第二話 追放魔族と少女
口に無理矢理押し込まれた液状の物体を反射的に飲み込んでから、彼は噎せ返った。咳をするのも、弱り切った身体にはひどく辛い。
ひとしきり咳をして落ち着いて、それから自分が居る場所に気付く。
見慣れぬ天井。藁で葺いただけの粗末なものだ。目を転じると、これまた粗末なボロボロの土壁。室内のようだが、物置小屋かと思うほどに狭い。お世辞にも清潔とは言い難い空間。さほど散らかっているようには見えないが、それは単に家具や物が非常に少ないというだけのこと。
そして……
「……だいじょうぶ?」
幼子の声。
あどけない表情の幼女が、手に匙と深皿を持って彼の寝ているすぐ傍らに座っていた。
伽羅色のボサボサ頭に、瞳は青鈍。年の頃は十になるかならないか。彼の口に何やらを突っ込んだのはこの幼女に違いない。
…と、彼は自分の口内に残る匂いが食物のものであることに気付く。
経緯は分からないが、状況は察した。
屋外で倒れた彼をこの娘が小屋の中へ運び込んだのだろう。体格差からして娘一人では不可能と思われるので、協力者がいた可能性も大きい。
そして娘は、
「もう一口、食べれる?」
匙をずいっと彼の目の前に突きつける。彼が黙ったまま動かないでいると、躊躇なくそれを口に突っ込んできた。
突然のことに目を白黒させながらも、窒息と誤嚥を避けるため半ば本能的にそれを嚥下する男。心配はしたが窒息なんてありえないくらいに液状の、薄い粥だった。
状況は察したが、娘の動機は未だ不明だ。
道端に倒れる異様な風体の見知らぬ男を屋内に連れ込み、介抱し食事を与えるのは如何なる目的の上でのことか。
娘が男の素性を知っているのであれば、それも頷ける行為。主君の下を追放されたとて、彼の利用価値は未だ大きい。
ましてや、目の前の幼女のような…こちら側に住まう脆弱な者たちからすれば、その価値は計り知れない。
だが、この貧相な娘がそれを知っているとは思えなかった。
何故ならば、ここは彼が暮らしていたのとは別の世界なのだから。
男は、魔族だった。
魔族とは、創世神ではなく魔王を唯一絶対の神として崇める種族であり、彼らの住まう魔界は、創世期に万物の澱が沈殿し形作られた、言わば世界の掃き溜め或いは吹き溜まりと呼ばれる地。
対して、今彼がいる此処は地上界。廉族と呼ばれる脆弱ながらも数だけは多い種族が席巻する地で、魔界とは空間の断裂により隔されている。
両界を行き来するためには超常の力もしくは多大な労力と高度な技術を必要とするため、魔族にも廉族にもほとんどそれを可能とする者はいない。
彼自身、かつてはそれが許される特別な立場にあったが、罪人として追放された今、その力はもうない。
目の前の、ただでさえ脆弱な廉族の中でもとりわけ非力で貧相で吹けば飛ぶ…どころか粉々に砕け散りそうなくらいの弱々しい幼女が、そんな魔界事情を知る由もなかろう。
「おかゆ、まだあるからね。あわてなくても、いいからね」
娘は再び、男の口に匙をねじ込む。慌てなくても…と言っているが、彼は慌てる素振りなど見せてはいない。ただされるがままに大人しくしているだけで、失意のために無気力となった彼は積極的に自身の生命維持活動を履行する気はなかった。
三口目を呑み込んだ彼が抵抗を見せないことに気を良くしたらしい幼女が四口目を匙ですくって突き付けてくる前に、彼は口を開いた。
それは、別に粥を食べさせてもらうためではなく。
「…娘、貴様は何者だ。このようなことをして、何が目的だ」
「…………?」
男の誰何に、幼女はきょとんと首を傾げた。言われた意味が分からないわけはあるまいに、さては恍けるつもりか。
「ここは何処だ。隠し立てすれば容赦はせぬぞ」
「…………?」
ギロリと幼女を睨み付ける彼だが、無垢な表情は変わらない。今の自分では、こんなちっぽけな小娘一人制する圧を持ち得ないのだと、彼は軽い絶望を覚えた。
「えっとね、あのね、あたしは、シーナ、だよ。でね、ここはね、オキト村。おにいちゃんはね、村の近くの、森の外れで、倒れてたの」
一語一語を区切って語る幼女…シーナだが、それは彼を怖れてどもっているわけではなく彼女の癖のようなものらしかった。
シーナの説明は、男の希望を満たすものではなかった。幼女の名前と村の名前が分かったところで、それらの情報は何の意味も為さない。
重要なのは、幼女及びこの集落がどのような勢力に属していてどのような思想の下に活動しているか。どのような力と影響力を持つのか。
しかしシーナはニコニコと男の反応を待つばかりで、埒が明かない。
「では、貴様の目的は。貴様と貴様の所属する組織の行動指針、そして私をここへ連行した目的と計画を詳細に話してもらおう」
「…………?」
正真正銘、シーナには男の言っている意味が分からないようだった。キョトンとした表情の中に、困惑が混ざり始める。
成程、ここの連中は何も理解していない末端を彼の監視役に選んだということか。確かにそれならば、抵抗を見せた彼により尋問拷問を受けたとしても情報を漏らす惧れはない。
ならば、どうするべきか。
衰弱しきった彼であっても、目の前の幼女一人くらいならば造作もなく制圧できる。その上で、幼女の身を盾に集落の上層部へ情報開示を迫るか…
いや、それは却下だ。シーナは見るからに末端中の末端。いくらでも換えがきく、いつでも切り捨てられる便利な使い捨て。
今の彼は、自分の力がどれだけ地上界で通用するのか分からない。主君により力の大半を制限されてしまった状態で、戦力差の分からぬ相手とまともにやりあう愚行は避けたかった。
彼は、自身の身を案じているのではない。自分に待ち受けるのが死であれば、寧ろ喜んで首を差し出しただろう。
彼が懼れているのは、己を利用されること。主君のためにのみ存在する自分を、主君のためにのみ行使すると誓った自分の力を、それ以外の何者にも利用させたくなかった。利用させるわけにはいかなかった。
シーナが自分に粥を与えていることから、殺す意図は…少なくとも今のところ…ないと思われる。であれば…
「おにいちゃん、どうしたの?なんか、怒ってる?あのね、おなかすくとね、怒りっぽくなるんだって。だから、ほら、ちゃんと食べないとダメだよ」
「………………」
彼は、シーナが差し出した四口目を今度は素直に口にした。シーナは嬉しそうな顔をして、せっせと粥を彼の口に運ぶ。おそらく、彼を死なせてしまうと彼女の責となるのだろう。
彼は、自分の回復を優先させることにした。
いくら力を制限された今の自分でも、廉族相手ならばそうそう後れを取ることもないはず。ただ制圧するにせよ、逃走するにせよ、この衰弱した身ではそれも危うい。
ここの連中には、この自分を生かす選択をしたことをいずれ後悔させてやろう。
物騒な決意を胸に、彼は雛鳥よろしくシーナからの給餌を受け続けた。
◆◆◆◆◆◆
男がオキト村なる集落に連行されて、三日目。
彼は、どうも状況が彼の想定とは些か…著しく…異なっているらしいことに、気付き始めていた。
シーナの献身的?な介抱のおかげで、起き上がることくらいは出来るようになった。やけに回復が遅いのは、彼の力が制限されているからというよりも、供される食事がほとんど白湯に近い、湯の中に僅かに米が浮いている程度の薄い粥だからだ。彼が脆弱な廉族であったとしたら、この程度では回復することも出来ずにそのまま命を落としていただろう。
「おにいちゃん、元気になった。よかったね。もう、迷子になっちゃダメだよ」
「……迷子…」
ひょっとしてシーナは、彼が道に迷って行き倒れたと考えているのか。だとすれば、実に不愉快な誤解だ。
確かに現在地を把握できてはいないが、何処に行くとも当てがない彼に、道迷いという言葉を当て嵌めるのはおかしな話である。
「おにいちゃん、何処から来たの?ここ、すっごく田舎だから、余所の人、全然来ないんだよ」
シーナの質問に、最早尋問を疑うことはなくなっていた。
この三日間で、多くはないがある程度の事情は掴めた。彼女は、本気で彼を心配してそう言っている。
三日の間に、彼女以外の村人が彼のもとを訪れる気配はなかった。外から漏れ伝わってくる会話の内容から、シーナが独断で彼を小屋…どうやら物置ではなく本当に彼女の家のようだ…に連れ込んで介抱しているらしい。
そして、村人たちはそんな彼女の勝手な行動を良く思っていないらしい。
ますます、彼には理解し難い行動だ。
所属する組織の指示ではなく、その反感を買ってまでシーナは何故彼を助け、介抱しているのか。何かを企むにしては、彼女は何もかもに無知すぎる。
無知で……そして、愚かだ。
そろそろ歩くくらいは出来そうな程度には回復した。そう思い、彼は寝床…床に直接茣蓙を敷いただけの…から立ち上がってみる。
シーナが慌てて、彼に手を貸そうと駆け寄った…ところで。
不意によろめいて、逆に彼に支えられるかたちになった。
「……おい」
「ご、ごめんね。ちょっと、つまづいちゃった」
えへへ、と笑う表情にも力がない。ただでさえ発育不良気味なうえに、初めて会った三日前よりもさらに頬は痩せこけ、青ざめている。
支えた身体があまりにも華奢すぎることを怪訝に思った彼は、歩けるようになった身体で部屋の隅、穀物を備蓄しているであろう大甕へと向かった。
蓋を開けると、底の方に在るか無しかの米が僅かに残るばかりで。
妙だとは、思っていたのだ。
シーナの生活は、どう見ても豊かではない。住んでいる小屋も着ている衣服もボロボロで薄汚れていて、服から飛び出た手足は枯れた木の枝のように痩せこけて。
そんな彼女に、自分の世話をする余裕があるようには見えなかった。
余所者に反感を抱く村人たちの援助を受けられないのならば、彼女はどうやってそれを為していたのか。
…簡単な話だ。彼女自身の分を、彼に与えればいい。
もともと困窮を極めたような生活の中で、食い扶持が一つ増えれば負担は倍増…体格から見た必要量からすればそれ以上…する。
「…娘、貴様……」
「シーナ、だよ、おにいちゃん」
「………シーナ、貴様、自分の食事は摂っているのか」
男の問いに、シーナは気まずそうに再びえへへと笑ったが、返事はしなかった。
「…………気に喰わんな」
「おにいちゃん?」
自分の食事を削ってまで男の面倒を見たシーナに対し、男は苛立ちを隠さずにそう言った。献身に涙を流し喜び感謝する、という選択肢は彼にはなかった。
それは、彼にとってシーナの行為が非合理的で不可解なものだったから。
行き倒れの男を救うことで彼女が得る利益などない。ましてや、自分を犠牲にしてまで。
彼とて、主君のためであればいくらでも我が身を犠牲にしよう。損得など完全に度外視…というかそんなものは考えること自体が許されざる不敬だ。
が、シーナと彼は当然ながら主従関係にあるわけでなく、見ず知らずの赤の他人。
そこに忠誠や情愛や崇敬や或いは貸し借りがないというのに自分を犠牲にして他者を救うなど、彼からすればナンセンスを通り越して気色悪い。
「おにいちゃん、なんで怒ってるの?」
「貴様、何故私を助けた?」
「え、だって…………」
シーナは口ごもった。何か後ろめたいことがあるのかと男は思い、そうであれば問い詰める必要があると判断した。
幸い、本調子ではないがそれなりに回復した。身の内に流れる魔力もしっかりと感じ取れる。目の前の小娘を締め上げることなど、朝飯前だ。
…とはいえ、加減を間違えると聞き出す前に殺してしまいそうなので、そこは要注意。
「どうした、何を黙っている。言えないようなことでもあるのか」
「だって………だってね、そうしなきゃ、おにいちゃん死んじゃうかもって…」
シーナの言葉に嘘はないようだった。彼は、相手の心の動きに敏感だ。余程感情を隠すことに長けた相手でもなければ、その精神状態を把握することは容易い。
その彼からすれば、確かにシーナは嘘をついてはいないが、全てを語っているわけでもない。
彼女が隠そうとしている部分に核心があるはずと、男はさらに追及する。
「それだけではあるまい。行き倒れの死者など珍しくもなかろう。貴様が私を助けた…いや、見棄てなかった本当の理由はなんだ?」
「…………………」
シーナが、上目遣いで男を見つめた。言うか言うまいか迷っている。だがそこに、保身の色はなかった。
そのことに男が疑問を感じていると、シーナはやはりどこか決まり悪そうな顔でモジモジしながら言った。
「だって……おにいちゃん、泣いてたんだもん」
それは、彼にとって青天の霹靂であった。