アリスの記憶
「ダークミスト」
私から距離を取った男の声に、私は咄嗟に何も出来ずにいました。男の作り出した霧に私は覆われます。
徐々に濃くなっていく霧の中で私の中には焦りが生まれていました。
ダークミスト。男が放った魔法は精神魔法として、相手の精神を蝕むことで有名です。
ほとんどの場合、そのデメリットによって嫌厭される魔法ですが、男の場合はそれを踏まえても私の心を壊しに来ることに重点を置いているようでした。
私は無我夢中で、意味がないのに辺りに広がる霧を剣で切っていきました。この時の私は冷静さにかけており、とにかく霧の中から出ることにしか意識が向いていません。
そのため、周りがもう完全に闇に覆われたことも、音が聞こえないことにも気づくのが遅れました。
「いけませんよアリス様。そんな風に剣を振っては」
男の、あの人の声だけが私の耳にははっきりと聞こえてきます。
「黙りなさい!!あなたはあの人じゃない!」
「なに言ってるんですか?僕は僕です。忘れてしまったんですか?ニコラスですよ」
「違います!ニコラスは、ニコラスはあの時死んだんです!!ここにいるはずが……」
私の剣が鈍っていきます。
男のあの人の声を借りて語っている言葉によって。
「私はアリス様が大好きでしたから。だからこうして会いに来たんじゃないですか。剣を振るのをやめて、こちらを見ていただけませんか?」
私はその声に従うことなく、鈍った剣をさらに振り続けました。
男の言葉に惑わされてはいけません。こう言っているのはあの男であり、ニコラスではないのですから。
「アリス様は成長しても頑固なところは変わっていませんね。それが知れたことは嬉しいことですが」
私の剣が唐突に止まりました。
まるで本当に近くにニコラスがいるかのように、剣が誰かに掴まれた感覚に襲われました。
これがダークミストの効果だとも分からずに、私は驚いて顔を上げてしまいます。
「やはり、アリス様に怖い顔は似合いません」
「―――」
顔を上げた私は思わず固まっていました。
そこには紛れもなく、私の記憶の中にいたニコラス本人がいたのです。
男が魔法で変わったニコラスではなく、優しい笑みを浮かべた、騎士らしくない線の細いあのニコラスが。
このとき、私はすでに私の心はダークミストに支配されていたのです。
しかし、そんなこと自覚がない私は目の前に現れたニコラスの姿に目を奪われてしまっていました。
「笑った方がアリス様らしいですよ」
ニコラスは微笑みます。
この微笑みに対して私は、幼くなったような気分になり、いつぶりかと思えるほど心の底から笑みを浮かべました。
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ニコラス・ダールイン。
その名前の騎士が私の下に来たのは、私がまだ小さく、お父様とお母様の後ろを付いて歩いていた頃でした。
元々は王宮騎士として、街の巡回などをしていたニコラスですが、お父様の紹介で、私の専属の騎士として王宮に来たのです。
ニコラスはその親しみやすいにこやかな顔と、王宮騎士としては華奢な身体によって、幼かった私ともすぐに意気投合しました。
今思えば、ニコラスは私のお目付け役だと思えましたが、当時の私はそんなことなど知る由もなく、歳の離れたお兄ちゃんが出来たようで、毎日ニコラスに相手してもらうのが楽しくなっていったのです。
そんな私はある日遊び半分で、騎士だというニコラスに剣を教わっていました。
そんな時です。ニコラスが私にこう言ってきたのは。
「アリス様、見た目によらず頑固なんですね」
「何がですかニコラス」
幼い私はニコラスに向かって、木で出来た剣を振り続けていました。
このとき、私が剣を教えてと言ったのに対して、ニコラスは渋った顔を見せました。ですが、私は諦めずニコラスにお願いし続け、こうして剣を振っているわけです。
ですが、私の振る剣はニコラスに簡単に避けられてしまっていました。少し悔しくなった私は、何とか一発でも当てようと思い、剣を適当に振ります。
「いえ、何でもありませんよ。ただ」
そう言ってニコラスは私の剣を手で受けとめると、私の強張った顔を覗き込んできます。
「アリス様は笑顔の方が似合っていると思いまして」
ニコラスは私に笑いかけてきます。
私の気持ちなど分かっているくせに。
悔しさで一切笑おうとしない私を見て、ニコラスは困った顔になります。
「笑って下さい」
「ふん!嫌です」
「お願いしますよ」
「……ニコラスがどうしてもと言うなら」
「どうしてもです」
「全く仕方ありませんね!」
そして仕方なく笑う私に対して、ニコラスも微笑んでくれます。
私はそんなニコラスの顔が大好きになっていました。
すると、笑いあう私達に対して、近くを通ったお父様とお母様が声をかけてきます。
「あら。相変わらず仲がいいわね」
「うん。いいことだ。アリスの騎士にニコラスを選んだのは正解だったな」
「は!ありがたきお言葉であります!」
ニコラスがお父様とお母様に片膝を折り敬意を示しました。
「あらあら、いいのよそんなに堅くならなくても」
「そうだぞ。ニコラス。君はもう私達家族の一員みたいなものなのだから」
「ですが……」
「もうニコラスったら真面目ね」
私達三人のそう言われ、ニコラスは少し困った顔になります。
それを見るのが、もはやいつものことで、そんなニコラスも私は大好きでした。
「それでお父様。どこかに行かれるのですか」
私はお父様達の後ろに控える騎士の方々を見てそう聞きます。
「ああ。ちょっとヴァニタスの視察をね」
「では!」
「ええ。アリスちゃんも一緒に行く?」
「行きますわ!ニコラスも一緒に行きましょう」
「はい。お供させていただきます」
この頃の私には、ニコラスの他に、街中にも仲のいい人が一人おりました。
その人は、魔法が使えないヴァニタスと呼ばれる人で、街の薄暗い場所でひっそりと暮らしていたのです。ニコラスと同じぐらいの女性で、私にいろんなお話をしてくれて、とても大好きな人でした。
この頃の私は、ヴァニタスと言うのが王都では忌み嫌われている存在だとは、全く知らなかったのです。知らなかったというよりも、お父様もお母様も、そしてニコラスまでも、私にそういったことを教えてはくれなかったのです。
だから、私はそのお姉さんに会いに行くため、お父様のヴァニタス視察には必ずと言っていいほどついて行きました。
この日もいつもの様に、お父様達の後ろにくっついて、ニコラスと一緒に王宮から少し離れた路地裏に入っていきます。
そして、いつもそこにいるお姉さんを見つけると、私は一目散にお姉さんのところに走っていきました。
もう、お姉さんと私の仲はここにいる誰もが知っていることなので、お父様もお母様も何も言いません。
ニコラスだけが私の後ろをゆっくりとついてきます。
「おねえさん!」
「アリス様!また来てくださったのですね」
「うん!今日もお話聞かせてくれる?」
「はい。いいですよ」
そしていつもの様にお姉さんの話を聞いていました。
そうしているうちに、視察の時間が終わります。
私はお姉さんに声をかけると、お姉さんから離れていこうとしました。
ですが、今日は少し違いました。
「あっアリス様。ちょっといいですか?」
お姉さんに止められたのです。
「なに?」
「も、もう少し、その可愛らしい顔を近くで見せてくださいな」
「…?」
私は突然のお姉さんにお願いに、首をかしげながらもお姉さんに近づいていきました。
この時、私はお姉さんの雰囲気が変わっていることに気が付けばよかったのです。
血走った目に震える身体。お姉さんの様子が明らかにおかしかったのに私はそんなこと気にも留めずに、近づいて行ったのです
そして私がお姉さんの手が届くところまで近づいた時。
お姉さんが急に片手を振り上げました。
「ごめんなさいねアリス様!!」
お姉さんの手には刃物が握られていたのです。
私は突然のことにその場に尻餅をついてしまいました。助けを呼ぶ声も出せません。
「アリス様!!」
そんな時、ニコラスの叫び声辺りに響き渡りました。
ニコラスが私の目の前に現れます。
私を庇うように立つと、ニコラスの身体が揺れました。
ニコラスのお腹部分から血が流れ出しています。
「だ…大丈夫ですか…アリス様……?」
「ニコ…ニコラス…あなた」
口から血を流しているニコラスに向けて、ただ見ているだけしか出来ない私に、ニコラスが力なく倒れてきました。
ニコラスの身体を支えた私の手には、べっとりとした嫌な感触が伝わってきます。
「そこの女を捉えなさい!!」
お姉さんはお父様の指示に動いた騎士に捉えられます。
お姉さんは暴れるも、騎士二人に取り押さえられたことにより、抜け出すことが出来ていません。
「アリス!!ニコラス!」
お母様が私のところまで駆け寄ってきました。
ニコラスを起こし、私も起こしてくれます。私の身体がニコラスの血で真っ赤になっていました。
生温かい、ニコラスの血を感じながら私はそのままニコラスに駆け寄ります。
「ニコラス!お母様早く、早くニコラスに治癒魔法を」
「ええ。分かっています」
お母様が治癒魔法を使っている間も、ニコラスの身体からは血がとめどなく流れてきています。
私はニコラスに叫び続けました。
「ニコラス!しっかりしてください!目を、目を開けて!」
「ア…アリス…様…」
ニコラスに目が少しだけ開きました。
「ニコラス…!!!」
「なか…泣かないで…アリス様…」
「でも…!」
「アリス…様は…笑顔…が…似合って…ます…よ……」
そして、ニコラスの身体ががっくりとしてしまいます。
「お母様……!」
「傷口は塞ぎました。あなた!」
お母様がニコラスの身体の近くまで来ていたお父様に声をかけます。
「ああ。分かってる。すぐに王宮の医務室にニコラスを連れていこう。女は牢獄に連れていけ!」
騎士にそう指示して、お父様は私とお母様、ニコラスとを、移動魔法で王宮まで送ったのです。
医務室に飛んですぐ、王宮の医師にニコラスのことをお願いしました。
私達に出来ることはもうありませんでした。お母様と一緒に医務室を出て、ニコラスの回復を待ちます。
私はパニック状態に陥っていました。
ニコラスの血。お姉さんの行動。全てが頭の中でグルグルと回ってその日は、お母様に抱きしめられていなければどうにかなってしましそうでした。
帰ってきてとひたすら私は心の中で呟いていました。
ですが。
次の日、無情にもニコラスの死が私に告げられたのです。
死因は大量出血でした。
この時、私は何を思ったのか分かりません。ただ信じられなくて、そのままニコラスの葬儀を私達だけでひっそりと行いました。
王宮騎士がヴァニタスに殺されたことは、お父様によって隠されました。混乱を避けるためだったと思います。
それからしばらく私は、心ここにあらずと言ったように、ただ漠然と日々を過ごしていきました。
ニコラスの失った喪失感。お姉さんに裏切られたことに対する悲しみ。
それら全てを考えているうちに、私の中には気づけばある感情が芽生えていたのです。
ヴァニタスを憎む心。そして、誰にも頼ることのない立派な人間になること。
そんな気持ちが私の中で確立した時、私はニコラスが似合っているという心からの笑顔を消し、今の様な性格になったのです。
自分に厳しく、ヴァニタスを憎む。
そんな、アリス・ロイスタシアが。
ニコラスから見れば、国民に振りまく笑顔も、心からの笑顔ではないと言われるのでしょうね。




