2:森の中の魔女 ~Witch in silent forest/前篇
「森の中には魔女が住んでいる。だから、決して近づいてはいけません」
そんな話を幼い頃から、事ある毎に聞かされていた。
その度に、ロナージュや周囲の友達はこう聞き返していた。
「魔女の所に行ったらどうなるの?」
すると、大人たちはさも当然の様に、こう答えるのだ。
「森の中に行くような悪い子は魔女に掴まって、恐ろしい魔法の実験に使われるのよ」
ロナージュはそれを聞いては、幼心にぶるぶると体を震えさせていた。怖かった。大人も滅多に立ち入らない、暗く、鬱蒼とした森の中に、そんな恐ろしいものが住んでいるなんて、想像するだけで夜は眠れなくなってしまう程だった。目を閉じても恐ろしい想像に苛まれ、ベッドの中ですすり泣くことも少なくはなかった。
――だから。
今こうして、その魔女の家の前に立っているのは、酷く恐ろしくて、怖くて、逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
見た目こそ、普通の家。だが、よく見ればそれは異質な造りになっていた。壁は見たことも無い部品をまるでキルトの様に継ぎ合わせて組まれ、外観から内部の間取りはとてもではないが読み取れないシルエットを作り上げている。壁の到る所から剥き出ている管は、人間の血管を思わせて気持ち悪い。
更に、最も異質なのは、その背景だった。無機物の山。無数の鉄であったものが積み重なりったそれは、巨大な影を麓の家屋へと落としている。ロナージュは、視界に入る全てが理解できず、まるで異世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えた。
「なぁにビビってんだよ、お前」
そう言い放ったのは、薄汚れたフードつきのジャケットを羽織った、アーウィンという名を持つ青年だった。ロナージュの幼馴染であり、この魔女の家までロナージュを連れて来た張本人でもある。
ロナージュは目で不安を訴える。右手に握られた紙がぐしゃりと潰れた。
だが、アーウィンは立ち竦むロナージュの脇をすり抜けて、玄関の扉へと平然とした調子で歩いて行き、平然と軽く二度ノックした。ややあってドアが開かれ、そこから顔を出した人物にアーウィンは慣れた様子で挨拶をする。
「今日は。今日もお元気そうですね、アーウィン様」
「あはは。俺は相変わらずですよ。エイプリルさんこそ、いつも綺麗です」
現れた女性にロナージュは目を奪われる。
エイプリル、と呼ばれた女性は、アーウィンのお世辞――の必要もない程に美しかった。まるで太陽の輝きを解かした様な金色の髪に、人形を思わせる整った目鼻立ち、豊かな胸のふくらみと相対するようにすらりと引き締まった腰つき。その全てが完璧で、まるで幻想を形に落としたようでもあり、それこそ、アーウィンのその態度と、エイプリルの格好――貴族の家に仕える使用人の服が無ければ、彼女こそが森の魔女なのだと錯覚し、納得させられるほどである。
「今日はどのようなご用でしょうか。いつも通り、〈魔法の箒〉(エアバイク)のお手入れでしょうか?」
「いや。今日はちょっと知り合いを連れてきてですね。客を募集してたでしょ?」
ああ成程、とエイプリルはロナージュへと宝石のような双眸を向けた。そして、にこりと完璧な笑みを浮かべ、ロナージュへと一礼する。
「失礼いたしました。では、ご主人様の元へお通しいたします」
「ご主人様、お客様です」
そんなエイプリルの声も、ロナージュの耳には入っていなかった。
家の中へ通されたロナージュは、猛獣の檻に入れられた小動物めいて肩を丸め、周囲から何か飛び出してこないかと警戒の糸を張り巡らせ、挙動不審に目を泳がせるばかりだ。
屋内は不思議で溢れていた。その殆どをロナージュは勿論の事ながら見たことがなく、何のための道具なのか推し量ることはできない。だからこそ、周囲の用途不明の道具を見ては、ロナージュはその異様さに恐ろしい連想をして、勝手に腰を抜かしそうになった。
案内された先の、やや広めの応接間でロナージュはソファーに座らされた。埃一つ付いていない、綺麗に掃除されたつるりとした革張りのソファーだった。アーウィンはその向かいに置かれたスツールに慣れた様子で腰を下ろしていた。ややあって、かたり、と耳を済ませなければ聞こえないほどの丁寧さで、ロナージュの正面に甘い香りを立てる紅茶が置かれた。
「では、もう暫くお待ち下さい。ご主人様はもうすぐ参られますので」
ロナージュは警戒心から目の前に置かれたティーカップに手を伸ばせなかった。魔女の家で出てくる食べ物は、何か裏がある、と云うのがロナージュの持つ数少ない魔女の知識でもあったからだ。アーウィンが全く気にした様子もなく、ぐいと自分のカップを空にしたのを見ても、それは変わらなかった。
押し黙ったまま、ロナージュは視線を自分の右手に握られた小さな紙切れへと落とした。それだけが、この異質な空間の中で唯一の確かなもののような気がしていた。
がさ、と小さな音を立てながらロナージュは紙を膝の上に広げる。そこには判子で押したような文字が満遍なく打たれている。最近になって流通を始めた、フルークブラットと呼ばれる巷で話題となっている事件や事故、または噂話などを定期的にまとめて発行する、要するに瓦版のようなものだった。その一面にロナージュの視線は落とされている。
『森に住む魔女 ――その存在と伝承』
大きな印字が目を引く記事だ。その内容は、幼い頃からロナージュが聞かされていたような『森には魔女が住んでいる』『不用意に近づけば魔女に掴まってしまう』などと云ったものが中心である。だが、その中に一つだけ、その方向性と異にする記事があった。
『魔女は『魔法』を持っており、もし魔女の興味を引くことが出来れば、願いを叶える『魔法』を授けることがある』
その記事を隅から隅まで拝読して、ごくりと唾を飲む。もう何度も目を通しており、既に暗唱できる程ではあったが、それでも穴が開くほどに見てしまう。真剣そのもののロナージュはここが魔女の家であることを忘れるほどに、周りの景色が目に入っていない。初めから現実逃避の意味もあったのだから、それも仕方のないことだった。
――だから、ロナージュはその対面に座った人物に気が付かなかった。
「――」
「……」
「――」
「……?」
数拍を置いて、ようやくロナージュはその気配に気が付いた。そして、伏していた顔を上げて、目が合った。
「――ふぇっ!?」
椅子を蹴飛ばす勢いで、ロナージュは身を引いた。椅子ががたりと大きな音を小さな部屋へ響かせる。一方の、対面の人物はそれに驚く様子もなく、それどころか落ち着きを払って、こほん、と咳払いを一つすると、、
「――ようこそ、あたしが森の『魔女』よ」
彼女は静かにそう告げた。
(……子供?)
今、ロナージュの真向かいに座るのは、自身よりも年下に見える――いや、間違いなく年下だと確信の持てる、幼さを残した少女だった。
墨で染めたような漆黒の長髪や、同じく黒曜石のように澄んだ瞳。頬はその色を浴びたかのように、僅かに黒く汚れている。格好もロナージュの見慣れている村娘のそれではなく、トップスを肌着のようなシャツ一枚に、ズボンとジャケットが組み合わさったような服を雑に着ているだけだった。
「……うそ」
「信じられない?」
黒髪の少女は少し不満げに、薄汚れた頬を膨らませる。その仕草は、余計に少女らしく見えてしまう。とてもではないが、この少女が魔女だと素直に信じることはできなかった。噂に聞く『魔女』とは、印象も、年齢も、その雰囲気も、何もかもが違っていたからだ。
「だはは。やっぱり信じられないよな。こんなガキが『魔女』だなんて」
「うっっっさいなぁ。外野は黙っていてよ」
へいへい、とおどけた様子でアーウィンは口を閉じる。
「ちゃんと説明させて貰うね。あたしが、今の森の『魔女』」
「今の……?」
「そう。この前、師匠が死んじゃって、あたしが継いだの。あたしで『魔女』は三代目」
その説明に、ロナージュは僅かに納得する。
『魔女』の噂噺というのは、とても昔からあったのだ。ロナージュは母から、母はその母から、と伝わって云ったように。『魔女』も同じように代を継いでいったのだとすれば長く噂として語られるのは自然な流れである。
「ま、おやっさんの腕にはまだまだだけどな。お前にゃ怖くてまだ〈箒〉は見せれねえ」
「うー。ほんっと、うるさいなぁ。いいわよ、別に。そんなに言うのなら、あんたの〈箒〉なんて頼まれたって見てあげないんだから」
「おうおう。大事な商売道具を壊されちゃたまらないからな」
「いーっだ!」と少女はアーウィンを威嚇よろしく睨んだ。当のアーウィンは、にしし、と笑ってエイプリルから平然とお茶のおかわりを受け取っていた。
「あ、ごめんなさい。とにかくあたしが『魔女』。名前はリィズリット。よろしくね」
「……ぁ、よ、よろしく、お願いしま……す」
まるで蚊帳の外だったところ、突然戻された話にロナージュはおずおずと答えた。そして、同じようにリィズリットに倣って自分の名前を言った。
「ロナージュさんね。よろしく。それで、今日は何の用で来たの?」
「あ、う……」
言葉に詰まった。ロナージュはまだ、アーウィンの態度から信じるに足ることは理解できても、どこかでリィズリットを魔女だと信じ切れていない。それ以前に、悩みをどう口にすればいいのかが、ロナージュ自体分かっていなかった。
「うーん、言ってもらわないと困るんだけど」
「あぅ……」
言葉通りに困った様子のリィズリットの前で、ロナージュも困った様子で沈黙してしまう。訪れる静寂の中、エイプリルが静かに紅茶を淹れる音が流れる。そんな短くはない沈黙を破ったのは、アーウィンだった。
「こいつ、彼氏との事で悩んでるんだってさ」
そう言って、「会う度にうじうじうっせぇから、連れてきたんだよ」と付け加えた。
「彼氏……恋人がいるの?」
リィズリットの質問に、ロナージュは小さくこくりと頷いて答えた。リィズリットは感心したかのように、「へぇ~」と息を漏らした。その態度にロナージュは少しムッとしてしまう。
「私みたいなのが、恋人いて、おかしい……?」
「え? あ、そういうことじゃなくてね。てっきりあの馬鹿が連れてきたから、あいつと付き合ってるのかと思ってたの」
あの馬鹿、と云うのがアーウィンを指しているとすぐに理解し、強く首を振って否定する。
「……そこまで嫌がられるとショックだわ」
「あ、いやっ、そうじゃなく、てね……。アーウィンは、大切な幼馴染だけど、そうじゃない、っていうか……恋人とか、無理っていうか」
「ロナさんや、なんか、悲しくなってくるから無理してフォロー入れなくていいぜ? てか、クラークのやつも同じ幼馴染なんだけどな。まあ、俺は別にロナをどうこう思ってるわけでもねぇけどさ」
「……ぅ、なんだか、何も言ってないのに、私が振られたみたいに……」
「いや、それは俺の台詞だ」
やれやれ、とアーウィンは肩をすくめる。ロナージュは肩を丸めて萎縮してしまっていた。
「ともかく、その恋人さん――えーと、クラークって人と何かあったってこと?」
ロナージュは少し考えたあと、躊躇しながらも小さく首を縦に振った。
「ま、話してみな。こいつは本当にまだガキだが、あのおやっさんから、ちゃんと『魔女』の仕事を継いだんだ。少なくともおやっさんの腕前は信用できる」
「……釈然としないんだけど」
「アーウィン様なりの信頼なのですよ、ご主人様」
リィズリットは「むぅ」と唸って口を歪めた。その何でもないやり取りに、ロナージュはほんの少しだけ安心した。ぽつりと、口を開く。
「……えと、あの、ね。クラークが、隣町に行っちゃった、んです」
後に続く言葉は無かった。しん、と沈黙が場を横切る。
「っておい! それだけかよ!」
耐えきれず、といった様子でアーウィンが口を挟む。
「もーちょっと言う事あるだろ? 俺にぐちぐち言ってたみたいに説明しろよ」
「ぁぅ……」
怒鳴り声にも似たアーウィンの口調に、更に萎縮してしまう。視線も正面から下へ。膝の上に広げられた紙切れに落ちる。
「はぁ……ったく。俺とこいつ、あとそのクラークって奴を入れて、俺たちは昔馴染みの幼馴染だったわけだ」
しぶしぶ、と云った体でアーウィンが説明を始める。
「で、なんだかんだの末にロナとクラークは付き合う事になった。ま、そこまでは良かった――いや、その途中もクソ面倒だったワケだが。ともかく今がちょいと面倒な事になっててな。クラークが仕事で隣町に行く事になったんだよ」
「隣町って言うと、イーベルヘル?」
アーウィンは「そうだ」とリィズリットに頷く。
「ま、隣町っつったって、そんな遠い場所ってワケでもねえ。イシャーウッドからでも、朝から乗り合いの馬車でも使えば昼メシの時間には着ける。歩いてもちょっとした遠足程度で済む。第一、イーベルヘルの鐘の音が聞こえるぐらいの距離だしな」
アーウィンの話を聞きながら、ロナージュが思い浮かべるのは自分の住む周囲の事だ。
ロナージュ達の住むイシャーウッドは、この森のすぐ側に寄り添うようにしてあった。決して広くはない、小さな町である。ささやかではあるが商店街や市場もあった。その中の一つは、ロナージュの実家であり、イシャーウッド唯一のパン屋でもある。
そして、やや離れた土地に位置するのがイーベルヘルと云う町だ。イーベルヘルは古く、歴史を持った町で、この地方の拠点とも云える場所である。その規模は、イシャーウッドと比べるべくもなく巨大だ。その為、物を買う、物を売る。そのどちらにおいても、イーベルヘルには多くの人が訪れる。それは、イシャーウッドに住む人々にとっても例外ではない。
それは、この二つの町が、そう離れていないと云う事も理由の一つにある。だが、遠くはなくとも決して近いとも言えないのだ。それこそ、ただのパン屋の娘にとっては。
「で、えー、なんつーのかね、ロナはクラークと離れてしまって、寂しくなっちまったってところか」
ロナージュはこくりと肯定する。同時に、胸をきゅうっと締め付けるような痛みが襲う。アーウィンの言葉はまるで呼び水だ。そして、一度波打てば、心の平穏は戻ってこない。
「……最初は、ね。手紙を貰ってたの」
ぽつりと、口を開く。そうでもしなければ、切なさに涙を零してしまいそうだった。
「クラークが行ったのは、一か月前ぐらい。その時、クラークは「すぐに戻るよ」って。「それに、向こうに行ったら手紙を書くよ」って、言ってくれたわ」
くしゃり、とロナージュは膝の上の紙を、スカートと一緒に握りしめた。
「手紙はすぐに来たわ。毎日、とまではいかなかったけど、三日に一度は届けてくれた。内容は仕事の事とか、町では何が流行っているとか、取りとめのない事ばかりだったけど、それだけでクラークが一緒に居てくれるみたいな気分になって、私は嬉しかった。でも……」
言いかけて、息を呑む。行き着いた結末を思い、喉の奥が締め付けられる苦しさを覚えた。胸は軋むように痛い。目頭は既に熱い。それを必死でロナージュは堪える。
「――その中に、これも一緒に送ってもらったの」
絞るような声と共に、ロナージュは握りしめてくしゃくしゃになった紙をテーブルの上に出した。その場にいた全員の視線が向く。
「……これは、フルークブラットですか」
答えたのはエイプリル。それにロナージュは小さく「うん」と返した。
「クラークはこれを作ってるの。なんだか、向こうで大きな事件が起きたって。それで今は、忙しいって……送ってくれた。それから、手紙の来るペースが落ちて……一週間前に、最後の手紙が来たっきり、もう来てないわ……」
言い切ったその言葉はロナージュ自身の胸に突き刺さった。手紙を最初に読んだ時の気持ちが蘇る。忘れていたわけではない。でも、どこかに仕舞っておきたかった苦い想い。堪えきれず、ロナージュは口を噤む。泣きそうだった。口を開けば嗚咽が出そうだった。
「……ま、たったここ一週間程度の話なんだがな」
「たった、じゃない、わよ……」
震える声だった。その剣幕に押されたのか、アーウィンも「はぁ」とため息を吐いてしまう。
一週間は決して短い時間ではない。七回の夜を超えるのだ。暗闇に満ちる夜は、何がなくとも不安にさせるのだ。その唯一の支えである、手紙が途切れれば、守る術はなくなる。
「こんな感じなんだ。なぁリズ。どうにかなんねえかね」
話を振られたリィズリットの返答は無言だった。それでも気にする様子もなく、アーウィンは続ける。
「なぁ、頼むよ。こいつめんどくさくてさぁ。イシャーウッドに戻る度に、掴まってはぐちぐち、つーかねちねち言ってくるんだよ。マジ、俺が耐えきれない」
アーウィンはがっくりと肩を落とす。その顔には悲哀とも疲労とも取れないものが浮かんでいた。
「――――ん」
小さく喉を鳴らす様に唸ったリィズリットに、ロナージュはびくり、と背筋に緊張を走らせた。何でもない、ほんの一言にもならない声。だが、そこには言い知れぬ冷たさが感じられたのだ。そして、それが間違いでなかったと、次のリィズリットの言葉で確信する。
「――『魔法』が欲しいの?」
ぞっとするような、冷たい静かな声だった。先程までの、明るく、まだあどけなさを残した子供の声ではなかった。
(――ま、じょ)
ロナージュは顔を上げることが出来ないままに固まってしまう。ここが、どこなのか。自分がどこにいるのか。誰の前に座っているのか。それを、今更ながらに思い知らされる。
「もう一度聞くよ。ロナージュさん、あなたは『魔法』が欲しいの?」
心の内側を覗き込まれるような声だった。そして、ロナージュにはまるで責められているようにも感じられた。
「ま、魔法……」
「そう。『魔法』。ロナージュさんは、それが目的なんじゃないの? だから、あたしのところに来た」
「……う、たぶん……」
正直、そう言われても困る、と云うのがロナージュの心情だった。
フルークブラットの記事を見たには見たが、有無を言わせず連れて来たのはアーウィンだし、何より『魔法』がどう自分に関係するのかが想像できないのだ。
この世界に『魔法』は存在する。
決してお伽噺の存在でないと、それはロナージュも理解している。なぜなら、実際にロナージュも一つだけではあるが、見たことがあるからだ。
アーウィンの乗る〈魔法の箒〉。空を舞い、まるで風のように駆ける。それが、人の身では起こし得ない奇跡――『魔法』であるのは一目瞭然だった。
どのような経緯で入手したのかは聞かされていないが、この森の『魔女』――アーウィンが「おやっさん」と呼ぶ『魔女』から授かったものだとも聞いている。事実、アーウィンが乗り回し、こうして自分もそれに乗ってこの『魔女』の家までやってきているのだ。今更、ロナージュは『魔法』の存在を疑ってはいない。
だが、逆に言えば、ロナージュはそれしか知らないのだ。
(もし、アーウィンの〈魔法の箒〉みたいなのを貰っても、私は使える気なんてしないし……)
確かに、〈魔法の箒〉を使う事ができれば、イーベルヘルへ向かう事も容易になるだろう。毎日のように会いに行く事だって可能に違いない。事実、アーウィンはそれを生業としているし、クラークへ手紙を届けてもらってもいた。しかし、自分はアーウィンではない。
「――多分、ねぇ」
鋭い言葉がロナージュの頬を打つ。
「ねぇ、アーウィン。悪いんだけど、あたしあんまり乗り気になれないわ」
「お、おいリズ」
ロナージュはうすら寒さに肌が粟立つ。眼前のリィズリットから感じられるのは、冷ややかな敵意と明確な嫌悪感。やり取りも、ロナージュをすり抜けて行われている。目の前に座るリィズリットの目は、前を向いているのに自分を見ていない。
泣きそうだった。逃げ出してしまいそうだった。できることならこのまま一目散に家に帰って、ベッドの中に籠りたかった。何も考えずに済む、眠りの中に落ちたかった。
(どうして……なんで……)
心の中でロナージュはそう嘆く。ただ私はお願いしに来ただけなのに、と続ける。
「なぁ、ロナ。お前、どうにかしたいんだろ。だったらよ、リズにちゃんと言わねえと。確かに連れてきたのは俺だけどよ。お前のことなんだぜ」
「わ……私、は……」
ロナージュはリィズリットの顔色を伺いながら、おずおずと言った。注意を払わなければ聞こえないほどの大きさだった。
気持ちは、初めから持ち合わせている。このままでいいと思っているわけではない。ただ、その方法が分からないだけなのだ。『魔法』なら、『魔女』ならどうにかしてくれるのでは、と淡い希望があっただけなのだ。
「今の、状況を、どうにかしたい……。『魔法』でどうにかなるのなら、お願い、したい……」
リィズリットは返事をしない。興味なさげに、視線を浮かせているだけだった。
「リズ。ロナはこんなやつだけどよ、悪い奴じゃないんだ。お前ならどうにかしてくれるかも、って思って来たんだからよ。頼むからさ、もうちょっと、話を聞いてやってくれないか?」
「……はぁ」
大きな、わざとらしい悪態にも似た溜息が吐き出された。「分かったわよ」と続いた声は低く、ロナージュは窒息しそうな閉塞感を覚えた。
「――ただし、条件があるわ」
おずおずと視線を上げたロナージュは、射抜くようなリィズリットの双眸に縫い止められる。
黒曜石のような瞳だった。輝きは強く、澄んだ漆黒はどこまでも深い。四肢は石めいて重く、体温は氷河を思わせて消失させられる。ああ、この子は普通の人ではないのだ。自分とは違うものなのだ、と波立つ思考は結論付ける。
――本当に『魔女』なのだ、と。
ここにきて、ロナージュはようやくそれを完全に理解した。
「まず一つ。これは契約よ。最後まであたしの指示に従う事。そうしなければ、あなたには『魔法』は与えれない」
語調こそ強くないが、有無を言わせない、凛とした声だった。
「あ……」
「返事は? 別にいいわよ。これに従えないっていうのなら、あたしも無駄な仕事をしないで済むんだから」
詰まりそうになる息をどうにか吐き出すようにして、ロナージュは「は、はい」と答えた。リィズリットは表情のない顔で、目を眇めた。
「――次。これはあなたが満足できれば、でいい。あたしが与えた『魔法』で納得がいく結果が生まれれば、その対価を支払う事」
「……対、価?」
「ええ。あたしも慈善事業でしているわけじゃないの。あなたに与える『魔法』に見合うだけの対価は貰う。具体的には――あたしたちが生活できるだけの食料や物資を一ヵ月分」
「っ、そ、そんなっ!?」
ロナージュは頭の中で大まかな計算をする。一ヵ月分の食料と物資。それはざっくりとした計算でも膨大なものだ。たかがいちパン屋の娘に払うのは、難しい。
「別に多くはないと思うけど? あたしが与えるのは『魔法』。それを客観的な価値に落とし込めば、この部屋が埋まるぐらいの金銀財宝を持ってこられても足りないぐらいよ」
「……あぅ」
言葉に詰まる。それは確かに事実だ。それこそ、アーウィンの〈魔法の箒〉を例に挙げればそれは明確で、どれだけの財を積んででも手に入れたいと思う者はいるだろう。
「わ、かったわ。払えば、いいんでしょ……」
ぐ、と唇を噛み締めて吐き出す。貯蓄や、やりくりを上手く行えば決して払えない額ではない。リィズリットは面白くなさそうに一瞥すると、続けて口を開く。
「じゃあ、最後――」
一瞬の間を置いて、はっきりとリィズリットは告げた。
「『魔法』に必要な材料は、あなたが集めてくること」
「……え?」
ロナージュの疑問は届かず、ここに魔女との契約が締結された。
◇
魔法に必要な材料、と聞いてロナージュは困惑していた。
そして、実際に鉄クズが高く積まれた山を真向かいにして、その思いは一層強くなった。
「ロナージュ様にはこの中から素材を集めて頂きます」
まるで豪華絢爛な晩餐を紹介するがの如く、優雅さと瀟洒さを以て、エイプリルは鉄クズの山を示した。
「…………」
その光景に言葉は役目を忘れ、どこかへと消え去っていく。ロナージュは只々、呆然と糸の切れた人形のように立ち尽くしていた。
「目的も分からぬ探索は出口のない迷路以上に大変です」
「え……?」
エイプリルは「いえ、こちらの話です」とロナージュの疑問に答えると、
「探していただくのはこちらです」
と、小さな板状のものを差し出した。
ロナージュは目を僅かに細めて、それを見た。板は表面がつるりとした素材で作られており、その片面はガラス状のもので覆われているようだった。それ以外には、いくつかの突起物があり、上部か下部かは分からなかったが、小さな窪みがある程度だった。両面とも真っ黒で、何も描かれてはいない。勿論、ロナージュはそれが何であって、どのような用途に使うのか、分からなかった。
「これは〈携帯電話〉(コミュニケイター)と呼ばれる『魔法』です。対になるものを互いに所持することで、どのように離れた場所であっても、会話を行うことが出来るものです」
「それ、って……」
「ええ。ロナージュ様のご想像の通りです。細かな用途に関しては説明の必要はなさそうですが、これを用いる事でクラーク様とご連絡を取り合う事が可能となります」
ロナージュは想像にはっと息を呑んだ。それは、望んでいたことの一つだったからだ。
これまでも手紙で連絡を取ることはできていた。だか、それも時間がかかってしまう。そして何より、届くのは文字として書かれた言葉だけであり、耳に甘く満ちる言葉ではなかった。
「……本当に、できるの?」
「ええ。私が嘘を申し上げることはありません。そして、ご主人様が成し遂げないこともありません」
きっぱりと、エイプリルは言い切った。そして、
「では、ロナージュ様。見本として、こちらは預けさせていただきます。探していただきたいのは、こちらの見本と外見を同じとするものを一対、要するに二つとなります。見つけ出していただきましたら、ご主人様の元へお持ち下さい。そのままでは使用できないそれを、ご主人様が『魔法の道具』へと作り直しいたします。それでは、ご武運をお祈りいたします」
すらすらと、そう言い残して、鉄クズの山の麓にある家へと戻っていった。
エイプリルの説明を噛み締める余裕もなく、ロナージュは暫く呆然と、眼前に聳える不可思議を眺めることしかできなかった。
◇
こぅ、と彼方で鳥の鳴く声が響いていた。耳をすませば、それよりも遠くに聞き慣れた鐘の音が流れていた。
ロナージュは額を流れる汗を拭って、天を仰ぐ。蒼く塗られていたはずの空は、いつしか朱を越えて藍に表情を変えている。ちらほらと見える光は星のそれだ。
そうして、ロナージュはようやく一日の四分の三が終わってしまったことを知った。ぺたり、とロナージュは鉄クズの上に腰を下ろすと、お腹いっぱいになるまで息を吸って、同じだけ吐き出した。途端にどっと疲労が身体中に流れて行く。
もう、体力は限界だった。肌着だけでなく、服も汗に濡れ、気持ち悪い。額に張り付いた前髪も、ほどけてしまった三つ編みも、鏡が無いために確認こそできなかったが、想像すれば恥ずかしくて、みっともない気分にさせた。
結局、いくら探しても、〈携帯電話〉を見つけることはできなかった。これではないか、と思うような似たものをいくつか発掘したが、それらは全て違っていた。何より、余りにも物が多く、一つずつ見ていくだけでも相当な時間がかかった。
ロナージュは再び大きな息を吐いた。もう動かせない腕の先を見た。積み重なった鉄クズが作る、複雑な影は消えている。代わりに、そこには夜の空から落とされる大きな黒い影ができていた。
まるで、あのリィズリットと名乗った『魔女』のようだ、とロナージュは思う。
影は全てを呑み込んでしまいそうに暗く、そして深い。これから時間が過ぎるほどにその広さと深さは増していくだろう。そうしてしまえば、闇の中に取り残される自分も、同じように闇に呑まれてしまうかもしれない。その恐怖は、自分の知らない理を持つ魔女に対するものと、さして変わりがないと思えた。
空を眺めて、星をなぞる。すっかり夜空と化した天には、数えきれないほどの星が瞬いている。皮肉にもその光景は、世界に一人だけ取り残されたような寂寥感の中でも、とても綺麗に見えた。
そんな時、からん、と鉄の転がる音がして、ロナージュは後ろを振り返った。見れば、そこにはいつの間にかエイプリルが立っていた。
「お疲れ様です、ロナージュ様」
エイプリルは足場の悪い鉄クズの上で、メイド服のスカートを摘み丁寧にお辞儀をすると、鉄のような金属で作られた縦長の円筒を差し出した。
「……これは?」
「中にお茶が入っております。お疲れでしょう。どうぞ、お飲み下さい」
殆ど考えることも無く、円筒の上部に空いた穴に口を付け、ぐいと吸い込む。
「……っ!? あ、あつっ!?」
「その筒は、〈魔法瓶〉(マジックポット)と申しまして 、中に入れた液体の温度を保つものでございます。熱いので、お気を付け下さい」
熱に痺れる舌を放り出し、目線だけをエイプリルへ向けて返答をする。夜風を受けて次第に冷めていた身体は、淹れたてのお茶に、内側から火照りを取り戻してくる。
「まだ、お探しになられますか?」
短い問いかけに、思案してしまう。辞めてもいいのであれば、もう辞めてしまいたい、と云うのが本音なのだ。
かちり、と小さな音がした。そして、次の瞬間にエイプリルの周囲が、まるで昼を思わせて明るくなる。
「〈懐中電灯〉(ライト)です。もし、ロナージュ様がもう暫く探索を続けるのなら、私が辺りを照らしましょう」
周囲を塗りつぶしていた、夜の闇は完全に消えていた。鉄クズの一つ一つが、その輪郭をはっきりと浮かび上がらせる。『魔法』そのものがそこにあった。しかし、ロナージュがその光景に驚くことは、もうなかった。それは慣れた、とも言えたし、『魔法』を受け入れてしまった、とも言えた。
「……」
結局、ロナージュは沈黙をなし崩し的に選んでしまう。再び探索を行える現状を知っても、身体も、思考もそれ以上に至らなかった。
「分かりました。差し出がましい申し出かもしれませんが、一度お戻りになってお食事を取られてはいかがでしょうか」
ロナージュはこれにも即答はできなかった。熱に痺れた舌は、もう戻っている。ロナージュが懸念していたのは、リィズリットのことだった。
ロナージュはリィズリットに言い知れぬ苦手意識を持っていた。それは先程のやり取り――契約であり、ただの一般人である自分と『魔女』であるリィズリットの根本的な違いから生じたものだ。
できることならば、暫く顔を合わせないでおきたいと考えてすらいる。だからこそ、探索の合間にも嫌でも目に入ってくる眼下の家に戻りたいと願っても戻れなかった。
「――ご安心を。ご主人様は工房に籠って作業を行っております」
「……全部、お見通しなんですね」
「ただの感です。それに、あのような態度では、嫌われて当然ですので。どうか広い心でお許し下さい。まだまだ我が主も子供なのです」
「子供、だなんて」
ロナージュは自分自身も最初はそう考えていたことを忘れて、つい口にする。
「あの子は、私と全然違います。『魔女』なんて本当は信じてなかったけど、あの子を見ていると、ああ本当にいたんだって、思ってしまいます」
「そう言っていただければ、光栄ですよ。ご主人様は『魔女』と呼ばれることを目指しておりますので」
「呼ばれることを目指している、って。『魔女』じゃ、ないんですか?」
「それは間違いありません」
エイプリルは即答した。
「ご主人様が『魔女』であることは間違いのない事実です。ただ、ロナージュ様も節々でお聞きになっていると思いますが、ご主人様はまだ『魔女』を継いだばかりなのです。それも、正式な修行の末に継いだのではなく、繰り上がりのように転がってきた、半ば肩書きを無理やりつけられたかのように。ですので、ご主人様はまだまだ半人前なのです。ひよっこです。ぴよぴよ鳴く小鳥です」
「ぷっ」
ロナージュはエイプリルのそんな言い方に思わず吹き出した。
「いいんですか、エイプリルさん。自分の主人をそんな風に言っちゃって」
「別に構いませんよ。これは悪口でも陰口でもなく、純粋に事実なのですからね」
更にきっぱりと言い切ったその清々しさに、ロナージュはもう一度吹き出すと、声を出して笑ってしまった。
「とは言え、ロナージュ様が何に苦手意識を抱き、ご主人様を遠ざけたいと思っているのかは、予想でしかありません。真実と本心はロナージュ様にしか持ち得ぬもの」
「それは……」
「故に、私がここでご主人様のことをいくら説明しようと、肩を持とうと、ロナージュ様の心を揺さぶるには、些か足りないでしょう。ですので、私に言えることは、私の知る主の良き姿をいつか知って欲しい、と願うことだけです」
「……そう、ですね」
口にしながら、それは本当にできるのか、とロナージュは考える。リィズリットは取りつく島もないように思えた。言葉を交わせると言えど、それは本当に言語として言葉を交わすことができる、というだけなのだ。越えようのない、遥かな隔たりがあるようにすら思えるのだ。
「――そして、僭越ながらもう一つ申し上げますと、それがきっと事の全てではないかと、思うのです」
「どういうこと、ですか?」
その言葉にどこか小さな引っ掛かりを覚えて、ロナージュは思わず聞き返していた。だが、エイプリルは完璧な笑みを浮かべて、返すだけでそれ以上は何も言わなかった。
「さあ、お食事とまいりましょう。腕によりをかけてご準備させていただきます」
それから、ロナージュは蜜に吸い寄せられる虫のように、エイプリルに連れられ、眼下の『魔女』の家へと戻った。
エイプリルの用意した晩御飯は、ロナージュがこれまでに食べたことがないほどに美味しかった。疲れも忘れるほどに、ロナージュはそれをお腹いっぱいに詰め込むと、再び鉄クズの山に戻ることもなく、そのままソファーにシーツを敷いて簡単に作られたベッドに横になると、すぐに夢の中へと旅立ってしまった。