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血脈 ~漢朝五百年~  作者: 菊池竹光
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第八話 英雄の血胤

「兄上、お久しぶりです」


「よく来たな、えい。それに典奉てんほうも」


 曹順は兵舎の私室へ、曹衛そうえいとその従者の典奉を招き入れた。

 四つ年下の弟は、最後に顔を合わせた時と比べて、幾分大人びた印象がある。もっとも一族のさがか、背丈の成長は曹順と同じく芳しくはなかった。それでも頼もしさを感じさせるのは、曹順が家を出てからこれまで、里の者をまとめてあげてきたという自信の表れだろうか。


「今日来てくれて良かった。明日から、任務でしばらく留守にする予定でな」


「そうでしたか。では、さっそくですが頼まれたものを」


 曹衛に目配せされ、典奉が肩の荷を下ろし、中から縦長の木箱を一つ取りだした。

 受け取ると、曹順は慎重に蓋を開けた。中から現れた一振りの剣を、やはり慎重に手に取る。

 そのままゆっくりと鞘を払うと、剣身が露わとなった。

 にわかに室内の温度が下がったような、そんな錯覚を覚える。鍛え上げられた鋼が、曹順の瞳をその身に写し込んでいた。

 柄を固く握りしめた。手と柄の境界が曖昧に感じられるほどに、良く馴染む。家伝の宝剣である。それで当然と思えた。


「これなら」


 あの妖剣とも戦える。もっとも、指揮官自らあの男と剣を交えるような戦況にはもう至りたくは無いが。


「……里の皆は元気か?」


 剣を再び鞘に納めると、気を取り直して曹順は言った。


「ええ。兄上もたまにはお帰りください。長老様方も、会いたがっておりますよ」


「嘘をつけ。爺さま達が、俺に会いたがるはずがないだろう」


「いえ、本当ですよ。手のかかる者ほど、いなくなると寂しいもののようで」


「ははっ! お前も言う様になったな、衛」


 久しぶりに再会した兄弟は、しばし会話に花を咲かせた。

 曹衛の口から聞かされる懐かしい者達の近況に、軍務漬けだった曹順の心も自然と和んだ。


「それでは、我らはそろそろ失礼致します。……そうだ、典奉。兄上に何かお聞きしたいことがあったのでは?」


 暇乞いを告げた曹衛が、後方に控える典奉に話を振った。

 典奉は曹衛の従者であり、典斐の兄でもあった。典家はいくつかの家に分かれているが、その宗家の嫡男が典奉である。武術の技量という点においては類稀なる天稟を有する典斐に僅かに劣るが、並外れた体格と膂力の持ち主だ。その血筋だけでなくその実力からも、武家である典家の次期当主の座が約束されている。

 曹順は典奉に、視線で発言を促した。膝をついて控える姿は、さながら小山のようである。


「……それでは失礼して、―――妹は、殿のお役に立てているでしょうか?」


「なんだ、そんなことか。ああ、役に立っているぞ。俺には過ぎた家臣と言っていい」


「そうですか」


 典奉の言葉には安堵の響きがあった。

 元々、誰よりも典斐を可愛がっていたのが、この典奉である。曹順も少年時代には、典斐と共に何度となく世話になった記憶があった。それだけにと言うべきなのか、典斐が武人として曹順の傍で生きると決意した時、もっとも反対したのも典奉だった。

 主家の当主の座を継いだばかりの曹順の取り成しもあって、最後には典奉が折れて今に至っている。その時の大喧嘩が後を引いているのか、曹衛と典奉の訪問を前に、典斐は自ら調練での指揮を買って出ていた。


「今は俺の代わりに調練を任せているが、呼び戻そうか? もうすぐ終わるとは思うのだがな」


「いえ、お役立て頂けているならば、それだけで十分です」


 きっぱりと言ってのけると、典奉は立ち上がって肩に荷を背負い直した。


「そうか」


 やはり、兄妹だけあってどこか典斐と似ている。曹順は短く返すと、二人を送り出すため自身も立ち上がった。


「それでは、兄上」


 兵舎の並びを抜け、軍営を一歩踏み出したところで、これ以上の見送りは不要とばかりに曹衛が言った。


「ああ、里のことは頼んだぞ、衛」


「はい、兄上」


 差し伸べた手を握り返す曹衛の手は小さくも力強かった。


「典奉、弟を助けてやってくれ」


「はっ、お任せください」


 遠ざかる二人の背をしばし見送り、曹順は兵舎へ引き返す。

 部屋の前まで戻ると、戸口前で立ち尽くす典斐の姿があった。


「調練は終わったか」


「はい。……曹衛様は、もうお帰りになられたようですね」


「ああ、今しがた。馬を飛ばせば、すぐに追いつくだろうな」


「そうですか」


「……一つ、伝え忘れたことがある。伝言を頼まれてくれるか、阿斐?」


「伝言。曹衛様にですか?」


 怪訝な表情で典斐が問い返す。


「ああ。私事だからな、お前以外には頼めん」


「わかりました。それで、何とお伝えすれば?」


「そうだな。……爺さま達によろしく伝えてくれと」


「……それだけですか」


「ああ、頼む」


「はい」


 短く返すと、典斐は厩のある方へと足早に向かった。

 口元を手で抑えるようにしていたのは、浮かんだ笑みを隠すためだろう。それが兄との久しぶりの再会を喜んでのものなのか、それとも曹順の浅知恵に対するものなのかは、判然としなかった。






「話には聞いていたが、確かにこれは行軍だけで一苦労だな。あの関靖将軍をして、行くだけでも調練になると言われたのも頷ける」


 先導する張武の背に、曹順は声をかけた。馬を進めているのは、崖の中腹に張り出した桟道である。

 曹衛との再会の翌日、曹順は三百人隊を率いて益州―――蜀国の漢中へ向けて出立していた。

 かつて歴史上の重要路の一つとなったこの桟道は、大人数の通行にも耐え得るだけの強度を誇っている。かつては糧道としても使われたものだから、輜重車が行き交えるぐらいの道幅もある。それでも、馬三頭が並んで進むには幾分不安を感じさせた。騎兵は二列、歩兵は三列の縦隊での進軍だった。

 軍営地から漢中までは五百里ほどの行軍となる。関家軍では今回のような小隊規模での行軍なら、日に百里という強行軍も珍しくはない。数字だけで言えば、大した規模の遠征ではなかった。しかし険路に次ぐ険路に、進軍は思うに任せずにいた。


「ここを抜けても急峻な山道、そしてまたすぐに桟道です。馬術に自信がないのなら、降りた方がかえって楽ですよ」


「お前こそ、でかい図体をしているんだ。馬が桟道を踏みぬいてしまわないよう、歩いた方がいいんじゃないのか」


 張武の軽口に軽口で返すも、典斐に轡を取られて進む姿では様にならなかった。もちろん曹順から言い出したわけではなく、典斐に進言され、それに押し切られたが故の格好である。

 典斐に目を遣ると、岩肌を焼く初夏の日差しにぽつぽつと汗を浮かべながら、それを拭いもせずに隙の無い足取りだ。


「典斐、暑くはないか?」


「いえ、問題ありません」


 初めての敗戦以来、典斐は行軍中は曹順の側を片時も離れようとしない。そして、常に気を張り詰めていた。

 曹順の身を危険に晒したと、典斐がどれほど自身を責め苛んだことか、想像に難くない。それだけに、曹順も行き過ぎとも思える典斐の行為を無下にする気にもならないのだった。

 漢中に到着したのは、出発からちょうど十日目の朝だった。

 案内の者に従って、曹順は宮殿を歩いた。供には張武一人だ。

 宮殿は、あまり広大という感じはしなかった。本来の蜀の都は成都で、漢中に建てられたこの宮殿は離宮に過ぎないらしい。もっとも、成都はもちろん洛陽にすら赴いたことのない曹順には、宮殿の規模の大小など測りようもなかった。

 中原との連絡の便から蜀王は一年を通して漢中に留まることが殆どで、今はこの離宮がほとんど蜀の朝廷として機能しているという。


「こちらになります」


 通されたのは、貴人の私室と思しき一室だった。謁見の間で玉座と対峙する絵を思い浮かべていた曹順は、思わず二の足を踏んだ。その横で、当然のような足取りで張武が足を踏み入れていく。曹順も内心の動揺を隠してそれに倣った。


「こちらへ」


 屏風で仕切られた奥から、声が響いた。

 今度は張武に先んじて屏風を回り込むと、品の良い笑みを浮かべた男―――蜀王が待ち構えていた。


「関靖将軍旗下の校尉、曹順と申します。将軍より書状を預かってまいりました」


「曹順殿か。よくぞ参られた。楽にされよ」


 ゆっくりと、曹順は頭を上げた。

 劉玄。彼の英雄から数えて四代目、第三代の蜀王である。

 伝え聞く彼の人の異形が出鱈目なのか、それとも子孫にはその特徴が引き継がれなかっただけなのか、中肉中背の均整のとれた体躯をしている。関靖よりも二つ三つ年上のはずであるが、蓄えた髭がいくぶん薄いこともあってか、実際の年齢よりも若く見える。


「こちらに来て、座られよ。副使の方も、どうぞ」


 劉玄は自身も腰を降ろしながら、曹順に着席を促した。卓が一つあり、劉玄と差向う形で二つ胡床こしょうが並んでいる。

 武霊王の胡服騎射ではないが、今の時代軍服にはどこの軍でも股の分かれた胡服が採用されている。そのため、軍人には胡坐あぐらをかく習慣があるが、貴人の前では膝を揃えて正坐をするのが礼儀だった。故床を使うこと自体憚られるところを、蜀王である劉玄と同じ卓を囲む恰好である。

 張武が頓着しない様子で先んじて腰を下ろした。一瞬恨みがましい視線を送るも、澄ました顔で知らぬふりをされる。


「……失礼します」


 西域から伝わったものだろうか、背もたれのある故床というのは珍しい。曹順は一度軽く尻を乗せ、開き直った気持ちで背をもたせかけるように深く座り直した。


「では、こちらを」


 書状を渡し、二、三質問に答えるともう用件は終りだった。

 蜀は漢王朝の領内にあってほぼ完全な自治を認められてはいるが、幾ばくかの税を治める取り決めとなっている。長安まで届けられた荷を洛陽まで護送するのは雍州に駐屯する官軍の役目で、それは今ならば関家軍の務めということになる。使いの要件はそれであった。

 そこからは他愛のない雑談となった。


「ここまでの道中、苦労したであろう」


「聞きしに勝る険道でございましたが、往時に思いを馳せればそれがまた楽しくもありました」


「往時か。曹姓の貴殿は、険路を越えて雍州へと攻め入る側よりも、やはり攻められる側に思いを馳せるのかな?」


「関家軍の校尉として口にするのは憚られることですが、そんな想像をしたことも確かにございます」


 言う必要もないことを口にしている。思いつつも、曹順は特に警戒しようという気にもならなかった。

 蜀王劉玄というのは不思議な人だった。関靖のような威を放つでもなく、無雑作にこちらの深いところまで容易く踏み込んでくる。そしてそれが不快ではないのだ。


「もう一年以上も会えていないが、義弟は元気にしているかな?」


 義弟、というのは当然関靖のことであろう。

 劉玄と関靖、それに張武の父の張文を加えた三人は義兄弟の契りを結んでいる。そのことを知らぬ者は漢人の中には皆無だろう。彼の英雄以来の伝統である。蜀王が長兄、関家の長が次兄、張家の長が末弟となるのが慣わしであるが、今代の三人はちょうど年齢もその順に並んでいるはずだ。


「はい、ご健勝であらせられます。私も調練ではよく苛められております」


「そうか。曹順殿は関家軍にあって関靖に次ぐ軍才の持ち主だと聞いているが」


「まさか。私など一介の校尉に過ぎません。一体誰がそのような―――」


「―――久しぶりね、張武!」


 どたどたと落ち付きの無い足音と共に、元気な声が室内に飛び込んできた。


芙蓉姫ふようひめ様もお元気そうで何よりです」


 声と共に姿を現した少女に、張武が小さく頭を下げた。


「むっ、随分と他人行儀な挨拶ね」


「軍務中ですので」


「ふーん、私を相手にそんなこと言っちゃうんだ。……まあ良いわ。それで、曹順というのはあなたね?」


 芙蓉姫、と呼ばれた少女は親しげに微笑んだ。戸惑っていると劉玄が苦笑混じりに、娘だ、と教えてくれた。

 年の頃は十四、五才だろうか。黒目がちな大きな瞳が絶え間なく動き回っている。年相応に、という以上に好奇心の強い少女のようだ。

 薄い紅色に花柄をあしらった服も、身分の高い女性が好んで着る裾を床に引きずるような長さのものではなく、短く動きやすいものだ。


「私のことを知っておられるのですか?」


「張武からの文によく名前が出てくるわ。外で兵をまとめていたのが典斐かしら? 調練で張武を馬から叩き落したという」


 活発な印象を裏切ることなく、宮殿の外に控える兵はすでに見物済みらしい。


「良く御存じで。張武と共に私の副官を務めてくれている典斐で相違ありません。……しかし、張武が文を、ですか」


 曹順は芙蓉姫の言葉に頷き返しながら、当然の疑問を口にした。


「何か変な想像をしていないか、隊長?」


 口調から何かしら感じ取ったのか、張武が口を挟んだ。


「いや、別に。……お前が文をねえ。甲斐甲斐しいところもあるんだな」


「言っておくが、隊長の想像しているような意図はないぞ」


「ふーん」


「だからっ―――」


「―――あははははっ」


 それまで興味深げに曹順と張武のやり取りを見つめていた芙蓉姫が、突然笑い出した。口を開け声を立てて笑う様からは、公女らしさはまるで感じられない。あるいは、この奔放さこそが何不自由なく育った者の証しなのか。


「張武の言っていることは本当よ。私達は兄妹みたいなもので、そんなことは考えたこともなかったわ。こう見えて張武は筆まめなのよ。ご両親はもちろん、父や私、それに関叔父様の息子の関安にまで近況を書き知らせるくらいにね」


「へえ、それはそれで意外だな。っと、失礼しました」


「ん? ああ、話し方? いいのよ、張武と話す時みたいに、普通に話してくれて」


「殿下の御息女を相手に、そういうわけにも参りません」


「張武だって父の義弟の嫡男なんだから、その殿下の甥っ子みたいなものよ」


「張武は今は一介の軍人で、私の部下ですので」


「ふーん、そういうもの? ……まあいいわ。それより、曹順。せっかく険路はるばる来たのだし、典斐も呼んで私の相手をしてくれない? あなたも張武に勝ったと聞いているわよ」


「御相手と言いますと?」


 言葉の途中で元気良く立ちあがった芙蓉姫の姿に、何となく答えを見出しながらも曹順は問い返した。


「もちろん、剣のお相手よ。着替えてくるから、待っていて」


 芙蓉姫は、答えも待たずに部屋を駆け出していった。






「はぁっ!」


 芙蓉姫が、短い気合と共に踏み込んだ。

 十分な鋭さを秘めた刺突を、典斐が危なげなく弾く。芙蓉姫は手を休めず、たたみ掛けるように木剣を振るった。途切れることのない苛烈な攻め手も、典斐は余裕を持って捌いている。

 呼び出されたばかりで、未だ状況の飲み込めていない典斐の問うような視線に、曹順は小さくうなずき返した。直後、木と木のぶつかる小気味良い音と共に、芙蓉姫の手にした木剣が宙を舞った。


「……はぁ、また負けたわ」


「いや、大したものです。失礼を承知で申し上げますが、正直驚きました」


 足を投げ出して地べたに直に腰を下ろした芙蓉姫に、曹順は声を掛けた。

 宮殿の中庭は、所々芝が剥げ―――恐らくは芙蓉姫の剣の稽古の跡なのだろう―――、土埃も舞っているが、そんなことを気にする素振りもない。


「叔父様や張武達以外で私を負かしたのは、あなた達が初めてよ、曹順、典斐」


 数度、大きく息を継いで呼吸を整えると、芙蓉姫が言った。

 蜀軍の将兵が、王の娘を相手に本気で木剣を交わせるとは思えない。とはいえ、事実として芙蓉姫の剣の腕前は単なる姫君の手習いという域を逸脱しているのは間違いのないことだった。典斐が来るまでの間に曹順も三度剣を交わしたが、彼女のように軽くあしらうという様な立ち合いは出来なかった。並の兵ならまず問題にしないだろう。


「姫君はまだお若いですから。その調子で鍛え続ければ、あるいは私よりも強くなるかもしれません」


「本当? 世辞を言っているのではない?」


「まさか。お世辞を言うぐらいなら、初めから勝って見せたりはいたしません。上手に負けたふりをしますよ」


「……そうね。それじゃあ信じるわ」


 しばし曹順に探る様な視線を送ると、芙蓉姫は朗らかに微笑んだ。

 利発な少女である。普段剣の稽古に付き合わせる者達が、自分を相手に本気では打ち込めないことに、気付かないはずも無いのだ。


「でも、あなたより強くということは、張武よりも強くなれるのかしら?」


「そうですね。私が思いますに―――」


 思わせぶりなところで言いさすと、観戦を決め込んでいた張武の顔から笑みが消えるのがわかった。曹順は、苦笑混じりに続けた。


「……まあ、それはさすがに難しいかと」


「どうして? あなたは張武に勝ったのでしょう?」


「勝ったとは申しましても、三本勝負で二本先取したというだけのこと。強いのは断然張武の方です。もし十本勝負をしていたなら、八対二で私の負けだったでしょう」


「あなたが勝てたのは運が良かったということ?」


「いえ。勝てる二本を如何に活かすか。それを考えるのが戦術というものです」


「戦術。私は兵法は知らないわ。お父様も先生を付けてはくれなかった」


「興味がお有りですか?」


「ええ。―――私は、一軍を率いる将になりたいの」


「ならば、剣だけでなく兵法も学ばねばなりませんね」


「……止めないのね、あなたは」


 よほど意外な言葉だったのか、芙蓉姫は目を丸くしている。ちらと、典斐に視線をやって曹順は答えた。


「前例がないわけではありません。軍学の祖太公望の娘で、周の武王の妃となった邑姜ゆうきょうは、戦場に赴き、時には自ら兵を率いたとか。興武帝の御代の大乱に際しても、局地戦の指揮官としてならば幾人か女性の名も記録されております。つまり全ては姫君の才覚次第かと」


「……うん、そうよね。何といっても私は彼の英雄の玄孫やしゃごだもの。張武や関安にばかり戦場仕事を任せてはいられないわ」


 兄妹のようなものだと言っていたから、張武と関靖の嫡男の関安に対しては思うところもあるのだろう。

 蜀王劉玄の正室はすでに亡く、後継ぎとなる男児もいないことは知られている。蜀の地の統治は元々三代限りと定められていて、その三代目に当たるのが劉玄である。その後は特に家を残そうという気も無いのか、側室も置かず、正室の忘れ形見の娘が一人いるだけだと伝え聞いている。それが芙蓉姫であろう。

 いずれ張武と関安は、芙蓉姫を残し二人だけで義兄弟の契りを結び、戦場を駆け巡ることとなる。


「ねえ、曹順。あなた、私に兵法を教えてくれない?」


「私でよろしければ、明朝の出発まで時間が許す限り。ただ、蜀王殿下の御許しを頂かねばなりませんが」


「父には私から頼んでくるわ。少し待っていて」


 芙蓉姫がまたも元気に駆け出した。






「昨日は、娘の相手までさせてしまって、すまないことをした」


「いえ、利発な姫君の御相手をするのは、私にとっても楽しい時間でした」


「そう言ってもらえると、私としても助かる」


「―――それでは、失礼いたします」


「伯父上、また」


 自ら宮門まで見送りに出た劉玄に、曹順は一礼して背を向けた。張武が立場を弁えぬ口調で別れを告げるが、最早気にもならなかった。王自らが三百人長に過ぎない曹順を送り出すこと自体、本来有り得ぬ話なのだ。

 門外には、すでに三百の兵が集まっている。兵をまとめているのは典斐で、その横には芙蓉姫の姿があった。


「殿下のみならず、姫君にまでこんなところまでお見送りいただけるとは」


「父のは、いつものことよ。誰に対してもそうなの。私は、あなた達二人が気に入ったから。それに、先生には礼を尽くさないとね」


 昨日は、兵法書の暗唱だけは完璧な張武を指南書代わりに、日が落ちるまで兵法講義だった。


「曹順様、これを」


 典斐の差し出した剣を、曹順は受け取った。帯剣したまま宮中には上がれないため、預けおいたものだ。


「……曹順。その剣、見せてもらってもいいかしら?」


 腰に佩いたばかりの剣を指さして、芙蓉姫が言った。曹順は鞘ぐるみで剣を引き抜くと、芙蓉姫に手渡した。


「我が家に昔から伝わるものですが、なにか?」


「似たものを、昔どこかで見たような気がして。―――っ!」


 鞘を払い剣身が露わとなると、芙蓉姫が息を呑んだ。


「……これは見事ね。刻まれてはいないみたいだけど、銘は何というの?」


「いえ、特に伝わってはおりません」


「そう。……やはり、どこかで。ううん、きっと気のせいね」


 芙蓉姫が、何事か小声で囁きながら剣を鞘に戻し、曹順の手へ返した。


「それでは、我らはこれにて失礼いたします」


「ええ。曹順、典斐、また来て頂戴。張武も元気で」


 名残惜しげに微笑む少女に三人それぞれが別れを告げると、すぐに軍は一路雍州へと向け進発した。


「しかし、お前がそれほどまでに俺のことを買っていたとはな」


 再びの桟道で、前を行く張武の背に曹順は言葉を投げ掛けた。


「何の話です、隊長?」


「蜀王殿下に、俺が関靖将軍に次ぐ、などと吹き込めるのはお前以外にいないだろう、筆まめな張武殿」


「それは。……関靖伯父上かもしれないではないですか」


「関靖将軍が? それこそ有り得ないだろう」


「……まあ、俺も調練では隊長に負けていますからね。隊長の評価を上げておかないと、俺も格好がつきませんので」


「ふっ、そういう事にしておいてやるか」


 くすりと、馬を引く典斐が可愛らしい笑声をこぼした。



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