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3:森の中の魔女 ~Witch in silent forest/後編

 早朝を知らせる鳥の声に合わさるように、遠くに鐘の音が木霊し始めた頃、目が覚めたロナージュが最初に見たものは、黒曜石を思わせる漆黒の瞳だった。


「……っ!?」


 慌ててロナージュは飛び起きる。その反動で、ずるり、と体を滑らせてしまい、ソファーの下に落ちてしまった。


「あ、たた……」


 床と打ち付けた肩をさすりながら、ロナージュは自分を見下ろす黒い双眸を見た。


「――」


 言葉はなく、リィズリットは漆黒の瞳を向けるだけだ。重圧を帯びる沈黙にロナージュは耐えきれず、シーツを掴んで体を起こすと、そのまま体を守るように身を包んだ。


「……な、なに」


 ようやく絞り出した声に、リィズリットは目を細めてぷいと顔を逸らした。


「――朝ごはん。食べないと、全部あのバカに取られるよ」


 ロナージュが寝てしまっていたのは、食事を行うダイニングからほど近い、部屋続きになっているリビングだった。ロナージュはリィズリットの視線を追って、隣のダイニングを見やる。


「よう。寝坊助。今頃起きたか」

「お早う御座います、ロナージュ様。朝食のご準備ができております」


 そこにはアーウィンがまるで自分こそがこの家の主人だと云わんばかりの堂々とした態度で、朝食を取っていた。


「な、なんでっ、アーウィンが……」

「そりゃあ、様子見に来たのさ」


 もぐもぐ、と四角く切られたデニッシュをその角から頬張りつつ、アーウィンは答える。思えば、周囲には焼いたパンの甘い香りが漂っていた。それは、ロナージュにとって懐かしく、慣れ親しんだ香りであった。


「……それ、もしかして、ウチのパン……?」

「ああ、うん。お前の外泊を報告するついでに貰ってきたのさ」


 何でもないかのようにアーウィンはそう言って、再びデニッシュを齧った。


「良いパンですね。いつもお世話になっております」

「え、いつも、って……」

「ええ。昨日になってようやく知り得たことではあるのですが。買い出しとしてアーウィン様によくお願いしていたのです。自分で焼くそれより、遙かに美味しいため、毎食のように食卓には並べさせて頂いておりました。よもやロナージュ様のご実家のものとは、驚きです」

「あ、あう……」


 正面からそう言われては照れてしまう。とは言え、嬉しいのも半分程度。ロナージュの家がパン屋をしているとは云っても、ロナージュがその全てを担っているわけではない。多く見積もっても、業務に関しては五割程度だ。だからこそ、こうして外泊をして家業を放ったらかしにしても問題ないわけである。


「ま、思ったより元気そうで安心したよ」

「え……?」

「お前のことさ。どうせ泣き言言って、もう帰りたいだの、なんでこんなことを自分がしないといけないの、だのぐずぐず考えてんのかと思ったよ」


 ロナージュはそれに何も言えなかった。図星だったからだ。


 あの鉄クズの山に一人で向かうのは、比べ様のない物悲しさがあった。何度放り投げて逃げようかと思ったかわからない。身体中を流れる汗の嫌悪感に、誰かを呪いたくなったことすらあった。それでも、こうして逃げていないのは、努力の成果でも賜物でもなく、単純にそのタイミングを逃してしまっただけだった。


「キツイとは思うが、頑張れよ。お前のことだからな」

「……う、うん」


 自分にも届かないほどの小さな声で、ロナージュは答えてしまう。胸がずきりと痛んだ。


「さってと、エイプリルさん、ごっそさんでした! やー、美味かった!」

「アーウィン様のように食べて頂けると作る甲斐があるというものです。ご主人様は食べるときは食べるのですが、工房に籠っている時など朝食が夕食になることもざらですからね」

「だって、作業してるとお腹もすかないんだもん」


 椅子に座りながらリィズリットが言う。そして、何も言わずに手を差し出すと、まん丸の目玉焼きと焼いたベーコン、そして緑鮮やかなサラダを乗せた皿を受け取っていた。


「今日がそうでなくて私は安心です。そもそも、ご主人様は痩せ過ぎなのです。だからいつまでも子供みたいな胸も育たないのですよ」

「ちょ、エイプリルっ! そこは関係ないでしょ!」

「あー違いねえ」

「うっさいこの馬鹿エロ!」


 そんなやり取りを、ロナージュは口を挟めずつい眺めてしまう。


(こうして見ると、本当に普通の女の子みたい……)


 顔を赤らめ、半ば本気で怒るリィズリットは町で見る他の子供と大して変わり無い。


「頭がいいのはいいが、栄養が全部そっちに行っちまったんだな……」

「何しみじみ言ってんのよ!」

「そうなのです。私も朝昼晩におやつと夜食、その全てで栄養バランスを細かく計算し、整えているのですが力及ばず」

「エイプリル! あんた、そんなこと考えてたの!?」

「勿論です、我がミロード。主の事を考えるのは使用人メイドの定め。ご主人様がどこに出ても恥ずかしくのない淑女に育て上げるのが、私の宿命なのです。そして、その為には外見、容姿と云うのは最も重要なメソッドとなります。ご主人様は素材が良いのですから、後はそれを補えるだけの肉体的な魅力を携えることが大事なのです」

「ああもうっ、うるさいうるさいっ! いいのよあたしは!」

「良くありません。ご主人様のサイズは上から六十九、五十二、七十。アーウィン様、これをどう思われますか?」

「ちょっ、エイプリル!?」

「子供としか言いようがないですな」

「ちなみにロナージュ様ですが、私の見立てでは上から八十一、五十五、八十と云ったところでしょうか」

「ええっ!?」


 視線の集中に、ロナージュは咄嗟にシーツを引き上げ自分を抱きかかえるように胸を隠す。


「……ロナの圧倒的勝利」


 その一言で、ロナージュは自分の顔が風邪を引いた時の様に熱くなった。


「だーあっ! もう、うるさーいっ!」


 ばん、と大きな音を立ててリィズリットは椅子を蹴飛ばし、立ち上がった。そして、テーブルに置かれたデニッシュを二枚引っ手繰るように奪うと、目玉焼きを初めとする皿に盛りつけられていたものをそのデニッシュで挟んだ。


「あたし、工房で食べるから!」


 そう叫ぶように言って、リィズリットはすたすたとダイニングを抜け、ロナージュの前まで来た。真っ黒な、リィズリットの瞳がロナージュを射抜く。


 ロナージュは耐えれず視線を下げると、リィズリットはつまらなそうに、喉の奥で咳をする。その音にロナージュはびくりと体を震わせた。


「な、なに……」

「――ろ、……あなた、今日も探すの?」


 ロナージュは小さく、こくりと頷いた。やらなくていいのなら、やりたくはない。でもそれ以外に方法が無いとするのなら、やらなければいけないと思っている。


「……だったら、奥の――昨日、探していた場所から、もっと奥を調べるといい」

「え……?」


 リィズリットはそれ以上は何も言わず、すたすたと足早に通り抜けて消えていった。


「ったく、本当に可愛くねぇな。あいつは」

「あら、そんな事を仰ってよろしいのですか? あと五年もすればご主人様は立派な淑女になれると思いますよ」

「その時はその時ですよ、エイプリルさん」


 二人はそう言い合って笑う。ロナージュは呆気にとられてしまい、何が何だか理解できていない。


「あ、あの。あれって、どういう意味……?」

「本当にお前は察しが悪いな」


 アーウィンはやれやれ、と大袈裟なジェスチャーで訴える。


「簡単ですよロナージュ様」


 続けてエイプリルはいつも通りの完璧な――いや、いつもより優しげな笑みを浮かべ、


「そのままの意味だと思います」


 と、きっぱりと言い切った。それを、ロナージュはいまいち理解できなかった。





 リィズリットの言葉のままに鉄クズの山を探索すると、昨日の苦労がまるで夢だったかのように、あっさり見本として預かったものと同じ〈携帯電話〉を発見した。更に、それからも引き続き近くを探したところ、昼を知らせる鐘の音が流れてくる前には、取り立てた労力を使う事なく二個目も見つかった。

 ロナージュは預かったものを含めた三つの〈携帯電話〉を胸に抱え、鉄クズの山から麓の魔女の家へと戻った。


「お疲れ様でございます」


 そんな風に出迎えてくれたエイプリルは、


「では、工房のご主人様までお向かい下さい」


 と言って、リビングから続く、奥の部屋へと案内をしてくれた。


 部屋の扉には薄い鉄の小さなプレートが掛けられており、『工房』とシンプルに銘が刻まれていた。こんこん、と二度扉をノックする。ややあって、気怠そうな返事が返ってきた。


「……なに?」


 ドアを半分だけ開けて、リィズリットが顔を覗かせる。そのリィズリットに見える様に、ロナージュは腕に抱えた〈携帯電話〉を見せた。


「あの……持ってきた、んですけど」

「……ああ」


 息を吐きだす様にそう言って、リィズリットはドアの向こうに一瞬だけ消えると、ドアが引かれた。部屋の中に視界が開け、リィズリットの全身を映した。


「……ええと」

「入って」


 ロナージュが〈携帯電話〉を手渡そうとしたところで、リィズリットはそう言うと、工房の奥へと足早に引っ込んでいった。仕方なく、ロナージュもその後を追って、中へと入っていく。


 工房の中に入ると、ロナージュは四方へと挙動不審のように視線を這わせた。

 天井までの高さを持った本棚とその中に所狭しと詰め込まれた本。その前に山のように積まれた鉄やよく分からない金属でできた部品たち。窓側に置かれたテーブルの上には淡い光を発する板のようなものがあり、その表面にはいくつもの文字や図形が浮かび上がっていた。傍らの棚の上には、小さな額縁が倒されて置いてある。その全てが見たことのない異質なもので、改めてロナージュは自分が『魔女』の部屋にいるのだと実感した。


「それ、頂戴」


 短く投げられた言葉にはっとして、ロナージュは胸に抱えた〈携帯電話〉を慌ててリィズリットへと渡した。リィズリットは受け取った〈携帯電話〉を表裏とじっくりと見て「使えそうね」と小さく呟いた。


「……良かった」

「少し待ってて。あまり時間はかからないと思うから」


 リィズリットはテーブルの上の物を片付けることなく、そのまま横へがちゃがちゃと音を立てながらスライドさせてスペースを作ると、そこに三つの〈携帯電話〉を置いた。


 先端が十字に削られた鉄の棒を使って砂ほどの大きさのねじが外されると、あっという間に〈携帯電話〉は分解された。リィズリットは緻密な部品が並ぶ内部から、小さな部品を外しては軽く一瞥する。そして、一瞬だけ思考すると、横にぽいと放り投げ、机の奥から似た部品を引っ張り出して、代わりに設置した。


 その作業を、ロナージュは見ていることしかできなかった。元より、口出しなど出来るわけではないが、それ以上に作業を行うリィズリットの姿は真剣そのもので近寄りがたく、小さな声を漏らしてしまうことすら躊躇われる状態だった。


(……これが、『魔女』)


 目の前で繰り広げられるのは紛れもなく、『魔女』の術のそれだ。


 常人の及び得ない、人外の理。


 人の智を越えた、魔と称される法。


 純粋な性能だけではなく、その作成の過程においても人が理解することは叶わない。


 だからこそ、それは『魔法』と呼ばれる。


 それを、ロナージュは改めて――理解できないことを――理解していた。


(……すごいな)


 その小さな背中に、ロナージュは心の中で僅かながら尊敬の念を抱いた。

 自分より小さな子供だと云うのに、この目の前の少女は自分の足で立っている。自分だけの武器を持って、自分の土俵で戦っている。それは、ロナージュにとっては、どこか眩しく見えた。


「――ねぇ」


 そんな時、リィズリットが振り返ることなく、作業を行ったまま言った。


「恋人。クラークさん、だっけ。そんなに、会いたいの?」

「うん……」


 半ば即答気味に、ロナージュは答えた。リィズリットは「そう」と淡泊に返す。


「クラークさんは、そんなに大事な人なの?」

「……うん」


 今度は一拍を置いて、噛み締める様に答えた。


「どんなところが?」

「……私はいつもグズで、のろまで、みんなに迷惑ばかりかけてたの。アーウィンは、いつもあんな風に、茶化して馬鹿にするけど、クラークは、私に優しくしてくれた」


 ぽつぽつとたどたどしく、それでいてさらさらと、まるで胸の中に溜めていた思いをそのまま流す様にロナージュは言葉を紡ぐ。


「それに、いっぱい色んなことを話してくれた。私が知らないことや、私が知っていることをいっぱい話した。たぶん、どこが良いとか、どこが悪いとか、そういうのじゃないの。私は、クラークとなら良いことも、悪いことも、共有して行けるのかな、ってそんな風に、思ってたの」

「思ってた、って。今は違う?」

「今は……分からない」


 口の中が苦くなる。胸はきゅうっと痛みを走らせる。


「離れるなんて、思ってなかったから」

「……そう」

「私は、どうすればいいか、分からないから」


 誰にともなく、ロナージュは呟いた。


「リィズリットさんは、すごいね。『魔女』のことは、よく分からないけど……私が、持ってないものを、いっぱい持ってるような気がする。私なんて、パンを焼くぐらいしか取り得が無いし……。私も、リィズリットさんみたいに、強くなれれば良かった」


 リィズリットは何も答えなかった。代わりに、かちゃかちゃ、と〈携帯電話〉を組み上げる音だけが返事をする。ロナージュもそれ以上は何も言わず、元の沈黙へと戻った。


 その静寂のまま、ややあって、リィズリットは「終わったよ」と平坦に言った。


 〈携帯電話〉を渡されてロナージュはまじまじとそれを見る。持ってきた時は真っ黒だったガラスの面は、今では淡い光を発して文字を表示させていた。


「その画面に表示されている『通話』ってところを押せば、もう一つの〈携帯電話〉に連絡を取ることができる。逆に相手から着信があった時も、そこを押せば出ることができる。それ以外にもいろいろボタンはあるけど、そこは触らないでいい」


 リィズリットはそれからもすらすらと説明をしていたが、ロナージュは言っていることの半分もよく分かっていなかった。理解できたのは、『通話』と書いてあるところを押せばいい、というだけだった。何よりも、自分の手の中に『魔法』があると云う事実が、ロナージュの落ち着きを失わせていた。


 これさえあれば、クラークの声を聞くことができる。これまでの寂しい想いも、もうする必要はない。心の渦巻いていた不安は、雨が上がるように期待へとその姿を変えている。

 だから、自然に言葉が出ていた。


「――ありがとう」

「別に。今言われてもね」


 リィズリットは、ぐるり、と背を向けてそっけなく言う。


「ともかく。好きなように使えばいいんじゃない。それを『魔法』として使えるかどうかは、あなた次第。それで満足がいけば、あたしは対価を支払ってもらう。それだけ」

「……うん」


 胸に〈携帯電話〉を抱き、こくりと頷く。


「じゃあ、分かったら早く行けば? あたしはまだやることがあるから」

「あ……はい。ごめんなさい」


 ロナージュは小さく礼をすると、踵を返して足早に部屋を後にした。

 一刻も早く、クラークの声を聞きたいと、そればかりが頭の内を占めていた。





「驚いたよ。まさか君から『魔法』を送られるなんてね。アーウィンの『魔法』で見慣れているつもりだったけど、物が違うと驚きも変わるものだね」


 〈携帯電話〉越しに聴こえる、懐かしい恋人の声に、ロナージュは頬が緩むのを抑えきれなかった。


 始めに、鈴のような着信(知らせ)があったとき、ロナージュは驚いてどうすればいいのか分からなかった。耳と頭にその音がこびりつくぐらいの時間が流れて、ようやく小刻みな振動で自己主張をするそれに恐る恐る触れた。手の中で震えるそれは、まるで異物めいて未知の生物を連想してしまい、思わず手放してしまいそうだった。それでも、手放さずにすんだのは半ば偶然のようなものだった。手の中で踊らせてしまっていたところ、指が『通話』に触れていたのだ。

 途端に音と振動は収まり、懐かしい声がそよ風を思わせて流れた。小さな声に引き寄せられて、ロナージュは〈携帯電話〉を耳に当て――思わず泣きそうになった。


「クラーク、クラーク、クラーク……!」


 すぐ耳元に届く声に、ロナージュは衝動を抑えきれなかった。何度も、何度も、何度も、すぐに戻ってくる返事を求めて、呼び掛ける。


「ロナ。すまないね。仕事が忙しくて、手紙も書けなかった」

「……ううん。仕方ないよ、お仕事だったんでしょ。それにいいの、こうしてクラークの声を聞けるなら」

「ああ、僕もだよ。しかし、本当にすごいね。これだけ離れているのに、まるでロナが隣にいるようだ」


 嬉しさが込み上げてくる。あれだけ遠くに離れていってしまったのに、何日も手紙を待たなければならなかったのに、呼べば返事はすぐにあったから。


 耳をくすぐる声に乗せて、クラークの息遣いも聴こえている。ロナージュはこの高鳴る心臓の鼓動も、この音に乗せてクラークに届くような気がした。


 ああ、これは本当に――


「確かに、これは『魔法』だね」

「……うん」

「アーウィンから聞いたよ。ロナがこれの素材を集めたんだって」


 短い逡巡のあと、ロナージュはとても小さな声で「うん」と答えた。


「……どうかしたのかい?」


 思考に流され、黙ってしまったロナージュへクラークは声を掛けてきた。ロナージュは慌てて「ううん、何でもないの」と返す。


 ロナージュは喉の奥にしこりを残すような違和感があった。気にかかるのは、どうしてリィズリットが最後にヒントをくれたのか、ということだ。


 リィズリットの様子を見る限り、自分は好かれていなかった――むしろ、嫌われていた。そんな相手にヒントを与える必要は取り立てて感じないと、ロナージュは自分自身のことながらそう考える。


(リィズリットさんから見たら、やっぱり私って、だらだらしていたように見えたのかな……。それで、早く終わらせたかったのかな)


 ふと、そんな風に考える。正解なんて本人しか知り得ないことだ、と分かっていながらも、ロナージュはすっきりしない気持ちを抱えたまま、まるで絡められた糸から抜け出せないように、思索をやめることはできなかった。


「そう言えばね、ロナ。この『魔法』について、少し注意した方がいいと思うんだ」


 ぽつぽつと交わす会話の中で、クラークはそう切り出した。ロナージュはその意味を図り兼ねて、疑問の声を返した。


「いいかいロナ。『魔法』を持っていること、『魔女』から与えられた、と云うことはあまり公言してはいけないよ。こんな『魔法』であれば、きっと多くの人が羨むだろう。君も『魔法』を見せびらかしたいわけではないだろう。だから、そうだね。これを使うのはできるだけ家の中にいるときだけにしよう」

「……そう、ね」


 意味を頭の中で噛み砕いて、ロナージュは答える。


「すまない。何も『魔法』が悪いわけではないんだ。ただね、『魔法』を欲しがる人はきっと多い。知っているかい、首都の話?」

「首都……何かあったの?」

「そうか、まだそっちには伝わっていないんだね。僕が担当じゃないからいつになるかは分からないけど、記事にはなると思うよ。かつて魔女が授けたとされる『魔法』が競売にかけられたらしいんだ」


 競売、とロナージュは頭の中で反芻する。理解こそできるが、あまり馴染みのない言葉だ。


「出処が分からないけれど、どうにも『魔法』なのは間違いないみたいなんだ。それで、落札価格は金貨で五十万枚。恐ろしい金額だろう」


 その数字をすぐには飲み込めず、ロナージュは黙ってしまう。そして、理解してしまえば、あまりの莫大なそれに絶句してしまう。金貨五十万枚。平凡な一般人であるロナージュには、その規模を正確に計ろうとすることすら難しい。

 そう考えてようやくロナージュは〈携帯電話〉を持つ手が震えていたことに気づいた。


(こ、これも、もしかしたらそんなに高いものなの、かな)


 もしそうだとしたら、と不安が頭を過ぎる。そしてその不安は零した水が広がるように、ロナージュの心の中を埋め尽くしていった。


「僕たちのこれは、互いのものがなければ意味を成さないみたいだけど、それでもあまり安心もできないね。アーウィンのように開き直れればいいんだろうけど、あれはあれで手を出すのが難しいからバランスが取れているからね。とにかく、できるだけ目立たないようにしよう」

「う、うん」


 クラークの言葉が、耳を通り抜けて響く。否定などできるはずもない。頭の中は、既にどうやって他の人に見つからないように使うべきかを考えていた。


「すまない。折角君が手にいれてくれた物だって云うのに、怖がらせるようなことを言ってしまって。ただ、ちゃんと上手く使えればこれ以上のものはないと思うんだ。離れているのに、こうして君の声を聞くことができる。今更だけど、僕は君の声が聞きたかったんだって、思うよ。ありがとう、ロナ」


 その言葉に、ロナージュはじんわりと目頭が熱くなった。心の奥底では、自分も同じ気持ちだったからだ。クラークが同じように考えてくれたことが、何よりも嬉しかった。そして、胸を占める不安もクラークとならどうにかなると思えた。


「……ごめんなさい、お仕事が忙しいときに。わがまま言っちゃって」

「気にしないでいいよ。仕事は確かに忙しいけど、今は時間が空いたからね」

「そうなの?」

「ああ。アーウィンのやつがね、これを届けてくれたついでに、「ロナと喋ってやれって」って僕を連れ出してくれてね。同僚たちは何が何だか分かってなかったみたいだけど、そのまま仕事を休みにしてくれたんだ」


 その光景を想像し、くすり、とロナージュは笑みを零した。


「だから、ロナ。今日はもう少しゆっくり話そう。話したかったことが沢山あるんだ」


 耳元に満ちる優しい声に、ロナージュは目を閉じて集中する。

 これまでの不安を消し去るように、幸せな時間がゆっくりと流れていく。

 二人の語らいは、深夜の鐘が鳴っても、ロナージュが眠りに落ちるまで続いていた。




 次の日も、ロナージュは夜を知らせる鐘が鳴る頃には、クラークからの着信を心待ちにしていた。


 夕食や、次の日の仕込み、小麦の在庫確認を終えたあたりで、クラークからの着信を知らせる鈴の音が鳴った。ロナージュはその音を聞き付けると、慌てて自分の部屋に戻って、ベッドの枕の下に隠していた〈携帯電話〉を引っ手繰る様に手に取ると、昨日と同じように『通話』の文字を押して、その画面を耳に当てた。


「やあ、ロナ。今大丈夫だったかい?」


 〈携帯電話〉越しに聞こえる、一日ぶりの恋人の声に、ロナージュは再び頬を緩ませた。「大丈夫」と短く答えて、二人は昨日のように何気ない会話を弾ませる。


「聞いてくれよ、ロナ。うちの印刷機の五台目がついに完成するらしいんだ」

「印刷機、って……フルークブラットを作っているもの?」

「ああ、そうさ。紙も大量の生産がされているらしいし、これで、より多くのフルークブラットを配布することができるようになるんだ」


 まるで子供のように、クラークの声は弾んでいた。ロナージュは目を瞑ると、歓喜に顔を上気させるクラークの姿が簡単に思い浮かんで、すぐ目の前にいるような気がして、思わず笑ってしまった。


 それから深夜を告げる鐘が鳴るまで、時間を忘れてロナージュは〈携帯電話〉を使ったクラークとの会話を楽しんだ。


 そうして、〈携帯電話〉を手に入れてから二日目の夜は更けていった。




 だから、三日目の夜もきっとそうなるのだろうとロナージュは思っていた。


 早めに夕食も終え、次の日の仕込みも、その他思いつく限りの仕事も終わらせて、ロナージュはベッドに腰掛けて〈携帯電話〉が鳴るのを待っていた。


 しかし、いつまで経っても――深夜を告げる鐘が鳴っても、〈携帯電話〉は黙っていた。

 こういう日もあるのだろう、きっと仕事が忙しかったのだろう、とロナージュは自分の導き出した結論に納得すると、いつ連絡が来ても出れるようにと、〈携帯電話〉を抱きかかえてベッドに横になった。

 耳に残る、恋人の息遣いを思い出して、きっと明日はまたそれに触れることができると信じて、ロナージュは眠りに落ちた。




 しかし、次の日も――そして、その次の日も、そのまた次の日も、クラークからの連絡は来なかった。

 見渡せば、部屋には自分一人だった。手元には冷たい〈携帯電話〉がある。そこから感じられる、あの優しい温もりはどこにもない。


「……分かってる」


 何度か同じように呟く。言い聞かせる言葉は、形にすればするだけ、その裏に潜む気持ちの悪い、どろどろとした感情を吐き出していく。


 ああ、これは手紙が来なくなった時と同じだ、と感じた。


 手紙を待てど、いつまでも来ない無力感。


 少しずつ、繋がりが消えていく喪失感。


 だけど、あの時とは違う、と心は訴える。


 手紙を書くのには時間もかかる。届くのにも時間がかかる。だから、少しは我慢できた。


 でも、〈携帯電話〉は違う。『通話』を押せば、すぐに繋がる『魔法』だ。

 休憩のほんの少しの間でも、寝る前のひとときでもいいのではないか。

 それなのに、何日も連絡は来ない。

 なぜ? どうして?

 心に湧き出た不安は、不満にも、不信にも、姿を変える。



 なぜ?

 ――仕事が忙しいから。



 どうして?

 ――大事な仕事だから。



 単純な答えは答えに足り得ない。それが真実だと願っても、どこかで信じ切れていない自分がいる。



 なぜ?

 ――連絡を取りたくないから。



 どうして?

 ――自分なんかと話したくないから。




 考えたくもない妄想は止まらない。それが真実でないと願っても、どこかで疑っている自分がいる。


 しん、と物音一つなく部屋は静まっていた。


 それにふと気づいて、寒くもないのに、体が震えた。

 寂しくて、切なくて、苦しくて。


 去来する様々な感情は形にならず、胸の奥底で渦巻くばかり。

 ロナージュは暗闇の中、嗚咽を漏らし、泣いた。


 濁流のように溢れ出した想いは止まらず、夜が明けた次の日――

 〈携帯電話〉を手に入れて七日目の朝、ロナージュは家を飛び出した。







 まるで雷のような轟音を立ててドアが開かれた。その勢いに、ばらばらと本が落ちた。ロナージュは躊躇する事なく、リィズリットの工房へと足を踏み入れる。


「――どうかしたの?」


 椅子に腰を掛けて、最後に言葉を交わしたときと同じようにこちらを見ないまま、リィズリットが言った。


「っ! どうかしたの、って!」


 語気を強めて言い返しても、リィズリットは机に向かい、黙々と作業を続ける。


「今日はどうやってきたの? アーウィンに連れてきてもらった、って感じじゃないみたいだけど」

「一人で、きたわ。来れない距離じゃ、ないもの」

「ふぅん」


 興味なさげに答えたリィズリットに、ロナージュは胸がざわつくのを感じた。そしてそれを抑えることができず、その小さな背中に向かって、手を伸ばす。


「なんで……なんであなたはそんな風にしてられるの!?」


 リィズリットの肩を掴み、ロナージュは叫んだ。


「そうやって、上から物を見て、知ったような風にして、私を見るのは楽しい? 何もできない私が無様に動いているのは、そんなに面白い? どうせ、私なんてあなたみたいにできない! 私はあなたと違う、私は普通の、ただの人なのよ! 初めから分かってたんでしょ。こんな風に、魔女なんかじゃない、私なんかがこんなものを使っても結局上手くいかないって!」


 思考するまでもなく、想いは滝のように流れては落ちていく。嵐のような勢いで、ロナージュは言葉を吐き散らかした。


「――それで?」

「……っ!」


 肩を掴む手に力が籠もる。爪が突き刺さった感覚がした。華奢な骨はそのまま折れてしまいそうだった。それでも、リィズリットは身じろぎ一つしなかった。


「何しに来たの?」


 平坦に吐かれた言葉に、ロナージュは自分の中で何かが弾けるのを感じた。そして、


「こんなもの、もう、いらない!」


 別の手に握られていた〈携帯電話〉を大きく掲げ、リィズリットへと、叩き付けた。

 〈携帯電話〉はリィズリットの背中に当たると、そのまま床に落ちて鈍い音を立てた。


「こんなもの、無ければよかった! そうすれば、こんなに悲しい思いもしなかった! こんなもの、『魔法』なんかじゃ、ない!」


 ロナージュの叫びが部屋に満ちて、しんと静寂を取り戻すと、リィズリットはその肩を掴む手へそっと自分の手を添えて、優しく外した。そして、ぐるり、と椅子を回転させると、リィズリットはロナージュを一瞥する。その表情に、ロナージュはどきりとした。


 それは、これまでの自信に張られた、強気のそれではなく、弱弱しい少女然としたものだった。それでも、ロナージュはもう自分を止めれない。


「初めから、私はこんなこと、望んでなかった。私は、普通に、ただ、クラークと幸せに過ごしたかっただけ……。ねぇ、どうして。なんで……? 教えてよ、ねぇ。『魔女』なんでしょ? 困っている人を、助けて、くれるんでしょ……?」


 声は震える。嗚咽が零れる。感情は決壊している。

 何ができるのかなんて、分からない。どうすればいいのかなんて、思いつかない。誰でもいいから、助けて欲しかった。


「無理だよ」

「な、なんでっ!」

「あたしは『魔女』。『魔法使い』にはなれない」

「『魔女』も「魔法使い』も一緒でしょ!」

「違うよ」


 きっぱりと言い切ったリィズリットはロナージュから視線を外すと、床に落とされた〈携帯電話〉へと向き、それを丁寧に拾い上げた。


「――ロナージュさん。『魔法』って、何だと思う?」

「……そんなの、私が知らないわよ」

「昔ね、師匠が言ってた。あたし達は『魔法の道具』を作るだけなんだ。『魔法』を使う『魔法使い』にはなれないんだ、って。あたしはそれをまだ、完全に理解できてない」


 逃げるように、ロナージュはリィズリットから目を逸らしてしまった。向けた先は小さな棚の上だった。そこにある、小さな額縁に入った、綺麗な絵が目に入った。


「師匠は、最期までそれを教えてくれなかった。自分で理解しろって。お前が『自分だけの魔法』を作れるようになったら、きっと分かる、って。それだけしか言ってくれなかった」


 絵の中では、壮年の筋骨隆々の男性と、その傍らの小さな黒髪の少女が笑っていた。


「ずっと考えてた。ずっと、ずっと、師匠みたいな『魔女』になりたくて。だからアーウィンに頼んで、師匠みたいに人助けをしようって思った。そうしたら、ロナージュさんがやってきた。あたしは、あたしにできることを、今思いつくあたしなりの考えで――答えで、手伝おうって、思った」


 リィズリットの独白に、ロナージュは聞き入ってしまっていた。胸を焼き尽くしていた怒りは、どこか冷たく収まっている。


「でもね。ロナージュさんは、あたしに何も言ってくれなかった。決して自分から動こうとはしなかった。アーウィンに連れられて来て、言われるがままに素材を探して。自分はダメだと決めつけて、諦めてた。あたしにできるのは、『魔法の道具』を作ることだけ。あたしは『魔女』で、『魔法』を使うのはあなた。ロナージュさん、あなたの使いたい『魔法』は何?」


 向けられた黒い瞳と、真摯な言葉にロナージュは息を漏らした。


「ロナージュさん。あたしはロナージュさんがどうしたいかを聞いてないよ。あなたは結局、何が望みなの? 会いたい人に、会おうと思えば会いに行ける。連絡を取りたいと思えば、連絡も取れる。それでも、あなたは満足がいかなかった。だから、あたしは声を聞けるようにした。言葉を交わせるようにした。でも、それでもあなたは満足が出来ない。なら、あたしはどうすればいいの? あたしはもう、これ以上は出来ない」

「でも……」


 本当に、声だけでも聴ければ、と願った。それだけでいいと、あの時は思っていた。それ以上なんて、思いつかなかった。



 私は何をすればいいの?

 ――分かっているくせに。



 リィズリットは続ける。その瞳は、棚の上で笑う、大柄の男を捉えていた。


「あたしはね、会いたい人に会えないよ。連絡を取りたくても、取れる方法なんてない。言葉を交わしたいけど、この師匠は何も言ってくれない。でもさ、ロナージュさん。あなたは、まだ全然そんなことはない。あたしが自分に無いものを持ってるって、言ってくれたけど、そんなことないよ。ロナージュさんこそ、あたしが望んでも、もう絶対に手に入らないものを持ってる。やろうと思えば、きっとなんだってできる。ねぇ、ロナージュさん。あなたが本当に望むことは何?」

「……望むこと。私は、別に何も――」


 そう口にしかけて、最後まで言うことはできなかった。

 違う。と心は訴える。



 話したかった。

 ――そう、それは嘘じゃない。



 クラークの声を聞きたかった。

 ――そう、それも嘘じゃない。



 それだけ? いや、違う。

 初めから、答えは持ち合わせている。でも、それは言うなれば我儘だ。だからこそ、胸の内に秘めて、隠していることしかできなかった。


「私は……私は――」

「ロナージュさん」


 優しい呼びかけと共に、リィズリットは〈携帯電話〉を手渡した。受け取った〈携帯電話〉には、落とした時に入ったのだろう、傷が一本の線を描いていた。


「あたしじゃなくて、伝えるべき人は、いるよね」


 淡く光る画面には『通話』の文字。ロナージュは息を呑んで、初めてそれを押した。


「……ロナ? どうしたんだい。今、仕事が忙しくて、」

「クラーク!」


 ああ、そうだ。離れている、だなんて思っていたのは自分だった。距離を作っていたのも、何もできないと決めつけていたのも、自分だったのだ。

 ただ息遣いを聞くだけじゃない。自分の、この胸の鼓動すら届けることができるほどに、近かったと云うのに。


「――クラーク!」


 〈携帯電話〉に向けて、呼びかける。今までそうしなかったことを悔やむように。この見えない繋がりを必死に繋ぎ止めようとするように。この恩恵を享受するだけではなく自ら吐き出そうとするように。


「……え?」

「――寂しいよ。帰って、きてよ」


 ずっと言えなかった言葉を吐き出して、私は大声で泣いた。





「森の中には魔女が住んでいる。だから、決して近づいてはいけません」


 そんな話を聞いたのはずっと昔のことで、自分が見たわけでも、魔女に会ったわけでもないのに、ずっと疑うこともせず信じていた。

 イシャーウッドから森の中へ。暗く、鬱蒼と茂る木々の中にぽつりと引かれた一本の小道をのんびりと歩いて行く。左右には真っ黒に塗られた暗闇が枝葉からカーテンを下ろしていた。今でもそこは怖い。決して足を踏み入れようとは思えない。それでも、足は小道を進んでいく。


 足取りは軽い。腕から下げた籠は重い。パンをたくさん詰め込み過ぎたのかもしれない。でも、これぐらいは持って行かないと満足いかない。

 喜んでくれるだろうか。対価の頭金には少し安すぎるかもしれない。それでもかまわない。私が作ったものを見せてあげたい。食べて欲しい。遠慮なんて、したくない。


 道の先、木々の向こうに不格好なシルエットが見えた。もう少し歩けば、辿り着けると思うと、心が跳ねた。なんだ、こんなに近かったんだ、なんて思ったりもする。


 さあ、なんて声を掛けよう。頭の中では台詞が回っている。


 それでも、言いたいことは決まっている。


 ゆっくり、考えながら、自分の気持ちを伝えよう。

 大事なことを教えてくれた、森に住む小さな魔女と、友達になるために――

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