第三話 彼は涙の理由を語れない。
男は、名をギーヴレイ=メルディオスという。
三界の一つ、魔界において彼は魔王に次ぐ権勢を誇っていた。
政治の最高位である宰相と軍事の最高位である将軍職、武王筆頭を兼任し、魔王が不在のときはその代理として魔界を統治し、魔王の直接支配下にあってもその意を汲んで統治を代行し、実質的に魔界を動かしているのは彼だと言う者も少なくなかった。
彼の魔王への忠誠は比肩する者のない程に強く、誰もが彼を魔王の右腕と呼んだ。
長い長い間、魔王に付き従ってきた。逆らう者は容赦なく排除した。主君の行く手を阻む者は全て滅ぼすべき敵だった。
彼の全ては魔王…主君のために存在していた。彼の肉体も精神も魂も心も、彼の力も彼の過去も未来も、そして彼の感情も。
彼が憤るのはいつだって主君の敵に対してで、彼が歓喜するのはいつだって主君のありがたいお言葉を受けてのことで、彼が嘆くのはいつだって主君の負った痛みを思ってのことで。
それ以外のことについて、彼の感情は見事な程に凍り付いていた。涙など、両親と一族を失った幼い日に全て流し尽くしたはずなのに。
その彼が、泣いていた…とシーナは言う。
彼女の言葉に愕然とするギーヴレイ。とても信じられないが、しかしシーナが嘘をつく必要もないということも分かっている。
「私が……泣いていた、だと?そんな馬鹿な、ありえない」
「どうして?」
否定しようとした矢先にすかさずシーナに問いかけられ、言葉に詰まる。
「どうして、ありえないの?泣くのは変なの?悲しかったり、淋しかったりしたら、泣いてもいいんだよ?」
幼女の他意の無い問いかけが、ギーヴレイを揺さぶる。
「だって、ガマンしても、悲しいの無くならないよ?ガマンしたら、余計に、悲しいのおっきくなるよ?」
「…………下らぬことを」
ギーヴレイは、そう言い捨てるしかなかった。シーナのような幼女一人、論破する自信がなかった。
魔王に棄てられ全てを失った自分には、そうするだけの力がなかった。
「ちょっと待っててね、おにいちゃん、今、ご飯にするからね」
シーナはやはり彼の苛立ちを空腹のせいだと思い込んでいる。彼の脇をすり抜けて大甕の底から在るか無しかの米を升ですくい取り、あちこちが凹んだ小さな鍋にそれと水を入れて竈の火にかける。
……だが。
「……あ」
小さく呟いたシーナの視線の先には、沈黙した竈。火はすっかり消えている。種火さえ、残っていない。
火打石と鞴は竈の脇に備えてあるので、種火がなければ火が熾せないわけではなさそうだ。となると、問題は燃料か。
ギーヴレイは、小屋の中を見回す。彼がここに来たときには薪が積んであった場所には、もう小枝の一本も残っていない。
見たところ、シーナの家に魔導炉は存在しない。であれば、秋口のこの時季に薪を切らすというのは非常にマズいのではなかろうか。
ふと、ギーヴレイはずっと気になっていたが気にすることが癪なので無視していたことを訊ねることにした。
「シーナ、この家には貴様一人なのか?」
「えへへ、一人じゃないよ、おにいちゃんがいるよ」
そう返してきたシーナの笑顔がやけに癇に障って、ギーヴレイは余計に苛立ってしまう。
「私を入れるな。そうではなくて、家族や同居人などは?貴様のような小娘が一人で暮らしているというわけでもあるまい?」
子供が脆弱なのは、何も廉族に限ったことではない。大人の庇護を受けずに幼子が一人生きていくことは、極めて困難。
仮に親でなくとも面倒を見てくれるような大人がシーナの周りにもいるはず。ならばその大人は、こんな小娘が一人で飢えて凍えているのを放置しているということだ…食料も燃料も与えずに。
ギーヴレイはそう考えたのだが。
「ううん、シーナ、おにいちゃんが来るまで、ここに一人だったの」
シーナが次に見せた笑顔は、寂しげなものだった。
「だからね、シーナね、嬉しい。おにいちゃんがいてくれると、シーナ一人じゃないもん」
「……………チッ」
一体何を期待したのか両手を伸ばしてきたシーナを無視すると、ギーヴレイは舌打ちを一つ残して小屋を出た。背後でシーナが、まだ無理をしてはいけないというようなことを叫んでいたが、それも無視してずんずんと歩いていく。
オキト村は、彼が思ったとおり小さく貧しい村のようだった。周囲は森に囲まれ、平地は少ない。点在する家々はどれも似たり寄ったりの茅葺屋根と土壁で、流石にシーナの小屋よりは幾分マシな造りではあったが文化レベル、経済レベルの低さを露呈していた。
ギーヴレイが村を観察しながら歩いていると、畑仕事から自宅へ帰る途中と思しき村人と出くわした。
村人は、見慣れぬ風体の男に驚いたようだったが、すぐに驚愕よりも警戒と不審が取って代わった。
「ああ…あんたかね、シーナが拾ったっていう行き倒れは。……まったくあの娘も、穀潰しのくせに余計な真似ばかりしおって」
村人…初老の男性だった…の不満は、ギーヴレイだけでなくシーナにも向いていた。寧ろ、彼女への憤りの方が大きい。
ギーヴレイは、何も言わなかった。この程度の輩に言い訳じみたことを言う必要など感じなかったからだ。
無言のギーヴレイを見て、村人は調子づいたようだった。未だ憔悴の影が色濃く残る彼の姿であれば、侮り見下すのも無理はない。
「お前さんも、回復したならさっさと出て行ってくれ。この村には、穀潰しを二人も養う余裕などありはせん」
それだけ言うと、村人の男は足早に去っていった。去り際に、ギーヴレイへ侮蔑の視線を投げつけることも忘れなかった。
取るに足らぬ脆弱な廉族に受けた愚弄はしかし、先ほどのシーナの笑顔ほどにギーヴレイの心を揺らすことはなかった。
さらに進むと、次は先ほどの村人よりも幾分若い、壮年の男女組と出会った。二人の反応は、先ほどの男とほぼ同じ。驚愕と、不審・警戒…そして侮蔑。
ただし、先ほどの男よりも少しばかり雄弁だった。
「あのな、村人みんな、あんたのことを気味悪がってる。森の外れで行き倒れなんて、森の魔物じゃないかってな」
男の言い分も、完全には間違いではない。が、ギーヴレイはやはり黙っていた。
「それに、見てのとおりうちの村は貧しいの。シーナだけでも負担は大きいってのに、あんたみたいのまで抱え込むことは出来ないさ。分かったらさっさと出て行っておくれでないかい?」
女は、痩せこけた頬の、薄汚れた風体のギーヴレイを汚物でも見るかのような視線で見ていた。それもあながち間違いではないので、ギーヴレイはそれについても何も言わなかった。
ここまで言われてもギーヴレイが何も言わず反応も見せないことに不気味なものを感じたのか、男女はそそくさと逃げるように立ち去って行った。
今の連中の話からすると、シーナは一応、村の援助を受けて暮らしているようだ。
しかしそれにしては、彼女の生活は貧しすぎる。
いくら食い扶持が一つ増えたとは言え、彼女に与えられたものは少女一人分としてもあまりに少ない。食料も、燃料も、その他の生活必需品も。
それに、衣食住さえ与えておけば一人で放置してもいいような年齢ではない。それなのに、大人が一緒に生活している様子はなかった。
貧しい村で、余裕がないのも分かる。だが、少なくとも行き会った村人たちはシーナと比べると血色も良く健康そうだった。彼らは、自分たちのささやかな余裕の一部でもシーナに回そうとは考えていないもよう。
結局のところ、肉親でなければ幼子であろうと知ったことではないのは、廉族も魔族と変わらないということか。
生命体として脆弱な廉族は互いに助け合うことで生存確率を高めていると聞いたことがあるのだが、そうとは限らないようだ。
「…………チッ、気に喰わん」
再び舌打ちすると、ギーヴレイは方向転換して森の中へと進んでいった。
半刻後、ギーヴレイが小屋へ戻るとシーナが竈の前で四苦八苦していた。
扉の開く音に振り返り、ギーヴレイの姿を見て表情がぱあっと明るくなる。その明るさに、言いようのない不快感を覚えるギーヴレイ。一体自分は何故、こんな小娘一人に苛立っているのか。
シーナは、小屋の周りで拾い集めたらしい枯れ枝や木の葉で何とか火を熾し、鍋を煮立たせているところだった。
薪を調達するにも、木を切り倒し枝を払い裁断する必要がある。幼い少女にはそこまですることが出来ず、おそらく村人から恵んでもらった僅かな薪を使い果たしてはこういう風に小さな焚き付けで遣り過ごしているのだろう。
「あのね、ちょっと待っててね。すぐに、ごはんできるから」
「…………チッ、見ていられん」
ギーヴレイはずかずかと小屋の中へ入ると、握り締めていたものをずいっとシーナに突きつけた。
「…え?」
シーナが目を丸くする。彼女の眼に映っているのは、ギーヴレイに耳を掴まれてブラブラしている、丸々と肥えた大きな一角兎。
「おにいちゃん、これ…?」
「そのような薄い粥では、いくら食べても腹の足しにはならん。今日はこれを使わせてもらう」
なお、森へ入って狩ってきたその一角兎は、既に血抜きも済ませてある。
「え、でも、おにいちゃん、そんなおっきなお肉、こんなちっちゃな火じゃ、焼けない…」
「ふん、侮らないでもらおうか」
ギーヴレイは、鍋の隣の空いた竈に向かい、その中で極小の火球を生み出した。
「す…すごい、おにいちゃん!」
シーナが興奮する。極小と言ってもそれは殺傷目的で用いられる攻撃術式としては、であって、ご家庭の竈においては十分すぎる火力を提供する。
「ナイフと、あと調味料は何処にある?」
「お塩なら……そこに」
どうやら、シーナの家には塩以外の調味料はないもよう。出来れば胡椒とアクセントになる香草類が欲しかったところだが、血抜きを早めに済ませてあるため幸い肉の臭みはほとんどなかろう。塩があるだけでもマシと思わなくては。
シーナの家にあるナイフは小さくて刃こぼれが酷くてとても使い物にならなかったので、ギーヴレイはまたもや低位の魔導術式“風刃葉”を用いて一角兎を捌いていく。
なお、本来であれば“風刃葉”は敵に放つための術式であり、手元で安定的に持続させるのは非常に卓越した魔導技術を要するのだが、そんな彼の地味だがとんでもない技を理解し感心してくれる相手はここにはいない。
手早く獲物を解体し、肉を火で炙って塩を振りかけただけの料理は、あっと言う間に出来上がった。
シンプル極まりない料理ではあるが、肉が新鮮なのと冬に向けて脂肪をたっぷりと蓄えた一角兎なので、それなりに旨そうに仕上がった。
シーナの家には、皿が浅いのと深いのの一つずつしかなかったため、浅皿に焼けた肉をどかんと盛り付けて、小さな食卓…おそらくただの木箱…にどんと置くギーヴレイ。
シーナは、皿の上の肉を凝視しているが、手を伸ばそうとはしない。
「何をしている。さっさと食え」
ギーヴレイに促されて、シーナは驚いた顔をした。
「え……シーナも、食べて、いいの?」
何を今さら言っているのか。自分が一体誰のためにわざわざ森へ入ってまで……いやいや別にこの小娘のためにというわけではなく、一方的に施しを受けるのが我慢ならなかっただけのこと。それ以上の意味などない。
「私一人でこんな量を食べたら、胃もたれするに決まっているだろうが」
……しまった言い訳にしては間が抜けている。
自分らしからぬ稚拙な言い訳をしてしまったと後悔したギーヴレイだったが、シーナはそんなこと気にしてはいないようだった。
目を輝かせて、肉とギーヴレイを交互に見詰めて……
…いつまでたっても、手を出そうとしない。
「ええい、何をグズグズしている!」
業を煮やしたギーヴレイは、一本しか見当たらなかった匙で一口大の肉をシーナの口に押し込んだ。
一口大…といっても、幼女には若干大きかったようだ。口いっぱいに焼きたての、肉汁が滴る柔らかい兎肉を頬張るシーナは、しばらく無言でモグモグやっていた。
やがて口の中のものを呑み込んだシーナは、この世の幸福を全て受け止めたかのような、満ち足りた表情になっていた。
間髪を入れず、二口目も食べさせる。その後は、おずおずとだがシーナが自分で食べ始めたので、ギーヴレイも自分の食事に専念することにした。
皿の上が三分の一くらい減ったところで、ギーヴレイは自分の匙を静かに置いた。これまた一本しか見当たらないフォークで食べ続けるシーナは、それに気付かないくらい夢中になっている。
シーナが、喉に詰まらせるのではないかと冷や冷やするくらいの勢いで肉を頬張るものだから、ギーヴレイはそれを注意深く見守っていなくてはならなかった。
自分の作品、幼女率が高い(って程じゃないと思いますが)のと村長さんの扱いが酷いことが多い気がしますが気のせいです。別に自分ロリコンでなければ世の村長という肩書の人々に恨みがあるわけでもありません。