊る野兎のように、生命力と躍動感に満ち溢れたものだった。
「パパもおいでよ~」
充くんは手招きをしながら言った。しかし恭平さんの答えは彼の望んだものでは無かったことだろう。
「充、パパのことはいいから北大路さんの言うことを聞いて遊んで来なさい」
「えーそんなぁー」
充くんは不満そうにこちらを見ていたが、恭平さんは私に視線を送って話す。
「では北大路さん、息子二人をよろしくお願いします。自分は近くを散策しているので、二人に何か問題があったらすぐに知らせてください」
「は、はい……」
恭平さんも観光で訪れているはずなのに、彼の言葉にはどこか他人事というか、妙な冷たさがあるように見えた。その正体はまだよく分かってはいないが、不揃いな違和感だけが脳裏に残ってしまっている。
「では圭くんに充くん、案内して回りましょうか」
「分かった」
「う、うん」
季節変わり目、立夏前の花景色。もちろん観光部として尋ねた頃の景色とはうって変わり、また新しい花園の景色が私たちを魅了する。
「わ~きれい」
充くんは立ち止まって言った。無数の小さなスカイブルーの花は空よりも青く、ただそこに可憐な容姿で咲き誇っていた。私は彼と同じ目線にしゃがみこんでから答えた。
「こちらはネモフィラという花ですね。和名は瑠璃唐草といって宝石のような青色の花を咲かすことで有名です」
「へぇーおねーさん物知りだなーじゃあこの花はなんて言うの?」
兄の圭くんが指差したのは、まるで花火が吹き上がるような装いをした純白の麗しい花だった。
「それはヒメウツギという花ですね。花言葉には『夏の訪れ』という意味も含まれていて、夏がすぐそこまで迫っていることが感じられる綺麗な花です」
私が耳に長い黒髪を掛けながら話すと、圭くんは何も言わずにただ私の横で頬を赤らめながら立っていた。充くんはいまだに興奮した状態ではしゃいでいる。
さらに二人の後ろを歩いていると、充くんはまた立ち止まった。
「おねーちゃん、僕この花はわかるよ。ガーベラっていう花でしょ」
八重桜の色にも近い一輪の紅色の花。まるでそれは太陽のように燦然と輝いていた。
「よくご存じですね充くん。ガーベラお好きなんですか?」
「うん!ママとパパがだい好きな花だから僕もだい好き!」
「そうでしたか。母の日に渡す花と言えばカーネーションが一般ですが、実はこのガーベラという花も母の日に渡す花として有名なんです。是非渡してみてはいかがですか」
「うんっ!」
端無く言った私の言葉だったが、その言葉に兄の圭くんは顔をしかめたように見えた。
「…………」
それからも私たちは回り歩いた。子ども二人は早坂睦月も『美味しい』と喉を唸らせていたアイスクリームを舐めながらテクテクと。
「こちらの自転車を利用して次は泉ヶ岳へと向かいます」
泉ヶ岳は公共バスを利用した方が早い。しかし泉市の豊かな自然を肌で感じてもらおうと今回は自転車を採用することにした。
「道中急な坂道や十分に舗装されていない道もありますのでゆっくりと行くことにしましょう」
そう言って私を先頭にペダルをこぎ始めた。
京都から転校してはや一か月が過ぎようとしている今日この頃。泉ヶ岳へと足を踏み入れるのは何度目になろうか。早坂睦月に拉致されてから数えること三回。初めこそ無理やり連れてこられた思い出しか無いのだが、それでもここへ足を運べば故郷にいるような落ち着いた気分を味わえる。
風は山の向こうからやって来た、ひんやり肌寒い雪の薫り。鳥はセキレイの鳴き声か、ピョーピョーと呼び笛のような音色を奏でて耳を幸せにしてくれる。
緑色もただ一色ではない。萌黄色に浅緑、若葉色から木賊色まで鮮やかな色彩を泉ヶ岳というパステル紙に描いている。
「皆さま今目の前に見えるのが泉ヶ岳でございます。そしてここでは見ることはできませんが、その後ろに北泉ヶ岳という山が聳えております」
「パパみて大きいよ!」
「あ、ああそうだな」
父の恭介さんは自転車に乗っている時も終始呆然とした様子だった。朝、集合場所での印象こそ『いいお父さん』であったが、これまでの姿を思い出してみると子どもから距離を取ろうとしているようにも見えた。他人の家庭事情に踏み込むのはガイドの役目ではないのでこれ以上は何も言えないが、それでも彼ら家族に『何か』があったのは間違いではないだろう。
「到着です。こちらが泉ヶ岳となります」
「ひろーい!」
「すげー!」
泉ヶ岳と単に言っても、その広さは計り知れない。だから今回はこの泉ヶ岳スキー場の周辺を『泉ヶ岳』として話を進めているといった感じだ。ちなみに『スキー場』と名は付いてはいるものの、だからと言って冬以外の季節は営業していないというわけでは無いらしい。夏場でも登山やワンダーフォーゲルを行う利用者がいるためリフトは稼働しているし、その他の施設も通常通り動いている。
「おねーちゃんあれは?」
充くんは青い空を見上げながら訊いた。
「あれですか?あれはパラグライダーです」
鷹や鷲のように空を舞う赤い鳥。子どもにしてみればそれは未知なるUFOと変わりないのだろう。気持ちよさそうに空を飛ぶそれは、彼らにはどう映っていたのだろうか。
「あれにのれば僕も空とべるの?」
「ええ、もちろんとべますよ」
「じゃあ僕もあれでとんでみたい!」
童心というのは無邪気で素直で眩しいものである。
目を左右に動かしてから、充くんの想いに私は低く静かな声で言った。
「充くん、あのパラグライダーに乗ることができるのは六歳以上なんです。申し訳ありませんが充くんの年齢では……」
そう説明するが分かってもらうことが難しいのが五歳という年齢である。彼は咽び泣くように騒ぎ始めた。
「やだ、僕あれのってみたい!」
駄々をこねる彼は聞く耳を持たなかった。私は宥めようと背中をさするが一向に泣き止む気配は無い。むしろ火に油の状態で咽ぶ声は大きくなっているような気がした。
(どうしよう……このままでは埒が明かないわ。ったくもう私は、もっと良い断り方があったはずなのに————)
相手の依頼を上手く断ることができなかった私自身に腹が立つ。気付けば私は歯を食いしばっていた。
「…………」
そう私が困りきって狼狽えていると、私の後ろから声を張り上げられた声が聞こえた。
「充‼ダメと言っているのが分からないのか!」
怒鳴り声の主はあの穏やかそうな父恭平さんだった。握りつぶした紙のような皴を浮かび上がらせて。彼は充くんに押し迫った。
「どうしてお前は人の言うことを聞けないんだ!いつまでも駄々をこねてればいいと思うなよ!」
充くんは迫力のあまり一度声が引っ込んでいた。だがしかしすぐに彼の瞳には大粒の雫が浮かぶ…………。
「だって、だってだって……、空にはママがいるっていったのパパじゃん!」
「 」
「 」
「 」
思わず目を見開いてしまった。開いた口は塞がらなかった。
それは恭平さんも同じく————
「どうして僕だけママとあっちゃいけないの⁈」
「ママは…………」
「僕がわがままだから⁈」
「…………」
「僕がわるいこだから⁈」
「…………」
「いつママは戻ってきてくれるの⁈」
「…………」
「いつもそうやってパパはだんまりするんだ‼」
「…………」
「パパなんてだいきらい!」
「充くん!」
「充!」
駆けて行く小さな背中には重い過去が圧し掛かってしまっていた。それは彼一人で負いきれるほど軽いもののはずも無く、どこか足取りも重くそして鈍いように見えた。
「充‼ 待てよ!」
兄の圭くんは追いかけようと走り出し、父の恭平さんはただそこで立ち尽くしていた。
圭くんは去り際に言った。
「父さんは本当に何も分かってない」
山の木々は瀬々笑うように揺れて、泉颪という風は冷ややかにうなじを掠る。
父恭介さんの顔を見れば、小刻みに背中を揺らしながら不気味な様相で笑っていた。
「あはははははは、妻を先にあの世へ行かせるわ子どもからは嫌われてるわ、本当に最悪なダメオヤジですね、自分って」
私はただその言葉を耳に入れることしかできなかった。
「————————北大路さん、自分は体調が少し芳しくないので先、駅の方に向かわせてもらいますね。必ずあの子たちは駅に迎えに行きますのでよろしくお願いします」
「いや、あの…………」
言葉は口を離れなかった。ただ茫然と立ち尽くしていた。
「では、今日はありがとうございました」
「…………」
私はどうすることが正解なのかよく分からずにいた。いや、誰であろうともこのような状況に立たされてしまっては正解など分かるはずも無かった。
あくまでも私はツアーガイドという立ち位置であり、人の家庭に口出しをするような立場ではけして無い。しかしながらこのまま素知らぬ顔をしてガイドを続けるというのもまた人として間違っているような気がする……。
私はどうすれば良いのか?
この最終問題だけが私の頭の中を埋め尽くす。
「それよりもまずあの子たち二人をどうにかしないと……」
無意識のうちに私は走っていた—————————————————————————
二人が走って行った方へと足を進めると、そこに立っていたのは兄の圭くんだった。
隣に建てられた公衆トイレからは幽霊のような悲痛な叫びが聞こえてきていた。
「圭くん……?」
「おねーさん、」
彼は責任を感じているのか、俯いて申し訳なさそうにそう言った。
「うちの父さんと弟が勝手なことしてしまってごめんなさい。俺、兄ちゃんなのに何もできなくて……」
これまでの『やんちゃなガキ』とは異なる印象だった。苦虫を噛みしめた顔をして涙を我慢しながら話す彼はそれでも立派な兄の姿だった。
「気にすること無いですよ。人の代わりに頭を下げるなんて私には到底できない行為ですから。あなたは素敵なお兄さんです」
「本当に?」
「ええ、ですからまずは充くんを外に出すことを考えましょう」
「う、うん」
とはいえお手洗いに立てこもった彼を外へ出すのは困難だった。いまだ泣き続ける彼と話すのでさえ一苦労なのだから、外へと出すのはどれだけ大変なものか知ったことではない。私たちはひとまずそのお手洗いから離れて、彼が咽び泣きやむのを待つことにした。
ペットボトルを両手に、私は階段に座る圭くんの隣へと座った。
「コーラとソーダ、どちらがよろしいですか?」
落ち込んだ彼に私はそっと話し掛けた。彼は清々しい顔で言った。
「俺、炭酸は苦手なんだよね」
「いいからどちらか選びなさい。早く」
苛立ちを隠せずつい出てしまっていた私の口調に、彼は驚きを隠せずにいた。
「じゃ、……じゃあソーダで」
「よろしい。これから私とあなたは客とガイドという上下の関係ではなく対等な関係。その方が話しやすいでしょう」
兄の圭は首を縦に振った。
「本当はあなたたちの家庭事情には踏み入れるつもりは無かったのだけれど事が事だわ。話せる範囲で良いから私に教えてもらえないかしら?」
彼は首を縦に振り、物語を語るように話し始めた。
「俺らの母さんはついこの間、病気で死んだんだ————————
笑顔で優しくて強くて我慢強い女性。それが俺たちのお母さんだった。
苦しくて嘆きたい時であっても、笑顔を振りまいて弱みは見せないお母さんだった。
けれどそんな母さんだったから、病気を発見できた頃にはもう助かりはしなかった。
病室の窓からはまだ肌寒い西風が吹いている頃。
『あら圭に充、わざわざ来てくれたのね』
『ママ!』
『母さん……』
俺は知っていたけど、充は知らなかった。母さんはすべてを知っていたけど隠したがっていた。俺らは毎日のように家から一時間バスに乗って母さんの病院に行っていた。
『きょうはね、絵をかいたんだぁ。せんせいにほめられたんだよ!』
『あら、それは凄いじゃない。充はママに似て絵が上手なのかもね』
『ふふふ』
『それで圭の方はどうなの?』
『う、うん?それは、その……』
『またテストの点数が悪かったとかでしょう。隠しても母さんには分かるんだから』
『ど、どうして分かるんだよ……』
『圭は父さんと似て嘘が下手だからね』
『お兄ちゃんってパパに似てるの?じゃあ僕は?』
『充はパパとママどちらにも似ているわね』
毎日がこんな楽しい日々だった。父さんはいつも東京への出張ばかりで隣にはいなかった。けれど母さんや俺達のために頑張ってくれてると思えば気は楽だった。そしてなにより、少なくとも俺は母さんがいればそれで良かった。
『…………ママ……』
充は母さんの膝の上でうとうとと眠り、起きているのは俺と母さんだけになった。
『懐かしいわ~圭がこのくらいの頃は母さんの膝の上で寝ていたのよ』
『俺はもう大人だよ』
『そうね、大人ね。あの頃は父さんと三人でよく旅行にも出かけたっけ?』
物寂しそうに話す母さんに、俺は思わず掠れた声が漏れ出てしまっていた。
『母さん、春になったら皆で旅行、行けるかな?』
顔を上げると、母さんは窓奥の冷めた景色を眺めながら言った。
『ええ、行きましょう。その時は私も圭にたくさん木刀買ってあげるんだから』
『ひ、ひとつで十分だよ……』
『でも旅行かぁ~しばらく行ってないわね』
『母さん行きたいところでもあるの?』
『あるわよ。泉市っていうところ』
『どうして?』
『私の故郷だから————————』
あの時の約束は今も鮮明に覚えている。母さんの微笑み、その日の気温、病院の匂い。
けれど、神様はせっかちな人だった。
あれは初めての春の嵐、南風が吹き荒れる日のことだった。
俺は学校から連絡を受けて病院へと走っていた。
『はぁはぁはぁはぁ、母さんは?ねぇ父さん!』
呼吸は乱れて吐息は真っ白に現れた。
『…………』
父さんは首を横に振っただけだった。
そしてその背中の後ろには、プラスチックのような肌をした母が仰向けの状態で安らかに眠っていた。
『ねぇ、母さん。母さん返事してよ!』
だが、返事は帰ってこなかった。
急に大切なものを失う時、人は呆気に取られる。
漠然とした死を前にむしろ冷静になるのだ。
『ねぇ父さん、充はいつ来るの?』
父さんは黒縁の眼鏡を光らせながら言った。
『…………充は、来ない』
『え、どうして?どうして充は来ないんだよ!』
涙を必死にこらえながら俺は言ったが、父さんから零れ落ちたのは冷徹な言葉と笑顔だけだった。
『充には母さんの死は伝えるな。母さんは空にいるとだけ伝えてやってくれ。ただそれだけだ。では自分は仕事があるのでこれで帰ります』
父さんとまともに話したのはそれ以来一度もない。その時、俺は父さんは温厚で穏やかな人ではない鬼だと知ったから。
だってそうでしょう。一番に愛している人を亡くした時、人は皆で乗り切るものじゃないの?一番に愛している人の死を知ることができないって、そんな残酷なことが許されると思う?もしそれが母さんの遺言か何かだとしても、一番に母さんを愛していた充には母さんの死を知る権利があるし知るべきだと思うんだ。『母さんは空にいる』なんて子供騙しをしたって、いずれ充は自分自身で気がつくと思うんだ。その時疎外されてたった一人孤独に耐えるのは誰?そんな充を俺は見てられないよ」
私は何も言わずにただ聞いていた。そして兄の圭はすべてを話したのか、これ以上口を開くことは無かった。だから私は彼に言った。
「なるほどね。つまりあなたは兄としては素晴らしいけれど、親不孝者ということね」
「え、どうして?」
「あなたは誰が一番辛いのか分かっていないと言ってるの」
彼はこぶしを握り締めた。
「何を言ってるんだよ!それはこれから真実を知らなきゃならない充だろ」
「だからそれが間違いだと言ってるの」
「何を知ったような口して!あんたは何も分かっちゃいないんだ!」
「分かるわよ。私も片親亡くしてるから」
ゲレンデは青々と夏を迎える準備しているのに、吹き降ろす風はいまだ春の心地。
長くなってしまいました。とりあえず十万字!すぐに睦月のガイド編まで投稿します!
2011/11/02 編集しました。自分の確認不足で色々とミスっていたところがあったので直した感じです。