6:四月の嘘 ~April Fool/前篇
――さて、これから私は一つだけ、嘘を吐かせていただきましょう。
私は『町』と云うものが好きです。
町には様々な人や物が生きて、生活をしています。それらは、そのそれぞれが主であり、それぞれの物語を持っています。私は、人の流れに佇み、それを眺めることが好きなのです。
――しかし、私のご主人様はそうではないようです。早い話、町――そして、その中に生きる人が苦手であり、人嫌いなのです。使用人の身としては困ったものなのです。
「ね、ねぇ、エイプリル。だ、大丈夫かな? あんまり目立ってない、よね?」
先日のミリア様やセシル様は特別でした。アーウィン様は幼少の頃からのお知り合いとのことですので、これも同じ。先代に関しましては、特別と云う枠すらも越えているのでしょう。特別でなかったのは――ロナージュ様ぐらいでしょう。
「ちょっと、無視しないでよぉ! あうう、なんでこんなに人が多いの……? 今日って何か特別なことがあるの……?」
「何もありませんよ。これが、この町――イシャーウッドの普通の光景です」
「嘘。うそだ。だって、前に来たときはこんなんじゃなかったもん」
「何時の話をしておられるのですか。私は嘘を吐けませんよ。ほら、もう少ししゃきっとして下さいまし。折角ご友人の家に招待を受けたのですよ」
「ううう、ロナぁ。お家どこぉー……?」
それでも、ロナージュ様とご主人様は仲良くなられました。
――こうして、招待を受けたご主人様が遊びに出かけるほどに。
「しかし、ご主人様。その格好はどうにかならなかったのですか?」
私はほぼ真後ろの姿を見て、溜息を吐かざるを得ませんでした。大きなつばを持った黒い帽子を深く被り、同じく黒いローブを着た姿は明らかに周囲から浮いているからです。
「だって、目立たないようにしたかったんだもん」
「逆効果もいいところですよ。皆さんすれ違い際に必ず見ていかれてます。その格好、『魔女』の宣伝をしているのか思いました」
「そんなわけないよ! ってか、気付いてたならもっと早く教えてよ!」
「いえ、教えるまでもないかと思っていたのですが。今更ですが、ご主人様は変なところで馬鹿ですよね」
「ば、ばばば、ばかって言ったー!? あたしのメイドなのに、主人に向かって馬鹿って言ったー!?」
「思ったままを言ったまでですよ。私は嘘が吐けませんので」
がっくりとご主人様は肩を落としてしまいました。変に反論しないところを見ると、素直で可愛らしいのですが、如何せん何事にも素直と云いますか、実直すぎるのが残念な所です。
「ともかく、急がないとロナージュ様を待たせてしまいますよ。もう間もなくでお約束のお昼になるではないですか」
「えっ、でも、ロナの家に行く前に本屋に寄るって……」
「それは、ご主人様が予定通りに行動できた場合の話です。支度に余計な時間を取られてしまったのですから、そのような暇はもうありませんよ。私も寄りたかったのですが、残念です」
私の少ない楽しみのひとつ、それが読書です。
使用人としてご主人様のお世話をするのが、私の仕事ではあるのですが、暇ができることは多々あります。そのような時、私は読書をして過ごすのです。本を読むことは、私のこの小さな心を軽くしてくれるのです。その内容はさほど問題ではないのです。自分の知識の及ばない未知の世界に触れることができる。その行為が心にに羽を与えてくれるのです。
「あう……せっかく、自分で選べると思ったのにぃ……」
ご主人様は心の底から残念そうにそう呟きました。
ご主人様も読書を数少ない趣味の一つにしています。滅多に外出をしないご主人様にとって、自分で本を探す機会は殆どありません。多くの本の中から運命的な一冊を選ぶ、それを楽しみにしていたのでしょう。
「ロナージュ様とのご用事が終わってから時間があれば足を運びましょう。何はともあれ、今はそのロナージュ様の元へ急ぐのが先決ですよ」
「うぅー、分かってるってば」
ご主人様がすぐ後ろにいるのを確認して、私は足を進めます。
イシャーウッドの町並みを歩き抜けながら、私は周囲を観察していきます。確かに、ご主人様が仰るように、通りには大勢の人がいました。市場へ向かうのでしょう、多くの荷を積んだ馬車が通りを急いでいる姿は、いつもは穏やかなイシャーウッドでは珍しい光景ではあります。
「ねぇ、エイプリル」
「何でしょうか、ご主人様」
人ごみを歩きながら、ご主人様は話しかけてこられました。
「ロナの用事、ってなんだろ」
「私には図りかねるご質問ですね。ご主人様は何も聞かれてないのですか?」
「うん……。一昨日ロナが来た時に「明後日うちにきて欲しい」って言われただけだもん。ってか、エイプリルもそれを聞いてたよね」
「ええ。ですが、仲の良いお二人の事ですので、私の知る余地のない場所で、何か話されている可能性もあると考えてました」
「……ぅー。それが何もなかったんだもん。まぁエイプリルのいないところでもいっぱいお喋りしたけどさ、全然そういう話にはならなかったし……」
そう言うと、ご主人様は判り易く頬を膨らませて口を尖らせてしまいました。全く、可愛らしい、色々な意味で子供のようなご主人様です。
私たちは、人ごみを外れるようにして、大通りを離れます。抜けた先は荷台や、馬一頭がようやく通れると云った程度の、小さな通りです。周囲には大通り程の人はいませんでした。穏やかな空気に、ご主人様も帽子のつばを上向きにして落ち着いた様子を見せています。
そこからしばらくも歩かないうちに、通りを流れる空気に乗せて、甘い麦の焼ける香りが漂ってきました。それにご主人様も気が付いたようで、きょろきょろと周囲を見渡しています。私はそんなご主人様に「もうすぐですよ」と言って、足を進めます。そうして、百歩も歩かないうちに、ロナージュ様のご自宅へ辿り着きました。
『パンの店 オレンジ・ピール』
軒下に掛けられた看板にはその文字と半分に切られた瑞々しいオレンジの絵が刻まれていました。周囲には、柑橘系の匂いが漂っていて、店の名前を自ずと思わせます。
「ここがロナの家?」
「ええ。そして、ご主人様が毎朝食べているパンを作っている場所にもなります」
「ん。そいえば、確かに嗅ぎ慣れた匂いかも」
くんくん、とご主人様は鼻を鳴らします。
「うん。本当だ。ロナの匂いがする。早く行こうよ!」
ご主人様がそう言って、お店の入り口に繋がる、五段しかない小さな階段を上ろうとした時でした。
「――う」
鼠が潰されたときのような声を上げて、ご主人様は立ち止まりました。その様子は、まるで蛇に睨まれた蛙。完全に硬直してしまっています。
私はご主人様の横からその先を覗き見ました。ガラス扉の向こう、そこから顔を覗かせていたのは、小さな、ふわふわの毛並みを持つ白い子猫でした。
ご主人様は人だけではなく、猫などを初めとする動物も苦手です。特に、このような猫や犬、兎などの小動物は格別に嫌っていました。家の近くにその姿が見えたと分かった途端に工房に籠って最低半日は出てこないという有様です。そして、その度に私を派遣するので、何とも困ったご主人様です。
私がご主人様の脇をすり抜けて近くから様子を窺おうとすると、その猫は奥へするりと消えていきました。代わりに、からんころんと鈴を鳴らして開かれた扉から出てきたのは、オレンジ色の髪を三つ編みにした、そばかすが可愛らしい女性――ロナージュ様でした。
「あ、こんにちは。リズ、エイプリルさん。丁度良かった、今から迎えに行こうと思ってたんです。エイプリルさんはいいけど、リズははぐれたり、迷ったりしてないか心配で」
「お気遣い有り難うございます、ロナージュ様」
私はスカートを摘まんで、礼をします。
「あ、そんなに畏まらないで下さい。なんだか、照れちゃうんで。ところで、えーと、エイプリルさん」
「何でしょうか、ロナージュ様」
「リズ、固まってるけど、どうしちゃったの?」
「さあ。きっと猫にでも化かされたのでしょう」
◇
「どうぞ。エイプリルさんに比べたら、本当に粗末な出来だけど」
ロナージュ様はそう言って、ことり、とテーブルにいくつかの皿を並べました。オレンジの薫る琥珀色の紅茶と、パンの切れ端を揚げて粉糖を塗したお菓子でした。
私たちが通されたのは、店のカウンターを抜けて、調理場の更に奥にある休憩室兼談話室の様な部屋でした。部屋は整然と片付けられており、ロナージュ様の几帳面さを窺うことができます。
「わわっ、美味しそう! ぜーんぜん、負けてないよー! ロナのパンはね、エイプリルの作るパンより本当に美味しいんだから。……んー! 美味しい!」
「あはは。なら良かった。言ってくれたらまたいっぱい作るから、遠慮せずに言ってね」
「ご主人様。この際ですので、ロナージュ様のご厚意に甘えてカロリーを過剰な程に摂取してください」
「またエイプリルはそんな事言う……」
「本心ですので、何度だって言うと思いますよ。ご主人様はもうふた回りは贅肉を付けてもいいと思います。いえ、付けるべきです」
「この使用人、きっとあたしを太らせて食べる気だ……」
「あ、あはは。でも、リズは確かにもう少しお肉付けてもいいかも、ね」
「ろ、ロナまで……! あうう……誰もあたしの味方はいない……」
そう言いながらご主人様はパンをぽりぽりと兎めいて食べていました。さあさあ、その調子でもう十本は食べて欲しい、と私は思いましたが、流石に口には出しませんでした。
「しかし、これだけご主人様が食に対して興味を持つ、と云うのは珍しいですね。私が何を作ろうとも、取り立てた興味を見せる事がありませんでしたのに」
「そうなんですか? エイプリルさんのお料理、本当に美味しくて、毎日あんなのを食べれるリズが羨ましいぐらいだったんですけど」
「うー、エイプリルの言い方は語弊があるんだよ。別にエイプリルのご飯が美味しくないって、あたしは思ってないよ。ただ、ロナのパンって、なんだかついつい食べちゃえるんだ。素朴なんだけど、温かいっていうか。食べてて、本当に幸せな気持ちになれるんだ」
「ちょ、ちょっとリズっ! いきなり変な事言わないでよ。心の準備が無いときに言われると照れちゃうわ。……その、でも、あたしなんかのパン、褒めてくれてありがとうね」
「あーもう、ロナ! 自分なんか、って言うの禁止! そんな事また言い出すようだったら、またあたし怒るよ」
「う……ご、ごめん。あの時のリズ、すごく怖かったから、もう勘弁して」
ロナージュ様は顔を引きつらせて苦笑いを浮かべました。余程、初めて会った時のご主人様が怖かったのでしょう。
「……あの、さ。リズ」
「ん、何? ロナ」
すとん、とご主人様の真向かいにロナージュ様は腰を下ろすと、言いにくそうに、もじもじと胸の前で組まれた手を遊ばせます。やがて、ロナージュ様はおずおずと、反応を窺うような慎重さで口を開きました。
「今日、来てもらったのは、少し相談したいことがあるんだ」
「相談? ……はっ! もしかして、結婚とか!?」
「ち、ちちちちがうわよ! クラークはまだ帰ってこれないしっ!」
「てことは、クラークさんが帰ってきたらすぐにでも?」
「そ、そうだけどー。でも私が考えてるだけでクラークがどう考えてるかまだ分からないし。私もこのお店を続けたいけど、クラークがやっぱり向こうでお仕事したいんだったら私もイーベルヘルに行かないといけないのかな、とか思ったり――じゃなくてっ!」
「案外ノリノリだったよね」
「将来設計があることは良いことです。転ばぬ先の杖、ですね」
「じゃなーくーてー! 今日、リズに相談に乗って欲しいのは、弟の事なの」
「弟? ロナ、弟がいたんだ」
ご主人様はそう呟くように口にして、視線をふわりと宙へ浮かせました。そのどこか切なげで優しげな表情は、先日の兄妹を思い出しているのだと、私は読み取りました。
「……うん、そうなんだ」
しかし、一方のロナージュ様の表情はどこか困り事があるかのように、曇っていました。そして、それが間違いでなかったと示すように、ロナージュ様はおずおずと、まるで初めてご主人様の前に現れたときのように口を開きました。
「ええとね、その弟の事でリズに相談したいと思ったの」 「にゃー」
「……?」
「……? 私じゃどうしようもなくて」 「にゃー」
「……?」
「……? 良かったら話だけでも」 「にゃーん」
「――可愛らしい合いの手が入ってますね」
私はロナージュ様を飛び越えて、その奥へと視線を投げます。
「え? あ、いつの間にきてたのっ?」
ロナージュ様も気づいたようで、振り返って椅子の背中越しにそう言うと、手を差し出しました。すると、その手をとたとたと白い毛並みの猫が駆け上がります。その白い子猫は、ぐるりとロナージュ様の首の後ろを回り、逆側の肩からそのまま降りると、ロナージュ様の膝の上に陣取りました。くるりと辺りを見渡した子猫とご主人様は目が合うと「ひっ」と喉の奥を鳴らします。
「あら、その子。先ほどお店にいた子ですね」
「はい。えーと、そうですね。丁度良かったかもしれません。この子、弟の飼い猫みたいなんです。……って、リズどうしたの?」
「いや、ううん、だいじょぶだよー……。弟さんの話で必要なら、続けて。うん、だいじょぶだいじょぶ……」
ぶつぶつ、とご主人様は自分に言い聞かせるように、独り言を続けます。ロナージュ様は「そ、そう……?」と困惑しながらも話を続けようとします。
「にゃーん」
ですが、猫の鳴き声がそれを阻みます。白い子猫は、周囲をまるで気にした様子もなく、目を細めごろごろと気持ち良さげに喉を鳴らして、ロナージュ様の腕に頭を擦り付けます。ロナージュ様も困った様子でしたが、甘えてくる子猫にしぶしぶと、その喉を撫でてあげてました。
「ロナージュ様。あの、」
「あ、ごめんなさいっ。えと、話が途中でしたね。そうでした、この子は弟がどこからか連れ込んできたんです。それで、いつの間にか居着いちゃって。うち、パン屋なんで、あんまり良くないかなって、思ったんですけど、以外とお客様にも好評で――」
「すみません、ロナージュ様!」
私は耐えきれず、やや大きな声を出してしまいました。ロナージュ様も驚いたようで、口を閉じると、私を見ます。
「ど、どうかしたんですか……私、何か変なこと……」
「いえ。そうではありません。ただ、お話の前にひとつ、よろしいでしょうか」
「……? 何ですか?」
「その子……」
ロナージュ様の視線が私から、膝上の白い子猫へと向きます。
「この子が、どうかしましたか?」
ごくり、と喉を鳴らし、何事が予想もつかない、と云った様子でロナージュ様が尋ねてきます。私はそれに冷静に返答を――
「その子を抱かせて貰いたいのですが」
できませんでした。私は嘘を吐けないのですから、仕方の無い事です。
「え、ええ!?」
「我慢するべきかと考え、黙って目で愛でるだけに留めていたのですが、私の忍耐力不足でしょうか、耐える事ができませんでした。お願いします。抱かせて下さい。――いえ、抱く、だけでは物足りません。そのふわふわでもこもこでさらさらな毛並みを心ゆくまで堪能させて欲しいのです。そして、もし許されるのであれば、そのぷにぷにの肉球を嫌と云う程に揉み拉きたいのです。願わくばそのお腹に顔を埋めたいと考えるほどですが、どうでしょうか」
「……エイプリルさん?」
ロナージュ様は硬直してしまいました。
「……あのね、ロナ」
「……ねぇリズ。エイプリルさんどうしちゃったの? 何だか、いつもと違うんだけど……」
「……いや、あの。ごめん。これでも正常なの」
こそこそと話される中、私は黙ってその膝の上の白い毛並の子猫を注視していました。
「エイプリルさん、猫好きなんですか?」
「ええ。勿論です」
私はきっぱりと言い切りました。それ以外の返答は存在しません。
「私はありとあらゆる生物に好意を抱いています。しかし、猫などの小動物は格別です。彼らは生存能力と引き換えに、人間に対する愛らしさと云う武器を持っています。故に愛玩動物、故に愛すべき存在なのです」
「……お、おお。何だかよく分からないんですけど、説得力がある……」
「したがって、触ら――抱かせていただいて宜しいでしょうか」
「あの、そんなわざわざ言い直さないでもいいですからっ」
そう言うと、ロナージュ様は子猫の脇に両手を差し入れて抱き上げました。「にゃあ」と可愛らしい鳴き声が部屋と私の聴覚に響きます。
「どうぞ。人懐っこい子なんですよ」
「では、失礼して――」
私が手を伸ばし、猫と目が合った時でした。
「ぎにゃぁー!」
子猫はそんな声を上げて、腕の中でもがき、暴れました。ロナージュ様も予想していなかったようで、その手を放してしまいました。
地面へと放り出された子猫は何事も無かったかのように音もなく床に降り立つと、そのままぴゅうと私の脇を駆け抜けて、ご主人様の元まで走って行きます。
「にぎゃあーっ!!」
しかし、ご主人様はそれを止めることもできず、子猫と同じような悲鳴を上げてご主人様が椅子ごと後ろに倒れました。大きな音が部屋には鳴り響きます。子猫はそれでも平然とそっぽを向いたまま窓へと向かいました。
「っ! 外はダメ!」
その先を予測してロナージュ様が声を上げましたが、子猫には通じなかったようで、僅かに開いていた窓の隙間から外へと飛び出していきました。
「あ……どうしよう……」
ロナージュ様は眉根を寄せて、声を漏らしました。
「猫なんだし、そのうち勝手に戻ってくるんじゃない? あいたたた……」
「いつもはそうなんだけど……最近は人の行き来が多くて、馬車なんかも結構走ってるの。だから、まだあの子小さいし、危なく無いようにって、家に入れてたんだけど……どうしよう……」
「……んー、エイプリル」
「はい、ご主人様(イエス、ミロード)」
「さっきの子猫、探してきて貰っていい?」
「良いのですか?」
「……ねぇ、あんたの頭の中は子猫と戯れることしかないの? まぁ、捕まえたら好きなだけもふってきていいと思うよ。ね、いいよねロナ」
「本当に捕まえてきてくれたら、そのくらい全然構わないけど……本当にいいんですか?」
不安げな表情のままのロナージュ様に、私は笑顔で返します。それが使用人の役目なのですから。
「ええ、勿論ですよ。ご主人様のご友人と猫のためならば、どのような命令でも受け付けましょう」
***
「――エイプリルさん、すごい勢いで出て行っちゃったんだけど……」
「うん、まぁ、いつもの事だから気にしないで」
「いつもの事なんだ……」
エイプリルの動物好きはかなりのものだと、リィズリットも把握している。だからこそ、家の周囲に動物が現れたとき、慰労を兼ねて派遣しているのだ。しかし、大抵が動物との追いかけっことなってしまう。
「……もしかして、エイプリルさん。動物から嫌われてる?」
リィズリットは目を細めて逸らすだけで、何も答えなかったが、それが紛れもなく肯定を表していることはロナージュも理解したようだった。
「でも、エイプリルさん、いつもは凛々しくてカッコ良い大人の女、って感じがしてたから、意外だったなあ」
「そう? 小言が煩いんだよ? さっきなんてあたしに向かって馬鹿って言ったんだよ。使用人なのに、主人に対して馬鹿ってどうなの?」
「あ、はは。でも、リズとエイプリルさんがそれだけ仲がいいってことだよね」
リィズリットは「そうなのかなあ」と宙へ向けてぼやいた。そして、「仲がいいってのは、何だか違うような」と小さく続けた。それが聞こえたのか、ロナージュは少し考えて、
「ねぇ、リズにとってさ、エイプリルさんってどんな人なの?」
「あたしにとって、かー。なんだろ、姉みたいなようでいて、妹みたいでもあって……むしろ、娘、みたいな……。うーん、よく分かんないよね」
「じゃあ、リズはエイプリルさんを家族って思ってるんだね」
リィズリットは僅かにではあったが、はっとしてしまった。家族である、と云うのは大前提に考えていた事ではあったが、それを他人から指摘されることは、考えてもいなかったからだ。
「――そっか、そうかもね」
リィズリットは一人納得したかのように呟く。それを、ロナージュはどこか微笑ましく眺めると、思い出したかのように表情を陰らせ、
「リズ、改めて相談いいかな。その、私の家族、弟のアランのことなんだけど――」
と、静かに話し始めた。
◇
子猫を追って、外に出た私を出迎えてくれたのは、オレンジの爽やかな薫りを町に流していく暖かな風と、遠く隣町から届けられる昼を告げる鐘の音、そしてそれに合唱する子猫の鳴き声でした。
鳴き声の出所はすぐに見つけることができました。音と気配に沿って顔を上げると、オレンジの絵が描かれた看板のその上、小さな屋根の上にその姿を発見します。
「あらあら。高みの見物でしょうか」
「にゃーん」
挑発めいたその鳴き声に、いいでしょう受けて立ちましょう逃げるのでしたらどこまでも追いましょう、と勝手に意気込むと、私はぐっと膝を曲げ、力を溜めると一気に解き放ちます。体に覚える浮遊感。
「にゃっ!?」
すたり、とその小さな屋根の先っぽに着地をした私へ、子猫は驚きの声を上げます。手を伸ばし掴もうとするのですが、猫は素早く身を翻すと、ひょいとジャンプひとつ、私の目線の高さほどにあった窓の隙間から、薄暗い家の中へ入ってしまいました。
「あらあら。外に出た意味がなくなりましたね」
逡巡もそこそこに、私は中に入って追うことを決断しました。窓は引くとすぐにきぃと高い音を立てて開きました。私は窓枠に手を掛けてひょいと中へと飛び込みます。
部屋の中は外から見たそのままに、外から入ってくる明かりだけの薄暗い部屋でした。壁一面には大きな本棚と、所狭しと詰め込まれた本がその外側まで零れています。窓側の壁につけられた机と、その横に置かれたベッドは簡素なもので、実用性を重視したものでした。
その静寂満ちる、人の気配のしない部屋の中に、少年はいました。
外からの闖入者である私に驚くでも、そもそも目を向けるでもなく、外から差し込む光を浴びて本を読んでいました。置物か、人形かと思う程に、その少年は身じろぎひとつしませんでした。しかしややあって、本のページをぱらりと捲るのを見て、私はどこかほっとしました。
「窓から失礼します。私の名前はエイプリル。『魔女』に仕える使用人でございます。猫を追ってまいりました」
とは言え、黙っているままにはいきません。私はそう声をかけ、スカートを軽く摘まんで一礼をします。
しかし、その少年は黙ったままこちらを一瞥しただけで元の本へと視線を戻してしまいました。どうしたものか、と私は少年へと視線を向けてしまいます。少年はオレンジ色の、男の子としてはやや長めな髪を雑に伸ばしていました。その姿はどこか女性的にも思え、私に見知った人物を思い出させました。
「もしかして、ロナージュ様の弟様ですか?」
静かに少年の顔が上がり、目が合いました。正面から見るその顔は、確かにロナージュ様の面影を思わせます。無表情な顔に、小さな感情が浮かんでいました。
「……姉さんから、言われてきたの?」
少年はぽつり、と水面が風に揺れるような静けさで声を発しました。
「何をでしょうか?」
「……僕を連れ出せ、とか」
「いいえ。何故そのようなことを?」
「……僕が、この部屋から、ほとんど出ないから」
ぺらり、と本を捲る音に乗せて、まだ声変わりしていない少年の高い声が部屋に響きます。
「僕は、ずっとこの部屋にいるんだ。もう、それが一年近く続いてる」
ぽつり、ぽつりと、本に目を落としたまま、まるで朗読をするように少年は語ります。
「所謂、引きこもりと云うものでしょうか」
「……そう云う言葉があるのか分からないけど、たぶんそうだと思うよ」
「何故、外に出られないのですか?」
「……ここには、本があるから。僕は、本を読んでいるのが好きなんだ」
改めて部屋を見渡すまでもなく、部屋の中には沢山の本が溢れていました。近くに転がる、幾つかの背表紙をざっと見るだけでも、その種類は雑多で、ご主人様が所有しているものを種類でも、冊数でも超えているように思えました。
「全部、父さんが残してくれたんだ」
その言い方に、少年のお父様がもういない事を察せられ、何も言えませんでした。人の死に触れるのは、何よりも難しいのです。
「本はさ、読んでいると、色んなことを忘れさせてくれる。辛いことも、悲しいことも、全部。本さえあれば、他は何もいらない。僕は本を読んで、暮らせてればそれでいいんだ」
それだけを言って少年は口を噤みました。そして、再び本の世界へと戻ります。
部屋の中には、無数の本が並び、また乱雑に積まれています。それは本棚だけではなく、床や、ベッド、テーブルの上。場所を選びません。私はそれらを静寂の中で、見渡します。
「……――貴方は嘘吐きですね。そして、貴方の世界は、嘘にまみれたこの小さな部屋だけなのですね」
少年の視線が、私へと向いたのを、私は感じ取りました。
「この部屋には、嘘が満ちています。それは沢山の、想いに満ちた嘘」
「……本の、物語のことを言ってるの?」
視線を少年へ戻し、こくりと頷いて「嘘と言い切るには些か乱暴ですが」と続けます。
「『嘘』と云うものが、一体どのようなものか貴方はご存知でしょうか?」
「……良くないこと。相手を、騙すようなこと」
「確かに、それは正解です。ただし、一側面でしかないと、私は考えるのです。有り体に言えば、嘘は人の心を揺るがすものです。それが、善きにしろ、悪しきにしろ、です」
軽く屈んで、床に置かれていた本を拾い上げます。背表紙を見れば、読んだことのあるタイトルでした。遙か遠い場所を旅する、心踊る冒険譚です。
「ですので、きっと貴方がお持ちになるそれは良き『嘘』。柔らかく表現するならば、『優しい嘘』と云ったところでしょうか。その嘘は砂糖のように甘い。故に甘えてしまう。優しい嘘に抱かれて眠るのは心地が良いことです。それは、そのための『嘘』なのですから」
何も言えなかったのか、言わなかったのかは定かではありませんが、返答はありませんでした。テーブルの上には積み重なる本の隙間を縫うように、何枚かの紙が置かれてありました。私は拾い上げた本を、その上にそっと置きます。
「決してそれは悪い事ではありません。当たり前の事なのです。人は『嘘』を心の底で求めてしまうのです。だからこそ、物語は作られ、私ですらそれを求めてしまうのです。しかし、それに傾倒し、真実から目を逸らすのは決して良い事ではありません」
「…………」
「――失礼しました。使用人の分際で言葉が過ぎたようです。ただ、最後にもう一つ付け加えさせていただくとするならば……あの白い子猫は、貴方が飼っていると聞きました」
私が見渡して探そうとすると、少年は静かに体を僅かにずらしました。視線が通らないように隠れていた子猫の丸くなって寝ている姿が現れます。
「その自由奔放な子猫は、嘘だらけのこの部屋の中で、唯一の真実なのかもしれません」
私はゆっくりとした足取りで、少年と小猫へ足を進めます。
「――私は猫が好きです。彼らの自由な姿は、私に無いものを持っているから」
手を伸ばせば触れられるほどの近さになって、しゃがみ込みます。少年はこちらを黙って、じっと見ていました。私は笑顔を返します。
「猫はお好きですか?」
「……うん」
「触ってもよろしいですか?」
「……あ」
さっと、少年の顔が赤くなりました。恥ずかしそうに、目も逸らされます。私はそれをくすりと笑って、
「猫ですよ。貴方の猫なのでしょう?」
「あ、う、うん……」
そのまま手を子猫へと向けます。しかし、先程と同じように、子猫はそれに気づくと、はっと跳び上がって頭上の窓の縁に登ってしまいました。そして、開いていた窓の隙間からすぅと、外に出てしまいました。
「何故なのでしょうか、私は猫を初めとした動物に好かれないのです」
「……猫は、自由な動物だから。自分に構ってくるものからは、逃げるんだ」
「そうかもしれませんね。ただ、私は――」
真っ直ぐに少年を見据えます。
「触れたい、と思わざるを得ないのです。だから、関わることをやめないでしょう」
私は立ち上がって、床に触れていたスカートの裾を軽く振って埃を落とすと、窓の向こうを見据えます。
「さあて。私は本来の目的を遂行しようと思います。今戻っても、ご主人様達のご歓談を邪魔するだけですからね」
猫が出て行った窓を大きく開きます。風がさあ、と部屋に流れ込んできました。
「……行くの? 追っても、逃げられるだけかも、しれないのに?」
「ええ。無論です。私にはあらゆる限界があります。ですが、それを自分で諦めてしまいさえしなければ、それは限界足り得ないと思うのです。こうして、猫に触れたいとささやかに願うことも、意味のないことにしてしまいたくないのです」
「僕は……」
少年の顔が、僅かにテーブルの上に向けられました。だが、それも一瞬で、すぐに少年は視線を床へと落としてしまいます。私は、自ずとその少年に手を伸ばしていました。
「――どうするべきか、考えていましたが。私もご主人様のメイドです。ならば、人を救うことも、その仕事のうちでしょう」
自分にだけ聞こえるように呟いて、私は、ダンスへと誘うように掌を上にして少年へと示します。少年はしばらくそれを見ていました。
「さぁ、猫を捕まえに行きませんか? 取り急ぎ、猫に触れる事ができる人が――あの子猫が懐いている人が必要なのですが」
「僕でいいの……?」
「貴方でなければ、いけないのです。貴方の猫なのですから。嘘ではありませんよ。私は嘘が吐けませんので。ああ、忘れていました。お名前は何と仰るのですか?」
少年は息をすぅと吸って、吐き出すように「アラン」と言いました。
「では、アラン様。参りましょう。『魔女』のメイドである私が、ささやかな『魔法』を貴方へ差し上げます」
私はそう笑い恭しく頭を下げて、アラン様の手を取ると、窓の外へと飛び出しました。