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血脈 ~漢朝五百年~  作者: 菊池竹光
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第五話 若き虎

「千人長、お相手願えないでしょうか?」


 巡廻を終え軍営に戻ると、張武は曹順に駆け寄り言った。吐いた息が白くたゆたい、消えていく。季節は冬になっていた。

 手には棒が一本握られている。張家の者は皆、開祖にならって長大な蛇矛を使う。その代りだ。

 洛陽から戻ってすぐに、曹順の副官をするように関靖から命じられた。

 王真や黄礼ら将軍の下に付けられたことはあっても、千人長の下というのは初めての事だった。そのこと自体は、何か考えあってのことだと思えば、納得することは出来る。ただ、少し前に同い年で兄弟同然に育った関安が、父の元で千人長にあがっている。そして張武が付けられたのは、あの曹順の下である。

 先任の副官である典斐の下という形でもあるが、それはあまり気にはならなかった。

 典斐には、調練で一度打ち据えられている。寡黙で、いつも目深にかぶった兜のせいで表情も読み取れないが、強いということはそれだけで軍人として信頼に足る証だと、張武は思っていた。

 それが幼稚な考えだということはわかっている。しかし父も、義理の伯父である関靖も、張武の知る優れた軍人たちはみな強い。


「張武。……わかった、付き合おう」


 曹順は一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに軽い調子で頷き返した。

 副官となる前は、ほとんど言葉を交わしたことは無かった。それでも、張武殿と、そう呼ばれていたはずだ。副官になるや、露骨に呼び方を変えている。関家軍で張武をそう呼ぶ者は他に関靖だけで、王真や黄礼でさえ呼び捨てにはしない。

 軍営の中心、広く開けた場所へ二人は足を進めた。数人の兵や校尉が、思い思いに得物を振るっている。関靖が従者に武術の手ほどきをするのがこの広場で、自然と練武場という様相を呈しているのだ。広場を囲むように槍や剣の代わりとなる長短様々な棒も備えられている。

 曹順はその中から短めの一本を選んで、何度か振った。満足がいったのか、そのままそれを持って張武の元へとゆっくりと歩み寄る。

 対峙した。兵達が、張武と曹順を認めて集まってくる。見物人で人垣が出来上がるまで、そう時間は掛からなかった。

 一番前、その気になればいつでも割って入れる位置に、いつの間にか典斐が陣取っている。兜のせいで、やはり表情はうかがえない。


「二本先取した方の勝ちってことでいいか?」


「はい」


 曹順は右手で棒の根元を持って、先端を張武に向け半身に構えた。剣の代わりということらしい。

 張武も、持参した棒を構えた。錬武場に備えられているものより長く、太い。

 十七になったばかりの張武よりも、曹順の身体は小さかった。もっとも、張武は同年代の者と比べれば一回りも大きく、すでに大人と変わらぬ体格だ。恵まれた身体は、父や祖父、そして開祖譲りのものである。

 曹順はぎゅっと引き絞る様に小さく構え、その小柄な体のほとんどをこちらへ向けた剣の影に隠した。隙というようなものは、そこからはうかがえない。

 構わず、張武は蛇矛を振るった。長大な蛇矛は、相手の隙の有無など関係なく、その間合いの外から強烈な一撃を見舞うことが出来る。曹順は、棒で受けるというようなことはせず、一歩退いてそれを避けた。それで正解だった。片手で、いや、両手に持ち替えたところで、柄という一点で支えざるを得ない剣では、張武の蛇矛を止めることは出来ない。

 曹順が下がった分、張武は一歩足を進めると次なる一撃を放った。それも、曹順は一歩下がって避ける。張武が追い縋る。二人に合わせて、人垣の兵も動いていく。

 曹順の身ごなしは悪くはなかった。しかし前進する張武と、後退する曹順。人は前に進む方が当然速い。相手からの反撃を想定しなければならない場合はその限りではないが、張武は剣では容易に攻撃に転じ得ない遠間から蛇矛を振るっているのだ。


「―――くっ」


 結果は必然だった。避け切れず受けにきた剣―――棒を押し遣り、首筋に刃が触れたところで張武は蛇矛―――棒を引いた。


「まずは一本。俺の勝ちですね」


「……ああ」


 二本目も、展開は同じだった。思う様、張武は曹順を攻め立てた。

 じりじりと間合いが詰まっていく。横薙ぎの一撃。曹順は、ほとんど身を倒すようにして避けた。だが、それでは後が続かない。

 横薙ぎの勢いそのままに、半円を描くように蛇矛を返す。振り下ろした蛇矛が曹順に届く直前、わき腹に軽い衝撃が走った。


「俺の勝ちだな」


「まあ、戦場では得物を投げるのも有りですね」


 蛇矛より早く、曹順の投げ放った剣が張武の身を撃っていた。しっかりと具足の隙間に当たってもいる。棒ではなく本物の剣であれば、浅くはない傷を負ったはずだ。

 だが、二度通じる手ではない。油断さえしなければ、まず負けることのない相手だった。それは、先の二本で確信したことだ。

 三本目。やはり張武が攻め立てる展開は変わらず。しかし今度は投擲への警戒から、わずかに踏み込む張武の足が鈍った。間合いが詰まらない。

 曹順の足が、何かにつまずくように乱れた。張武の身体は自然に動いていた。

 誘われたか。一瞬、頭をよぎった。正中線を抜く、斬り降ろしの一撃。もう身体が止まらなかった。誘いだとして何が出来る、という思いもある。

 曹順が、頭上に剣を掲げた。横に寝かせて、受けの構え。だが、それで受け切れるものではない。

 木と木がぶつかる音。予想よりずっと強い反動。


「なっ!」


 曹順の右手が柄を、そして左手が剣の切先―――否、棒のもう一方の先端を、握り締めていた。二点でしっかりと棒を支え、張武の一撃を受け切っていた。そのまま張武の蛇矛―――棒を滑らせるようにして掻い潜り、曹順が間合いを詰めてくる。

 咄嗟に飛び退いた張武の額を、こつんと、曹順の棒の先が軽く打った。


「これで二本」


「……その棒、剣だったのでは?」


「何を言っている、棒は棒だろう」


「そうではなく」


「ああ、そういうことか。槍の代わりのつもりだったのだが、短すぎて分らなかったか?」


「そんなっ」


「では、俺は勝ち逃げさせてもらおう」


 言うと、曹順はさっと身をひるがえして、人垣の中に消えた。


「曹順殿!」


 広場を出て営舎の近くまで戻ったところで、張武はようやく曹順の姿を捕まえた。典斐も、いつの間にか寄り添っている。


「なんだ、張武。まだ何か?」


「納得がいきません」


「負けたことが認められないのか?」


「……いえ、負けは負けです。ですが、ぜひもう一手お相手願いたい」


「実力差がわからないような腕ではあるまい」


「それはっ」


 実力では俺の方が上だ。言い掛けた言葉を張武は呑みこんだ。なんにしても、いま負けたばかりなのだ。


「そうだ。実力ではお前の方がずっと上だ」


 それでも表情には出てしまっていたのか、曹順は大きく頷くと、至極あっさりと言ってのけた。

 思わず絶句する張武をよそに、曹順が続けた。


「それだけわかっているなら、これ以上手合わせをする必要もあるまい。お前は強いが、今回の勝負は俺の勝ちだ。そして、さっきも言った通り勝ち逃げさせてもらう」


 言い残して、曹順は背を向けた。典斐が申し訳なさそうに一礼すると、それに続いた。


「……くそっ、いやな奴だ」


 二人が見えなくなっても、しばらく張武は虚空を睨み続けた。






 翌日の巡廻は、雪の降りしきる中となった。雪が視界を遮り、音も吸収してしまうのか、周囲の状況は判然としない。

 厳寒の中でも、異民族の侵入が休まることはなかった。むしろ、冬のために蓄えられた食料を狙ってか、小規模な軍勢での村落への襲撃は増えているぐらいだった。

 考えてみれば当然のことで、ここよりさらに北の大地で、伝統的に農耕をほとんど行わない民族なのだ。冬は、漢朝の北辺などよりもずっと厳しい生活を強いられているのだろう。

 小隊規模で村を襲って、奪うものを奪ってすぐに引き上げていく。そんな敵への対策として行われているのが、この巡廻である。

 北方五里の地点に、敵騎馬隊一千二百。斥侯からもたらされた情報に、張武は思わず息を呑んだ。

 曹順の斥候の放ち方は、ほとんど執拗と言っていいものだった。少なくとも関靖や他の将軍達よりも、ずっと細かい。それで百人単位の敵小隊三つを同時に捕捉し、まとめて国境外に追い遣るように進軍中の事だった。

 国境間際で、三隊はさらに他の隊とも合流して、一千二百の軍勢にまで膨れ上がったようだ。

 曹順は、とても千人長になって日の浅い新人校尉とは思えない落ち着き払った様子で、兵に素早く命令を下していく。

 こちらは、歩兵中心の一千。しかし曹順に救援を呼ぼうという気はないようで、先程から飛ばしている指令も戦闘のためのものばかりだった。


「張武」


「―――っ、はっ!」


 呼ばれて、張武は慌てて曹順の元へ馬を寄せた。


「お前には、騎馬隊の全てを預ける」


 言って、曹順は張武に対しても指令を告げた。歩兵九百を囮とした奇襲の逆落しで、一千二百騎に当たれと言うものだ。そのための地形も、すでに曹順の頭の中にはあるようだ。


「それは―――」


「どうした、お前には無理か?」


「……救援は、呼ばれないのですか?」


「ああ」


「何故です? 敵は騎兵ばかりで、我らより数も上です。それほどまでに功を挙げたいのですか?」


「勝算は立っている。だから援軍は必要ない。―――それに、功を欲しない軍人がどこにいる?」


 明け透けな物言いが、張武にそれ以上の反駁を許さなかった。

 張武のさまよわせた視線が、もう一人の副官の、兜でしかとは窺うことの出来ない顔の上で、ほんの一瞬だけ留まった。


「お前の蛇矛も俺の勝算のひとつだが、もし無理だと言うのなら、典斐に代わってもらうとしよう」


 見透かしたような事を、曹順が言う。張武の答えは、それで決まった。






 小高い丘の上で、張武はその時が来るのを待ち受けた。自分の鼓動が耳にうるさいほどに、ひどく気持ちが高ぶっていた。

 丘上の伏兵に気付いた様子もなく、眼下では敵騎馬隊が曹順の歩兵部隊にぶつかっていく。

 曹順の用兵はやはり巧みだった。

 敵騎馬隊がぶつかるや、方円が自然な動きで両翼を伸ばし、鶴翼の構えに移行している。そして両翼の軍は敵騎馬隊を受け流して、ほとんど犠牲は出してはいない。その分、中軍に千二百騎が殺到することになるが、騎兵同士が押し合うことで勢いはかなり失われている。

 中軍には三百人隊の頃からその指揮下にあった、言うなれば曹順隊の精鋭が集まっている。加えて、最前線で典斐が戟を振るい、曹順自身も前面に出て兵を鼓舞しているようだ。一歩も退かずという奮戦が展開されている。

 だが、やはり多勢に無勢だ。百騎の逆落としで、どれだけ敵騎馬隊を崩せるか。勝敗は張武の手に握られていた。

 実戦で勝負を左右するような任務を与えられたのは初めてのことだ。

 関靖は他の従者と区別しないが、それだけに実戦で重要な局面を任されることはなかった。

 王真や黄礼の元では、勝ち戦と決まった後に申し訳程度に兵を動かすだけである。なかば諦めるような思いで、張武はそれに従っていた。自分は張家軍の張文将軍の息子なのだ。誰がそれを危地に送り込むことが出来よう。

 調練では、万に達する軍と対峙したこともあった。いまは、眼下の千二百騎がこれまで見たこともないような大軍に見える。

 甘やかされてきたのか。自分にだけは特別に厳しいと思えた関靖からも、他の将軍とは別のやり方で護られてきたのか。

 遠目に、曹順がこちらを見た。そして嗤った。気付けば、雪が止み視界が開けていた。

 曹順の見透かすような瞳と、視線が交錯する。

 やってやる。蛇矛が中天を指した。


「全軍、突撃!」


 張武は、戦場へ向けて蛇矛を振り下ろした。






「――――!! ―――――――!! ――――――――――――!!!」


 張武が再び蛇矛を天に掲げると、あちこちから勝ち鬨が上がった。

 百騎余りを討ち取り、二百騎を捕らえるという大勝だった。

 張武の逆落としで敵軍が分断されるや、両翼をたたんで速やかに敵前線が包囲された。残された敵軍も曹順の鶴翼に一度足を止められ、騎馬隊の強みである機動力をほとんど失っている。取って返す張武の騎馬隊を前に面白いように崩れた。


「関靖将軍に伝令を」


 曹順が、騎兵のうちの一騎を選んで関家軍の軍営へと走らせた。ここにきての、派兵の申し入れである。

 張武の追い散らした敵騎兵は、歩兵のさりげない動きによってその大半が北方、国境外へと向けて駆け去っていた。派兵は逆襲を警戒しての国境線の防備強化と、付近の村落の警備のためのものだ。同時に、自分達はその退屈な任務に就くつもりはないという様に、虜囚を護送しつつの帰還を報告している。つくづく、抜け目のない男だった。

 張武の視線に気付いたのか、曹順が顔を上げた。


「見事だった、張武。わずか百騎が、五百とも千とも見えたぞ」


 呼び捨てられた名が、いまは不思議と不快ではなかった。張家軍の張武ではなく、ただ自分の副官として扱っている。一個の軍人と軍人でしかないということだ。


「これでまた武功を重ねられましたね、千人長」


「ああ。お前のお蔭でもある。感謝する」


 臆面もなく返した曹順が、眩しそうに目を細めた。

 いつの間にか雲が晴れ、日が射していた。何か別のものも晴れた。張武のいまだ高揚する胸に、そんな思いがよぎった。




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