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7:四月の嘘 ~April Fool/後篇

 風を切る音が耳に響きます。眼下に見えるのは色取り取りの屋根。それは多彩で、自分の今いる場所から更に俯瞰して見れば、まるで虹の上を駆け抜けている気分になります。


「――わっ、わわっ!? な、なんでっ、こんな所をっ」


 背中から、そんな声が届きます。必死でわたしの体を掴み、振り落とされないようにしがみ付いている。後ろを振り返るまでもなく、その様子は想像することができました。


「あの子猫は自由奔放に動き回るようでした。二階から出て行ったのなら、他の家の屋根伝いに遊んでいるのが予想できます。また、それを探すのなら我々も同じ高さか、それ以上から探すのが最良だと判断いたしました」

「……そ、そう、らけどっ」


 アラン様は既に舌が回っていないようでした。仕方なく、町中でも目立つ、背の高い屋根の上に跳んで、足を止めます。


「……は、ぁ……はぁ……」


 息も絶え絶えと云った様子で、アラン様がぐったりと体を預けてきました。私が首を回して「大丈夫ですか?」と尋ねると、嫌々をするように顔を肩に押し付けて「だいじょうぶじゃない……」と言いました。


「少し休憩と致しましょうか。ここからなら、眺めているだけで探すこともできそうです」


 目の前には、悠然と広がるイシャーウッドの町並みがありました。正午をやや過ぎたばかりの日は高く、天に伸びる煙突は、根元に影を落としています。見下ろせるいくつかの通りには、数多くの人や馬車が行き交っていました。視線を上げると、地平線へと延びる道の向こう、青々とした空の麓に、いくつかの建物が見えました。


「凄いですね。今日は空気が澄んでいるおかげか、イーベルヘルも見えますよ」

「……あ……そう……」


 気の無い返事が風に消えます。相変わらず、アラン様はぐったりと頭を垂らして、私の肩を掴んだままでした。私は横に屈むと、その背中を擦ります。アラン様の跳ねていた鼓動が、次第に落ち着いていくのを掌に感じました。


「……はぁ。おかしい、どう考えてもおかしいよ……」

「はぁ。何かご不満がありましたでしょうか?」

「不満とか、そういうのじゃなくて……ああ、もういいや……」


 アラン様は諦めたように投げやりに視線を投げると、大きな溜息を空に吐き出しました。


「……ねぇ、『魔女』って、こんなにすごいことができるの?」

「質問が漠然としているのでお答えするのが難しいのですが、この程度ならアーウィン様もできますよ。寧ろ、アーウィン様が比較的空中での機動力や性能には勝ると思いますが」

「いや、そうじゃなくて。エイプリル、さん? は『魔女』じゃないの?」

「ええ。私はあくまでも『魔女』に仕える普通の使用人でございます」

「ただの使用人が人を抱えて飛び回るなんて普通じゃないよ……」

「そうは言われましても。私が『魔女』のメイドであることは変えようのない事実ですので」

「はぁ……『事実は小説よりも奇なり』って言うのかな……これ」


 アラン様は首をいくつか横に振ると「受け入れるしかないのかな」と小さく呟いて、黙ってしまいました。


 さあ、と風が吹き抜けます。アラン様は黙って眼下に広がる町並みを眺めていました。私もそれに合わせて、視界を広げます。

 様々な音が、耳に飛び込んできました。人の話し声。動物の鳴き声。石畳を馬車が走る音。どこかの家で料理をしている音。子供たちの遊び声。それを叱る親。物売りの宣伝文句。遠くからの吟遊詩人が奏でる音色。それは、まるで耳元にこの町があるかのような、錯覚を覚えます。


「……ねぇ、エイプリルさん」

「なんでしょうか、アラン様」


 町の生活音に溶けるような静けさで、アラン様は口を開きました。


「『魔女』って、どんな人なの?」

「アラン様とそう変わらない歳の女の子ですよ。アラン様は今お幾つでしょうか?」

「……今年で十三」

「では、ご主人様が三つほど年上ですね。まぁ、私からすればどちらも変わらない子供のようなものですが」

「……そんな子供なのに『魔女』なんだ?」

「ええ。歴代の『魔女』からその術を継いだ三代目の『魔女』です」


 少し考えるようにアラン様は視線を遠く空の彼方へと向けると、もう一度「『魔女』って、どんな人?」と問われました。


「一言で言い表すのは難しいのですが、我儘で、自分勝手なお子様ですね。食事もまともに取ってくれませんし、継いだとは云え、まだ『魔女』としては半人前もいいところです。ひよっこです。ぴよぴよ鳴く小鳥です」

「ぷっ、なにそれ。いいの? 自分の主人をそんな風に言って」

「別に構いませんよ。これは悪口でも陰口でもなく、純粋に事実なのですから」


 アラン様は目を細めて、少しはにかんだようにして笑います。その横顔に、私はロナージュ様の面影を見てしまいました。


「――そう云えば、先日ロナージュ様と似たような、と云うよりは同じ話をしましたね」

「姉さんと……?」


 それは、今から二週間と少し前のこと。ロナージュ様が初めて『魔女』の家を訪れ、初めてクズ山へと足を踏み入れた時の話です。


「ご主人様にいじめられて落ち込んでいたロナージュ様を、この話で慰めました」

「あはは。それ、普通言っちゃう?」

「これも全く偽りのない真実ですので」


 アラン様は今度は声を出して笑いました。強張っていた表情は、もうすっかりと解れて、柔らかくなっていました。そうして、ひとしきり笑うと、視線を遠く、おそらく自分の家がある方向へと向けます。


「……そっか、姉さんも、そんな話をしたんだ」

「ええ。アラン様は、ロナージュ様と良く似ていらっしゃいます」

「……そう?」

「似ているというのは、何も外見だけの話ではありません。その内面をも含むのです。勿論、アラン様の外見も、ロナージュ様を思わせますが、考え方、話し方、それらがよりロナージュ様を重ねさせるのです」


 しんみりと、噛み締めるようにアラン様は「……そっか」と零しました。そして、


「――姉さんは、最近変わったと思うんだ」

 と、続けました。


「ずっと前までは、僕が何をしてても……ずっと部屋に居ても、姉さんは何も言わなかった。当たり障りの無いように、まるで腫れ物に触れるみたいに、黙って見てるだけだった。何かにずっと言い訳を求めてるみたいで、見ていて、苛々させられた。でも、最近は違うんだ。ずうっと、放って置いたくせに、毎日僕の所に来るようになった。扉の外から、呼びかけてくるようになった。話してくるのは、取り留めもない、世間話ばっかり。最初は、何か適当なことを思いついたのかな、今にいつもみたいに飽きて諦めるんだろうな、って思ってた。でも、ずっと、毎日続いてる。今日も、朝から話にきた」

「……今日は、何と?」

「友達が来る、って。『魔女』なんだけどね、って。最初は怖かったけど、その人のお陰で少し前向きになれたんだ、って。もしよかったら話してみない、って」

「それで、私が名乗ったときにも驚かなかったのですね」


 アラン様はこくり、と頷きます。


「……本当に、姉さんは何か変わったと思う。何が、って言われたら、はっきりとは言えないんだけど……気持ち、とか。心持ち、とか、そのあたりが違う気がする」

「ご主人様も同じことを以前仰っていました。ロナージュ様が直接変わったわけではない。それでも、変わっていこうと思えるようになった、と」

「……うん。だからさ、僕もちょっと信じようかな、って思ったんだ」


 アラン様はそう言うと、私を見ました。その瞳は、どこか泣いているようにも見えました。


「『魔女』って人に会えたら、僕も何か変われるのかな、って」

「アラン様は、変わりたいのですか?」

「……正直、分からない。変わりたいって思っても、どうすればいいか分からないんだ」


 溜息にも似た、大きな長い息が吐き出されます。


「外に出て、大勢の人の中にいると、特にそう思うんだ。みんな、僕よりできる何かを持ってる。足が早かったり、頭が良かったりする。それで、僕は何も持ってないんだって、気づくんだ。すると、怖くなって、いても立ってもいられなくなって、みんなが僕を見て笑ってるような気がして、部屋に帰るしかなくなる」

「それが、部屋を出なかった本当の理由、なのですね」


 屋根に落ちる小さな影が、上下しました。


「……でも、本が好きなのは、本当なんだ。本を読んでるときだけは、僕は物語の主人公になれるんだ。だから、僕は――」


 言葉はそこで区切られて、続きませんでした。沈黙を待たずに、私は問いかけます。


「――アラン様のやりたい事は何なのですか?」

「……僕の、やりたい、こと」

「ええ。『魔法』は願いが必要です。所有者の願いがあって始めて、『魔法』は『魔法』に成るのです。アラン様。貴方の願いは何ですか?」

「僕、は……」


 儚い声は風に消えました。俯いた視線は、開いた手のひらに落とされています。そこに、何を見ているのか、私には知る由はありません。


「――休憩はこの辺り迄と致しましょう。子猫を探さなければいけません」


 その声が、アラン様に届いていたかも、私には分かりませんでした。





 その後、短い捜索で子猫の姿を見つけることはできました。しかし、見つけただけで、捕まえるには至らず、私たちはしばらく子猫を追って、町中を走り回っていました。その間は取り立てた会話もなく、最低限の子猫に関するやり取りをする程度でした。


 そうした鬼ごっこの末に、私たちはイシャーウッドの中心にほど近い、本屋の前まできていました。大勢の人が行き交う大通りにあって、その店構えは歴史を感じさせ、一際異彩を放っているように見えました。立ち寄る人は多くはありません。常連と思われる裕福そうな老人が入って行き、ややあって出てきたぐらいしか見かけませんでした。


「アラン様、大丈夫ですか?」


 店の前に立つアラン様へ、背後からその背中を押すように声を掛けます。周囲には大勢の人が行き交っており、それは先程聞いたように、アラン様が苦手とするものだったからです。


「……あ、うん……」


 しかし、当のアラン様はそれを気にした様子もなく――いえ、気にする余裕がないのでしょう、店内に並ぶ無数の本へ視線を釘付けにしていました。その様子はまるで、年相応に宝物を前に目を輝かせる子供そのもので――私はその姿に、どこかご主人様の姿が重ねて見えました。


「――先程の話で、話していなかったことがあります」


 だから、私はその背中に声を掛けました。一拍を置いて、アラン様が振り返ります。


「『魔女』について……?」


 私は頷いて、アラン様の横を通り抜けながら、その手を引きました。アラン様はよく分かっていない様子でしたが、されるがままに本屋の中に足を踏み入れました。


 店内は、どこか湿気った空気でした。息を吸えば、乾いて間も無いインクの香りが体へ沁み渡るような気すらします。外から見ていて想像した通りに、本が所狭しとひしめき合う店内には誰もおらず、奥に設置されたカウンターの更に奥に、年齢を感じさせる皺を顔に刻んだ老人が一人座っているだけでした。私が軽く頭を下げると、その老人は小さな会釈をして、手元へ視線を落としました。


「……私のご主人様は子供のような方で、今日はこの本屋に来ることをとても楽しみにしておられました。こうして私が一人で来たと知れば、さぞお怒りになることでしょう」


 何の話をしたいのだろうか、と云った様子でアラン様は私を見ていました。店主は変わらず手元に視線を落としたまま、こちらを気にする様子は見受けられません。私はそのまま、淡々と言葉を吐き出していきます。


「先程も申し上げましたが、ご主人様はまだまだ子供です。『魔女』としても、人としても半人前。見ていて危なっかしくて仕方ありません。ですが、そのようなご主人様でも、努力していることは知っています。――いえ、努力と云うのすら、それは憚られるかもしれません。それはご主人様を形作るものであり、根幹に強く根付いているものであり、そしてそれを置き換えようとするのではなく、また新たな強さを得ることで霞ませようとするもの」

「……」

「ご主人様は、人が苦手なのです。正確に言えば、自分以外の生けるもの全てに強い拒否感を持っているのです。ロナージュ様、と云う友人ができなければ、こうして町に出ることは無かったでしょう」


 言い終えて、私はアラン様を見ました。アラン様は困惑を顔に浮かべていました。突拍子もない話ですので、それも仕方の無い事でしょう。私と目が合うと、何かを言わなければならないと思ったのか、たどたどしくその口を開きました。


「……『魔女』だから、人が嫌い、なの?」

「いいえ。『魔女』なのに、人が嫌い、なのです」


 それが更に理解できなかったのか、アラン様は目を細めて視線を泳がせました。


「――『魔女』の話はご存知かと思います。その長く伝わる噂も、今に生きる真実も」


 アラン様はおずおずと頷きました。


「『魔女』とは人を助けるもの。人の恐ろしさを知り、人の痛みを知らなければ人を助けることはできません。私のご主人様は、それを十全に、その身を持って知っているのです。故に、人と云うものに恐怖を感じ、人と触れることに痛みを伴う。だからこそ、他人を救うに至れるのです」


 それは、ロナージュ様でも、ミリア様でも同じでした。そのどちらにも、ご主人様は自らの姿を重ね、共に涙を流すことで『魔法』を作ったのです。


 私は目の前の、小さな少年を見ます。その茶色の瞳には、他の誰でもなく、私の姿が映っていました。『魔女』のメイドである、エイプリルと云う個体です。


 私にできるのは何なのか。疑問は疑問足り得ません。できることなど元より決まっているのです。限られた世界で最善を導き出す程度。


 ご主人様が、人と共に歩こうと願うのなら、そのメイドたる私は、後ろから背中を押すことしか、できないのです。

 だからこそ、私は言わなければなりません。


「――『嘘』も同じです」

「……え」

「『嘘』を吐くことも、それと同じなのです。人の心を揺るがすだけの何かを持っているからこそ、他人の心を揺るがすことができるのです。アラン様、貴方が願うのはこの場に溢れる『優しい嘘』に溺れることですか、それとも『嘘』を吐くことですか」


 一瞬、アラン様の呼吸が止まったのを、私は感じ取りました。驚いたように見開かれた眼は、私をくっきりと映しています。


「……いつから、知ってたの……?」

「ともすれば初めからです。今になって思い返せば、と云う点も多いのですが」


 その徴はアラン様の部屋に入った時からありました。乱雑に置かれた本は、読み漁る以上の何かを。テーブルの上の紙は、ただ読む以上の何かを。そして、アラン様の言葉の節々にも、その何かは影を見せていました。


「……でも、だったら、何で言わなかったの。聞いてきても、良かったはず、だよ」

「私が口にすることに何の意味もないからです。それは、貴方の胸の中に輝く、貴方だけの宝物。貴方が口にすること以外で、形を持つことはありません。寧ろ、私では、その輝きを損なう恐れすらあります」


 私はここで大きく息を吸って、呼吸を整えました。もう一度、仕切り直すために。


「――再度、問わせていただきます。アラン様、貴方のやりたいことは、何なのですか?」

「……僕、は」

「強制は致しません。自らの胸の内から溢れ出るような想いでなければ、そこに意味などないのですから」


 鋭く息を呑んで、アラン様はおずおずと周囲の本棚へ目を這わせます。そこに並ぶのは、各地から寄せ集められた多くの物語たち。その目は、先程の好奇に輝くものとは違っていて、まるで憧れに胸を焼く、渇望と羨望の眼差しでした。


「――僕は……ここにあるような、物語を、書きたい」


 目を閉じて、一呼吸おいてから開きます。賽の目を一つずらしたように、真っ直ぐな眼差しが、私を捕えていました。しかしそれは、あまりにも透明で――汚れを知らなさすぎます。


「――書けるのですか?」


 まだ、私の役目は残っています。


「紡げるのですか? 語れるのですか? 謳えるのですか? 願えるのですか? 訴えることができるのですか? 貴方は、何を作れるのですか」


 背中を、もう少し押さなければなりません。


「私のご主人様は、思ったことを、思ったままに行動します。それで傷つくとしても、それを甘んじて受け入れる。自分を決して偽ったりはしません。それは魂有る者のひたむきな願いです。真実から目を逸らそうとしない、純然たる行動の結果です。アラン様、貴方はどうですか?」

「僕、は……」

「この町には素晴らしいものが、幾多にも存在しています。それは人の営みであり、流れる風であり、照りつける日差しが描く陰であります。それを、貴方は見ようとしていますか? 勿論、それが全ての正解ではありません。別の答えは星の数ほど存在するでしょう。ただ、貴方は周囲に溢れる、これだけの光り輝くものを見逃している。いえ、見ないようにしている。嘘に抱かれて眠るのは、さぞ心地よい事でしょう。優しい嘘は口当たり良く、貴方に襲い掛かることはないのですから。それらが心を揺さぶることはありましょう。ここにある無数の形を持った嘘は、それだけの力を持っているでしょう。しかし、それによって得た知識では、人の心を揺さぶるものは作れません。怖いかもしれません。恐ろしいかもしれません。逃げたいのなら、逃げるのも一つの手段でしょう。ただ、ここに並び、そして世界に幾百、幾千と存在する物語は、自らの得た知識や経験を元に、血肉を削り、苦難の末に生み出されたものなのです。貴方がその高みを目指すのであれば、同じ道を辿らなければならない。それを、ゆめゆめお忘れなきよう」

「……」

「――私にできるのはほんの小さなことだけ。これから先は貴方の選択です」


 最後まで言い切って、返答の言葉を待ちました。アラン様は、向けていた瞳を閉じ、必死で何かを堪えているようでした。


 長い時間が過ぎました。悩むアラン様を、私はただ黙って見ていました。


 後悔が無かったとは言えません。差し出がましい言葉ではあったと、認識しています。それでも――

 猫に触れたいと、願ったのですから。私は、私自身にも嘘が吐けないのですから。


「――それでも」


 静寂を切り裂く様な、声がしました。それは、少年の声でありながら、大人の色を浮かべています。


「僕は、物語を書きたい」

「――そうですか。なら、私が語ることは、もうないでしょう」


 この短時間で大きな変化があるわけがありません。しかし、少年の何かが変わったのを、感じました。少年の姉が手にした、小さな宝と同じ輝きがそこにはあります。それは、明日には薄れてしまう小さな決意なのかもしれません。しかし、私はそれで満足なのです。この一瞬だけでも、人の心を揺さぶることができたと、錯覚することができたことが、何よりもうれしいのです。


 アラン様が何かに気づいたように、視線を入口へと向けました。合わせて私も目を向けます。すると入り口を越えて通りの真ん中にあの白い子猫が座ってこちらを見ていました。


「……待ってて、くれたのかな」

「そうかもしれませんね」


 小さく頷いて、たたた、とアラン様は猫の元まで駆けて行きます。猫はそれを待っていたかのように、大人しく抱き上げられました。


「そう言えば、一つ質問が。その猫の名前は何と仰るのですか?」

「それが、まだ付けてない――」

「アランっ!」

「――え?」


 突然、横から投げられた声に、アラン様が振り返ります。そこには、ロナージュ様とご主人様の姿がありました。

二人は、視線をアラン様の、その後ろに向けて必死で叫んで――


「――ッ! アラン様!」


 咄嗟に、私はアラン様を跳ね飛ばし――そして、意識を失いました。





 リィズリット達が二人の外出に気付いたのは、エイプリルとアランが外に出てからしばらく経ってからの事だった。


 二人が外にいることを知らせたのは、ふらりとやってきたアーウィンだった。アーウィンはイシャーウッドを配達で回っている際に屋根の上を飛び回る影――エイプリルを見つけたのだった。


 初めはエイプリルが側にいる、と云う事で二人も安心していた。この中で誰よりも大人の思考を持つエイプリルに任せておくことが最善かもしれない、と考えたからだ。ましてや、人ごみが苦手であるリィズリットを、人で溢れる町中に連れていくことをロナージュも躊躇ったのだ。だから、リィズリット達が二人を追って外に出るのが遅れてしまったのだ。


 しかし、それも後になって思えば出てくることであり、結果論である。リィズリットは地面を激しく転がったエイプリルを見て、それを痛感した。


「エイプリルッ!」

「アランッ!」


 興奮する馬の鳴き声をかき消すほどに、リィズリットとロナージュがそれぞれに叫ぶと、通りの中央へと駆け寄った。

 まず先に辿り着いたのは、ロナージュだった。アランは通りの端で、猫を抱きかかえるようにしてぐったりと横になっていた。


「アラン! アランッ!」


 ロナージュは抱き起こすと、額から血を流し、目を閉じたままのアランへ必死で呼び掛ける。それが五度目に差し掛かったあたりで、アランはゆっくりと目を開いた。


「……っ、姉、さん?」

「アラン! 怪我はない? どこか痛いところは?」

「っ! 僕、は……」


 アランは朦朧とする思考を整えようと頭を数度振って、胸に抱いた猫を見て、次いで姉を見た。そうして、ようやく状況を掴めたのか、目を見開いて、通りの中央へとそれを向ける。


「そうだっ、エイプリル、さん!」


 リィズリットがエイプリルの元へ駆け寄れたのは、丁度そのあたりだった。アランとそう離れた場所ではなかったのに時間がかかってしまったのは、エイプリルが半ば馬の下敷きのようになっており、近づくのが容易ではなかったからだった。


「……だ、大丈夫ですか?」


 御者台から降りた男性が、顔を真っ青にしてリィズリットへと問いかける。リィズリットはそれには答えず、エイプリルを引きずり出せるように馬を退けてくれと視線で訴えた。


 馬車による事故だった。


 賑わう通りには、いくつもの馬車が行き交っていた。通行人もそれを分かっている為、中央は馬車の為に開けて端を歩くようにしていた。しかし、子猫はその開けられた部分にいた。そしてアランが見つけ、飛び出したところで、急ぐ馬車がやってきた。咄嗟にエイプリルがアランたちを突き飛ばしたが、エイプリルは馬に轢かれてしまった。それが、端的にリィズリットが理解した状況だった。


「――エイプリル」


 ぐったりと倒れているエイプリルへリィズリットが呼びかける。だが、返事は無い。


 無残とも云える光景だった。エイプリルの上質なメイド服はぼろぼろに破け、腕はあらぬ方向に曲がっていた。リィズリットは無意識のうちに、唇を噛んでいた。


「エイプリルさん……」


 ふらふら、とアランはロナージュに支えられながら、リィズリットのすぐ後ろまでやってくると、そんな声を漏らした。その声は、恐怖と、後悔に震えていた。


「リ、リズ……エイプリルさん……は?」


 同じように震える声で、ロナージュも問いかける。リィズリットはエイプリルの方を向いたまま、堪えるように目を瞑ると、


「……ほんと、馬鹿よね」

 と、小さく呟いた。


「主人の命令もなしに、勝手に出て行って、勝手に友達の弟を危険な目に合わせて、そんであまつさえは事故まで起こして」

 倒れる自らの使用人にリィズリットは愚痴を叩き付ける。


「ほんと、世話の焼ける使用人よ」


 そう零したところで、それを遠目に見ていた野次馬がざわめいた。空からアーウィンが〈魔法の箒〉でやってきたのだ。アーウィンは固まる四人のすぐそばに降り立つと、リィズリットに声を掛ける。


「あっちゃあ、こりゃまたこっぴどくやられたもんだな」

「全くよ」

「大丈夫か?」

「うん、大丈夫」


 どこか平然としたやり取りを交わす二人にロナージュとアランは疑問符を浮かべてしまう。


「ちょ、そんなのんびりしてる場合じゃ! エイプリルさんを早くお医者さんに!」


 アランが耐えきれないと、二人へと叫ぶ。リィズリットは「分かってるよ」と短く、有無を言わせない鋭さで返した。


「アーウィン。ちょっと〈箒〉借りていい。あんたじゃあたしとエイプリルをまとめて運べないでしょ」

「別にいいが、壊すなよ」

「壊したら直してあげるわよ。あと、事故の処理も適当にしておいて貰えると助かる」


 アーウィンが答えるより早く、リィズリットはエイプリルを担ぐと〈魔法の箒〉へ乗せ、自分もその操縦席に跨った。


「ロナ。あたし、先に戻るね。部屋使わせて貰うから」


 ロナージュは何か言おうとしたが、ざわ、とどよめいた野次馬の声にかき消され、口を噤んでしまう。しかし、傍らのアランはそれで諦めなかった。


「待って! 僕も――僕も一緒に!」


 ふらふらと、未だ定まらない足取りでアランはリィズリットの後ろまで行くと、〈魔法の箒〉の荷物置きを掴んだ。


「……分かったわ。しっかり掴まってて。それと、エイプリルもちゃんと支えててね」

「――うん!」


 アランの声が通りに響いて、〈魔法の箒〉は空へ跳び上がった。






 ――私は夜に夢を見ません。眠る必要が無いからです。しかし、昼に夢は見ます。


 ――それは、砂糖菓子のように触れれば溶けてしまう、まどろみの夢物語。


 ――遠くて、儚くて、叶うわけがないと知っているのに、願って、欲しがってしまう。


 ――たった、小さなことなのです。


 ――あの、白い子猫に触れたいと、思うだけなのです。




 最初に目に映ったのは、泣き顔の少年でした。精悍に色を変えたその表情も、今は涙でぐしゃぐしゃに歪んでいました。なぜこの少年はそんなに泣いているのでしょうか。


「――、――」


 一方では、その双眸を鋭く細めて、真剣に工具を扱うご主人様がいました。いつもは、子供とばかり思わされるのに、こう云う時だけはしっかりと『魔女』なのですから、小言も言いにくいものです。


「――、――プリル」


 呼び声がしました。懐かしい声です。ああ、使用人である私が遅れてはいけません。主人から呼ばれているのですから。


再起動リブート完了。目を覚ましていいわよ」

「――お早うございます、ご主人様」

「寝過ぎよ。主人を働かせてメイドが寝てるって職務放棄もいいところじゃない」

「失礼しました。動作確認を行います。視覚、痛覚、触覚、嗅覚、味覚、五感に取り立てた問題は見受けられません。ただ、右腕が動きません」

「ここの応急処置じゃそこまでは修理できなかったわ。とりあえず最低限の機能回復と、再起動をした程度。他に問題はない?」

「はい、ご主人様。出力が最大の三割程度しか出ないようですが、問題はありません」

「そ、良かった」


 ご主人様はぐぅっと伸びをすると「あー疲れた」と喉の奥から声を出して近くの椅子に腰を下ろしました。入れ替わりとばかりに、少年が近寄ってきます。


「エイ、プリルさん……?」

「お早うございます。アラン様」

「……大丈夫、なの?」


 その言葉は揺れていました。それは、仕方の無いことだと思います。アラン様がここに居らっしゃると云う事は、今に至る過程を見ていたと云う事になるのですから。


「ええ。問題ありません。ご主人様に修理して頂きましたので」


 『修理』と云う単語に、アラン様の目が揺れました。


「アラン様に一つ告白をしなければなりません」

「……なに、を?」

「私は人間ではないのです。私はご主人様によって――正確には先代の『魔女』によって設計され、ご主人様の手で作られた、〈自動人形〉(ホムンクルス)です。言い方を変えれば、〈使い魔〉(ファミリア)とでもなるのでしょうか」


 息を呑む音が聞こえました。沈黙が、それを肯定だと示していました。


「私は人を模した形として生まれました。それは言うなれば『嘘』。自分で得た知識を持つのではなく、誰かの手による知識のみを詰め込ま(プログラムさ)れた存在なのです。『魔女』のメイド(に作られた存在)であり、人を助けるべき役目の使用人メイドなのが私です」


 この機械仕掛けの身体はままなりません。


 人よりも単純なことには特化している一方で、できないことはあります。それは時に歯痒く、自らの身体を卑下し、自由な可能性を秘める人を妬まざるを得ない程です。

 それでも、私は願ってしまうのです――。


「ですが、それはあくまでも一つの側面。心を揺るがす経験をしたものが、心を揺るがせるものを作れるように。『嘘』の痛みや優しさを知るものが、優しい『嘘』を吐けるように。私は誰よりも人らしくある『魔女』によって、誰よりも人らしくあるように作られました」


 人ならざるものに、人であれと云うのはなんとも難しい事でしょうか。それは命綱の無い綱渡りのような危うさです。与えた者も、与えられる者も、それが茨の道であることを知っています。


 しかし、私はそれを拒もうとは思いませんでした。造物主たる、『魔女』も決してそれを諦めようとはしませんでした。


 その綱渡りを越えた先に、何があるのか。


 作られたものだからこそできることが、きっとあると、その『嘘』を信じたのです。


 形の無い『魔法』の形を夢見たのです。

 だから、なのでしょうか――。


「私がアラン様に関わることを選択したのは、私の意志です。限られた選択肢しか選べない私が、人を助けることでただの『嘘』ではなく『魔法』になりたいと願ったのです」


 夢を見たいと、あの自由な猫に触れたいと、私は願い続けるのです。


「……信じられませんか?」

「……」

「仕方の無い事でしょう。これは作られた人形が喋る『嘘』なのですから」

「違う、よ」


 震える声が、私の既定された心を震わせます。


「そんなこと、知ってるよ……! エイプリルさんが嘘を吐いてないって、僕は知ってるよ! だって、エイプリルさん自身が言ってたじゃないか。「私は嘘が吐けない」って」


 涙に濡れる瞳が、私を捕えていました。


「僕は……エイプリルさんのおかげで、頑張ろう、って思えたんだ。僕はもっと色んなことを知ろう、って思う。それで、いつか……僕だけの、『嘘』なんかじゃない物語を、作るんだ」

「――それを楽しみに、お待ちしています」


 込み上げる想いは、行き場を失くして渦巻きます。少年の茶色の瞳に映る自分の姿を、私はどうしてか、見ることができませんでした。


 アラン様の腕から白い子猫が、もがいて飛び出ました。そうして、とことこと歩くと、私の足に体を擦りつけます。私はゆっくりと手を伸ばし、その頭に触れます。


「……ああ、私は『魔法』になれたのですね」


 その毛並は、予想通りにふわふわで、もこもこで、さらさらでした。





「ねーぇ、エイプリルー。まだなの?」

「もう少しお待ちください。あと半分と云ったところです」


 私は紙の束を手に、ご主人様へと返答します。

「うぇ、まだまだじゃない」

「いいじゃないですか。代わりに私の記憶容量のアクセス権をお渡ししたのですから」

「……いや、それはいいんだけどさ。ってか、あんたって自分の記憶ログを小説形式で出力できる機能とかあんの? あの師匠、そんなギミック作ってたの? 芸術性にてんで乏しかったあの筋肉達磨が?」

「いえ、それは私の純然たる趣味です。決して、誰にも見せることのない、私による、私の為だけに執筆される、私が主人公の物語なのですから。とは言え、こうしてご主人様に見せてしまいましたが」


 話しながら、ゆっくりと私は手の中の物語を読みます。それは、少年が描いた、とある事故で三日月型の傷を負った――マーチと名付けられた白い子猫の物語。


「なんて言うのか。エイプリルも大概、お馬鹿よね」

「ご存じなかったのですか? 四月の始まりは、嘘と馬鹿で出来ているのですよ」


 拙い、粗削りな物語は、どこかあの子猫の鳴き声を響かせていました。

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