雨音
雨の音。
雨の音が聴こえる。
画面の強い光に目が痛い。ぐっと目を閉じて開くと、一瞬だけ世界が揺らめいてぼやける。そうして切り替えようとしても何も変化しない世界は、相変わらず適度な重量感で僕の手の中に収まっていた。
カーテンの外は僅かに青い。まだ遠めの朝日がここにまで手を伸ばしてくるのは何故だろう。僕の部屋には面白いものもないし、僕の毎日にも何も無いような気がするけど……それなのに平等な太陽に若干の不信感が首をもたげる。
『起きてるー?』
「ん、起きてる、起きてる」
枕元に置いたヘッドセットから、僕よりはよほど眠そうな声がむにゃむにゃと呟く。眠いなら寝ればいいのに、果敢に睡魔に戦いを挑むのが常な彼女はいつも意識が飛びかけだ。次の日に昨夜の話題について話を振っても、かなりの頻度で記憶消失を起こしていることが多い。そもそも覚えている方がおかしいくらい睡魔には弱い子だから、最初から期待してないけども。
『……ああ、眠い死ぬ』
「寝れば良くない?」
『そういうわけには。ほら、ねえ?』
ねえって、なんだよ。
『色々、ね……使命があるじゃん、使命がさ、人にはみんな……』
「寝ろ」
うう、と呻いた彼女はどうやらもぞもぞとベッドに潜り込んだらしい。雑音が酷くなった。
『使命や使命。人にはみんななあ、あるんだよそういうのな』
完全に酔っ払いと化した彼女は誰にも止められない。止められるとしたら睡魔しかいないだろう。もう寝ろってば。
そう思っても、依然寝言と言語の間を行ったり来たりしている言葉を吐き続ける彼女は、まだ暫く抗うつもりらしかった。
言っても聞かないだろうと分かっているけど。彼女は決して自主的に寝ないと心に決めているらしいから、僕が何を言おうが決して屈しない。言っても無駄だ。
うつ伏せからごろりと仰向けになってため息をつく。ぼんやりと天井を眺めても何が見えるわけでもないのに、光に慣れた目を暗闇に浸すのは心地がよかった。ごそごそと寝そうにない誰かさんの呻き声がなければ静かな夜……なんだろうけど。
静かなのは好きだ。
騒がしいのより、ずっと。
『今日の……天気……天気はなにかなあ……』
やることもないから、身体を起こしてカーテンの隙間に指を差し込む。青色が少し強くなって人差し指の先を染めた。
「晴れ、かな」
『んー?』
ちょっと声が遠かったかな。
「晴れだよ、今日は」
ベッドに寝転がってため息と共に吐く。スプリングが悲鳴をあげて軋んだ。
『ふーん、そう。つまんないな』
「晴れ、嫌いなの?」
『そうでもないけどね……最近はなんか、うん』
言葉を濁した。
時計はとうとう5時を指した。窓の外をバイクの音が近づいては遠ざかる。ふと、この雑音は彼女にも聴こえているのだろうかと思った。だからどうってことじゃないんだけど、もし耳にしていたならまるで隣にいるみたいだ。彼女に向けて放った言葉より、意図していない音を共有したい気分だった。
「寝なくていいの?」
『私は寝たいときに寝るもの。今日も明日も明後日も、私には何も無いからね』
「そっか。僕は今日も仕事ですよ」
『寝なよ、君こそ』
仰る通り。
僕はゆるゆると目を閉じた。朝を呼ぶ青色が見えなくなって、死にかけていた眠気にそぅっと包まれるのを感じた。
『今日も私には何も起こりません。明日も明後日もです。それでも生きているのは、なーんでだ』
「悲しいこというんじゃない」
『ごめんなさい。あはは』
彼女は文章でも変わらない。
『ところで、お帰りなさい』
僕が仕事から帰ってくると一番にお帰りを言ってくれる。彼女は暇人なのだ……多分。意味のない言葉の応酬があって始めて「帰ってきた」感じがする、そんな僕もどうかしてるんだろうけど。
5分くらいのインターバルを置いて、また彼女は脈絡無く言う。いつもの通りの掴み所の無さはむしろ僕に安心感をくれる。
『ねえねえ、今晩話そうよー』
「いいよ。何時からがいい?」
変わらない彼女にならって定型文を返すと、珍しく彼女からの返信が途絶えた。
「おーい」
やっぱり返事はない。風呂にでも行ったんだろうと早々に諦める。どうせしばらくすれば帰ってきて、また五月蝿いくらいにリプを寄越すだろうし。
なんだかやけに身体が重くて仕方がなかった。ちゃんと寝てから仕事へ行ったのにどういうことだろう、何もする気が起きないというか、理由も意味もない倦怠感が意識をすっぽり包んでいるような感覚。あまりこういう状態にならないから、これもまた珍しい。
またスマホが光った。ただいま、と打つとたくさんのおかえり。仲のいいメンバーがTLで大騒ぎを起こしているいつもの光景に、思わずちいさな笑みが零れた。独り暮らしの部屋の中には僕しかいないのに、この手の中に何人もの友人がいること。心地いいけどどこか不思議な関係に脳の奥が少しだけ痺れて、もたらされる孤独とは無縁の温かさに息を吐き出す。肺の中に溜まっていた何かがほんのすこしだけ薄れた。
ぐるりと首を回してまた画面を覗くと、知らないうちに弄られている僕を発見。話題になるのはいいけど何してるんだ君らは。
風呂に入って帰ってくると、彼女はきちんと復活していた。
『いつでもいいよ、どうせ暇だからね』
そんな文章が表示されている。
「じゃあ今からかける?」
『いいよー』
時計を見ると12時を回っていた。ワンコールで繋がった通話相手は、既に眠そうな声に欠伸までしながらおかえりと言った。相変わらずである。
『今日はね……聞いてほしいことがある気がするんだなー』
「なんでしょう……」
彼女が自主的に特定のことについて話すなんて珍しい。ちょっとだけ緊張する。別に僕に関係ないことのはずなのにいつもそうだ。友達がなにか用があるって言うだけで、重要な内容じゃないって分かっていても身構えてしまう。
「それで、どうした?」
『んー……どうしたってわけでもないかな、いつも通りなんだな』
いつも通りなのが問題なのよ、と笑っている。
『ほら私っていつもいつも通りじゃん?毎日何もないしつまらないよね、流石に。寝て起きてごはん食べて通話して、寝て。それの繰り返し』
僕は何も言えずにただ聞いている。
『明日と今日の見分けだって出来ないもの、きっと。それってどう思う?』
僕は彼女をよく知らない。どこに住んでいるのかも、どんな顔をしているのかも。ただ毎日話す中で知ったことはあるのだ。僕よりいくつか年下で学生だということと学校へ通っていないこと。どうやら彼女は、何らかの理由により部屋に引きこもっているらしいのだ。
もったいないと思う。
勝手ながらそう思う。話せば分かるが、特に頭が悪いわけでもなく性格が悪いわけでもない彼女なら、世間でもうまくやっていけそうなのに。
『明日も明後日も同じなら、来年の今日まで同じでも気付かないよね……』
「でも、同じ日なんてないと思うけどな」
『そうかなあ。嫌なんだよもう、同じ毎日って思う時点で終わってる』
「まーたそういうことを言う……」
拗ねたように暗いことを言い出すと、彼女は結構止まることを知らない。
同じ1日。
今日と明日と明後日、あるいは来年の今日。
僕はちゃんと見分けられる。どう考えても全く同じ日なんてあるわけがなくて、小さくたって違いはあるものだ。友達と話す内容も起こるハプニングも、どれひとつ同じものはない。
でも彼女は限られた空間の中で生きているから、後ろ向きに考えてしまうのも道理なのだろうけれど……僕のワガママとしてはあまり嬉しくなかった。
「……僕はロボットじゃないんだよ」
同じこと話す方が難しいな、と付け加える。
『分かってるよそんなことは。分かっているけどさ』
「じゃあいいじゃん?毎日ちょっとずつ違うこと話して、それでいいと思う。僕は楽しいけどな」
『まあ、楽しいよ』
怒ったように言う。不満げなその言い方は、一体何に憤りを感じているのだろう。考えても分かるわけがないけれど、彼女はきっと退屈なだけなのだ。
……僕は退屈じゃないんだけどな。
どのくらい経ったろう、少し微睡んでいたみたいだ。軽く夢をみた気がする。悪くはないけどどこか寂しいくて掴み所のない、霧みたいな夢を。
『……本当はね、毎日結構楽しいのよ』
ヘッドセットから呟くような声が漏れる。いつも通り、雑音混じりの向こうに誰かがいる。
「楽しいのに毎日が同じように感じるって、それはいいことじゃん」
『いやいや、私の毎日なんて決まった通りにしか進まないから気が狂いそうなのは確かだよ。でもね、こうやって話すのはそれなりに楽しいわけだ。話題も違うし、同じじゃない。それは分かってる』
あなたもそうでしょ、と見透かしたようなことを言う。
どうだろう。
日常に不満なんてないし、それは彼女と僕の決定的な違いだろう。生きてきた道のりが違うのだから価値観や考え方の相違は当然かつ自然なもの。それでも腑に落ちないのは、僕も彼女も少なからず相手の言い分に納得しているからなのかもしれない。日常に飽きて変化を求める彼女の中にも、こうやって繋がることによって生まれる小さな変化に満足する気持ちがあって、日常に既に満足しているはずの僕も、彼女が望む漠然とした何かを待っているような気がするのだ。
『雨の音がする』
何の脈絡もなしに呟いた彼女の言葉が突き刺さった。
「……雨?そっちは雨降ってるん?」
『いや全然。むしろ晴れてるよ』
「じゃあなんで雨……」
晴れているのに雨の音。なんだかなぞなぞみたいだ。
『聞こえないの?ほら』
もちろんカーテンの外には雲ひとつない夜空が広がっている。聞こえるはずもないと思っているくせに、ついつい耳を澄ましてしまった。衣擦れの音すら生まれないようにじっとしてみる。
………………。
装着したヘッドセットから微かな息遣いと雑音だけが聞こえる。
『ね、聞こえるでしょ』
「うん」
さぁぁぁ、と絶えず流れる雑音が雨の音みたいに聞こえる。僕らの間にはきっとかなりの物理的距離があって、その空間はこの世界のどこにでもない場所に位置している気がした。とても遠いのに近いような、現実じゃ存在しないような曖昧な距離を産み出すから。
そして、僕と彼女の間を占める空間には絶えず雨が降っている。
『最近ね、雨が好きなの。安心するんだ』
夢をみるような彼女の声に目を閉じた。降りしきる雨のなかに包まれて、僕も形のない夢をみる。どこともないその空間を隔てて出会った僕らは心を通わせ、友人になって互いに影響を受けた。彼女の中にある切望を受け取ったし、僕が持っている安穏を分けたのだ。そうして今日も雨が降る。
どこか切ない雨が降る。
交わしたとりとめもない言葉の数々が、あるいは現実では決して表に出ないように塗り固めた本音を吐露した時の涙がそこを通ってきた。僕から彼女へ、彼女から僕へ。届く過程でほんの少し剥がれ落ちた何かが降っているんじゃないかと、少し寂しい空想をしてみる。そんなことをしたって雨は変わらず降っているし、彼女は僕の友達だけど。
「僕も、雨が好きになりそうだな」
彼女からの返事はなかった。寝てしまったのかもしれない。
雨の音。
雨の音がする。
じっと耳を澄ますことは、君の声に耳を傾けること。
信頼を見出だすこと。
そこにあるどうしようもない理不尽に憤慨すること。
雨に霞むその寂しい姿を見つけたような気になって、そっと心で包めるように。
私なりにネットでの関係を表現したくて書きました。この奇妙な世界を経て繋がってくれる、全ての大切な友達へ。
届けばいいなと思います。