三題噺「新妻カレー戦線」
三題噺。
お題はヤミヤさんからいただいた「ビール、カレー、マグロ」
──ゲハァ。
キラキラしたモノが宙を舞う。
そのキラキラは、私の脳が目から得た映像情報を直視してはいけないモノとして判定し、リアルタイムで効果付与された結果である。
なので、もちろんゲハァというのも音声効果である。
新婚一年目の新妻は、ゲハァなどという下品な音を発する機能を備えていない。
いないんだけど……。
「はあ……」
私は深いため息をついた。
いくら妄想に逃避したところで、直面した現実が消えてなくなる訳ではないからだ。
「えらいもんを作ってしまった……」
目の前の現実は、カレーのような姿をしていた。
※ ※ ※
日曜日の今朝、朝食を摂り終えて、午後から観に行く予定の映画の話をしていると、旦那様である敬一さんに電話連絡が入った。
なんでも草サッカーの試合に欠員が出たので、参加してくれないかということらしい。
「いいよ、行ってらっしゃい。映画は来週もやってるし」
私は快く送り出すことにした。敬一さんが子供の頃からサッカーをやっていて、それは大学受験を期にやめてしまったのだけれど、たまには身体を動かしたいなとこぼしていたのを知っていたからである。
「え、でも。ご飯は?」
敬一さんは約束を先伸ばしにすることよりも、私の食事の心配をしているらしい。
我が家では、食事を作るのは敬一さんの役割になっている。
共働きなので自然と家事の役割分担ができたという部分もあるが、もっとも大きな理由は、敬一さんがプロ級の腕前を持ち、対して私は全くできないからだった。
どうやら私は、料理というものに必要な決定的な何かに欠けているらしい。
「大丈夫よ。何か適当に食べるから。コンビニだってあるし」
そう言って敬一さんを追い出した私は、久しぶりの朝寝を決め込むことにした。
それからどれほどの時間が経ったか。
「お腹、すいた……」
空腹で目が覚めた私は、コンビニでも行くかな、と、ごそごそと寝床から起き出した。
ああでも、着替えて顔を作るのも面倒だなあ……としばらく惚けているうち、私はある素晴らしい思い付きを得た。
これは、料理の練習をする絶好の機会ではないのか。
なにしろどんなにひどい失敗作でも、全て自分で食べてしまえばいいのだ。
それで、万がいち上手くできたら、敬一さんにも食べてもらおう。
それでそれで、もし、「美味しいよ」と言ってもらえたら。
うふふ。うふふ。
作りもしないうちから幸せな妄想に浸った私は、さっそくキッチンに向かった。
メニューは、一択。
カレーである。
敬一さん曰く「日本で最も不味く作るのが難しい料理」だ。
下拵えに不備があっても、カレールーさえ入れてしまえば自動的に美味しくなるし、ましてうちの冷蔵庫には今、敬一さん特製のびっくりするくらい美味しいカレーペーストがあるのだ。
これなら私でもどうにかなるだろう。
じゃがいもと人参を用意する。あと具になりそうなものは……。
そうだ、冷凍庫に昨日買ったマグロの血合いブロックがあったっけ。安くて美味しくて栄養価も高い、私の大好物だ。
さて。では始めよう。
まず一人前には多すぎるので、じゃがいもと人参を半分にしようか。
そう言えば包丁を握るのって、いつ以来だろう。
少なくとも結婚前の同棲時代から握っていないから……げ、年単位だ。
なんか急に緊張してきた。
よく洗ったじゃがいもをまな板に置いて、しっかりと持つ。指を切らないように指先を丸めて……。
スカン。
わーっ、爪が削げた爪が削げた!
なんなのこの切れ味? いま、ほとんど力を入れなかったよ! なにこれ怖い!
ダメだ。こんな危険物、私には扱えない。
どうしよう……。そうだ、キッチンバサミを使おう。
じょきじょきとじゃがいもを切り、続いて人参も一口大にしてゆく。
予想通りというか何というか、こちらも冗談みたいな切れ味だった。敬一さんが月に一度は刃物を研いでいるのは知っていたが、いったいどんな研ぎ方をすればこんな切れ味になるんだろうか。
あ。そういえば皮を剥いてない……まあいいや。
次は火にかけたフライパンに油を入れて、切った野菜を投入。
あれ、油が温まってから入れるんだっけ?
でももう入れちゃったし、……って、うおっ。なにこの酸っぱい匂い?
あ、これお酢だ!
もう、敬一さんたら、どうして似たような容器に似たようなものを入れるの?
いつも「追いオリーブオイル(笑)」とか言ってたのが緑のラインが入ったやつなのは覚えていたから、こっちの黄色いやつはサラダ油だと思ったのに。
私は慌てて棚を漁り、買ってきた状態のままのサラダ油を上からかけた。
どば。ばちばちばち。
わあ、跳ねるっ。酸っぱいのが跳ねるっ。蓋、蓋!
……ふう。
なんか、のっけから色々やっちゃってるけど……。まあまだ序盤だし、なんとかなるだろう。
次はマグロの血合いブロックだ。
どうしよう、さすがにこれはキッチンバサミでは切れない。いや、その前に解凍した方がいいのかな?
でもうちのフリーザーは「解凍せずにそのまま使える!」とかって謳ってたやつだし……いいや、このまま入れちゃえ。
肉厚のマグロステーキカレーだ。うん、美味しそう。
蓋を開けて素早く投入、すぐ閉める。早く解凍されるように火力も上げよう。
そのまま待つことしばし。
そろそろ煮込んだ方がいいかな?
蓋をちょっぴりずらして、コップに汲んだ水を入れる。蓋の隙間から酸っぱい匂いが噴出したような気もするけど、気にしない、気にしない。
なんたって、私には最終兵器があるのだ。その名も敬一さん特製カレーペースト!
冷蔵庫を漁る。
あったあった、これだ。密封タッパーに入ったやつ。これさえ入れれば、どんなものでも美味しくなるに違いない。
ぐつぐつと煮えて油はねの心配がなくなったので、フライパンの蓋を開ける。
わあ。なんかマグロブロックがちょっと煮崩れて、ダシ(?)も赤黒くなってる。
でも酸っぱい匂いはほとんどしなくなってるからギリギリセーフだ。
というわけで、いよいよカレーペースト投入。どんなものでも美味しくなる、魔法のペーストだ。
ほうら、すぐにカレーのいい匂いが……。
匂いが……。
あれ、なんか思ってたのと違うな。
……あ、これ味噌だ。
田舎のお義母さまが送ってくれたやつだ。
もう、だからなんで似たような容器に入れるの?
ヤバイ。どんどんカレーから遠ざかっていく。
改めて冷蔵庫からカレーペーストを探しだし、フライパンに投入する。
まあ、カレーの隠し味に味噌を入れるっていうのも聞いたことがあるし、大丈夫だろう。たぶん。きっと。
火を弱めて、ぐるぐるかき混ぜながら少し煮込む。
うん、なんだかんだでちゃんとカレーになった。
いつも敬一さんが作ってくれるカレーとは少し違うけど、なんとかカレーと言ってもいい範囲に収まった。凄いぞ、カレーペースト!
あとはご飯にかけて食べるだけだけど、ここでちょっと味見を……。
………………。
ゲハァ。
※ ※ ※
ヤバイ。
ヤバイヤバイヤバイ。
えらいもんを作ってしまった。
口に入れた瞬間に拡がる微かな酸味とまろみ、後からやってくる焦げ臭さ、そしてそれらを包み込む……尋常ではない生臭さ。
なにこれ。
これはカレーではない。カレーと呼んではいけない。
カレーと呼ばれるモノの領域を場外ホームランしている。
酸味や焦げ臭さはともかく、この生臭さだけは耐え難い。マグロの血合いブロックが原因だろうか。
しかも、口の中になんかウロコのようなものが残って……。
あ、これ私の爪だ。さっき削げたやつ。見かけないと思ったらこんな所に入ってたのか。
さてどうしたものか。
どうしてこんなに生臭いの?
カレーってスパイスの塊だから、少しくらいの生臭さは取ってくれるんじゃないの?
とにかく、このままでは食べられない。なんとかしなくては。
──にゃあ。
考えこんでいると、キッチンに国芳が入って来た。
「あ、国芳。お腹すいたの? カリカリ食べる?」
国芳は今年十四才になる、実家から連れてきた飼い猫である。
すっかりおじいちゃんになっちゃって昔ほど遊んでくれなくなったものの、それでもずっと傍にいてくれる、私の大切な親友だ。
そうだ、国芳に少し血合いブロックを食べてもらおう。
私には耐え難い生臭さでも、猫である国芳なら平気で食べてくれるに違いない。
私は煮崩れたマグロの身をすくい取って水でよく洗い、充分に冷ましてから皿に盛った。
国芳は、なになに、ごちそう? とでも言うかのように匂いを嗅いで──。
プギャア!
猫とは思えない鳴き声を上げて、ここ数年見たことがないような俊敏さで逃げ出した。
と、間仕切りあたりでこちらを振り返る。
「く、国芳?」
国芳は私と目を合わせるや否や、再び脱兎の勢いで逃げ出した。
「ああ、待って国芳。行かないで! 私を一人にしないで!」
私はすがり付くように追いかけたが、国芳はどこかに隠れてしまい、呼べども呼べども出てくる気配がない。
くっそう、国芳め。
このうらぎりものー。
国芳に出した分はさすがにもう食べられないので、ご免なさいをして廃棄することにした。
さて残った分をどうしよう。
なんとか臭みを消さなくては。
臭み消しと言えば──牛乳、生姜、ニンニク?
どれが効くんだろう。取り敢えず全部入れたらどれかは効くかな?
よし、全部入れてみよう。
よーくかき混ぜて……ぱくり。
ゲハァ。
ダメだ。これくらいじゃ効かない。しかも牛乳を入れた分だけかさが増してしまった。
牛乳はダメだ。増える。
ならばもう少し生姜とニンニクを入れて、ついでにカレーの隠し味として聞いたことがあるものを入れてしまおう。
臭みを消しつつ、他のもので味を塗り潰す作戦だ。
えーと、インスタントコーヒー、チョコレート、ケチャップ、醤油、ウスターソース……。
ぱくり。
ゲハァ。
ダメだ。カレーの風味すら彼岸の彼方へフライアウェイしようとしている。
ならばいっそ、カレー粉を足してみるか。
そうだ、激辛にしてしまおう。
私は辛いものが苦手だ。舌がビリビリと痺れるくらい辛くしてしまえば、他の風味など判らなくなるかも知れない。
ざらざらざら。ぐるぐる。ぱくり。
ゲハァ。
か、辛い辛い辛い!
そしてやっぱり生臭い!
知らなかった。辛さと生臭さって、共存できるんだ!
ダメだ。食べられない。辛さと生臭さで食べられない。
なんかもう食べ物という領域すら逸脱して兵器ゾーンに突入しつつある気がする。
薄めなくては。せめて半分の辛さくらいには抑えたい。
水を投入。
温めつつ、よーくかき混ぜて……ぱくり。
ゲハァ。
ですよね!
そりゃそーなりますよ、分かってましたよ。
しかもまた増えてしまった。
ダメだ。もう打てる手立てがない。正攻法では無理だ。
かくなる上は……、よし、酔っ払ってしまえ。
べろべろに酔っ払って味を判らなくしてしまえ!
私は酒が弱い。気分が悪くなったりはしないんだけど、とにかくすぐに酔いが回る。
私は冷蔵庫から五百ミリリットルの缶ビールを取り出した。
敬一さんはこれくらいならお茶代わりに飲んでしまうが、私なら間違いなくへべれけになれるはず。
ごくごくごく。
ぷはぁ。
苦い。でも美味しい。
空腹にアルコールが染み渡る。酒好きな敬一さんに付き合ってチビチビと飲んでいるうちに、いつの間にか美味しく感じるようになってしまった。
以前はあんなに嫌いだったのに、ビールって不思議な飲み物だ。すぐに酔っ払っちゃうから家でしか飲まないんだけどね。
ついでだから酔いを待つ間にこのカレーのようなモノを煮詰めて、かさを減らそう。
ぐつぐつ、ぐつぐつ。
「美味ひくにゃーれ、おひぃくにゃーりぇ」
よし、いい感じに呂律も怪しくなってきた。
カレー皿にご飯を盛り、一人前くらいまで煮詰めたカレーをかける。
さて。気合いを入れろ、私。
これは最終決戦だ。ご飯にかけてしまったからには、もう後戻りはできない。不退転の覚悟で臨むのだ。敵を殲滅せよ! 敵を殲滅せよ!
もし討ちもらしがあれば……。
食べ物を粗末にすることを許さない敬一さんのことだ、きっと残りを食べてしまうに違いない。
こんな劇薬、いや劇毒を口にしたら、敬一さんの味覚が破壊されてしまう。それだけは阻止しなければ。
「あひのちきゃらで、けーいひひゃんをまみょりゅのりょ!」
ぱくり。
ぐおおおお!
なんという威力。一撃で酔いの半分を持っていかれてしまった。
凄いよ、気付け薬になるんじゃないの、これ。
心肺停止した人に食べさせたら、ショックで蘇生するんじゃないかしら。あるいはトドメの一撃になるかも知れないけど。
つくづく、えらいもんを作ってしまったと思う。
でも今回はゲハァしていない。
酔っ払い作戦、大成功だ。
いける。勝てる!
ぱくり。ぬおう。ぱくり。ひきゃあ。
なんということだ。もう酔いが尽きてしまった!
「にゃんの、まらまら! ぜんぐんとちゅげき!」
ばくばくばく、ばくばくばくばく。
※ ※ ※
──はっ。
私はベッドから跳ね起きた。
いまのは……夢?
なんて恐ろしい夢だったんだろう。
そうだよね、いくら私でもキッチンで兵器を生産したりはしない。
窓を見ると、もう陽が暮れかかっていた。
ずいぶん寝ちゃったなあ……と少し後悔していると、キッチンの方から国芳の鳴き声が聞こえた。
いけない、国芳のご飯!
慌ててキッチンに向かう私は、そこでふと違和感を感じた。
今までにも、ついうっかり国芳のご飯を忘れてしまったことは何度かあった。
そんな時、いつも国芳は私の元までやってきて、直接にご飯を要求する。キッチンに置かれた皿の前で大人しく鳴いて待っているような猫ではないのだ。
では今、国芳は何に向かって鳴いている……?
「くによひ……?」
得体の知れない恐怖にかられ、呂律が上手く回らない。
どうしよう。怖い。
しばらく逡巡し、やがて意を決してキッチンを覗きこんだ私が見たものは。
「け、けーいひひゃん!」
大の字になってひっくり返った、敬一さんだった。
国芳が心配げに鳴いている。
なんで、どうして?
いったい何があったの!
思わず駆け寄り膝をついた私の瞳に、床に転がったスプーンがやけにはっきりと焼きついた──。