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8:機械仕掛けの魔法 ~magic in machinery/前篇

「――申し訳ないけど、受けれません」


 リィズリットの低い声が、部屋に反響して消えた。


「そうですか。仕方ありません」


 数拍を置いて、落ち着いた男性がそう言った。その声は、言葉とは裏腹に強い芯を感じさせ、諦めを微塵も抱いていないように思わせた。

 バートランドと名乗った壮年の執事は、腕を胸に当て、静かに礼をすると「それでは、今日はこれで失礼させていただきます」と言って、リィズリットへ背中を向けた。


「お疲れ様でございます、ご主人様」


 胸の中には現実と理想のジレンマが、熱量を持って渦巻いている。どこか胸やけにも似た気分に、リィズリットは朝食を戻しそうな嘔吐感すら覚えていた。


 どうしようもない事だった。リィズリットがまだ向こう見ずの無鉄砲さを持っていたのであれば、それに頷いていたかもしれないが、いくつかの経験を積んだリィズリットには、首を横に振るしかなかった。

 それは事実であり、間違いのない選択だった。ただ、何か別の解答があったのではないか、と考えてしまう。


「――あら?」


 テーブルに視線を落として、エイプリルがそんな声を上げた。リィズリットはぼんやりとした目で、その視線を追う。


「あ……」


 そこには一枚の写真があった。どうして忘れていたのか、と思ってしまうほどに、それはテーブルの中央に堂々と置かれていた。


「疲れていて、目に入ってなかったのですね」


 エイプリルのそんな呟きを聞き流しながら、リィズリットはテーブルに突っ伏すと、写真を視界の端に収めて覗き見た。

 そこには、小さな少女が写っていた。綺麗な洋服を着て、嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。歳はミリアと殆ど同じぐらいだろうと見て取れるほどに幼い。子供ながらにすっきりと整った目鼻立ちは、将来をつい想像してしまう程だ。


 ――しかし、リィズリットはその少女がもうこの世にいないことを知っていた。


「……どうしよう」


 リィズリットは写真を掴み上げて、そう呟いた。そして、今回の依頼について思い返していた。





わたくし、ノウリッジ家の執事をしております、バートランドと申します」


 老執事が訪ねて来たのは、事故から三日経った日の早朝だった。


 ノウリッジ家、と云う言葉にリィズリットは聞き覚えがなかった。黙ってエイプリルに視線を送っても、小さく首を振って返された。そんなやり取りをよそに、バートランドと名乗った老執事は真剣な眼差しで、リィズリットを見据えて、


「――まずは、貴女に謝罪を申し上げさせていただきます」

 と、切り出した。


 姿勢を全く崩すことも無い、真っ直ぐな言葉にリィズリットはたじろいでしまう。喉の奥を、じりじりと万力のように締め付ける圧迫感が襲う。


「謝罪……って?」

「先日、イシャーウッドで起きた事故についてです」


 そう言って、バートランドはエイプリルを申し訳なさそうに見て、立ち上がると頭を下げた。


「事故を起こした馬車は、我々ノウリッジ商会の所有するものでした。あれは不注意が起こした結果です。大変、申し訳ありませんでした」

「えっ、ええ!?」

「事故に遭われたご本人――エイプリル様が無事で何よりですが、我々の罪が消えるわけではありません。また、事故の現場に居合わせた少年が怪我をしたとも伺っております。ともすれば人命に関わること。それだけの事故を引き起こした責任は取らなければなりません」

「あ、あのっ! 別に、あたしもエイプリルもそんな気にしてないからっ」


 思わずリィズリットも立ち上がってしまい、頭を下げたままのバートランドに見えていないのが分かっていながらも、ばたばたと手を振って主張する。しかし、バートランドはそれでも頭を上げず「誠に申し訳ありませんでした」と、再度声を張って、ようやく姿勢を正した。


「頭を下げるだけで許されることとは思っておりません。これを、どうぞ」


 バートランドはそう言うと懐から文書を取り出すと、それをそのままリィズリットへと手渡した。リィズリットはエイプリルにも見えるように大きく広げると、そこに綴られた文章をざっと流し読みする。


「先日、事故の後に代理人と仰る方――アーウィン様が来られて、事故についての賠償を協議した結果です。当人や家族を除いての取り決めとなったのですが、アーウィン様が全て自分に一任されていると仰られたので、そのように進めさせていただきました」

「……そう言えば、そうだったっけ」


 言われて、リィズリットは思い出した。アーウィンに全てを任せたのは、他でもないリィズリット自身であったが、すっかり忘れてしまっていた。何しろ、事故の後はエイプリルの修理や再調整などでそれらを考える余裕が無かったのだ。


「……ご主人様、それよりこの内容は」

「へ? え……えええっ! なにこれ!」


 思わずリィズリットは叫んでしまった。文書に綴られていた賠償額に驚いたからだ。かつてロナージュに一ヵ月分の食料を『魔法』の対価として請求したが、その軽く数十倍を超える額を見てしまっては、それも霞んでしまう。


「け、桁が間違って、ない?」

「いえ。それで間違いありません。それでも我々が初めに提示した金額よりは十分に低くしていただいたのです」


 バートランドはきっぱりと言い切って「『魔法』の価値はご存じでしょう?」と付け加えた。リィズリットは苦い顔でそれに頷いた。


「僭越ながら、事故処理の為もあり、色々と調べさせていただきました。エイプリル様が、人間ではなく『魔女』の手による『魔法』だと云うことも、存じております。少なくとも、それだけを考慮してもこの金額は安い部類なのです」

「……う」

「無理に今すぐに受け取っていただく必要はありません。ただ、その書類を提示して頂ければ、いつでも我々はそれだけの金額を支払う準備があると、それを理解していただきたいのです。金銭で解決できることではないと思いますが――少なくとも我々の代表であるエドワード様は、この件をそれだけ重く見ております。二度と、このような事故を起こさないと云う戒めでもあるのです。どうぞ、その書類だけでもお受け取りください」

「――……うん」


 暫く考えて、リィズリットはこくりと頷いた。

 初めは困惑していた。しかしこれは、『魔法』を作った結果なのだ。ならば、それを受け入れることも、一つの責任の取り方ではないのか。と、考えたのだ。


「ありがとうございます」


 バートランドは、ほう、と安堵の息を吐いて、微かに表情を緩めた。しかし、次の瞬間、バートランドは緊張を取り戻し、リィズリットを正面から見た。


「先程までのものとは別件で、ひとつお話があります」


 その言葉に比例するように、バートランドの纏う雰囲気もどこか違っている。リィズリットは知れず緊張を覚えて、手のひらを汗に濡らしていた。


「ここからお話するのは、全て私の個人的なものとして、お聞き下さい」


 バートランドはそう前置きをして、

「まずは、これを見て頂きたいと思います」

 と、一枚の長方形の紙をリィズリットの前に差し出した。それは、一人の少女が写る、写真だった。


「以前お願いして写していただいたものです。この少女は、ソニア・ノウリッジ。我が主であるエドワード様の、お孫様に当たる人物です」


 可愛らしい少女だった。少女の整った顔立ちと、ブロンドの艶やかなストレートの髪は、写真映えしていて、まるで精巧に作られた人形を連想させた。歳の頃は、ミリアと同じぐらいだろうと想像がつくが、ミリアよりはどこか大人びているようにも見えた。


(……あれ、ソニア? どこかで聞いたことが……それと、この子どこかで……)


 そんなリィズリットを見て、バートランドはすぅと、息を吸い、何かを堪えるように目を閉じた。一瞬の静寂が、場に満ちて、


「ソニア様は先日、事故で亡くなられました」

 と、告げた。


 リィズリットは息をすることもできず、口を「あ」の形で硬直した。

 さあ、と風が吹き抜けてカーテンがはらりと揺れた。普段は暖かさを思わせるそれは、どこか寂しげな冷たさを伝えてくる。


「おおよそ一ヶ月と少し前の事になります。……エイプリル様と同じ、馬車の事故でした」


 バートランドは淡々と、感情を押し殺しているような平坦さで語っていく。


「その時、事故に遭った馬車に、ソニア様は旦那様と奥様のご家族と乗り合わせていました。エドワード様が提案された家族旅行だったのです。大きな仕事がひと段落した折に、たまには家族で休暇を取ろうと。しかし、当日になり、急なエドワード様にしか解決できない案件が舞い込んでしまいました。仕事の終わりを旦那様方もお待ちになられたのですが、エドワード様自身の遠慮の言葉もあり、仕方なく行かれることになったのです。事故が起きたのはその後です」


 固唾を呑んで、リィズリットはバートランドの言葉を待った。


「丁度昼を知らせる鐘が鳴る頃だったそうです。その日、門は混み合っていました。ソニア様らの隣に、一台の馬車がいたそうです。その馬車は急ぎの用事であったようで、御者が憲兵を急かしていたと聞きました。それだけでしたら、良くある話です。ただ、その馬は馬車を引くのも始めてだったのです。御者のストレス、密集状態の圧迫感、それらから馬は混乱し、暴れてしまいました。そして、事故が起こったのです」


 バートランドは目を伏せる。


「私が駆けつける事ができたのは、全てが終わってしまった後でした。旦那様、奥様、ソニア様。その誰からも、返事を頂くことはできませんでした」


 平坦だったその口調も、最後は僅かに哀しみの色を滲ませていた。リィズリットも、胸が締め付けられる気分に、同じように目を伏せてしまう。


「誰よりも後悔されたのが、エドワード様です。自分の仕事が無ければ、旦那様方の出発が遅れることはなかった。先に向かわせなければよかった。そもそも、休暇を取ろうなど提案しなければよかった――」

「そんなっ! だって、どうしようも、ないよ……」


 顔を歪めて言うリィズリットへ、バートランドは静かに首を横に振る。


「しかし、エドワード様は自分を責められた。自分の所為で、息子夫婦と孫を失った、と」

「……」


 終わってしまったこと。


 もう変えようのないこと。


 提示された悲しい結末に、言葉が出なかった。今、自分が必死にそれを否定しても、当人にも死んでしまったソニアにも届かないと分かっていたから。そして何より、リィズリットはその気持ちが痛いほどに分かったからだ。


 近しい人の死は、心に大きな風穴を空けていくと知っている。それが、容易に塞がることの無いことも、今尚自分が胸の寂しさを覚えていると、知っている。


(師匠……)


 心の中での呟きは、仄かに揺蕩って、すっと消えた。残ったのは、かつての温かい思い出が生み出す、現実の空虚感だけだった。


「それからエドワード様は変わられました。仕事の第一線で活躍するほどだったのが、すっかり――私がこう言ってしまうのは、不敬ですが、老け込んでしまいました。今は遠方に行っておられました旦那様のご兄弟が戻られて、エドワード様に代わって商会を運営しています」


 老執事は一度言葉を区切り、軽く首を振ってリィズリットから視線を外した。


「私には、あのようなエドワード様の姿を見ているのは辛いのです。エドワード様も聡明なお方です。私や、周りの者、何より自分自身を理解していたのでしょう。戻られた旦那様のご兄弟と入れ違いに、遠方に居を移すと仰られました」

「……なんで?」

「私に全てを推し量ることはできません。ただ、あの町にはご家族との様々な思い出があるのです。ふとした日常から、それを想い出してしまうのでしょう」


 リィズリットの心がずきり、と鈍い痛みを覚える。


「終わってしまったものは、元に戻りません。ただ、私はこのままで何もかもを終わらせるのは――嫌なのです。『魔女』様。どうか、エドワード様をお助け願えないでしょうか」

「あたしは……」と、言おうとした言葉は出てこなかった。その先に繋がる言葉は、リィズリットは持ち合わせていなかったからだ。


「――単純な発想かと笑われるかもしれませんが、エイプリル様は〈自動人形〉と呼ばれる存在ですね。同じもの――いえ、人を作っていただくことなどは、できないのでしょうか。エドワード様も、ソニア様の姿を見れば――」


 言って、バートランドはテーブルの上の写真を見やった。その意図を理解して、リィズリットは苦い顔で、首を横に振った。


「……無理。エイプリルは、師匠が残してくれた素体や設計図を基に作っただけだもん。一から作るなんて、今のあたしじゃ、絶対できない。それに……もし作れたとしても〈自動人形〉は、あげることができない」


 〈自動人形〉は正に存在そのものが『魔法』と呼べるものだ。だが、決して人間ではない。人ではない物に、人は冷たい。どれほど信用に足る人物であろうと、与えることはできないと、リィズリットは『魔女』として考えていた。


「……そうですか。他の、どのような方法でも良いのです。どうかお願いできないでしょうか」


 再度、頭を下げたバートランドへ、リィズリットは頷くことができなかった。


「……あたしは、困っている人を助けたいとは思う。でも、ここに居ない人を助ける、って無理だと思う。『魔法』は、与える人とちゃんと話して、その人に合う物を作れないと意味がないから……。何より、エドワードさん自身が、それを望まないと……」


 リィズリットは、首を振る。人づてで聞いた話には何も意味がない。バートランドがいくらエドワードを助けたいと願っても、エドワード本人が助かりたいと――『魔法』を欲しなければ、与える意味などないのだ。


(師匠からの、受け売りみたいなもの、だけど)


 それはかつて師から教わった『魔女』としての制約だった。そして、リィズリットはそれを間違っていないと今尚考えている。


「どうしても、受けて頂けないでしょうか」


 だから、リィズリットは、そう答えるしかなかった。


「――申し訳ないけど、受けれません」





 荘厳な鐘の音が昼を告げていた。

 その音は耳に残るほどの大きさでありながら、煩わしさを感じさせない上品な音色で、街全体へ響き渡り、風に融けてその先の遙か遠くまで流れていくことを自ずと理解させる。


「凄いですね。森にまで届くので、イーベルヘルで聴くものはどれほどかと想像していましたが、予想以上です」

「そりゃ、そうだよ。だって初代のばーちゃんが作ったんだよ」

「そうでしたね。成程、これほどの存在感は間違いなく『魔法』としか言いようがありません。街だけではなく、この周囲一帯の人の生活そのものに融け込んでいます」


 〈イーベルヘルの鐘〉


 それは、その名の通りイーベルヘルの教会に設置された鐘楼である。他と違うのは、それが百年ほど前に『魔女』によって与えられた『魔法』であると云う事だ。

 鐘は一日に四度鳴る。早朝、昼、夕方、そして夜である。その間隔は全て均等で、決して遅れることも早まることもない。イーベルヘルや、イシャーウッドを含むその周囲に住む人々は、この鐘の音を聞き、それを基準とすることで生活をしている。

 リィズリットはそれだけの影響力を持つ『魔法』を他に知らない。また、初代の『魔女』が作ったとされる『魔法』もそれ以外に知らなかった。その為、〈イーベルヘルの鐘〉は唯一無二の『本物の魔法』であり、そしてその影響力から『魔法』の中の『魔法』であり、リィズリットにとっては目指すべき目標であり、超えるべき大きな壁だった。


(『自分だけの魔法』か……。あたしも、あんなのを作れるようになるのかな)


 リィズリットの胸の内に師の言葉が過ぎる。その解答は未だ出せていない。重圧は考えたくない程に強い。いくつかの経験を積んだリィズリットには、先人たちの背中の大きさも、与えられた課題の果てしなさも理解できていたからだ。


「ううん。今はとりあえず別の事っ!」


 リィズリットは首を振って、雑念を払った。そして、エイプリルへ向き直る。


「ごめん、エイプリル。また道案内お願い」

「何年も前の地図を読んだだけです。区画など変わっていなければ良いのですが」


 イーベルヘルは大きく分けて、三つの区画に分けられていた。商業区と住宅区、そして工業区である。

 商業区は市場や取引場を中心とした様々な物流を扱う区画であり、工業区は鍛冶製鉄や最近になって浸透してきた活版印刷の工場を持つ区画である。実際のところ、多くの住民は商業区や工業区に店舗兼自宅を構えているものが多かった。住宅区は、それらを除いた、上流階級に属する基本的に裕福な資産を持つものが住む、正に住居の為だけに造られた区画だった。


 二人がいるのは、その住宅区だった。住宅区は目立った何かがある、と云うわけではなかったが、ただ純粋に閑静としていて、住むのには快適そうだなと思わされた。


 リィズリットはエイプリルの後ろを隠れるように付いて行きながら、手元を見た。そこには、一枚の写真があった。バートランドが忘れていった、ソニアと云う名の少女の写真だ。森を出てイーベルヘルまでやってきたのはその写真を返すためだった。

 しかし、今向かっているのはバートランドのいるであろう、ノウリッジ家ではない。


「――ここのようですね」


 立派な門構えを前に、エイプリルが言った。リィズリットはエイプリルの小脇から、その中を覗き見た。門の奥には、そこそこの大きさの庭が広がっていて、その奥に清潔感を感じさせる立派な家が見えた。


「あ!」


 目端に捉えた小さな影に、思わずそんな声を上げる。静かな住宅街にはその声は十分に響いて、その影はぴくり、と体を動かした。そして、リィズリット達へとその体を向けると、


「リズおねーちゃん!」

 と、先程のリィズリットと同じぐらいの大きな声を上げた。



「リズおねーちゃんどうしたのっ? あそびにきてくれたのっ?」


 ミリアは門を開けて入ってきたリィズリット達へ、そんな嬉しそうな声を上げながら一目散に駆け寄ると、ほとんど体当たりの勢いでぶつかってきた。リィズリットは避けれるはずもなく、鈍い音と共にミリアに押し倒された。


「あいたたた……」

「こんにちわっ!」

「ミリア様、挨拶は押し倒す前にするものですよ」

「ねぇ、なんで押し倒すことが前提なの……?」


 リィズリットは自分のお腹の上に馬乗りになるミリアに、手で退けてと示して下ろすと、ふらふらとしながら立ち上がった。軽い立ち眩みに揺れる視界を抑えて、リィズリットは眼下のミリアへようやく「こんにちは」と返した。


 リィズリットは自然と笑顔になる。ミリアは以前より、遙かに元気を取り戻しており、〈水晶の箱〉を壊して泣いていたときの面影は全くなかったからだ。

 きらきらと顔を太陽のように輝かせ、リィズリットにしがみ付く様子は年相応の子供そのもので、この場所も含めて、これがミリア本来の姿なのだと思った。


「セシルさん……お兄ちゃんはいる?」


 リィズリットは足元のミリアの頭を撫でながら、別の手に持っていた写真をさり気なくローブのポケットに隠した。


「おにーちゃん? いるよ!」


 ミリアはそれに気づかず「おにーちゃん、よんでくる!」と元気よく叫んで駆けて行った。ややあって、ミリアはセシルを引っ張って戻ってきた。


「こんにちは。お久しぶりです」


 息を少し切らしながら、セシルは丁寧に頭を下げる。リィズリットも「久し振り」と軽く手を揚げて応えた。


 セシルは以前と変わっておらず、その首には〈水晶の箱〉がぶら下げられており、リィズリットはそうして持ち歩いてくれていることが嬉しかった。


「今日はどうされたんですか? 前もって言って頂けてたらお迎えに上がったのですが」

「いや、そんな大したことじゃないから。ちょっと、こっちに来たついでに寄ろうと思っただけなの。えと、そこで、さ」


 言って、リィズリットはちらりとエイプリルに目線を送った。エイプリルはそれに頷いて答えて、さりげなくミリアのすぐ横まで移動する。


「セシルさんに、ちょっと話したいことがあって。大丈夫?」

「はい。問題ありません」

「なんのおはなしするのー? わたしもリズおねーちゃんとおはなししたいっ!」


 リィズリットはローブを引くミリアに微笑んで、そのふわふわの頭に手を置いた。


「ごめんね。今日はお兄ちゃんと大事な話があるんだ。ミリアちゃんとは後でお話ししようね」

「えー」

「ミリア様。でしたらご主人様方が話されている間、私にミリア様のおうちを案内して頂けませんか? ミリア様がいつもどのようにして遊んでらっしゃるのか、教えてください」

「んー、エイプリルおねーちゃんがそういうならっ」


 そう言って、ミリアはにへら、と笑った。そして、エイプリルの手を引くと庭へと駆け出して行った。それを見送るセシルは嬉しそうに、爽やかな笑顔を浮かべていた。


「では、僕達も行きましょうか」



「それで、お話と云うのは?」


 リィズリットが案内されたのは、庭を見渡せるサンルームだった。窓側に飾られた植木鉢のハーブや、紅茶の香りが柔らかく漂っている。空からは暖かな日差しが満ちていて、気を抜くと寝てしまいそうなほどに心地の良い場所だった。


「これを、見て欲しいの」


 そう言って、リィズリットは脱いで隣の椅子に掛けていたローブから、ソニアの写真を取り出してテーブルに置いた。


「――これは……どこで手に入れられたのですか?」

「バートランドさん、って言うノウリッジ家の執事の人があたしの家に置いていったの」

「……詳しい話を聞かせてもらえますか?」


 紅茶を一口飲んで、こくりと頷くと、リィズリットは一通りの事をセシルに説明した。先日の事故のこと。バートランドがやってきたこと。事故の賠償のこと。それとは別の、バートランド個人のお願いがあったこと。そしてそれを断ったこと。


「そういうことでしたか……」


 納得がいった様子で、セシルは大きな息を吐きだした。そして、テーブルの上の写真と、庭で遊ぶ妹を順に見やって、その双眸を細めた。


「この写真は僕が撮りました。そして――」

 リィズリットはセシルの目線を追って、外を見る。

「ソニアちゃんは、ミリアの友達でした」


 ふわりとしていた疑問が、まるでパズルのピースをはめるように確証へと変わっていく。


 初めから予想はしていた。師匠が別の誰かに与えていなければ〈水晶の箱〉を持っているのは、セシルただ一人である。つまり、写真を撮ったとなれば必ずセシルを経由しているはずなのだ。そして――


「僕の家は父の商売柄、ノウリッジ家と交流があったんです。何度か晩餐会や、パーティに呼ばれたこともありました。そこで、僕達はソニアちゃんと友達になりました」


 もう一つがそれだ。ミリアはかつてソニアと云う名前を出していた。自分のお友達であり、いなくなった、と。今となってはそれが、事故でソニアが亡くなってしまった結果だと想像がついた。


 ふと、ミリアはそれを知っているのだろうか、と疑問が涌き起こる。お腹の中にずしり、と重い物が生まれた。もし知っていたとすれば、あの小さな少女は、友人の死をどう受け止めているのだろうか――。


「――ミリアは、ソニアちゃんが亡くなったことは知りません。家族で遠い場所に引っ越してしまった、とだけ言っています」

「……そっか」


 かつてはエイプリルの場所に、ソニアという女の子がいたのだろう。この庭を二人は駆け回って遊んだのだろう。そして、ミリアは遠く離れていった友人がいつか帰ってくると、今尚信じているのだろう。


「ちょっと待っていて貰えますか」


 セシルは思い出を断ち切る様に目を閉じて視線を切ると、そう言って立ち上がり、サンルームを出て行った。リィズリットはその背中を見送って、暖かな紅茶を口に含む。砂糖を入れていないせいだろう。紅茶は甘い香りと裏腹に、とても苦かった。


「お待たせしました」


 さらりとそよ風が吹くように、セシルはサンルームに戻ってくると自分の席に着いた。そして、テーブルの上の、ソニアの写真の隣へ同じように写真と一枚の紙を置いた。


「これ……あの時の」


 二人の少女が写っている写真だった。一人には見覚えのある、今は外で遊ぶ少女。そして、一人はこの写真の隣で、美しく笑う少女。あの日、ミリアが見ることを決意した写真だ。


「ミリアにとって、ソニアちゃんは最良の友達でした。遊べるときはいつも一緒に。何をするにも、どこに行くにも離れることはありませんでした。僕も、そんな二人を見ているのが楽しくて、これらの写真を撮ろうと思ったんです」


 でも、それが最後になるとは――と、セシルは言わなかった。ただ、その悲しげな表情はそう訴えていた。


「ソニアちゃんと交流する中で、ノウリッジ家の方とはよく会わせて貰ってました。お爺さんのエドワードさんとも、何度か会いました」

「どんな人、だった?」

「一言で言い表すのは難しいですが……厳しいけど、優しい、お孫さんが大好きなお爺さんでした」

「……そっか」

「リィズリットさんが、断った理由は分かります。でも――そうですね。きっと、この事件で一番傷付いているのは、エドワードさんです。できれば、どうにかして以前までとはいかないでも、元気を取り戻して欲しいとは、僕も思います」


 リィズリットは答えず、視線を二つの写真に落としていた。外からは、ミリアの笑い声が届いていた。



「ありがとう。話を聞けて良かった」

「いえ。こちらこそ。たいしたお持て成しもできず申し訳ないです」


 門の前に立って、リィズリットとエイプリル、ミリアとセシルが向かい合っていた。


「リズおねーちゃん、もうかえっちゃうの……?」


 下唇を噛んでセシルの後ろに隠れるようにしていたミリアは、とことことリィズリットの前までやってくると、ローブを引っ張って、そう言った。ほんのりと顔を赤くして縋る様子は、今にも泣き出しそうにも思えた。


「ごめんね。あたし達、ちょっと行かないといけない場所があってね」

「あとまわし……」

「こら、ミリア」


 セシルの言葉を聞きたくないと、ミリアはリィズリットに抱きついて、嫌々をするようにそのお腹に顔を埋める。リィズリットは少し困った表情を浮かべたが、すぐに「あはは」とわざとらしく笑って、その頭を撫でてあげた。


「また、遊びに来るから」

「……ほんと?」


 顔を僅かにだけ上げて、ミリアが上目遣いでリィズリットを見る。その金色の瞳は、涙に揺れて煌めいていた。


「――」


 言葉を躊躇ったわけではなかった。遊びに来たいと思っているのは間違いではない。特に、今日はミリアとあまり話すことも、遊ぶこともできなかったからそれは顕著だ。


 ただ――

 その少女の涙が、悲しく見えた。


 ずっと隣に居た親友がいなくなり、一人で遊ぶことになった少女。その本当の理由を、この小さな友達はまだ知らない。きっと知れば、泣くだろう。いや、知らないでも、こうして友達が去っていくことに泣いているぐらいだ、もう泣いているのだろう。


(……あたしも、師匠がいなくなったときは、泣いたもん)


 苦い想いは、今も消えることなくリィズリットの中にある。それを、二度と味わいたいだなんて、思う事なんてできなかった。


 潤んだ瞳の少女は、そのまま大粒の涙を溢しそうなほどに、リィズリットを見上げている。ミリアはどこかで感じているのかもしれない。もう、二度とは親友に会えないと。そして、再び起こることを無意識的に恐れているのではないかと。


「ほんとのほんと。嘘なんか言わないよ」


 リィズリットは優しく言って、屈むとミリアと目線を合わせる。そして、その袖で涙を拭ってあげると、こつん、とおでこを合わせた。大きな金色の瞳に、黒い瞳が映り込む。


「約束。今度はミリアちゃんと遊ぶために来るから」

「やくそく……」

「知ってる? 『魔女』はね、一度決めた約束は、絶対に破らないんだよ。特に、」

「とくに?」

「友達との約束はね」


 リィズリットは、にへら、と大きく笑って、ミリアを抱きしめるようにして背中をぽんぽんと叩くと、立ち上がった。ミリアは、自分でも目を袖で拭って、リィズリットを見上げる。その目には、涙はもう浮かんでいない。


「じゃあ、また」


 リィズリットはそう言って手を振ると、背中を向けた。最後に見たミリアは笑っていた。





「次はどうされますか? ノウリッジ家に向かいますか?」


 人通りの少ない路地裏を歩きながらエイプリルはそう尋ねた。リィズリットは少しだけ考えて、返答の代わりに一枚の紙を差し出す。


「……これは?」

「フルークブラット。さっき、セシルさんから貰ったの」

「――成程。事故の記事が載っているのですね」


 フルークブラットへ目を落とすエイプリルに、リィズリットは小さく「うん」と言って答えた。エイプリルは落ち着いた声で、記事を読み上げる。



『白昼の大惨事起こる

 昨日、昼頃に南門にて、馬車を引いていた馬が暴れる事故が起きた。馬は制止も効かず、その時繋いでいた幌を荷ごと横倒しにした後、同じように周囲に待機していた馬車に体当たりをし、なぎ倒すなどの被害を出した。連鎖的に被害は広がっていき、最終的には死者六名、重軽傷者十五名をだす参事となった。事故の原因は現在調査中との事だが、周囲の目撃談から、その時間の南門が非常に混雑しており、それに腹を立てた御者が喚き散らした為、馬が混乱したとみられる。

 事故によって亡くなられたのは、暴走馬の御者をしていたトーマス・ランドナー(25)、巻き込まれた馬車の御者であったブライアン・バートン(38)、その馬車に乗り合わせていたリチャード・ノウリッジ(33)、マリアベル・ノウリッジ(27)、ソニア・ノウリッジ(8)の三名と、その際に検閲をしていた門兵のグレイ・オールストン(34)の六名である。

 中でも、リチャード氏ら三名は、家族での休暇の予定で遠方へ向かう途中だった。そのような最中で起こってしまった大惨事に、胸が痛むばかりである。また、リチャード氏はノウリッジ商会の副代表であり、氏の逝去により、ノウリッジ商会の今後の経営がどうなるか心配である。』



「――。はあ、酷い事故だったようですね」


 リィズリットはこくりと頷いて応える。


「ソニア様は特にそうですが、犠牲に遭われた方は皆、若い方ばかりです。そのような、未来ある者の命が失われるのは、哀しいことですね」


 リィズリットは何も言えず、黙ってエイプリルの後ろを付いていった。しばらくそのまま二人は歩いていたが、路地の出口に差し掛かって、エイプリルはリィズリットへ問い掛ける。


「それで、どうされるのですか?」


 路地裏を出てしまえば、その先は人でごった返す大通りだった。どこに向かうにしても、道を選ばなければならない。進むか、戻るか。


「――あたし、行きたい場所ができた」


 やや間を置いて、リィズリットは人ごみの喧騒に掻き消されそうな声で言った。


「もうちょっと、いろんな事を調べたい」



 人の流れは忙しなく、それは絶えず勢いよく流れ続ける渓流を思わせる。

 リィズリットはその流れに呑まれないよう、エイプリルにしがみ付くように掴まって、目の前の建物を見上げた。商業区――その市場の突き当りにあって、全てを見通すように建てられたそれは、異様な存在感があった。何故なら、市場を利用する人々が、同じように市場にあるその建物へと入っていくことがほとんどなかったからだ。それは避けているのではなく、単純に渓流の中に飛び出た石のように、全く別のものとしてそこに存在していたからだ。


「ここで、これを作ってるんだ」


 右手に握ったフルークブラットを広げる。そして、そこに押されている判と、眼前に掛けられた看板を見比べる。両方ともに、描かれていたのは丸めた紙を加えた鳩の姿だ。それは、このフルークブラットがこの中で作られていることを表している。


「――入ろう」


 リィズリットはそう言って、エイプリルの返事を聞かずにその扉に手を掛けた。荷車が丸々通れそうに大きな扉は、あっさりと開いて、リィズリットは容易に中に足を踏み入れた。


 外とは圧倒的に異なる、異様な熱気にリィズリットは一瞬だけたじろいだ。後ろを付いてきたエイプリルに支えられなければ、そのまま回れ右をしてしまいそうな気すらした。

 大きく、広い部屋だった。正面には受付のカウンターと、その係員がいた。その奥には、いくつもの長机が等間隔で並べられ、大勢の人が何かを言い合う様にして机に向かっている。左右の壁には黒板が張り付けてあり、一面にびっしりと文字を埋めている。奥の壁には巨大なこの地方の地図が掛けられており、その上には丸やら四角やらの記号が張り付けられているようだった。


「こんにちは。何かご用でしょうか?」


 リィズリットに気づいた受付に座る係員の女性が、カウンター越しに笑顔と大きな声で問いかける。


「えと、あの、話を聞きたくて」

「……?」


 係員は笑顔のまま、首を傾げた。これだけの騒がしさに聞こえなかったのだろうか、とリィズリットは考えて、受付の目の前まで言って、同じことを言った。


「何のお話でしょうか? ご予約はお有りですか?」

「え、えーと……」


 思わず顔が引きつるの。ぐしゃり、と手に持っていたフルークブラットが潰れる音が頭に響いた。だが、それが良かったのか、リィズリットははっとなって、くしゃくしゃになりかけているフルークブラットを係員に広げて見せた。


「こ、これ。書いた人に、話を聞きたいん、だけど」

「――――」


 係員は目を細めて紙面を眺める。そうして「あー、これですね」と納得して何度か頷くと、近くにいた人物を手招きをして呼んだ。


「この記事を書いたのって、クラークさんですよね」

「んー……、あー、そうそう」

「その、この記事についてクラークさんに話を聞きたいと仰る方がいらしているんですが」

「関係者のインタビュー関連かい? まぁ、クラークのやつ、今日は休みだよ」


 係員は苦い顔でリィズリット達へ向き直ると「と、言う事ですが……」と気まずそうに言った。


「そのクラークさんって、連絡とか取れないかな……?」

「……ちょっと、難しいですね。自分で宜しければ、明日にでもクラークにお伝えいたしますが――あ」


 係員はそう言って、リィズリットの背後を指差した。リィズリットとエイプリルはそれに合わせて、後ろを振り向く。そこには丁度中に入って来たばかりの、三人の人物がいた。長身の男性、それより背の低い女性、そしてそれよりさらに背の低い男の子の三人だった。


「あの彼がクラークですよ。どうしたのでしょうか、今日は休みのはずでしたが。あ、隣は恋人さん……? もしかして、恋人に職場を紹介に来たって感じっ? きゃー!」


 係員がそう言っていたが、リィズリットの耳にはあまり入っていなかった。リィズリットの意識は、その三人の組み合わせに奪われていた。


「――ロナ?」


 ぼんやりとする輪郭に形を与えるように、リィズリットは言葉を呟く。三人組の中の女性――オレンジ色の三つ編みに、そばかすが印象的な女性――が振り向く。間違いなく、紛れもなく、それはリィズリットの数少ない友人の一人。


「リズ?」

「ロナ! なんでここにっ!?」


 リィズリットは叫んで、ロナージュの元へ走った。そして、前に広げられたロナージュの手に、自分の掌を合わせてがっしりと握り合った。


「リズこそ! なんでイーベルヘルになんかいるのっ。街は苦手だって、このまえうちに来た時もきつそうだったじゃない!」

「え、えへへ。今日は、ちょっと特別な用事で――」


 手を絡ませたまま、リィズリットは周りに目を配らせた。ロナージュの隣に立つのは、彼女の弟であるアラン。そしてもう一人――

 かちり、とリィズリットの頭の中で何かが組み合わさった。


「……ロナ、もしかしてその人って、」

「あ、うん。リズにはちゃんと紹介してなかったわよね。彼が私の恋人のクラーク。って、色々と話しだけはしちゃってるけどね」

「僕もロナから話は聞いているよ、リィズリットさん。君が森の『魔女』なんだよね。〈携帯電話〉は驚いたよ。今も、大事に使わせて貰っている。ありがとう」

「あ、いや、どういたしまし、て」


 はっとなって、リィズリットは首をぶんぶんと振った。


「じゃなくて! クラークさん!」


 詰め寄ったリィズリットに、クラークは半歩引いた。ロナージュはきょとんと首を傾げてその様子を眺めている。リィズリットは手に持っていた紙――事故の記事が載ったフルークブラットを掲げた。


「これ、書いたのクラークさんだったの!?」



「――確かに、その記事を書いたのは僕だよ」


 フルークブラットの編集場から二階に上がった、その中の一室にリィズリットたちは机を囲むようにして座っていた。机の上にはいくつかの紙束――フルークブラットが置かれている。


「当時、僕はまだこっちに来たばかりだったんだ。どうにか仕事を覚えたばかりで、周りの先輩たちからは早く売れるネタを拾ってこい、と尻を蹴られる日々だった」


 階下で響いていた怒声はこの部屋まで届かないようだった。静かな空間に、クラークの低く落ち着いた声が流れていく。


「事故の起きた日も、僕は何か記事になるようなネタが無いかって、街中を歩いて回ってた。そんな時にさ、事故が起きたって聞いたんだ」


 遠い目でクラークは言った。虚空に向けられた目は、その当時の光景を映しているのだろう、とリィズリットは思う。


「丁度、事故の起きた南門の近くにいたんだ。だから、咄嗟に走って行った。現場に着いて、見てみれば事故は僕の想像なんかを遥かに超えていた――酷い、としか言いようが無かった。とにかく僕は必死で取材をしたよ。実績を上げるには、うってつけだったからね」


 クラークは小さく喉を鳴らす。


「ただ、調べれば調べるほど、胃の中がひっくり返る様な気持ち悪さを覚えるばかりだった。幌の下敷きになった犠牲者を見たときは、立ち眩みがした。そして、崩れた荷の下から少しだけ身体を覗かせていた……リチャードさんを見つけた時は、堪えきれず、胃の中のものを全部吐き出してしまった」

「……う」

「僕はふらつきながら、会社に帰ったよ。そして、熱に浮かされるように記事の原稿を書いた。どのくらいの時間がかかったのか、覚えてないけど、書き上がった原稿を編集長に突き付けていた。その結果が、それさ」


 自嘲にも似た苦い顔でクラークは表情を歪める。


「記事は認められて、掲載された。イーベルヘルで起きた大事故を、誰よりも早く記事にした、と云う事で先輩たちからは褒められた。「お前は出世頭だな」なんて言われたりもした。でも、そう言われれば言われるほど、気持ちの悪さが胸に積み重なっていったんだ。何度も倒れそうになったよ」

「クラーク……私、知らなかった。言ってくれれば……」

「すまない、ロナ。わざわざ言う話じゃないと思ってね。ただ、言わなかったのは別にも理由があるんだ」


 そう言って、クラークは机の上のフルークブラットを視線で差した。


「それから、僕は自分に何ができるんだろう、ってずっと考えたんだ。僕にできるのは、単に起こった事故を文章に起こすだけなのか。本当にそれだけなのか。もっと、その先の何かができないのか」


 ずきりとリィズリットの胸が鋭い痛みを覚える。


「そこで僕は思ったんだ。僕は記者になって、何をしたかったんだろうって。僕は、僕にしか書けない記事を書きたかったんじゃないか、ってね。それで、もう少しもがいてみよう、って思ったんだ」


 クラークはフルークブラットの一枚を取り上げて、掲げた。周囲の視線が集中する。そこに書かれていたのは、事故の後、その家族や知人を追ってインタビューなどを行った記事だった。


「僕のエゴだとは思うよ。誰にだって忘れたいことはあると思うんだ。それをわざわざ掘り起こして、形にするのは、その人とって拷問以上の何物でもない。でも僕は、それが目に見えない答えの一つになるんじゃないかと思って、この記事を進めることにした」


 滔々と語るクラークには、揺るぎない確信めいた何かをリィズリットは感じる。


「その中でも、やはり多くなったのは、リチャードさんの――ノウリッジ家の話だった。事故の後、僕は何度となく、ノウリッジ家に通ったよ」


 ばらり、とクラークはフルークブラットを机に広げた。


「これらは全部、エドワードさん――リチャードさんの父親に当たる人から聞いたことを元に書いた記事だよ。最初はあまり話してくれなかった。でも通って行くうちに少しずつ話してくれるようになったんだ。家族のことや、今後のこと。それらを僕は全部書いた」


 多くのフルークブラットにエドワードの話は出ていた。それらは、バートランドやセシルから聞いていたものと同じだった。同じように、悲しい気持ちに満ちていた。


「――感情や主観を入れるのは二流の証。客観的でありながら主張を伝えてこそ一流」

「それは……?」

「記者の心構えさ。僕はちっとも客観的になんか、できなかった気がするよ。きっと、そこにあるようにエドワードさんが引っ越してしまったら、僕はこの事件を追うのを辞めるだろうね」


 そこで、ようやくクラークは大きな息を吐いた。長い、長い、全てを吐き出すようなものだった。


「――僕は、僕にしか書けない記事を書けたのかな」

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