第四話 至尊の人
「久しぶりだな、兄貴」
「ああ、久しいな、張文」
酒甕を片手に張文が姿を現したのは、関靖が洛陽に到着した翌日の事である。
関靖は馴染まない屋敷の、客間へと張文を案内した。幼少の頃より戦地を駆け回ってきた。一族の開祖が興武帝より下賜されたというこの屋敷で暮らした記憶はほとんどない。
「陛下へはもう伺候したか?」
「ああ、昨日旅塵を払ってすぐに。ただ、早く着き過ぎた様で具体的な話は何も聞いてはいない。使いの者を送る故、改めて参内せよと」
至急洛陽へ上れ、との帝の言葉が軍営に届けられたのは十日前のことであった。
雍州の州都である長安から洛陽までは、通常の行軍で一月、騎馬隊だけでも半月ほどは掛かる。関家軍の駐屯地は長安よりも国境寄りに築かれた軍営で、洛陽からはさらに距離を置いた位置にある。関靖は供回りのわずか二十騎ばかりを伴い、それを実質八日で踏破していた。帝や文官達の想定よりもずっと早い到着となったようだ。
「劉進殿も呼ばれているという話だからな。さすがに涼州からはそう早くは着かねえだろう。もう御高齢でもあるし」
張文が酒を煽りながら言った。普段はさすがに年相応の落ち着きを備えているが、義兄弟の二人が相手となると途端にその口調は悪童のそれになる。
「兄貴、大兄貴には会っているか?」
「いや、ここしばらくは会えていないな」
普段洛陽に詰めている張文には、関靖以上に会う機会は無いのだろう。
領国を下賜された王でも、封地の運営は他の者に任せて自身は洛陽に残るのが普通だ。が、蜀王である劉玄はほとんど益州に篭るようにして自ら国を治めていた。
それは先々代の蜀王、つまり彼の英雄の息子にして初代の蜀王にあたる人物からの伝統だった。中原からは連絡を取り難い土地をしかと治めるため、というのが表向きの理由であるが、当時の実情はやや異なるものもあったらしい。
興武帝が王朝の実権を取り戻した当時、左右を支え得る譜代の家臣というものはほとんど失われていた。漢室への忠義を尽くした者は弑逆され、周囲には力無き者や逆賊に阿り生き長らえた者だけが残されていたのだ。
代わって興武帝を補佐することになったのが、彼の英雄と共に漢室再興のため奮戦した者達だった。軍は関家張家を筆頭にまとめられ、政もまた彼の人を補佐した文官達が中心とならざるを得なかった。彼らの元々の主家であり、かつまた漢王室の血をも引く人間がいつまでも政の中心近くにいるというのは色々と不都合が多かったのだ。
「そうか。雍州も最近はかなり騒がしいようだし、仕方ないか」
「ああ、最後に会ったのは、二年ほども前になるか」
雍州から南下すれば、すぐに益州である。異民族の侵攻が今ほど頻繁ではなかった頃には、行軍の訓練も兼ねて一千ほどの兵を率いて訪ねることもあった。益州との州境は天然の要害と言って良く、進軍するだけで相当な調練となるのだ。特に関家軍は普段異民族との原野戦が多い。山岳地帯の行軍は得難い経験となった。
「―――そういえば兄貴、曹姓の男を使っているのだって?」
酒を酌み交わしながら義兄劉玄の事、洛陽の武官達の事、雍州での戦の事をひとしきり話し、話題も尽きかけた頃、思い出したように張文が言った。
「ほう、もうお前の耳まで届いたか」
言いつつも、問われるだろうことは関靖も予想していた。
昨夜帝への伺候を終え屋敷に戻るや、張文の元で校尉をしている嫡男の関安からも同じ事を問われていた。曹順と同じく一千の長になったというから、気に掛かるのも無理はない。
関安は張武より数カ月早く生まれただけの同い年で、まだ二十にもなってはいない。千人長は早過ぎるとも思ったが、張文がそう定めた以上その力はあるということなのだろう。
「そりゃあな。随分派手に使っているという話じゃあないか。それに、昨夜屋敷に戻った武が、ぼやいていやがったしな」
連れて来た二十騎の従者の中には、張武も含まれていた。普段は食事も寝る場所も他の者と差をつけることなどしないし、調練では人一倍厳しいものを課しているが、上洛中は張家の屋敷に戻ることを許している。
「そうか。……やはり曹姓が気になるのか?」
「いや、兄貴が認めたというのならそれだけのものを持っているということなんだろう。実力があるなら使うべきだとは俺も思うが」
千人長に上げて直ぐに、難しい戦を求めた。
副官を置いていない関靖は、普段なら旗下の将軍である王真か黄礼に兵を出させるところだ。それを昇進したばかりの千人長に過ぎない男に任せた。そして曹順は関靖の望む通りの戦場を作り上げた。ただでさえ目立っていたものが、それでさらに注目を集めることとなったようだ。他所の軍に評判が広がるのも当然だろう。
その後も二度異民族との小競り合いがあって、曹順はその度に関靖の要求に答え続けている。その軍略が極めて高い水準にある事はもはや疑いようもなかった。
「あまり案ずるな、張文」
気遣わしげな張文の視線に、関靖は強く頷き返した。
玉座の間には、主だった武官と文官が全て集められていた。今日こうして集められた理由を知る者は皆無なようで、小声で探る様な会話が其処彼処から聞こえてくる。
「劉進殿、お久しぶりです」
武官の集団の中に見知った顔を見つけ、関靖は声をかけた。
涼州の軍権を一手に担う驍将劉進。興武帝の庶子から出た家の二代目。つまり、興武帝の孫で今上帝の大叔父であった。興武帝の生前を知る数少ない軍人の一人でもある。
興武の諡号を送られた祖父の血を色濃く受け継いでおり、関家張家の二大武門の当主を抑え、官軍第一の将軍と目されていた。血筋から言えば、中央での栄達も望むがままであろうに、齢六十に迫ろうという今なお辺境にして最前線である涼州に居座り続ける、戦の鬼といっていい。
今日の参内は、劉進の入洛に合わせてのものだろう。
期日を定めずに急に呼び出すというのは、今の帝になってからは稀にある事だった。地方軍が、どれだけ早く自分の命令に反応出来るか。それを試そうというのだろう。
涼州は雍州よりさらに西の果ての地域である。劉進の到着は関靖や張文の予想よりずっと早かった。関靖の到着から数日しか経ってはいないのだ。関靖と変わらぬ速度で、それ以上の距離を行軍してきたということになる。戦の鬼は、未だ健在であった。
「関靖に張文か。……そうして二人並んでいると、御父上方を思い出すな」
言って、劉進が目を細めた。
関靖と張文の父、そして現蜀王劉玄の父も、義兄弟の契りを結んでいた。劉進はその三人とは同世代に当たる。
「過去に思いを馳せるとは、劉進将軍も年を取られましたか?」
張文が茶化すように言った。
劉進にその様な口を利けるのは、張文くらいのものであろう。王族であり、かつての上官でもある。関靖と張文は、劉進の元で軍略を習い覚えたと言っても良い。かつて厳しくも可愛がられたという思いからか、口調こそ丁寧だが張文の態度には自分達義兄に向けるのに似た気安さがある。
「はははっ、小僧がぬかしおるわ!」
劉進が笑声を放った。光武帝の言葉を借りるなら、まさに矍鑠たる姿である。張文を小僧扱い出来るような軍人も、やはり劉進ぐらいのものだ。
言い返そうとする張文を遮る様に、先触れの宦官の声が響いた。ほとんど同時に、今上帝劉昭が姿を現した。
朝議では、涼州での異民族の動きが少ないこの機に、劉進を洛陽に呼び戻し人臣の最高位三公の一つ、軍事を司る大尉に就かせたいという帝の意向が明かされていた。現職の大尉はすでに高齢であり、公務はほとんど若い者に任せきりとなっている。本人も、引退を考えているという。
劉進は帝の顔を立て、未だ前線に在りたいとだけを口にした。帝もその答えを予見していたのだろう、それ以上固辞することは無かった。
今後の異民族との攻防に関わる重要な案件ではある。しかし、今まさに異民族に絶えず侵され続けている雍州から自身を呼び戻すほどのことだろうか。関靖の胸に幾分不可解なものを残しつつも、平穏の内に朝議は終わりを告げた。
「関靖様、張文様、こちらへ」
朝議の後に宦官に連れられて来たのは、宮殿内の帝の私室のひとつのようだった。
あまり広いとは言えない室内のほとんどを占有している大卓には、兵法書や地図が無造作に広げられ、壁には剣や槍が掛けられている。それも、王族が携える様な華美な装飾が施されたものではなく、武骨な実戦本位のものばかりである。わざとらしいぐらいに、軍人の部屋を意識した造りだ。
室内には関靖と張文の他に、劉進、文官の筆頭として賈尹、若手の将軍の中では最近特に名を聞く馬勝の三人がいるだけだ。
「曹姓の者を使っているらしいな、関靖」
劉進が宮殿の一室にあることなどまるで感じさせない、すっかり寛いだ調子で言った。宮中は皇族の劉進にとっては、かつて自身が住んだ場所でもあるのだ。
「ええ、使える男ですので」
「ほう」
「私の息子も、調練で早々にやられたらしいです」
張文が脇から言った。
身内の恥ともいえることをあえて明かしたのは、曹順の優秀さを示すことで関靖に対する要らぬ追求を封じるためだろう。この義弟は粗野に見えて、気を回し過ぎる様な所もあった。
「お主の息子をか。なら、その曹某とやらは若い時分のお主よりもずいぶん上ということになるのかな?」
「それは―――」
「ははっ、妙な気を使うでない。儂がそれで関靖を責めるとでも思うたか?」
絶句した張文を笑い飛ばすと、劉進は真剣な目を関靖へ向けた。
「で、戦は強いのか?」
「若さに似ぬ巧みな戦をします。十二分に試してきましたが、若い者の中で彼と同じだけの働きが出来る者を私は知りません」
「関靖将軍がそこまで言われるほどのものですか?」
馬勝が口を挟んだ。
若い者の中では一番と言いたげな関靖の言い方に思うところがあったのか、珍しく語気が強い。馬勝も、まだ三十にはなっていない。帝のお気に入りで、勤勉で誠実な人柄は将兵からの信頼も厚い。ただ、いくらか軽佻なものを関靖はこの若い軍人から感じてもいた。しかし、こうして敵愾心を露わとしている様子は好ましくも思える。
「少なくとも私があの年の頃は、あれほどの用兵は出来なかったな」
多少持ち上げ過ぎな気もしたが、こと“巧さ”という点においては、間違ったことを言っているつもりはなかった。同時に戦の強さは、巧拙だけで決まるものではないこともまた事実である。
「……そうですか」
考え込むように、馬勝が口をつぐんだ。
この男の用兵も悪くはないのだ。実戦を共にしたことこそないが、調練を目にしたことは幾度もあった。曹順と同じく、用兵は巧い。ただ曹順にはある巧さの中にも果敢なところが、馬勝には欠いていた。
「ところで、今日の話。劉進将軍はやはりお受けになるおつもりはありませんか? 軍部のまとめ役として将軍が洛陽に居られると言うのは、今の官軍の在るべき姿という気もしますが」
話題を変える様に、賈尹がはじめて口を開いた。
元々口数の多い男だが、曹順の話題には口を挟みにくかったのだろう。賈家の祖は、元を糺せば彼の曹賊を補佐した側の人間なのだ。ある意味寝返ったという形で漢室に臣従し、その後は興武帝の功臣の一人に数えられるほどの働きを見せることとなるが、市井を賑わせる芝居や講談などでは悪役扱いされる事の多い人物だ。
そのこともあってか、賈尹自身も人望というものには無縁の男であった。そしてそれを逆に開き直った様なところがあって、帝に対しても諫言を辞さないし、時に辛辣な言葉をも吐く。それでもまだ年若い帝が、この男を煙たがる事無くそば近くに置いている。帝の器量もあるが、関靖などには理解出来ないような処世術を賈尹が身につけてもいるのだろう。何にしても、帝のそばにこの男がいることは悪い事ではない。
「体が動くうちは、戦場を離れるつもりは無いな」
「良い話だと思いますが」
賈尹の考えを押すように、張文が口を挟んだ。
「お主の考えは読めているぞ、張文。儂が抜けた涼州を狙っているのだろうが」
「そ、そのようなことは」
「お主には悪いが、まだまだ前線は譲れん」
「……わかりましたよ」
溜息まじりに張文が返す。関靖も、義弟に悪いとは思いながらも前線を譲るつもりは無かった。
特に話し合ったことなどないが、今の官軍で実力も経験も抜きん出、互いに信頼出来る将軍三人―――劉進、関靖、張文―――のうち一人ぐらいは洛陽にあるべきだと言うのは共通した思いだろう。関靖や劉進が地方軍として存分に働けるのも、中央に張文が居てくれるからというところがある。それは別に中央での政争や反乱を恐れているなどということではなく、本陣を無防備に曝したくないという軍人の本能に近い思いだ。
「盛り上がっているな」
先触れも無く、帝が室内に姿を現していた。庶民が着る様な平服に着替え、冠も外して代わりに頭巾を巻いている。
「この部屋では堅苦しい礼は良い」
一斉に平伏しようとする皆を制すると、帝はどっかと腰を下ろした。
「それで陛下。このようなところに我らを集め、一体何事ですかな? 先程の話なれば、いくら説得されたところで無駄ですぞ」
先手を制するように劉進が言うと、帝は苦笑交じりに口を開いた。
「わかっている、大叔父。あの話も朕の本心ではあるが、大叔父と関靖をわざわざ洛陽まで呼び寄せたのは、また別件あってのことだ。皆の、特に二人の意見を聞かせて欲しい」
帝はそこで一旦言葉を切ると、全員の顔をひとしきり見遣り、意を決したように言った。
「朕は、北伐の軍を起こそうと考えている」
「―――っ」
当惑する皆を置き去りにして、続いて明かされた帝の考えは今の専守防衛という形を捨て、逆に長城を超え国境の外に討って出る。異民族を斬り従える事で、雍涼二州を安堵する。そのようなものであった。
「大叔父、関靖。異民族と戦い続けて来た経験から、意見してくれ」
「すぐに、という事でしたら難しいです」
劉進が言った。関靖も、小さく頷いて劉進の考えに賛同の意を表した。
長城より北、漢王朝にとって未開の地へ攻め入るというのは、かの曹賊が行って以来の事だった。軍人として心躍るものはあるが、直ぐに賛成というわけにもいかない話なのだ。
確かに侵攻してきた敵軍は、これまでことごとく討ち払ってきている。だが、それもこちらに地の利があっての話である。幾度討ち払っても侵攻を繰り返す異民族達の地力には侮れないものがある。長城を北に抜ければ当面の標的は鮮卑族ということになるの“だろう”が、それすらも明言出来ないほどにこちらは敵勢力も、その地勢もろくに把握出来てはいないのだ。
劉進が、現状での遠征の無謀を静かに言い募った。それは関靖の考えとほとんど相違ないものだ。
「大叔父を大将軍職に就け、全権を与える。それでも北伐は無謀か?」
大将軍。大尉のさらに上の軍権を持つ、最上位の将軍職である。
元々は臨時の役職であったが、前漢の武帝の御代に活躍した大将軍衛青以降は常の役に近い扱いとなった。後に帝の外戚に与えられるという慣習が出来上がり、それが彼の大乱を引き起こす国の乱れの元凶の一つとなる。その経緯から興武帝に廃され、以来その地位に就いた者はいない。あるいは今回断ると承知で劉進に大尉の地位を薦めたのは、大将軍職復活のための帝の布石だったのかもしれない。
「……陛下も人が悪くなられた」
苦笑交じりに劉進が漏らす。
それも当然で、これは劉進に対する挑発と言って良いものだった。異民族討伐と大将軍の組み合わせは、どうしても前漢の名将衛青を想起させる。
高祖劉邦が冒頓単于に大敗を喫してより、漢朝は長らく匈奴の下風に立たされ続けた。それを払拭したのが、七代皇帝劉徹―――武帝に重用された衛青と、その甥の霍去病である。つまり衛青は、異民族相手の戦で勝ちに勝った将軍なのだ。
衛青が如き武功を示せるか。帝は劉進にそう問い掛けているのだった。
「北伐が成るならば、官軍を大叔父の自由に使ってもらって良い」
帝が繰り返し言った。
二十を超えたばかりのはずだ。若く、才気に満ち溢れている。何か大きな事績を残したいと思うのも、無理からぬことでもあった。
「帰順した異民族の者の中から信頼出来る者を選出し、正確な地形図と、敵兵力を把握すること。主力部隊とは別に、大規模な補給部隊を組織すること。遠征に際しては関靖と張文のどちらかを副将とすること。まずはこの三つですな」
「それは、大叔父が大将軍の地位に就けば容易い事だ。関靖と張文、どちらかなどと言わず双方を左右に就ければ良い。我が国最高の戦力で当たるのだ。……それで、北伐は成るな?」
「出来ぬとは、私の口からは申せませんな」
「ならば、すぐにも―――」
「お待ちください」
熱に浮かされたような帝の声を遮ったのは、賈尹の硬質な響きだった。
「国庫を預かる身として言わせて頂きます。すぐに遠征というのはお止め頂きたい」
「銭倉も米倉も満ちておろうが」
「それはあくまで非常時の蓄え。こちらから戦を為すということでしたら、別に備えねばなりません」
「……それで、その備えにはどれ程掛かる?」
苛立たしげに、帝が聞き返す。賈尹はそれをまるで意に介さない様子で、劉進に目をやった。
「劉進将軍、遠征にはいかほどの兵力をお考えか?」
「ふむ。敵勢力を把握するまで憶測でものを言いたくは無いが。一度の遠征である程度の成果を求めるというのであれば、まずは儂の旗下から一万。関靖、張文の軍からも精鋭を一万ずつ。それを中核として他に五万。それとは別に補給部隊が二万。まずはそんなところか」
言って、劉進は関靖に視線を向けてきた。
「私もそれで良いかと。ただ叩くというだけなら劉進殿と私達の三万だけでも十分ですが、臣従を目的としている以上、敵領内でのしばしの駐屯も考えねばなりません。寡兵では危ういでしょう」
「駐屯ですか。期間はどれ程になるでしょうか?」
賈尹が、質問の矛先を関靖へ向けた。
「そればかりは、実際にやってみない事には。敵が本気でぶつかって来るようなら一度の決戦で終りということも考えられますが、中華の民とは違い土地に縛られるということのない者達です。我らが自領に踏みと止まろうと気にも留めずに、持久戦の構えを取る可能性もあります。そうなれば、年を跨いでの長期戦もあり得ましょう」
「なるほど」
ひとしきり頷くと、賈尹は口を閉ざして考え込み始めた。
「……わかりました。二年後の麦秋を目途に、十万の兵が一年の遠征に耐え得るだけの準備を整えましょう。それならば問題無く集まります。もちろん正確な兵力が定まれば、遠征可能な期間は増減する事となりますが」
「二年か」
帝が不服そうに溢した。
関靖の隣では、劉進が小さく感嘆の声を漏らした。帝はなおも不満気だが、関靖も感心する思いだった。
蓄えに手を出さず、それだけの兵糧を集められる。それも口振りからして、民からの無理な徴発も賈尹の考えには無いようだ。彼の大乱で疲弊しきったこの国も、興武帝から数えて四代目、今上帝劉昭の御代において本来の国力を取り戻したと言って良さそうだ。
「それともう一点ございます」
「なんだ?」
「御親征を、考えてはおりませぬな?」
「っ!」
帝が呻くような声を上げた。
「なりませぬぞ」
帝が何か口にする前に、賈尹が強い口調で釘を刺す。
興武帝の血なのか、今の帝には必要以上に戦場に出たがるというところがあった。関靖と張文が左右を支えるという形で、初陣もすでに経験している。帰順した異民族の小規模な反乱に過ぎなかったが、軍の動かし方は見事と言っていいものだった。
ただ外征にまで赴こうというのは、関靖の想像を超えたところにあった。
「兵を戦場に駆り立て、自身は宮中深く籠っていろと言うのか。俺は、興武帝の裔ぞ」
ほとんど睨むように、帝が賈尹を見据えた。賈尹も一歩も引かずに、見つめ返している。室内に、沈黙が流れた。
「……どうしても戦に出たいというのでしたら、まず先にやって頂かなくてはならぬ事がございます」
折れたのは賈尹が先だった。促すように、帝が顎をしゃくった。
「子をなされませ」
「―――っ、はっ、はっはっはっ!」
一瞬の間を挟んで、帝は弾かれたように哄笑した。
「……不敬を申しました」
帝に男児は居らず、太子は定まってはいなかった。つまり帝が戦に倒れた場合の事を、賈尹は言ったのだ。帝が戦に出るというなら、軍人が守れば良いのだ。だが、賈尹のような考えもまた必要である事は、関靖も理解している。
「良い。お前のそういうところが朕は気にいっている。精々励ませてもらうとしよう」
不興を恐れずさらりと言ってのけた賈尹も流石なら、それを受けた帝もやはり名君の素質を生まれ持っている。
諫言を辞さぬ文官に、英邁な若き君主。漢朝は安泰だと、関靖にはそう思えた。
雍州の軍営に向けて、馬を走らせていた。
二十騎の従者のうち、五騎ずつを順繰りに斥候に出している。異民族がここまで深く入り込んでくる事はまず無いが、それも訓練の内だった。
従者には、武官の家に生まれて軍人として一流の教育を受けた者もいれば、一般の兵の中から引き抜いて関靖自らが軍略を叩き込んでいる者もいる。関家軍の校尉候補でもあるのだ。
曹順の様に実戦の中から功を重ねて校尉となる者もいるが、決して多くは無い。千人長ともなると、曹順を除けば皆無であった。兵の指揮は、ただ実戦を重ねるだけで身につくというものでもないのだ。
五騎の斥候が戻って来て、代表として張武が報告を始めた。全て異常無し。張武には、多少倦んでいる気配もあった。
張文の嫡子である張武は、校尉候補などというものではなかった。いずれは将軍として、張家軍を率いる身なのだ。
「―――伯父上?」
報告を聞き終えても自身の面上に視線を留めたままの関靖に、張武が訝しんだ表情で呼び掛ける。
「……ああ。次の隊、進発せよ」
五騎が駆け出して行く。いずれもまだ若く、馬の駆けさせ方も不必要なほど猛々しい。
二年後の麦秋。それまでに、若い者がどれ程育ってくるのか。関靖はまだ見ぬ戦場に思いを馳せた。