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 前を歩く莉乃がチラリと後ろを振り返り、とてつもない嫌な顔をした。「ふんっ」と鼻息を吹いただけで何も言わない。それをいいことに俺は莉乃の後ろを歩き続ける。


 一人になんてできるわけがない。


 


 数か月前から頭痛が続いていた莉乃の病名が発覚したのは先月の事だった。母の付き添いのもと何度か病院で検査を受けて、しまいには検査入院が必要だと、莉乃は一週間近く入院していたのだ。


 退院数日後、莉乃の母は病院に呼び出された。帰宅した母から聞かされたのは16歳の女の子が背負うにはあまりにも残酷な検査結果だった。

 


 莉乃の母と父と俺で、莉乃に病状のどこまでを教えるか考えた結果、全てを話すことになった。16歳の女の子が背負うにはあまりに酷い現実でも、本人が知らないことには治療もできない。そういう病気だった。


 莉乃をリビングに呼んで、ソファに腰掛けるのを見届けると父が口を開いた。


 リビングを緊張が包み、静まり返る。莉乃の母は莉乃の隣にそっと座り、肩に手を回し、抱きしめた。何も言わず母の肩口に顔を埋める。



 父は辛そうに眉を顰めて莉乃を見つめたまま、母は目に涙を溜めて、それでも泣くまいと決意した表情を浮かべたまま。



 ただ静かに時間が流れた。



 口火を切ったのは莉乃だった。



「じゃあ、私、大好きな人たちに会って来る!」




 いつも明るく優しい莉乃でも、これは泣くだろうと思っていた。それなのに予想外の反応だった。

 莉乃は今、俺たちの前で、涙も見せずに、いつもの朗らかな笑顔を見せている。


 「ふふっ」と小さく笑った莉乃が続ける。


「なぁに、みんな。そんなにびっくりした顔しちゃって。入院まで一週間あるんでしょう? それまでに大好きな人たちに会いに行って、治療するためのパワーを溜めてこなくちゃ!」


 むんずと両手の拳を握って、瞳をキラキラさせている。


 球技大会の前日「明日は絶対に勝ってやるんだから!」と意気込んでいた莉乃を思い出す。



 「入院まで安静にしておいた方が……」と莉乃の小さな冒険を止めようとする母。「莉乃……」と言葉を失う父。そして俺は。



「俺が無理しないように見張っててやるよ」

「えぇ? お兄ちゃん邪魔なんだけどー」

「蓮、なに莉乃の後押ししてるんだ。ここは止める所だろ」

「……蓮、……お願いできるかしら?」





 そんなこんなで、莉乃の小さな冒険のストーカー役に俺は自薦他薦で抜擢された。



 前を歩く莉乃に追いつき、手を取った。


「そんなに急いだらはぐれちゃうだろ」

「撒こうとしてんの」

「母さんたちに言われただろ。一緒に行くならって許してくれたんだぞ」


 むーっと不満そうに眉根を寄せる莉乃だけど、そんなこと知ったことか。どこかで人知れず倒れるなんてこともあって不思議じゃないんだ。



「で? 誰に会いに行くんだ? 智美ちゃんか? 伽耶ちゃんか?」

「お兄ちゃんの知らない人だよっ」

「お前なぁ。隠そうったって無理だぞ。俺はこの一週間、お前のストーカーをやり遂げる者だ」

「何それ。キモッ」



 少しの睨み合いの末、莉乃が小さく呟いた。


「……おじいちゃんとおばあちゃんのところ」

「それを何で隠そうとするんだよ」

「だって……。ふんっ。付いてくるなら好きにすれば? ストーカー」




 ずんずんと前を歩く莉乃の後ろを、追い抜かないように慎重に追いかける。莉乃は平均的な身長だと思うけど。3つも下の莉乃と俺の身長差を考えるとコンパスの差がある。



 大きくなったよなぁ。ついこの前まで、お兄ちゃんって後ろを付いてきていた小さな妹だったのに。今は俺を撒こうとしてるなんて、お兄ちゃん悲しいぞ。


 後ろを付いてこなくなってもかわいい妹に変わりはない。


 そういえば、ちょうど莉乃が中二の頃、俺を避けていた時があった。間違って莉乃の箸を使うと、もうその箸は使わなくなったし、食事中に肘がぶつかれば嫌そうに顔を顰めた。兄貴を汚いと思う年頃なのかとも思ったけど、俺の前に風呂に入るのは嫌だと頑なだったし、妹の真意はよく分からない。



 それに、その妹の反抗期はちょうどいいような気もした。しかし、父に対しては汚いと思っているような節がなかったのは今でも納得していない。どちらかというと、父の方がおっさんで汚いと思うのではないか。



「ちょっと、何考えてんの?」

「いや、別に……」



 そう、それで汚いもの扱いをされなくなった頃には、かわいく懐いてくる妹はいなくなって、こんな乱暴な口調になっていた。これも俺にだけだから、納得いかない。


 まぁ、思春期だし仕方ないか。



「お兄ちゃん、着いたよ」



 夕焼けが街を橙に染める頃、祖父母の家に着いた。


「あぁ、莉乃。久し振りだねぇ。おや、蓮君も来てくれたのかい?」



 莉乃は嬉しそうに出迎えてくれた祖父に抱きつく。それを抱き留めた祖父はしわしわの優しい手で莉乃の髪を梳いた。




「莉乃のこと聞いたよ。あの子のこと支えてやっておくれ」



 莉乃が祖母とお風呂に入っている間、祖父がそう言った。祖父と視線を合わせたまま頷くと、祖父の顔はくしゃっと笑顔に包まれた。



 久しぶりに会った祖父母と川の字になって寝たいという莉乃の希望で、俺だけが一人客間で寝かされた。



 まぁ、いいんだけどね。




 畑で採れた野菜だと祖父母にたんと袋に入った野菜を持たされた。両手にスーパーの袋がちぎれんばかりの重りを持って、背中には俺と莉乃の一週間分の荷物。その俺の横で祖父母との別れを惜しむように抱き合う妹。



 ……いいんだけどね。



 少し不貞腐れそうになっていると祖父は、俺の頭を撫でながら、眩しそうに目を細めた。


「莉乃を頼むよ」



 優しそうな瞳に力強い声に、俺が昨晩と同じように頷くと、俺の頭に手を乗せたまま、安堵した表情で莉乃を見た。





 ポシェット一つ肩から掛けた身軽な莉乃はずんずんと前を歩く。俺は撒かれないように必死に後を行く。



 ……いいんだけど、いいんだけどさぁ!



「莉乃、ちょっとコンビニ寄ろう」



 コンビニで段ボールを分けてもらい、野菜を入れて、そのまま着払いで自宅に送る。



 そんな俺を納得がいかなそうな顔で見つめる莉乃。



 もしかしたら、荷物で足が遅くなることを見越して祖父母の家に一番に行ったんじゃ……。



「莉乃、俺を撒くために荷物が多くなることを見越して……」

「ち、ちが、違うよ! ただ、おじいちゃん達に会いたかっただけだもん」

「……そうか」



 莉乃は知らない。嘘を吐くときには、まず吃って、そのあと「もん」って言うんだ。つまり嘘ってこと。俺の見解は正しい。いいんだけどね。荷物を持たされたら送ればいいだけなんだから。


 たぶん、莉乃は思い浮かばかったんだろうな。俺が宅配の手続きしてる間、すごい間抜けな顔してたし。



「よし。次は誰に会いたいんだ? 兄ちゃん、どこにでも付き合ってやる」


 「うわっ」と嫌そうな声を吐いた莉乃は諦めたように言った。


「んーと、とりあえず漫画喫茶に行く」

「なんで? 会いたい人たちに会いに行くんだろう?」

「色々と準備がいるの!」

「漫画喫茶で?」



 しどろもどろに漫画喫茶に行くと言い募る莉乃の思惑は見切っている。違うブースに入り、俺を撒くつもりだ。


 カウンターに立ち、莉乃がオーダーするより早く俺は二人席のブースをオーダーした。サーっと目に見えるほど青ざめる莉乃に、勝利を確信して「ふふん」と鼻を鳴らす。「ふんっ」と鼻を鳴らした莉乃に目を逸らされた。



 座敷のブースに入った俺は、莉乃を見張りながらもネットサーフィンをした。視界の隅にすごい速さでスマホにフリック入力している莉乃が見える。


 そっと背後に回ると、祖父母と撮った写真が見えた。


「それ、昨日撮ったのか?」

「うわっ、いつの間に?」



 一度、スマホを俺から隠して何やら操作した莉乃は「ほら」と写真を見せてくれた。祖父母を両脇に寝ころんでいる写真だ。



「あ、お兄ちゃんも一緒に撮らない?」

「なんで? そんなの撮る必要ないくらい一緒にいるだろ」

「旅行だよ? 写真撮らないとかありえない!」

「あー。はいはい」




 莉乃のスマホには俺と莉乃が仲良さげに微笑んでいる姿が残った。





「お兄ちゃん、私ちょっと漫画見てくるね」

「あ、じゃあ俺も」

「ダメだよ! ここ空にしたら荷物盗まれちゃうかもしれないでしょう?」

「貴重品は身に付けてるから大丈夫だよ」

「……し、し、下着とかあるんだから、取られたらいやだもん」



 はい、出ましたー。嘘……ではないだろうけど、絶対に俺を撒こうとしている。



「分かったよ。さっさと戻って来いよ」

「うん」



 満面の笑みをたたえた莉乃が足早にブースを出て行く。




「さて、と」



 なんてことはない。リュックを背負って追いかければいいだけだ。


 たぶん、アイツの目指すところは……。



「莉乃、どこに行くんだ?」

「……お兄ちゃん! なんで……」



 自動ドアの前でギョッとした顔で立ち尽くす莉乃はちょっとかわいかった。馬鹿な子ほどかわいい。




 悔しそうな顔で俺に手を引っ張られてブースに戻った莉乃はぷんぷんに顔を赤くした。


「お兄ちゃん、私の下着が誰かに盗まれてもいいの? 使用後だよ? 洗濯まだだよ? それが見知らぬ人の手に渡るかもしれない恐怖、お兄ちゃんには分からないの?」



 これは本当だろうけどさ。


「ちゃんと背負ってただろ? この部屋が空になったとき、この部屋に俺らの私物は何もなかったぞ」

「……ふんだ!」



 本気で怒ったら莉乃は「ふんだ」とそっぽ向く。怒りの言語が貧困らしい。でもそれでいい。




 俺を漫画喫茶に置いてけぼりにすることを諦めたらしい莉乃は、ブース内でクッションを枕代わりにゴロンと横になった。そして、俺の監視下で選んだ漫画を読みふける。




 こいつ会いたい人たちに会いたいってのは嘘なんじゃ……。



「莉乃、会いたい人たちに会いに行かなくていいのか?」

「また明日にする」

「本当はもういないんじゃないのか?」

「いるよ」


 会いたい人はいるらしい。だけど明日となるとどこかホテルを探さないといけない。いくらなんでも病人をベッドもないところで寝かせることはできない。


「んー、これ読んでから」


 莉乃は積み重なった漫画をポンポンと叩いた。


「その前に何か取って来よう」



 ドリンクバーについて行くと、莉乃がコーヒーを淹れてくれた。自分にはオレンジジュース。



「お兄ちゃん、私トイレ行ってくる」

「待て、俺も」



 俺は男子トイレに、莉乃は女子トイレに入る。トイレの前で莉乃を待つ。待つ。待つ。


 だんだん女子トイレの前で待ち伏せするのが不審者ぽくなってきたころ、トイレに入って行く女性がいた。もう不審者でもいい。中で莉乃が倒れていたら大変だ。



「あの、中に女の子いませんでした? 背はこのくらいで、髪は肩くらいの黒髪で……」


 トイレから出て来た女性はいきなり話しかけてきた俺に、一瞬ビクッと身を怯ませたが、話を聞いて首を傾げていく。


「……このトイレ、一人しか入れませんけど」



 ……やられた!!



 スマホを手に取り、莉乃に電話する。通知音だけが鳴り続け、機械音声に切り替わる。漫画喫茶を抜け出し、走る。走りながら辺りを見渡しても莉乃は見当たらない。2時間ほど繋がらない電話をかけながら、探し回り、もしかしたら戻っているかもしれないと、漫画喫茶に戻ると。


「あれ、お兄ちゃん、どうしたの? 汗びっしょりじゃん」

「お前が、急に、いなく、なる、から」


 息も絶え絶えに話す俺を見て、スマホから俺に視線をずらした莉乃はコテリと首を傾げた。


「私、ずっとここにいたけど」

「トイレ、の前で、待ってた、のに、お前、出て、こなかっただろ」

「やだ! トイレの前で待ち伏せ? いよいよストーカーも末期じゃん」

「お前ぇぇぇ」

「まぁまぁ」



 満足そうに破顔した莉乃は、俺にコーヒーを勧めて、背中をさすってくれる。


「……は、……充分」

「なんて?」

「うーうん、なんでもない。……探してくれてありがとう。もう帰ろう」

「え?」

「家に帰ろう」

「……もう、いいのか……?」

「うん。もう充分」







 ―――そして、数日後、莉乃の手術の日がやってきた。手術を終えた莉乃が目を覚ますことはなかった。


 

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