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血脈 ~漢朝五百年~  作者: 菊池竹光
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第七話 胡乱なる男

「話はわかった」


 拓跋禄官たくばつろくかんが、かすれた声で言った。

 傷痕のようでもある深い皺をほとんど動かさずに話すその姿に、石勒はわずかに気圧されるものを感じた。


「御賛同頂けますか、禄官様?」


「お主のことは、慕容廆ぼようかいの名代と思っていいのかな?」


「この件に関しては、全権を委ねられております」


「しかし、にわかには信じ難いな。あやつが今になって和議などと。一門の仇と、そう思い定めていたはずだろうに」


「私の言葉はそのまま、慕容廆の言葉であると思って頂きたい」


 禄官が考え込むように顔をそむけた。そうして黙り込む様はほとんど死人のようで、六十という年齢以上の歳月を感じさせる。


「……義理の息子も甥達も、随分とお主を買っているようだ」


「お三方とは、親しくお付き合いさせていただいております」


「我ら鮮卑の他の部族や、羌族とも付き合いがあると聞く」


「はい。漢の領内では盗賊などと呼ばれておりますが、私はいまだ商人でもありますので」


 禄官がかすかに首を振って得心を表した。遊牧民族にとって、行商人との付き合いは欠かすべからざるものだ。


「出身は匈奴の羯族だな?」


「はい」


「商人にして盗賊。慕容廆の血族どころか鮮卑族ですらない。そんな男が何故あやつの言葉を代弁出来る?」


「我らは朋友故に。まったく同じとは言わぬまでも、似た夢を追っております。禄官様、貴方様にもその夢に加わって頂きたいと切に願っております」


 石勒の言葉に、また禄官が考え込むように視線を逸らした。薄暗い天幕の中を、しばし静寂が支配した。

 頃合いか。この頑なな老人を相手に、今日はかなりの進展があったと思うべきだろう。


「……こちらは宇文遜昵延うぶんそんじつえん様よりお預かりしたものでございます」


「ほう」


 娘婿からの進物に、禄官の表情が初めてわずかに和らいだ。嫁にやった長女を、禄官がことのほか可愛がっていたという話に偽りは無いらしい。






「だいぶ過ごされましたね、大兄」


「禄官様に飲んで行けと誘われれば、断るわけにもいくまい」


「その禄官様も、最後には大兄の体を気遣っておられましたが」


「ははっ、そうだったか?」


 皮肉気に言う王陽おうように、石勒は誤魔化すように笑い飛ばした。

 冷たい夜風が石勒の肌を刺す。行く手にはただ平原が広がっていて、風を遮るものなど何も無いのだ。

 不意に、思うさま馬を駆り立てたいという衝動に、石勒は捕らわれた。

 わずかに前を進む王陽が、それを遮っている。共に進みながらも、王陽の手は石勒の馬の轡に伸ばされていた。

 王陽は今日は石勒の護衛として付き従っている。敵襲からはもちろん、石勒自身の気紛れな思いつきからも身を挺して守り抜こうという構えだ。

 しばしその背に視線を注ぐも、結局石勒はその衝動を実行に移すことを諦めた。代わりに、思い浮かんだ問いを口にする。


「王陽、劉聡様の剣の上達具合はどうだ?」


 王陽は石勒が馬賊となった当初からの仲間の一人で、武芸全般に通じた男だった。特に剣の腕は、石勒がこれまで見た武人の中でも突出している。今は、劉聡に請われて剣の師のような事もやっていた。以前、石勒を唸らせるほどの剣技の冴えを見せた劉聡だが、本格的に人に師事して剣を習ったことはこれまでなかったのだという。


「戦場でも感じたことですが、やはり、ものが違いますね。剣の技と言う点では私が教えることも多くありますが、実際に剣を取って戦えば、たぶん勝てません」


 普段はあまり感情を表に出すことのない王陽が、珍しくいくらか熱を帯びた口調で言った。

 石勒には、劉聡を籠の中の鳥の様に育てるつもりは毛頭無かった。戦に出たことがないという劉聡に一度兵を預けた。ある種、戯れに近いことでもあり、動かしたのは石勒の呼び掛けに応じた羯族の兵だけである。死ななければよい。そう言う心算で漢の領土へと送り出したのだ。

 ものが違う。劉聡の副将兼護衛として付けた王陽は、帰陣後にやはり何度もそう口にした。たとえどれ程の武人であっても、戦場で劉聡を討つことは敵わない。劉聡と対峙した者は、まずその威に打たれ、ついでその剣に倒れることになるだろうと。


「お前にそこまで言わせるか」


「はい。これから先どれほどの武人に成長するのか、ちょっと想像がつきません」


「ただの武人で終わってもらっても困るが」


「将器、ということでしたら、それこそ問うまでも無いのでは?」


「……確かにな」


 それ以上をと望む気持ちは口には出さず、石勒は短く返した。


「大兄、お疲れ様です」


 駐屯地に近付くと、目敏く石勒の姿を認めた支雄しゆうが駆け寄ってきた。

 支雄も、王陽と同じく古い仲間の一人である。彫りの深い顔つきと浅黒い肌は、遠く月氏の血を引くためだという。その視線が、じっと石勒の顔に注がれた。


「……どうした?」


「大兄、今日は酒を召されましたか?」


「ん? ああ、まあ、ちょろっとだけな」


 石勒の返答に、支雄が後方へ振り返って手を振った。それが何かの合図になっていたようで、駐屯地からどっと喚声が沸き起こる。


「なんだ? 俺の顔にお宝の一つも付いていたか?」


「いえ、劉聡様が大兄が今日も酒を飲んでくるかどうか賭けようと言い出しまして」


「なんだ、そんなことか」


「しかし、それでは賭けが成り立たないんじゃないか?」


 王陽が口を挟む。


「それはどういう意味だ、王陽。俺はそこまで酒にだらしなくはないぞ」


「……いえ、それが王陽の言う通りで、飲んでこない方に賭ける者は結局一人もいませんでした」


「はははっ!」


 気拙げな顔の支雄に、石勒は思わず大笑した。

 本当のところは、石勒は酒に酔ったという事がほとんどなかった。顔色もほとんど変わらないから、先刻の支雄のように覗きこんだところで飲酒の有無など判定できないだろう。それでも酒を好んで飲むのは、酔った上で語ったことは本心だと信ずる者が多いからだ。だから石勒は、酒を飲めばことさら陽気にも振る舞うし、あることもないことも吹聴するのだった。


「それで、賭けはどうなったんだ? 流れたにしては盛り上がっているが」


「はい、結局賭けを言い出した劉聡様が折れて、飲んでこないに一人で賭けることに」


「それでは劉聡様の一人負けか。賭けの対象は何だ?」


「この地に滞在中の馬糞の始末を」


「ははっ! 劉聡様が馬糞の片付けか! これはいい!」


 笑いながら、駐屯地へと入った。

 羌族や匈奴、いくつもの勢力に分かれた鮮卑の各領を巡る関係上、あまり多くの兵を率いることはない。戦闘ではなく商売や交渉、対話を目的とした集団なのだ。常に石勒と共にあるのは王陽や支雄ら、ただの盗賊であった頃よりの仲間十八人だけで、あとは必要に応じて呼び寄せるだけだ。この駐屯地も規模の大きなものではない。


「しかし、一人で馬糞掃除はきついだろうな」


 今は全部で百人ほど、そしてそれとほぼ同数の馬がいるだけだが、それでも一人では半日掛かりの仕事だ。


「大兄、どうもそうはならなそうです」


 王陽の言葉に見遣ると、劉聡の周りに人垣が出来始めるのが見えた。どうやら、助力を買って出る者達のようだ。

 側近中の側近と言って十八人以外には、劉聡の身分を明かしてはいない。乗っている馬や持ち物から、どこぞの商家の御嫡男だとでも思われているのではないだろうか。

 それでも、兵の間ではすでに劉聡を特別視する風潮があった。それは主である石勒が常に傍に置いていることだけが理由ではないだろう。

 百騎を率いさせ漢の領内に侵攻させたあの戦。

 軍を率いた劉聡の動きは冴え渡っていた。精強で知られる関家軍の、それも倍する兵力を撃破し続けた。

 それに対する関家軍の動きは百騎に対して一千を向かわせるという、想定以上に厳しいものであった。しかし、その一千も劉聡の引き立て役に過ぎなかった。

 初めての戦場、十倍の兵力を相手に見せた劉聡の用兵は凄まじいの一言であった。一千をほとんど潰走に近い状態まで追い込むと、悠々と漢の地を去ったのである。

 兵達の劉聡を見る目が特別なものとなったのは、それ以来である。否、それ以前から漠然としてあった感情が、具体的な形を得たというべきか。

 単于の血。

 血などというものを格別に有難がる気持ちは、かつての石勒には無かった。少数とはいえ民を統べる家系に生まれ、その民もろとも奴隷に落とされたのだ。血が何かを為すなどという考えは、石勒の中から綺麗に消え去っていた。

 劉淵や劉恭に対した時も、その考えに変化はなかった。人として尊敬すべき点が多くある二人だが、それが血によるものとは思わない。

 劉恭の紹介で初めて劉聡と引き合わされたのは、屋敷ではなく并州の草原の中だった。まだ体躯に頼りなさを残す劉聡が人を寄せ付けぬ悍馬を必死で御す姿が、今も石勒の頭を離れない。

 草原を駆ける単于の姿を、その危なっかしくも勇敢な少年に見たのは、何故だったのか。


「石勒殿、ここにはいつまで留まるのです?」


 気付けば、劉聡がすぐそばまで駆け寄って来ていた。後には兵達もぞろぞろと続いている。


「禄官様とはまだまだ詰めねばならない話があります。そうですね、早くて十日というところでしょうか」


「そうですか」


 石勒が苦笑交じりに言うと、劉聡はため息交じりに返した。

 石勒がこの地で何をしているのか、詳しいところまでは劉聡には教えていなかった。特に隠そうという気も無いが、劉聡から聞いてくるまでは石勒もことさら教えるつもりはない。劉聡は特に興味が無いのか、知らぬはずもない禄官の名にも、何ら反応を示さなかった。

 拓跋禄官。鮮卑族拓跋部の大人(部族長)である。

 鮮卑は北方最大の遊牧民であるが、今はいくつにも分裂して相争っていた。拓跋部を鮮卑族中最大、つまり北方最大と言っても過言ではない勢力にまで一代で押し上げたのが拓跋禄官である。今は広大な領地を三つに分割して早世した兄の息子二人に西部と中部を任せ、自身では東部を治めるのみだが、拓跋部全体のまとめ役であることに違いは無い。また同じく鮮卑の中でも大族の宇文部とは婚籍関係で結ばれており、実質的に臣従させていた。つまり拓跋禄官は鮮卑族きっての大物である。

 その禄官に並び立つ名となると、鮮卑族では他に慕容部鮮卑の大人慕容廆くらいのものであろう。その慕容廆の名代として、石勒はこの地を訪れている。


「だから、俺らが手伝いますって、劉聡様」


「賭けは賭けだ。俺一人でやるさ」


「そう言わずに、一人で何日もなんて無理ですよ」


「お前ら、俺を馬の世話も満足にしたことの無いお坊ちゃんとでも思っていないか? 黒風の世話は余人に任せた事は無いのだぞ、俺は」


「―――ふっ」


 兵を相手に意地を張って見せる劉聡に、石勒は思わず笑みを溢した。あの日の少年の姿が、否応なく思い出される。


「いかがなさりました、石勒殿」


「いや、いつか貴方が我らを率いる日が来る。そんな予感がしただけです、劉聡様」


「……石勒殿の上に立つ自分と言うのは、俺には想像できません」


 答えた劉聡は神妙な面持ちをしていた。



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