第六話 両雄、相見ゆ
張武の率いる百騎が、一千の歩兵に正面からぶつかっていく。
歩兵が騎馬隊を押し返した、と見えたのは寸時のことだった。力任せに突き進む騎馬隊に一箇所が崩れると、それが一千全体に波及していく。
弱いところを衝いて断ち割るというやり方ではなく、むしろ最も強いところにぶつかって一息に全体を打ち壊すというやり方だ。
「お前なら、もっと別のものを張武に仕込んでくれるのではないかと期待していたのだがな」
轡を並べた関靖が言った。
騎兵の指揮は張武に、歩兵の指揮は典斐に任せ、曹順は調練全体を見渡せる丘の頂にあった。他には、曹順を呼び出した当の本人である関靖の姿があるきりだ。
調練場では千人隊同士による実戦に近い形でのぶつかり合いが、同時にいくつも繰り広げられている。関家軍ではよく見られる光景だ。曹順の千人隊は、先程からほとんど張武の騎馬隊だけで相手の千人を打ち砕いていた。
「扱いは一任すると、そうおっしゃいました」
「確かにその通りだが」
「私が用兵など無理に教えつけようとしても、反発するだけでしょう。それに、天性のものを張武は持っています。まずは、その持って生まれたものを磨くべきでしょう」
「持って生まれたもの?」
顎鬚を撫でつけながら関靖が聞き返す。
関靖は以前から立派な口髭を貯えていたが、最近になって鬚髯も伸ばし始めている。何か期するものでもあるのかもしれない。関家の開祖が長く見事な鬚髯を誇っていたことは、この国の人間で知らぬ者はいない。
「はい。策を弄さず、正面からぶつかっていって一千を百騎で追い散らすなど、歴戦の勇将であっても出来るものではありません。兵法も教えはします。しかし、今はまだ張武に策を弄する戦は必要ありません。あの才能を小さくまとめてしまってはならない。そう思います」
関靖は好きにしろとでも言うように、無言で頷いて見せた。髭から覗く口元には、わずかに笑みが浮かんでいる。
千人長風情がいっぱしの口をきくと、そう思っているのかもしれないし、もっと別のことを考えているのかもしれない。いずれにせよ、まだしばらくの間、張武は曹順の副官としてあるようだ。兵を率いる者として、張武のような男を手元に置いておけることは望むべくもない事だった。
将来の将軍位を約束されている張武を副官としたことで、自然と軍内での曹順の扱いもただの千人長という感じでは無くなっている。関靖自身は副官も幕僚も置いていないが、曹順こそがそれに近い立場と見る者も多い。悪い気はしなかった。
調練を終え軍営に戻ると、兵舎の曹順の部屋まで張武が無言でついてきた。こういうことは三日に一度ほどはあって、何をするでもなく手持ち無沙汰な様子で一刻ほども居座っていったりするのだ。
折に触れて、軍略を仕込むこともはじめてはいた。張武は、やはり漢朝の二大武門の一翼、張家の嫡男である。試みに兵法書を諳んじさせると、曹順が未見のものまで覚えていたりするのだ。ただ実際に兵を動かす段となると、逸るものを御し切れないところがあるようだった。
「一手お手合わせ願えませんか、隊長」
張武が退屈そうに言った。
曹順は机に向かって、旗下の百人長からあげられた報告と千人隊の名簿とを読み合わせているところだった。典斐は無言で曹順の傍らに控えている。張武が暇を持て余すのも、無理からぬことではあった。
「断る」
「いいじゃないですか、やりましょうよ」
妙に親しげな調子で張武が食い下がった。
「勝てない勝負はしない」
「そんなことを言っていても、曹順殿なら何かしら手を考えて、三本に一本ぐらいは取りそうな気がしますが」
「だから、三本に二本取れる手を考えつくまでは、手合わせはしないということだ。お前には勝ち逃げで通すと決めている」
「……わかりましたよ」
舌打ち交じりに言うと、張武は部屋を出ていった。
「なんだ、阿斐?」
典斐が小さく笑みをこぼしていた。珍しいことだ。
「何でもありません」
「何でも無いってことはないだろう。なにか、楽しそうだな」
典斐は元々あまり感情を面に出す方ではないし、いまは兜を深く被ってもいる。それでも幼馴染として共に育った曹順は、彼女の些細な表情の変化も見逃すことはなかった。
「いえ、ただ張武殿のお相手をされている時の順様は、生き生きとしておいでなので」
「親しくしておいて損になる相手ではないってだけさ。……まあ、話していて不快な相手、というわけでもないが」
典斐がまた小さく笑った。曹順はそれ以上なにも言わずに、書類に視線を戻した。
出動を命じられたのは翌日のことである。
わずか百騎の敵に、巡廻に当たっていた部隊がいくつか蹴散らされていた。
国境の外で他に軍勢が動いているという報告もある。曹順が千人長になって初めて出撃した際と状況は似ていた。
ただ、今回の敵の動きには不可解なところがあった。略奪をするでもなく、ただ闇雲に駆け回っているという感じだ。偶然かち合った軍勢を打ち払っているだけで、その行軍から何の意図も推し量ることが出来ない。
斥候を出すと、百騎の動きはすぐに捕捉することが出来た。事前の情報にあった通り、特に身を隠すということもなく、あたかも遠乗りでも楽しむように遮るものもない平原を駆けているという。
敵軍までわずか五里という距離で、曹順は全軍を止めた。百騎の小隊であるから、敵騎馬隊の姿はまだ視認出来ない。
「張武。騎馬隊五十騎を率いて一度当たってこい」
敵は百騎だが、こちらも百騎全てを出すと言うわけにはいかなかった。敵の動きが読み切れない以上、いつでも斥候や伝令を出せる状況は作っておかなければならない。
「そのまま、蹴散らしてしまっても良いのですか?」
張武が、気負った様子もなく言った。
確かに今の張武の騎兵の動かしようなら、百と五十の兵力差ぐらいは問題にもしないだろう。
「……いや、敵の動きがどうも気に掛かる。歩兵で囲んで、出来るだけ多くの捕虜を得たい。敗走して、ここで歩兵と合流だ。こちらの歩兵の陣形を崩すような勢いで戻れ」
「わかりました。―――騎馬隊五十騎、ついてこい!」
ちょっと詰まらなそうにしながらも、張武は頷いた。簡単な号令を飛ばすだけで、百騎のうちの五十騎を従えていく。
張武が曹順の副官となってから、三月以上も経っていた。調練でも騎馬隊は張武が率いることが多いから、曹順隊の百騎はすでに手足が如く扱えるまでになっている。駆けながら自然と張武を先頭とした槍の穂先のような陣形が組み上げられていく。
曹順は歩兵に方円の陣形を取らせ、張武の帰りを待つ。
半刻もせずに、駆け戻る五十騎が視界に入った。先頭に、張武の姿は見えない。常に一番前を駆けて、騎兵を文字通り従える形で指揮を執る張武としては珍しいことだ。
「典斐。張武の姿は見えるか?」
「いえ。ただ、騎馬隊後方に乱れが見えます。恐らく殿についているのではないかと」
自ら殿軍に立つ。張武がやりそうなことではあった。しかし、そのせいで指揮は満足に執れていないのか、騎馬隊全体の動きはまとまりに欠けていた。潰走しかねないような追い立てられ方だ。目を凝らすと、いくつか空馬まで見て取れる。
「曹順様、あれは」
「……ああ、どうも本当の敗走のようだ。典斐、残る騎馬隊を率いて右方を迂回し背後を取れ。正面からは当たるな。標的を変えて向かってきたなら、兵を散らして避けろ」
「お側を離れるわけには」
「頼む」
「……わかりました」
典斐が、名残惜しげな視線を残し駆けていく。
両翼を前面に押し進めて、歩兵を鶴翼の陣へ移行させる。合流する味方の五十騎に崩されるという態で包囲を展開する心算であったが、この状況では騎兵に甚大な被害を生み出しかねない。
張武の五十騎が、両翼の間を通って曹順のいる中軍へと駆けてくる。後方に食らいついていた敵軍も、遅れずに飛び込んできた。左右に展開した両翼も、牽制のために進発させた典斐の騎馬隊も意に介した様子はなく、前を駆ける張武の五十騎だけを見据えた動きだ。
中軍に触れる直前で、五十騎が左右に分かれた。両翼と中軍の間にわずかに隙を作っておいた。張武は曹順の意図を察しそこから歩兵の陣形の外へと逃れ、隙は即座に閉ざされた。敵が無理に張武の騎馬隊の後を追おうとすれば、急な方向転換で疾駆の勢いを失い、歩兵の只中に取り残されることとなる。
しかし敵は、微塵も躊躇いを覗かせはしなかった。眼前から消失した張武の騎馬隊は完全に無視して、真っ直ぐ中軍を目指してくる。最良の判断だが、ずっと後を追ってきた敵の動きを完全に黙殺するというのは、なかなか出来ることではない。
百騎の先頭に二騎。ほんのわずかに先行した一方に、曹順の視線は否が応でも引き寄せられた。
上段に構えられた長剣。剣身は斜めに寝かされること無く、完全に垂直に立てられている。真っ直ぐ中天を貫こうとでもしているかのような、受けを度外視した構え。戦場において利点があるとも思えない。ただ、通常のものより長い剣が、一種異様な威を放っていた。
ぶつかった。兵の方から首を差し出している。そんな錯覚すら覚えるほど自然に、将と思しきその男の長剣は、味方の兵の首を飛ばしていく。普段の調練通り一斉に突き出される槍も、無防備に上段に構えたその身に不思議と届くことがない。何か見えない神気とでも言うべきものに、守られているとでもいうのか。
敵将の威と、疾駆してきた騎馬隊の勢いを受け止めきれず、精鋭を自負する中軍の陣形が突き崩された。はじめからそうと決められていたかのように、断ち割られていく。
中軍中央に本陣を布いていた曹順の直ぐ真横を敵将が駆け抜けていった。
まだ若い男だ。曹順と同じか、一つ二つ年下かもしれない。一点の染みもない見事な黒馬を駆っている。
完全に中軍を抜いて、敵騎馬隊が後方の原野へと躍り出た。
布陣の綻びを整える時間は与えられなかった。敵将に気を呑まれたのか、兵の動きも鈍い。取って返した騎馬隊が両断された中軍の一方、曹順の指揮から切り離された集団を蹴散らす。一千のなかでも最精鋭を集めた中軍の崩壊に、両翼の兵の動揺は明らかだった。形ばかり組まれた迎撃の陣形は、わずかひと当てで崩壊していた。
鎧袖一触。気付けば、かろうじて軍としての体裁を残しているのは、中軍に残された百五十程だけだった。立て直し不可能なところまで追い込まれている。目の前の戦況が、まるで現実感を伴わない悪い夢のように曹順には思えた。
「――――――――!!!」
獣の咆哮を思わせる雄叫びが、戦場に響いた。
張武。逃げ惑う味方歩兵をかき分け、敵将目掛け一直線に駆けている。身の丈に倍する長大な蛇矛を、片手で軽々と振り回している。敵将も、並走するもう一騎に騎兵の先導を委ね、自身は張武に向き合った。
「―――っ、張武! とまれっ!」
あの蛇矛ならば。そんな儚い望みが、一瞬曹順に制止の言葉を飲み込ませた。叫んだ時には、火のついた張武にすでにその声は届かなかった。張武の馬が疾駆し、敵将に迫る。
張武が蛇矛を振るった。敵将の上段に構えた長剣がうごめくや、蛇矛の矛先が切断されて宙を舞う。
勢いを止めることなく、張武を乗せた馬が敵将の横合いを駆け抜ける。その瞬間、長剣が跳ねるように動いた。
「張武!」
胸元から血を吹いた張武が、傾いだ身体を馬上で懸命に保とうとしているのが見て取れた。
敵将が馬首を返し、再び剣を上段に構える。
「槍を」
曹順は兵からほとんど奪い取る様に槍を受け取ると、馬を走らせた。
「―――――!!」
柄にもなく、叫んだ。
張武に向けられていた敵将の関心が、こちらへ向けられる。馬首も、こちらへ向けられた。
中天を指す剣。吸い寄せられるように身体が動いた。
馳せ違う。長剣が揺らめいて、軽々と槍が両断されていた。良馬に恵まれてさえいなければ、張武のように返す剣をこの身に受けていたことだろう。
ただの棒となった槍を捨てると、曹順は馬首を返しながら剣を抜き放った。敵もすでにこちらへ向けて駆け出している。
再び馳せ違った。今度は剣を斬り飛ばされていた。
馬首を返すも、もう取るべき得物は無い。精強と自負していた兵も、敵騎兵に追い散らされている。曹順は腰帯に結わえた紐を解き、鞘を握り締めた。
敵将が向かってくる。手にした長剣が、妖しく煌めいた。
「―――順様!!」
横合いから典斐が割って入り、曹順を守る様に戟を構えた。典斐が指揮を執る騎兵五十騎も遅れて集まってきて、曹順を囲む。
敵将は、馬を止めていた。
「臆病な」
鼻で笑って言い捨てると、馬首を巡らせる。
「貴様っ!」
追おうとする典斐を、曹順は手を取って制止した。敵将の向かう先では、敵騎馬隊が整然と居並んでいる。味方の歩兵はすでに完全に蹴散らされていた。
何か言葉を口にする気には、ならなかった。声の震えで周りの兵達に勘付かれる。握り締めた手の震えで、典斐には気付かれているだろう。典斐は何も言わずに、握り返してくれた。
敵将の言う通りだった。二度目の交錯の時、飛んだのが剣だけですんだのは覚えず腰が引けていたからだ。本当なら腕ごと飛ばされていただろう。あるいは、その鋭鋒は首筋にまで届いていたかもしれない。
「あっ」
典斐が、小さく声を漏らした。
興味を失ったという様に、敵騎馬隊が駆け去っていく。逃げ散る歩兵を追い討つつもりもないようで、のんびりとした行軍だった。味方は典斐の率いる騎馬隊五十騎を残して、ほとんど潰走に近い。
典斐の手を握る力を強めた。追いすがろうとする典斐に手を伸ばしたのは、自身を襲った恐怖だけが原因でもなかった。典斐でも勝てない。そう思ったからだ。
典斐や関靖のような一騎当千の豪の者でこそないが、曹順も剣、槍、弓といった通り一遍の武術に関しては決して人後に落ちない技量を持ち合わせている。その目から見て、単純に武のみを比べれば典斐の方が上だとも思えた。間近で目にした敵将の長剣は、技量抜群というわけでも、目にもとまらぬ速さがあるというわけでもなかった。
それでも典斐は勝てないと思った。中華の歴史上、もっとも多くの敵を己が手で撃殺した将は楚漢戦争の英雄項籍であろう。しかし、史書は彼を剣術の得手とは伝えていない。戦場で勝敗を決するのは技の良し悪しだけではないのだ。
全軍を打った敵将の威と、人を惹きつける妖しい光を放っていたあの長剣。手の震えはいつまでも治まりそうになかった。
「なるほどな。それで手も無く敗れて帰ったというわけか」
「はい」
「そうか」
曹順の報告を受けた関靖は、それだけ言うといつもと変わらぬ様子で他の者への聞き取りを続けた。
軍議の間には十八人の千人長達だけでなく、あの騎馬隊と実際に戦闘した隊の兵士や斥候の姿もあるが、いつも以上の静寂に包まれている。
曹順にも、それ以上言うべきことはなかった。完敗といっていい。救いは兵の犠牲が五十にも満たなかったことだが、これも敵が追撃にほとんど興味を示さなかったからだ。敵が首級に固執すれば、二百や三百、あるいはそれ以上の犠牲が出ていてもおかしくはなかった。
斥候の報告によると、騎馬隊は曹順の千人隊との戦闘後、国境の外へと駆け去ったらしい。結局、最後まで意図の見えない行軍であった。
軍議の終わりに、関靖がこれも常となんら変わることのない口調で告げる。
「曹順は、今回の責をもって三百人長に落とす。後で私の居室まで来い。編成を伝える」
一瞬曹順に目を止めただけで、関靖はそれきり何も言うことなく席を立った。
「あまり気に病むなよ、曹順殿。お前が勝てないという事は、ここにいる他の千人長の誰であっても勝てないということだ」
関靖が退室すると、隣の床几に腰を下ろしていた千人長が、曹順の肩を力任せに叩きながら言った。
同意するように、幾人かが頷き合っている。どれも、千人長だということ以上に覚えのある顔ばかりだ。曹順が千人長に昇格し始めてこの軍議の間に足を踏み入れた時に、こちらを強く睨み返してきた者たちだった。
「しかし、関靖将軍もずいぶんと厳しい処置を下されたものだ。それも、他にも敗走した隊はいるというのに、曹順殿ばかり」
「一千を率いて敗れたのは、私だけですから」
曹順の隊がぶつかるまでにも、巡廻の騎馬隊がいくつか敗走させられている。しかしどれも百や三百の規模だ。
「それでも曹順殿がこれまでにあげた功を考えれば、たった一度の敗戦で降格などらしくもないことだ。それだけ、期待しているということでもあろうがな」
「汚名は、すぐに返上いたします」
半分は強がりだった。それでも真っ直ぐに口にすると、千人長たちは一様に苦笑を漏らした。好意的ととってもあながち間違いではない、そんな笑みだ。
そのままの足で、曹順は関靖の居室へと向かった。訪いを告げると、すぐに入るよう促される。
「どうした? もっと、他の皆に責められるものと思っていたか?」
曹順の顔を見るや、だしぬけに関靖が言った。
「聞いていたのですか?」
「いや、たぶんそうなるだろうと思っていただけだ。そして、お前の表情が軍議の間で見たときよりも幾分晴れているようだったからな」
思わず顔に手をやった曹順を、関靖が愉快そうに見つめていた。決まり悪さを誤魔化すように、曹順は先の質問に答えた。
「……皆、俺の失敗を今か今かと待ち望んでいるものとばかり」
もちろん、そう思っている者も少なからずいるだろう。曹順の方を見ようともせずに軍議の間を去った千人長が大半なのだ。それでも、自分を認めてくれている者もいる。それは曹順にとって意外なことであった。
「お前はいままで常に私が望む通りの、いや、それ以上のものを戦場で示し続けた。結果を出しさえすれば、誰であれ認められる。それが、軍というものだ」
「はい」
話はそれだけで、関靖から特に咎めの言葉はなかった。三百人隊の編成だけが伝えられる。
訝しむ曹順に、関靖が付け加える様に言った。
「お前はこれまでが出来過ぎだったからな。このあたりで一度敗北を知っておくのも、悪い事ではない」
「そんな風に、考えることは出来ません。少なくとも今は」
「それでいい。いくら落ち込んだところで、今後も戦は続く。そのことだけ分かっていればな」
戦は続く。その言葉を胸に、関靖の居室を辞した。
軍営を歩いていると、いつの間にか典斐が寄り添ってきた。互いに言葉は無く、二人並んで兵舎の私室へ戻る。戸口前に、部屋の主の帰りを待ち受ける人影があった。
「曹順殿」
「もう動いて平気なのか?」
張武だった。傷を負ってから、まだ半日足らずしか経っていない。
「体だけは頑丈に出来ていますから」
虚勢を張っているわけでもないらしい。血を相当に失ったはずだから顔色こそ悪いが、声には張りがあった。
「そうか。だが、安静にしておくに越したことはないぞ」
「一応、曹順殿に礼を言っておこうと思いまして」
「礼?」
張武が、背筋を伸ばし威儀を正した。つられて、曹順も顎を引いて胸を張る。
「今日は曹順殿に助けに入って頂いたお蔭で、命を拾いました。ありがとうございました」
折り目正しく頭を下げる姿には、常にない名門の子弟らしさがあった。
「そのことか。まあ、俺の率いる隊で張家の嫡男に死なれてはたまらんからな」
「ひどい言い草だ。まあ、何にしても助かりました」
「気にするな。お前を助けようとしたのも事実だが、それ以上に―――」
あの剣に、あの敵将に魅せられ、気付けば駆け出していた。続く言葉は口にはしなかった。一千の兵を預かる者としては、軽率に過ぎる行動だった。
「どうかしたのか、隊長?」
「いや、何でも無い。それより、俺は千人長を降ろされた。もうお前の隊長ではない」
「伯父上が一度見舞いに顔を見せましたが、何も聞いてはおりません。一千が三百になろうとも、俺は変わらず曹順殿の副官ですよ」
「そうか」
関靖に伝えられた三百人隊の編成は、歩兵二百に騎兵百である。騎兵の数が減らされないことを不審に思ってはいたのだ。副官として張武が残るというのなら、合点がいく編成だった。
「俺はもう負けません」
張武が強い口調で言った。今回の敗戦は、騎馬隊同士のぶつかり合いで自分が敗れたからだと、そう思っているのだろう。張武の騎馬隊もまた、ほんのひと当てで崩されたのだという。
張武を敵騎馬隊に向かわせたのも曹順なら、その張武が敗走に追い込まれたと知りながらなお、敵軍を囲い込めるなどと甘く考えたのも曹順だった。全軍で堅陣を組んで当たらねばならない敵だったのだ。敗戦の責任は将にある、などと言うまでもなく、自身の策の拙さが招いた負け戦だ。
「……そうか。なら次からは必ず俺が勝たせてやる」
多くは語らず、それだけを言った。元よりこの副官の思いに報いてやる術を、他に持ち合わせてはいない。
「はい、勝ちましょう。たとえ相手が誰であろうとも」
張武の言葉に、名も知らぬあの敵将の姿が頭を過る。
「ああ」
それでも曹順は強く頷き返した。手の震えは、とうに治まっている。