蛙の聲(こえ)
のどかな田園風景が広がる農業用道路を、赤い軽ワゴン車が時折ぎこちない動きを見せながら走行している。
雑木林に囲まれた古びた鳥居を右手に見ながら500メートル進むと、やがてアスファルト舗装が途切れ、土がむき出しとなっていく。
そこは運転に慣れたドライバーでも運転操作が難しい凸凹道。ハンドルを握る超々初心者ドライバー友梨香は、身体のあちこちを「あうあう」とぶつけながら、脱輪ぎりぎりのラインで車を進めていく。
やがて、赤さびたトタン屋根の農作業用倉庫が間近に見えてきた。ここ何年も使われずに放置されている廃墟である。
入口に掛けられたチェーンは錆落ちて、雑草が生い茂っている駐車場には一台の白いワンボックス車があった。
友梨香はその車の隣に愛車を横付けし、黒革の学生カバンを持って車から降りた。
ワンボックス車のダッシュボードには、まるでゴミ箱の中身をひっくり返したような大量の空き缶やタバコの吸い殻が散乱している。
フロントウインドウに映りこむ自分の顔が歪んでいる。その背後に映る青い空にオレンジ色の光跡が横切った。
彗星が運んでくる宇宙の塵による天体ショーは、今もなお続いている。
スマートフォンを取り出し、着信履歴から発信する。
二十秒ほどコール音が鳴ってから、通話状態になった。
「あ、幸村君? 今着いたけど、車には誰もいないわよ? あなたはどこにいるの?」
『……俺を探さなくていーから……その白いクルマのそばに俺のカバンを置いて……お前はすぐに立ち去れ!』
その声はたしかに幸村だ。学級担任を荷物持ちと勘違いしているような横柄な態度も、いつもの幸村だ。だが、様子がおかしい。
友梨香は深呼吸をしてから、落ち着いた声で話しかける。
「あなたが来るまで先生はここを動かないからね? ねえ、何があったのか先生に説明してよ。ちゃんと話してくれれば、今日のことは他の先生には――」
『うるせぇー! てめーは黙ってカバンをそこに置いて、どっかへいっちまえー!』
「――くっ」
突然怒鳴り声で返されて、友梨香はスマートフォンに当てていた耳をふさいだ。
眉間に深くしわが寄っていることは、友梨香自身にも分かるほどのしかめっ面で。
だが、ここで簡単に引き下がる訳にはいかないのだ。
「あんたね、自分で私を呼んでおきながら、いざ来てみれば顔も見せずに帰れとは何なのよ! だいたい何で私が、学校を抜け出したあんたのカバンを持ってこなくちゃいけないのよ! まあ、私もたいがいお人好しかもしれないけどさー」
『いーからそこに置いて、すぐに立ちさ――』
怒鳴り声の途中でブツリと切れて、ツーツー音だけが残った。
その瞬間、友梨香の堪忍袋の緒が切れた。
問題を起こせば即退学という立場にある教え子を、何とか救ってやりたいと、誰にも告げずに単身乗り込んで来てやったというのに――
留守電に残されていたメッセージ通りに、幸村の鞄を持って、はるばる指定されたこの場所までやって来たというのに――
鞄を置いてそのまま帰れって?
「あーもう知らないんだからー! もうどうにでもなれば良いのよー! 退学上等じゃないの! 手のかかる生徒が一人減って万々歳なんだからぁーっ」
友梨香は幸村の鞄を空に向かって放り投げた。
鞄はクルクル回転しながら放物線を描き、ワンボックス車の向こう側へ落ちていく。
あっ……これ、人としてどうかと思う行為だ――
友梨香は少し反省した。
慌てて鞄を拾いにワンボックス車の反対側へと回り込んでいく。
そこで見たのは、鞄を拾い上げようとしている見知らぬ男の姿だった。
ダボダボのズボンに花柄の派手なシャツ。
年齢的には二十歳前後のいかにもチンピラ風な男が、鞄を持ち上げて前歯の欠けた歯を見せて笑った。
身の危険を感じた友梨香は、後ずさってその場から逃げようとしたが、背中にドンと何かが当たった。
「おっと、逃がさないぜぇー」
別の男に後ろから抱きつかれてしまった。
延々と鳴き続けていた蛙の低音が、友梨香の甲高い悲鳴でかき消されていく。