新米ちゃんと呼ばれて
序章から時系列では三週間前。
いよいよ本編のスタートとなります。
田んぼの水面に太陽の光が反射してキラキラと輝いている。
五月のゴールデンウイークに植えられた苗は三十センチ程に成長し、そよ風に揺れている。
埼玉県立桜宮高校の校舎は、そんなのどかな田園風景の中に溶け込んでいた。
豊かな自然環境と引き換えに、駅から自転車でも三十分以上かかるという交通の不便さと、近年の少子化の影響により、荒れた学校として名を馳せる県内一の不人気校である。
そんな高校に新任教師として着任した米澤友梨香は、この春大学を卒業したばかりの二十三歳乙女。
目が二重でぱっちりと大きく、ふっくらと丸い頬に低めの鼻のせいでやや幼く見えてしまうことに、本人はコンプレックスをもっている。
少しでも大人の雰囲気をつくるために髪を後ろで束ね、黒いスーツスカートを着て教壇に立っているのだが、その姿は就職活動中の大学生にしか見えないことを本人はまだ知らない。
窓から差し込むうららかな日差し。
友梨香は教科書の音読をしながら教室を見渡すと、男子生徒の半数は机に突っ伏し夢うつつ。女子生徒は爪の手入れやファッション雑誌の回し読み。
果たしてこれが、夢にまでみた教師生活なのだろうか。友梨香は目の前の惨状を現実として受け止められずにいた。
それでも、授業を真面目に受けようとしてくれる生徒は少数ながら存在する。
くじけそうになるときはいつも、その生徒のために授業を頑張っている。
だが、貴重な存在であるその女生徒が、今日に限っては窓の外をぼーっと見上げていた。
友梨香は教科書を静かに閉じ、女生徒の肩にそっと手を置いた。
「あ、新米ちゃんも見てみなよ! さっきから流れ星がすっごいんだよ!」
「えっ……」
無邪気な笑顔を向けられて戸惑う友梨香だったが、言われるがままに窓の外を見て、女生徒が見入るのも無理はないと納得した。
昼間でもはっきりと見えるほどの明るい流れ星が、数十秒間隔で流れている。
「えっ、マジか!?」
「私も見るぅー」
「わー、すごーい!」
「すっげぇー!」
とたんに窓に集まる生徒たち。
これは間もなく地球に最接近するといわれる彗星がもたらす、天体ショーである。
ほうき星とも呼ばれる彗星は、小さな塵を伴い接近し、それが太陽風に煽られて地球の大気圏へと突入する。
塵は大気との摩擦により燃え、光を放つことでこの天体ショーが実現する。
そのほとんどは地上へ到達する前に燃え尽きるのだ。
生徒たちにとっては、将来のための勉強よりも、今ある刺激を楽しむことの方が大切なのだろう。
友梨香はため息をつきながら、ささくれた気持ちの落とし所を探していた。
「ん? あれ幸村じゃん? ほら、あのツンツン頭の茶髪! あんな髪型してる男は幸村しかいないじゃん?」
「えっ……」
たしかに校庭沿いの農道に、学ラン姿の生徒らしき人物がいる。
ただ、友梨香がいくら目を凝らしてみても、それが誰かまでは分からない。
最近付け始めたコンタクトレンズの度数が合わないのか、友梨香は遠くの景色を見るのが苦手だった。
「あいつまたサボって帰ろうとしているんじゃない? 新米ちゃん、幸村の担任でしょ? このまま帰しちゃっていいの?」
「あれ、本当に幸村君なの? だって、今日は最後まで授業を受けるって約束していたのに……」
久能幸村は、友梨香が担任する2年B組の問題児。
喧嘩や暴力の絶えないこの学校に於いて、停学処分を受けた回数は勲章となる。
ただし、謹慎中に重ねて事件を起こせば即退学というルールがある。
停学開けの謹慎期間中に、売られた喧嘩を買ってしまう生徒は数知れず。
入学したその年の内に、クラスの三分の一は学校を去って行く。
そんな中にあって、幸村は生き残り組の筆頭である。
「おーい、ゆきむらー! おーい!」
「あ、いいのよ小林さん。窓から叫んだりしたら他のクラスの授業の迷惑になっちゃうから……」
「えー、大丈夫なのにぃー。他のクラスだって流れ星見てんじゃん?」
たしかに、上下階からのガヤガヤが窓を通して伝わってくる。
だが、そもそもこの距離から声をかけても、遙か彼方の農道を歩いているあの人物に声が届くこともないだろうと、友梨香は自身を納得させた。
次に問題を起こしたら、幸村には退学処分が下される。
だから他の教師たちは静観を決め込んでいる。まるで厄介払いができて清清すると言わんばかりに……
この一ヶ月半の間、学級担任として彼をなんとか更生させようと足掻いてみたものの、まったく教員経験のない友梨香には荷が重すぎたのだ。
「み、みなさーん、せ、席に着きましょー! 授業の続きをしますよー!」
パンパンと手をたたき、か細い声を振り絞る。
声が震えていた。
自分は幸村に裏切られたのかもしれない。
その疑念は想像していた以上に心の重しとなっていた。
生徒たちは舌打ちをしつつ、ぞろぞろと席に戻っていく。
授業中の出歩きは処罰の対象としてカウントされるからだ。
「あっ、なんか車に乗って行っちゃったよ? 幸村がさらわれちゃったかも!」
「ええっ!?」
振り返ると、農道を猛スピードで走り去っていく白いワンボックス車が見えた。
だが、学校の敷地に隣接する見晴らしの良い農道で、白昼堂々と高校生を狙った誘拐事件など起きるものだろうか。
しかも、学ランを着ていたとはいえ、あの人物が幸村だったかどうか、さらには桜宮高校の生徒だったかどうかすら分からない。
そうだ。人ちがいに違いない。
友梨香は心拍数が上昇する中、教科書の朗読を再開する。
生徒たちのざわつきはまだ収まらない。
おそらく授業が終わるまで続くのだろう。
耳の裏の髪を触りながら、大人の雰囲気作りのためにとコンタクトに変えたことを少し後悔していた。
静かに始まった本編はいかがでしょうか?
前章はギャグテイスト全開で始めましたが、たまにはこんな展開も挟んでいきますので、今後ともお付き合いいただけると嬉しいです。